あの会議室で神谷課長と衝突してから、数日が過ぎた。
俺たちは、嘘みたいに仕事の話しかしなくなった。朝の挨拶も、以前なら向こうから「おはようございます」と声をかけてきたのに、今は俺が頭を下げれば、課長も同じように返す。それだけだった。
打ち合わせでは必要なことだけを確認し、メールも要点だけを送る。俺も意地になっていたし、課長も俺に余計なことを言わなくなった。おかげで仕事そのものは滞りなく進んでいたが、職場の空気は妙に広く感じられた。
あの日、あれだけ言い合ったのだから、こちらから折れるのも違う気がする。それなのに、パソコンの画面から顔を上げるたび、無意識に課長の席を見てしまう自分がいた。
「高橋さん、この資料の数字だけ確認してもらえますか」
「はい。……これ、三ページ目の数字が一つ違います」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえ」
そんなやり取りを繰り返しているうちに、俺たちの間には妙な距離ができていた。仕事仲間としてなら何も問題はない。むしろ、以前より余計な衝突がなくなった分だけ、職場としてはやりやすいのかもしれない。
それでも俺には、その距離が妙に引っかかっている。課長に注意されれば腹が立つ。何も言われなければ、それはそれで気になる。自分でも面倒くさいと思う。
そんなことを考えながら資料を整理していた夕方、ふと時計を見ると、定時を過ぎていた。周囲の社員たちは少しずつ帰り支度を始め、フロアから人の気配が減っていく。その中で、神谷課長だけが席を立とうとしなかった。俺も残っていた仕事を片付けていたが、課長のほうから聞こえてくる小さなスマートフォンの着信音に、なぜか意識を持っていかれた。
「……もしもし」
顔を上げると、課長は席を少し離れた場所まで移動していた。声を抑えて話しているため、内容までは聞き取れない。ただ、いつもの仕事中とは明らかに様子が違う。
電話を切ったあとも、スマートフォンを握ったまま動かず、画面を見つめている。照明に照らされた横顔には、疲れがはっきり浮かんでいた。
いつもなら背筋を伸ばし、何を言われてもすぐに判断を返してくる人なのに、そのときだけは肩が少し落ちていたからだ。
俺は思わず視線を戻した。それは、見てはいけないものを見たような気がしたからだ。しかし、それでも気になってしまう。あの人にも、仕事とは関係のないことで心配することがある。当たり前のことなのに、俺は今まで一度もそんな姿を想像したことがなかった。俺が知っている神谷美月は、仕事ができて、厳しくて、自分にも他人にも妥協しない課長。それだけだった。
「課長、まだ帰らないんですか」
自分でも、どうして声をかけたのか分からなかった。課長は少し驚いた顔をしてから、スマートフォンを机の上に置いた。
「もう少しだけ残ります。高橋さんは先に帰ってください」
「いや、俺もまだ仕事残ってるんで」
「そうですか」
それだけ言って、課長はまた画面へ視線を落とした。俺は自分の席へ戻ったものの、さっき見た表情が頭から離れない。何かあったのかと聞けばいいのかもしれない。でも、俺たちはそんなことを聞ける関係じゃない。
数日前まで互いの仕事への考え方をぶつけ合い、俺は課長に対して言い過ぎた。今さら親切そうに声をかけるのも、自分の中ではどこか白々しく感じる。それでも、帰る準備を終えて立ち上がったとき、課長の机の横に置かれたスマートフォンがまた震えた。
今度は課長がすぐに手に取り、画面を確認したあと、息を止めるようにして数秒黙った。それから椅子を引く音がして、課長は慌てたように立ち上がった。さっきまで仕事をしていた顔とは違う。血の気が引いたような横顔を見て、俺はドアへ向かっていた足を止めた。
「……何かあったんですか」
課長はすぐには答えなかった。スマートフォンを強く握ったまま、画面を見つめている。その指先が、ほんの少し震えているように見えた。
「祖父の容体が、急に悪くなったそうです」
「急に?」
「はい。今日の午後から血圧が大きく下がっていて、さっき病院から連絡がありました。医師から、今夜が一つの山になるかもしれないと……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が詰まった。俺は医者でもないし、病気の詳しいことも分からない。それでも「今夜が一つの山」という言葉が、ただの入院ではないことだけは分かる。
さっきまで仕事の資料を見ていた同じ机の上に、今は病院からの連絡が届いている。その現実が妙に生々しく感じられた。俺は何を言えばいいのか分からず、ただ課長の顔を見ていた。
