嫌いだった課長と恋をするまで

 東京本社から課長が呼び戻されるかもしれないという話を聞いたのは、仕事の合間に耳に入った何気ない一言がきっかけだった。正式に決まった話ではないらしいが、東京に戻ってほしいという打診が本社からあった。

 それだけのことなのに、俺はその日の午後から妙に落ち着かなかった。課長が神戸へ来た理由を考えれば、東京へ戻る可能性があること自体は不思議ではない。祖父の体調もあるし、本社にとって課長が必要な人間なのも分かっている。

 それでも、もし本当に東京へ戻ることになったらと思うと、仕事とは関係のないところで胸の奥がざわついて仕方がなかった。俺には、それを課長へ直接聞く資格があるのか分からない。だから、仕事中は何も聞かず、いつも通り課長から頼まれた仕事をこなし、必要な報告だけをして一日を終えた。

 
 その日の夕方、仕事を終えた課長が一人で会社を出ていく姿を見かけた。俺も少し遅れて席を立ち、鞄を持って会社を出た。駅へ向かう方向は同じだったが、わざわざ追いかけるつもりはなかった。課長の背中が少し先に見えるくらいの距離を保ちながら、俺も自分の歩幅で歩いた。

 会社を出た直後は十メートルほど離れていたのに、信号で人の流れが止まったり、前を歩く人を避けたりするうちに、少しずつ距離が縮まっていく。俺が近づいたというより、課長が信号待ちで足を止めるたびに、自然と追いついてしまったという方が近かった。交差点を渡ったところで、課長の背中がすぐそこに見えるようになり、俺はこれ以上近づかないように歩く速度を少し落とした。そのつもりだったのだが、課長がふと振り返る。
 
「高橋さんも、駅ですか?」

「はい。課長もですよね」

「ええ」

 課長は一度前を向いたものの、すぐには歩き出さなかった。俺も何も言わず、その場に立っていた。仕事が終わった時間だから駅へ向かう。それだけなら、ここで別れても何もおかしくない。なのに、課長はしばらく神戸の街を眺めてから、少しだけ迷うように俺へ視線を戻した。

「高橋さん。少し、歩きませんか」

「はい」

 理由を聞くより先に頷いていた。課長が何か話したいことがあるのなら、俺から聞き出す必要はない。俺たちは駅へ向かう道をそのまま歩き始めた。
 俺は東京の話を聞きたい気持ちを抱えながらも、こちらから切り出すことはしなかった。課長もすぐには話さず、しばらく黙って歩いていた。やがて駅へ向かう大通りから少し外れたところで、課長の足が止まった。俺も数歩遅れて立ち止まる。課長は夕暮れの街を見ながら、ようやく口を開いた。

「本社から、東京に戻らないかと話がありました」

 俺は何も言わずに課長の話を聞く。
 本社では課長に戻ってきてほしいと考えていること、神戸へ来た理由である祖父の体調が心配なこと、仕事だけを考えれば東京へ戻る選択にも十分な理由があること。
 課長は一つひとつ整理するように話してくれた。普段なら迷いを見せない課長が、自分のことについては言葉を選びながら話している。その姿を見ていると、俺が自分の不安だけを優先して答えを求めるのは違うと思った。

「課長は、どうしたいんですか?」
 
「まだ、決めていません」

 神戸に残ってほしいという気持ちは、確かにある。東京へ戻ってしまえば、今のように同じ職場で顔を合わせることもなくなる。そう考えれば、引き留めたいと思うのは当然だった。それでも、課長の選択を俺の気持ちで縛ることはしたくなかった。

「俺は、課長に神戸にいてほしいです。でも、それだけで決めてほしいとは思いません。課長の仕事のことも、おじいさんのことも、俺には全部分かるわけじゃないですから。だから、どこで働くのかは課長が決めればいいと思います」

「……高橋さんは、そう言うんですね」

「はい」

 俺は、それ以上は何も付け足さなかった。引き留めることと、気持ちを伝えることは同じではない。東京へ戻ってほしくないという自分の気持ちは隠す必要がない。でも、課長が自分で選ぶ場所まで俺が決めることはできない。そのことだけは、はっきりしていた。

「ありがとうございます」

 課長の声は小さかったが、その表情は少しだけ柔らかかった。

 
 その日は、それ以上東京の話を深くすることなく駅まで歩いた。改札へ向かう途中で課長が仕事の話を一つ振ってきて、俺もいつものように答える。さっきまで重かった空気が少しずつ普段のものへ戻っていくことが、妙に嬉しく思えた。課長が東京へ戻るかどうかは、まだ決まっていない。だから俺も、その答えが出るまで余計なことを考えず、自分の仕事を続けようと思った。

