嫌いだった課長と恋をするまで

 今回の案件が一段落したのは、午後の四時を少し過ぎたころだった。取引先から最終確認の連絡が入り、修正した資料にも問題がないことが分かると、俺はようやく肩の力を抜いた。東京から来たばかりの神谷課長にとって、俺はまだよく知らない部下だ。だからこそ、今回の仕事だけはきちんと見てもらいたかった。

 先方から出そうな質問を考え、必要な資料を揃え、数字を何度も確認する。誰かに褒めてもらうためではない。自分が担当した仕事で、後から問題を起こしたくなかっただけだ。それでも、結果が出たときには、これで神谷課長から少しくらいは認めてもらえるだろうと思った。

「今回の案件については、問題ありません。高橋さんが事前にしっかり準備していたことも分かりました。先方とのやり取りも適切でしたし、結果についても評価しています」

 会議室でそう言われた瞬間、俺は思わず課長の顔を見た。いつものように表情は大きく変わらない。それでも、言葉の内容ははっきりしていた。
 仕事を評価してくれている。それだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなる。東京本社から来たばかりの上司に、自分の仕事を認めてもらえた。その事実が、思っていた以上に嬉しかった。

「ありがとうございます」

 俺が資料をまとめ始めると、神谷課長も手元の書類を閉じた。これで終わりだと思った。仕事の話なら、これからも普通にやっていけるだろう。俺だって、課長の仕事の進め方に納得できないことがあれば意見を言うし、課長も必要なことを言えばいい。個人的に好きか嫌いかなんて、仕事には関係ない。そう考えたところで、課長がふと口を開いた。

「ただ、生活については、もう少し考えたほうがいいと思います」

 俺の手が止まる。
 また、その話か。

 さっきまで胸にあった嬉しさが、急に遠くなってしまう。仕事については認める。その一方で、俺の身体や食事については問題があると考えているらしい。九十キロを超えた体重を気にしていないわけじゃない。鏡を見るたびに、昔とは違う自分の身体に気づいている。食事だって、今の生活が健康的ではないことくらい分かっている。

 それでも、俺には俺なりの事情がある。誰にも話していない事情を知らないまま、見えている部分だけで判断されることが、どうしても嫌だった。

「仕事に支障は出していません」

「今のところは、そうですね」

「今回の仕事だって、ちゃんと終わらせましたよね」

「はい。ですから、仕事について問題があるとは言っていません」

「だったら、どうして生活のことまで言うんですか」

「仕事を続けていくためにも、ご自身の状態を考えてほしいからです」

「俺の状態って、体重のことですか」

「体重だけではありません。食事や睡眠、運動も含めてです」

 どれも正しい。
 正しいからこそ、俺は腹が立つ。

 俺だって、自分が昔のような生活をしていないことくらい知っている。以前は走っていた。仕事が終わればジムへ行くこともあった。休日だって外へ出ていた。それが今は、仕事が終われば家に帰り、コンビニで買ったものを食べながらテレビを見る。身体が重くなって、服のサイズが変わっても、見ないふりをしてきた。

 そこには理由がある。でも、その理由を神谷課長に話すつもりはない。

「課長は、俺のこと何も知らないですよね」

「はい。まだ高橋さんのことを、十分に知っているとは思っていません」

「だったら、分かったようなことを言わないでください」

 神谷課長は、すぐには答えなかった。その沈黙が、俺には余計に気に障る。

「分かったようなことを言っているつもりはありません」

「俺には、そう聞こえます」

「そうですか」

「そうですよ」

 言いながら、自分でも声が強くなっていることに気づいていた。課長が俺を心配していることくらい、頭では分かっている。病気になれば仕事に影響する。上司なら部下の健康を気にするのも当然だろう。それでも、俺が触れられたくないところまで踏み込まれると、素直に受け止めることができなかった。

「高橋さんの仕事を否定しているわけではありません」

「分かっています」

「それなら」

「分かってます。でも、仕事をちゃんとやってるなら、それでいいじゃないですか。俺の生活まで課長が気にする必要はないでしょう」

「管理したいわけではありません」

「じゃあ、何なんですか」

「高橋さんには、ご自身のことをもう少し大切にしてほしいと思っています」

 胸の奥がざらついた。

 ”自分を大切にする”。
 
 その言葉を聞いた瞬間、俺の中にあった何かが反応してしまった。

「俺は、俺なりにやっています」

「……分かりました」

 神谷課長は、それ以上何も言わなかった。俺も資料をまとめて立ち上がる。

「失礼します」

「はい」

 会議室を出て自分の席へ戻る。仕事を評価してもらえたことは嬉しかった。それなのに、最後に生活のことを言われたせいで、その嬉しさまで素直に受け取れなくなっている。

 俺はパソコンの画面を見つめながら、何度も自分に言い聞かせた。

 課長は上司だ。俺の仕事を見るのが役目だ。しかし、身体のことまで言われる筋合いはない。そう思えば思うほど、さっきの「ご自身のことをもう少し大切にしてほしい」という言葉だけが頭に残り続ける。

 
 夕方になり、社員たちが少しずつ帰り始めた。俺も仕事を終えて鞄を手に取ったところで、斜め前にある神谷課長の席へ目を向けると、まだ仕事をしている。

 机の上には資料が積まれ、パソコンの画面にはいくつものファイルが開かれている。東京から来たばかりだから、片づけなければならない仕事が多いのだろう。課長という立場なら、俺より仕事が多いのも当然だ。

 それでも、俺には矛盾しているように思える。なぜなら、俺には自分の生活を大切にしろと言う。なのに、この人自身は定時を過ぎても仕事をしている。

 声をかけようか、「大丈夫ですか」、と聞くことくらいならできる。

 だが、やめた。

 昼間、あれだけ言われたばかりだ。ここで俺が心配したところで、余計なことを言われるだけかもしれない。
 俺は課長の席から目を逸らし、そのまま会社を出た。

 
 翌日から、俺たちは必要なことだけを話すようになった。

「この資料、確認をお願いします」

「分かりました」

「先方への連絡は午後で大丈夫です」

「はい」

 仕事だけなら、何の問題もない。神谷課長は仕事ができる。指示は明確だし、資料の確認も早い。俺の意見を頭から否定することもない。だからこそ、仕事の部分では認めるしかなかった。

 ただ、それ以外になると話は違う。

 課長が俺の生活に口を出す。
 俺は、それを嫌だと思っている。

 それだけだ。人には、それぞれ事情がある。他人から見れば簡単に変えられるように見えても、自分ではどうにもできないことがある。変わりたいと思っていても、そこへ踏み出せないこともある。

 俺は、それを知っている。だから、事情も知らずに正しいことだけを言われるのが嫌だった。

 神谷課長は、仕事ができる。
 自分にも他人にも厳しい。
 正しいことを言う。
 でも、人の気持ちまでは考えない。

 俺はいつの間にか、そんなふうに課長を決めつけていた。そして、たぶん課長から見れば、俺は自分を変える気のない、だらしない部下なのだろう。

 仕事では互いに結果を求め、それ以外では、踏み込まない。それでいいのだと思う。 俺たちには、それくらいの距離がちょうどいいのかもしれない。

 少なくとも、このときの俺は、本気でそう思っていた。