いつもなら何を聞いても迷いなく答える人が、そのときだけは視線を落としていた。東京から神戸へ異動してきた理由も、祖父のそばにいるためだったのだろう。なら、今この瞬間に職場で仕事をしていることそのものが、課長にとってどれほど苦しいことなのか。俺は初めて、その事情を少しだけ想像した。
「それ、すぐ病院に行ったほうが、いいんじゃないですか」
「……そう思います。でも、今日中に片付けなければならない仕事が残っていて」
「仕事なんか、どうでもいいでしょう」
「どうでもよくはありません。私がいなくなれば、明日の予定に影響が出ますから」
「そんなこと言ってる場合ですか!」
思わず強い口調になってしまった。数日前までなら、こんな言い方をしたらまた課長とぶつかっていたかもしれない。でも、そのときは腹が立つというより、目の前の人をこのまま仕事の席に座らせておくことが嫌だった。
課長は何か言い返そうとしたものの、途中で口を閉じた。その顔を見ていると、俺まで不安になってくる。もし自分の大切な人が今夜どうなるか分からない状況で、それでも仕事を続けているとしたら、俺なら耐えられるだろうか。たぶん無理だ。そう考えた途端、これまで課長に向けていた、人に厳しすぎるという印象が、少しずつ崩れていった。
「……祖父には、私しかいないんです」
課長がぽつりと言った。その声は、いつもの仕事中よりずっと小さかった。
「私の両親は早くに離婚していて、私は祖父母に育ててもらいました。祖母はもう亡くなっています。だから、祖父までいなくなったらと思うと……」
そこまで聞いて、俺は言葉を失った。課長が東京で一人暮らしをしていたことも、祖父母に育てられたことも、俺は今日まで知らなかった。仕事のできる課長という姿しか見ていなかったから、東京で一人で暮らしながら、亡くなった祖母のことを思い、神戸にいる祖父のことを気にかけていたなんて考えたこともなかった。
俺は勝手に、この人は強い人間だと思っていた。だから何を言っても大丈夫で、少し厳しく言われたくらいでは揺らがない人間なのだと決めつけていた。でも、今目の前にいる神谷課長は、祖父の容体を案じながら、それでも仕事を止めようとしていない。自分が辛いからといって周りに負担を押しつけることを嫌っているようにも見えた。その姿を見ていると、以前の会議室で言われた言葉まで違って聞こえてきた。自分にも他人にも厳しいのではない。もしかすると、この人は自分自身にも同じくらい厳しくしているのかもしれない。
「……東京から神戸に来たんは、お祖父さんのためだったんですね」
「はい。祖父が倒れたと聞いたとき、東京に残る理由がなくなりました」
「仕事は?」
「仕事はどこにいてもできます。でも、家族のそばにいられる時間には限りがありますから」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな何かが落ちたような気がした。
俺はこれまで、課長が東京から来たことを、自分とは違う世界の人間だからだと思っていた。東京本社で結果を出して、神戸へやって来た優秀な課長。
そんなふうに勝手に線を引いて、その線の向こう側にいる人間として見ていた。でも実際には、祖父のために自分の生活を変え、神戸へ来て、仕事では何もなかったような顔をしている。俺はその人に向かって、現場を知らないだの、正論しか言わないだのと言い放った。
もちろん、仕事のやり方について意見が違うことは変わらない。それでも、俺が見ていた神谷美月は、この人のほんの一面だったのだと思った。俺自身だって、誰にも話していないことがある。だったら、この人にもあるのが当たり前なのだ。
「今日はもう帰ってください」
「でも、課長が」
「私は病院へ行きます。仕事は明日、改めて整理します」
「それなら、俺も手伝います」
「高橋さん?」
「残ってる仕事、俺ができる分はやります。課長が今ここにいる必要はないでしょう」
「……ありがとうございます」
何かを言おうとして、それから小さく息を吐く。その一言は、これまで俺が聞いてきた課長の声とは違っていた。俺は照れくさくなって、視線をパソコンへ逃がした。
「別に、礼言われるようなこと違いますよ。課長が倒れたら、こっちも困るんで」
「そういう言い方しかできないんですね、高橋さんは」
「課長にだけは言われたくないです」
そう返すと、課長はほんの少しだけ笑った。その表情を見て、俺もようやく肩の力を抜いた。
課長は鞄を手に取ると、スマートフォンを確認しながら部屋を出ていった。
今夜が山だと言っていた。課長は病院で何を思うのだろう。そんなことを考えながらパソコンの画面を見つめても、仕事の文字がなかなか頭に入ってこなかった。
俺は初めて、神谷美月という一人の人間を知りたいと思い始めていた。それが心配という感情なのか、同情なのか、それとも別の何かなのか、その時の俺にはまだ分からなかった。
ただ、数日前まで胸いっぱいにあった反発とは違う感情が、確かにそこに生まれていた。