 
———— 
 数日後、課長から呼ばれた。

「高橋さん、少し時間いいですか?」

「はい」

 会議室へ入ると、課長は資料を机の上へ置いた。仕事の話だと思っていた俺に、課長は少しだけ間を置いてから言った。

「東京の件ですが、本社には私から返事をしました。私は、神戸に残ります」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものがゆっくりほどけていった。

 嬉しい。

 それだけでは足りないくらい、安心してしまった。
 なのに、課長が俺の顔を見ながら続けた言葉で、また胸がざわついた。

「仕事だけが理由ではありません」

「……えぇっ?」

「神戸で、もう少しやってみたいと思いました。祖父のこともあります。でも、それだけではなくて、ここで過ごしている時間を大事にしたいと思ったんです」

 課長が何を思ってそう言ったのか、俺には分からなかった。ただ、神戸に残ると決めたことだけははっきりしている。それ以上を聞くことはできなかったし、聞こうとも思わなかった。

「分かりました。これからもよろしくお願いします、課長」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 それからも、職場での関係が突然変わったわけではない。課長は相変わらず仕事に厳しく、俺もチームリーダーとして任された仕事をこなした。

 ただ、少しずつ変わっていったことがある。課長が以前より俺に意見を求めるようになったことだ。取引先への対応について相談されることも増えたし、判断に迷う案件があれば、俺のところへ資料を持ってくることもあった。俺は頼られたことを特別扱いせず、必要なことを一緒に考えた。課長もそれを当然のように受け入れていった。

 
 そんな日々が続いたある日の夕方、仕事を終えて帰ろうとしていた俺を、課長が呼び止めてきた。

「高橋さん」

「はい?」

「少し、話してもいいですか」

「えぇ、大丈夫です」
 
 課長と並んで会社を出ると、夕方の風が少しだけ涼しくなっていた。しばらく歩いたところで、課長が口を開いた。

「高橋さんが、最近運動していること、知っています」

「……ご存じでしたか?」

「はい。少し顔つきが変わったので」

「そうですか」

 体重は少しずつ落ちているが、それを課長に見せるために始めたわけではない。自分の生活を見直して、自分のために続けている。それだけだった。

「魚屋道を歩いたときのことも、よく覚えています」

「魚屋道ですか?」

「はい。高橋さん、あのとき無理をしませんでしたよね」

 最初、あの道を歩いたときは、自分の体力のなさが嫌になるほど分かった。それでも、課長に合わせようとして無理をすることはしなかった。課長もそれを知っていたのだろう。

「私、人に頼るのが苦手なんです。何でも自分でやった方が早いと思っていました。誰かにお願いして、その人の時間を使わせるくらいなら、自分でやればいいと思っていたんです」

「課長らしいですね」

「……そうかもしれません。でも、高橋さんには、頼ってもいいと思えるようになりました」

 その言葉を聞いたとき、俺はすぐに返事ができなかった。課長が誰かに頼ることが簡単ではないことは、仕事をしていれば分かる。それを俺に話してくれたことが、何より嬉しかった。

「俺でよければ、頼ってください」

「ありがとうございます」

 課長はそう答えてから、しばらく黙って歩いた。俺も無理に話しかけなかった。少しして、課長がぽつりと口を開いた。

「離れていると、高橋さんのことを考えることが増えました」

 心臓が、大きくひとつドクンと打ち、足が止まりそうになってしまう。

「仕事のことを考えているときも、何かあれば高橋さんに相談したらどうだろうと思ったり、会社にいないと、今日はどうしているんだろうと思ったりします」

「……課長」

「自分でも、どうしてこんなに気になるのか分かりませんでした。もっと、高橋さんのことを知りたいと思っています。仕事ができるとか、頼れるとか、そういうことだけじゃなくて。高橋さんが何を考えているのか、何が好きなのか、どんなふうに過ごしてきたのか。そういうことまで知りたいと思うようになりました」

 俺は何も言えない。告白をしたときのように、自分から答えを求めてはいけないのだろう。それは課長がここまで話してくれたこと自体が、俺にとっては十分すぎるほど大きかったからだ。

「それに……、高橋さんを、仕事で頼れる人としてだけ見ているわけではないことも、自分で分かってきたんです」

 だから俺は、焦らずに待とうと思う。

 課長がもう一歩進むなら、その隣にいたい。
 それだけは、もう迷わなかった。