嫌いだった課長と恋をするまで

 翌朝、会社へ向かう電車の中で、昨日聞いた神谷課長の祖父のことが気になっていた。病院から連絡があったのではないか、夜のうちに容体が変わったのではないかと、考え始めると止まらない。

 自分でも妙だと思う。課長の家族のことなど、俺には関係のない話だったはずだ。数日前までなら、仕事に関係のないことを気にするなんて時間の無駄だと切り捨てていた。それなのに会社へ着いてエレベーターの前で課長の姿を見つけると、俺はほとんど考えるより先に声をかけていた。

「おはようございます、課長。昨日のお祖父さん、大丈夫でしたか?」

 神谷課長は少し驚いたように俺を見た。それから、ほんのわずかに表情を緩めると、静かな声で答えた。

「おはようございます。昨日の夜に病院から連絡があって、今のところ大きな変化はないそうです。まだ安心できる状態ではありませんが、急に悪くなったわけではないと聞いています。高橋さんにも心配をかけてしまいましたね」

「いえ、俺が勝手に気にしていただけなので。それならよかったです。今日は仕事が終わったら病院へ行くんですよね。だったら、無理はしないでください」

 言った直後、俺は自分で自分の言葉に引っかかった。以前なら、課長から同じことを言われたら「余計なお世話です」と返していたはずなのに、今は自分から言っている。しかも、それを不自然だとも思わず口にしていた。

 課長はそんな俺を少し見つめてから、「ありがとうございます」とだけ返してきた。その声音には、仕事中にはほとんど聞いたことのない柔らかさが感じられる。俺はそれ以上何も言わず、エレベーターに乗りこむ。隣に立った課長も黙って前を向いている。たったそれだけの時間だったのに、以前のような気まずさは感じられなかった。

 
 昼休みになり、俺はいつものように食堂へ向かう。定食を選んで席につくと、少し遅れて神谷課長が入ってくる。目が合ったので、課長は俺の向かいに座ったので、俺は反射的に自分の昼食を見る。
 以前なら、揚げ物を選んだだけで何か言われるのではないかと身構えていたし、実際、最初の頃は食べる量まで指摘された。ところが今日は、課長は俺の皿を一度見ただけで何も言わず、自分の食事を始めた。そのことが妙に気になって、俺のほうから口を開いた。

「課長、今日は何も言わないんですね。俺の昼飯について」

「何か言ってほしいんですか?」

「そういう意味じゃありません。前は、昼食を見るたびに健康の話をしていたじゃないですか。だから、少し意外だっただけです」

「高橋さんの食生活を心配していること自体は変わっていません。ただ、私が何度言っても、高橋さんが嫌な気持ちになるだけなら意味がないでしょう。自分の生活をどうするかは高橋さん自身が決めることですし、私は仕事に支障が出る可能性について必要なときに話をすればいいと思うようになりました」

 その答えを聞いて、俺はしばらく箸を動かさなかった。課長の言っていることは、最初の頃とは少し違って聞こえたからだ。
 
 俺の生活を管理したいわけではない。
 俺を正したいわけでもない。
 ただ、心配したから口を出した。

 それが余計なことだったと分かれば、引くこともできる。今までの俺なら、そんな当たり前のことに気づかなかっただろう。神谷課長は一度決めたら絶対に変えない人だと思っていたからだ。仕事については今でもそうだろう。間違っていると思えば、俺が何を言おうと指摘してくる。でも、仕事以外まで自分の考えを押しつける人ではない。その違いに気づいたとき、俺の中にあった課長への苛立ちが、ほんの少しだけ形を変えてくる。

「課長って、思っていたより人の話を聞くんですね」

「それは、どういう意味ですか?」

「いや、最初は人の話なんて聞かない人だと思っていたので」

「高橋さんも、私のことをかなり悪く見ていたんですね」

「かなり、というか……最初は本当に最悪だと思っていました」

「今は?」

「……最初よりは、ましです」

 課長は一瞬だけ俺を見たあと、ふっと笑う。その笑い方があまりにも自然だったので、俺は思わず目を止めてしまった。
 仕事中に資料を見ているときの顔でも、誰かに指示を出しているときの顔でもない。祖父の話をするときに見せた表情とも少し違う。ただ俺の言葉がおかしかったのか、ほんの少し口元を緩めただけだった。それなのに、その表情が頭から離れてくれなかった。

 俺は慌てて視線を昼食へ戻し、何でもないように箸を動かす。たぶん、あの人は自分がどう見えているかなんて気にしていない。だからこそ、あんなふうに笑えるのだろう。そう思うと、今まで見ていた神谷美月という人間の印象が変化するように感じられた。
 