俺たちは、嘘みたいに仕事の話しかしなくなった。朝の挨拶も、以前なら向こうから「おはようございます」と声をかけてきたのに、今は俺が頭を下げれば、課長も同じように返す。それだけだった。
打ち合わせでは必要なことだけを確認し、メールも要点だけを送る。俺も意地になっていたし、課長も俺に余計なことを言わなくなった。おかげで仕事そのものは滞りなく進んでいたが、職場の空気は妙に広く感じられた。
あの日、あれだけ言い合ったのだから、こちらから折れるのも違う気がする。それなのに、パソコンの画面から顔を上げるたび、無意識に課長の席を見てしまう自分がいた。
「高橋さん、この資料の数字だけ確認してもらえますか」
「はい。……これ、三ページ目の数字が一つ違います」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえ」
そんなやり取りを繰り返しているうちに、俺たちの間には妙な距離ができていた。仕事仲間としてなら何も問題はない。むしろ、以前より余計な衝突がなくなった分だけ、職場としてはやりやすいのかもしれない。
それでも俺には、その距離が妙に引っかかっている。課長に注意されれば腹が立つ。何も言われなければ、それはそれで気になる。自分でも面倒くさいと思う。
そんなことを考えながら資料を整理していた夕方、ふと時計を見ると、定時を過ぎていた。周囲の社員たちは少しずつ帰り支度を始め、フロアから人の気配が減っていく。その中で、神谷課長だけが席を立とうとしなかった。俺も残っていた仕事を片付けていたが、課長のほうから聞こえてくる小さなスマートフォンの着信音に、なぜか意識を持っていかれた。
「……もしもし」
顔を上げると、課長は席を少し離れた場所まで移動していた。声を抑えて話しているため、内容までは聞き取れない。ただ、いつもの仕事中とは明らかに様子が違う。
電話を切ったあとも、スマートフォンを握ったまま動かず、画面を見つめている。照明に照らされた横顔には、疲れがはっきり浮かんでいた。
いつもなら背筋を伸ばし、何を言われてもすぐに判断を返してくる人なのに、そのときだけは肩が少し落ちていたからだ。
俺は思わず視線を戻した。それは、見てはいけないものを見たような気がしたからだ。しかし、それでも気になってしまう。あの人にも、仕事とは関係のないことで心配することがある。当たり前のことなのに、俺は今まで一度もそんな姿を想像したことがなかった。俺が知っている神谷美月は、仕事ができて、厳しくて、自分にも他人にも妥協しない課長。それだけだった。
「課長、まだ帰らないんですか」
自分でも、どうして声をかけたのか分からなかった。課長は少し驚いた顔をしてから、スマートフォンを机の上に置いた。
「もう少しだけ残ります。高橋さんは先に帰ってください」
「いや、俺もまだ仕事残ってるんで」
「そうですか」
それだけ言って、課長はまた画面へ視線を落とした。俺は自分の席へ戻ったものの、さっき見た表情が頭から離れない。何かあったのかと聞けばいいのかもしれない。でも、俺たちはそんなことを聞ける関係じゃない。
数日前まで互いの仕事への考え方をぶつけ合い、俺は課長に対して言い過ぎた。今さら親切そうに声をかけるのも、自分の中ではどこか白々しく感じる。それでも、帰る準備を終えて立ち上がったとき、課長の机の横に置かれたスマートフォンがまた震えた。
今度は課長がすぐに手に取り、画面を確認したあと、息を止めるようにして数秒黙った。それから椅子を引く音がして、課長は慌てたように立ち上がった。さっきまで仕事をしていた顔とは違う。血の気が引いたような横顔を見て、俺はドアへ向かっていた足を止めた。
「……何かあったんですか」
課長はすぐには答えなかった。スマートフォンを強く握ったまま、画面を見つめている。その指先が、ほんの少し震えているように見えた。
「祖父の容体が、急に悪くなったそうです」
「急に?」
「はい。今日の午後から血圧が大きく下がっていて、さっき病院から連絡がありました。医師から、今夜が一つの山になるかもしれないと……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が詰まった。俺は医者でもないし、病気の詳しいことも分からない。それでも「今夜が一つの山」という言葉が、ただの入院ではないことだけは分かる。
さっきまで仕事の資料を見ていた同じ机の上に、今は病院からの連絡が届いている。その現実が妙に生々しく感じられた。俺は何を言えばいいのか分からず、ただ課長の顔を見ていた。
いつもなら何を聞いても迷いなく答える人が、そのときだけは視線を落としていた。東京から神戸へ異動してきた理由も、祖父のそばにいるためだったのだろう。なら、今この瞬間に職場で仕事をしていることそのものが、課長にとってどれほど苦しいことなのか。俺は初めて、その事情を少しだけ想像した。