 午後の仕事では、昨日までなら衝突していたような場面でも、俺たちは落ち着いて話をすることができた。俺が現場側の事情を説明すると、課長は途中で口を挟まずに最後まで聞き、そのうえで自分が気になった部分を確認してくる。
 俺も課長の指摘を最初から否定するのではなく、実際に問題があるかを考えてから答えるようになっていた。別に仲良くなったわけではない。仕事のやり方も考え方も、まだ合わないところは多い。それでも、相手が何を考えているのかを知ろうとするだけで、同じ仕事でも見え方が変わることを俺は初めて知った。

 神谷課長は、俺の体型だけを見ている人でも、仕事の手順だけを見ている人でもなかった。俺が思っていた以上に、ちゃんと俺自身を見ていたのかもしれない。

 
 定時を少し過ぎた頃、課長が鞄を持って席を立った。祖父のところへ行くのだろう。俺は仕事の手を止めて顔を上げた。課長もこちらに気づき、いつものように軽く会釈をする。

「今日は先に帰ります。明日の資料については、私が病院から戻ってから確認しますので、高橋さんは無理に残らなくて大丈夫です」

「分かりました。課長も、病院から戻ってきたら仕事のことなんて考えないでくださいよ」

「それは難しいですね。仕事のことを考えないようにすると、今度は祖父のことを考えてしまいますから」
 
 その言葉を聞いて、俺は何も返せない。自分だって、考えたくないことがあると仕事やテレビや食事に逃げてきた。何も考えずに済む時間が欲しくて、いつの間にか自分の生活まで崩していた。課長も同じなのだろうかと思ったが、そこを聞く気にはなれなかった。人には、聞かないほうがいいことがある。

「じゃあ、お疲れさまでした。お祖父さん、早く元気になるといいですね」

「ありがとうございます。高橋さんも、今日は早く帰ってくださいね」

「俺は大丈夫です」

「その言葉を聞くと、少し心配になります」

 課長はそう言って、今度は笑わなかった。ただ、責めるような顔でもなかった。俺の返事を聞いて、それ以上は何も言わずに会社を出ていった。
 その背中を見送りながら、俺は自分でも気づかないうちに小さく息を吐いていた。最初は、本当に嫌いだった。仕事ばかりで、人の気持ちを考えない女だと思っていた。
 俺の体型を見て勝手に生活を決めつけて、何も知らないくせに心配だと言ってくる。だから俺も、課長のことを決めつけていたのだと思う。仕事しか見ない人。自分にも他人にも厳しい人。そういう人間だと思っていた。

 でも、今は違う。

 仕事ができることも、言うべきことを言うことも変わらない。それでも、祖父のことを心配して、仕事へ逃げたくなる自分を抱えながら、それでも目の前の仕事を続けている。俺が話したくないことには無理に踏み込まず、俺自身が話そうとしたときには聞いてくれる。そんな一面を知ってしまったせいで、もう最初の頃と同じようには課長を見られなくなっていた。

 それが少し困る。相手のことを知れば知るほど、嫌いでいる理由が減っていくからだ。

 俺はパソコンを閉じ、鞄を手に取った。会社を出て駅へ向かいながら、昼間に見た課長の笑顔を思い出す。ほんの一瞬だったのに、妙に鮮明に残っている。何度忘れようとしても、その表情だけが頭の中に浮かんできた。

 俺は自分に言い聞かせるように、心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。

 神谷美月は俺の上司だ。三十歳で、俺より四つ年上で、俺とは何もかも違う。俺たちは最初、本気でぶつかったし、今だって仕事の考え方が完全に一致しているわけではない。それに、俺は自分の弱いところを誰かに見せるのが嫌だった。まして、それを課長に知られるなんて考えられない。

 だから、これは恋なんかじゃない。少し見方が変わっただけだ。嫌いだった相手のことを、嫌いではなくなった。それだけの話だ。 そう結論づければ、それ以上考える必要はない。

 そう思っていた。それなのに、家へ帰って一人になったあとも、俺の頭に浮かんだのは課長の顔だった。仕事中の厳しい表情でも、祖父のことを話していたときの表情でもない。昼休みに俺の言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った顔だった。


 結局その夜、俺は何度も同じ結論に戻ってしまう。

 この女だけは、好きにならないと。

 それは自分に言い聞かせているというより、そうでなければ困るから口にしているような言葉だったのかもしれない。