「それ、すぐ病院に行ったほうが、いいんじゃないですか」
「……そう思います。でも、今日中に片付けなければならない仕事が残っていて」
「仕事なんか、どうでもいいでしょう」
「どうでもよくはありません。私がいなくなれば、明日の予定に影響が出ますから」
「そんなこと言ってる場合ですか!」
思わず強い口調になってしまった。数日前までなら、こんな言い方をしたらまた課長とぶつかっていたかもしれない。でも、そのときは腹が立つというより、目の前の人をこのまま仕事の席に座らせておくことが嫌だった。
課長は何か言い返そうとしたものの、途中で口を閉じた。その顔を見ていると、俺まで不安になってくる。もし自分の大切な人が今夜どうなるか分からない状況で、それでも仕事を続けているとしたら、俺なら耐えられるだろうか。たぶん無理だ。そう考えた途端、これまで課長に向けていた、人に厳しすぎるという印象が、少しずつ崩れていった。
「……祖父には、私しかいないんです」
課長がぽつりと言った。その声は、いつもの仕事中よりずっと小さかった。
「私の両親は早くに離婚していて、私は祖父母に育ててもらいました。祖母はもう亡くなっています。だから、祖父までいなくなったらと思うと……」
そこまで聞いて、俺は言葉を失った。課長が東京で一人暮らしをしていたことも、祖父母に育てられたことも、俺は今日まで知らなかった。仕事のできる課長という姿しか見ていなかったから、東京で一人で暮らしながら、亡くなった祖母のことを思い、神戸にいる祖父のことを気にかけていたなんて考えたこともなかった。
俺は勝手に、この人は強い人間だと思っていた。だから何を言っても大丈夫で、少し厳しく言われたくらいでは揺らがない人間なのだと決めつけていた。でも、今目の前にいる神谷課長は、祖父の容体を案じながら、それでも仕事を止めようとしていない。自分が辛いからといって周りに負担を押しつけることを嫌っているようにも見えた。その姿を見ていると、以前の会議室で言われた言葉まで違って聞こえてきた。自分にも他人にも厳しいのではない。もしかすると、この人は自分自身にも同じくらい厳しくしているのかもしれない。
「……東京から神戸に来たんは、お祖父さんのためだったんですね」
「はい。祖父が倒れたと聞いたとき、東京に残る理由がなくなりました」
「仕事は?」
「仕事はどこにいてもできます。でも、家族のそばにいられる時間には限りがありますから」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に小さな何かが落ちたような気がした。
俺はこれまで、課長が東京から来たことを、自分とは違う世界の人間だからだと思っていた。東京本社で結果を出して、神戸へやって来た優秀な課長。
そんなふうに勝手に線を引いて、その線の向こう側にいる人間として見ていた。でも実際には、祖父のために自分の生活を変え、神戸へ来て、仕事では何もなかったような顔をしている。俺はその人に向かって、現場を知らないだの、正論しか言わないだのと言い放った。
もちろん、仕事のやり方について意見が違うことは変わらない。それでも、俺が見ていた神谷美月は、この人のほんの一面だったのだと思った。俺自身だって、誰にも話していないことがある。だったら、この人にもあるのが当たり前なのだ。
「今日はもう帰ってください」
「でも、課長が」
「私は病院へ行きます。仕事は明日、改めて整理します」
「それなら、俺も手伝います」
「高橋さん?」
「残ってる仕事、俺ができる分はやります。課長が今ここにいる必要はないでしょう」
「……ありがとうございます」
何かを言おうとして、それから小さく息を吐く。その一言は、これまで俺が聞いてきた課長の声とは違っていた。俺は照れくさくなって、視線をパソコンへ逃がした。
「別に、礼言われるようなこと違いますよ。課長が倒れたら、こっちも困るんで」
「そういう言い方しかできないんですね、高橋さんは」
「課長にだけは言われたくないです」
そう返すと、課長はほんの少しだけ笑った。その表情を見て、俺もようやく肩の力を抜いた。
課長は鞄を手に取ると、スマートフォンを確認しながら部屋を出ていった。
今夜が山だと言っていた。課長は病院で何を思うのだろう。そんなことを考えながらパソコンの画面を見つめても、仕事の文字がなかなか頭に入ってこなかった。
俺は初めて、神谷美月という一人の人間を知りたいと思い始めていた。それが心配という感情なのか、同情なのか、それとも別の何かなのか、その時の俺にはまだ分からなかった。
ただ、数日前まで胸いっぱいにあった反発とは違う感情が、確かにそこに生まれていた。



