嫌いだった課長と恋をするまで

 病室の窓から差し込む夕方の光が、白いシーツの上に細長く伸びていた。私は祖父のベッド脇にある椅子へ腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。

 今日ここへ来たのは、魚屋道で撮ってきた写真を見せるためだった。前に見せた写真を祖父が気に入って、もっといろいろな景色を見たいと言っていたから、今回はできるだけ多く撮ってきた。

 入口から続く道や木々の間から見える景色、蛙岩、風吹岩、雨ヶ峠、一軒茶屋へ向かう途中の風景まで、歩きながら気になった場所では足を止めた。祖父が自分の足で歩けなくなった山道を、写真を通して少しでも身近に感じられたらと思ったからだ。画面を開くと、祖父がゆっくり顔を向けた。

「持ってきたのか。見せてくれ」

 私は祖父のベッドの近くまで椅子を寄せ、写真を一枚ずつ表示していった。祖父は画面を覗き込みながら、「これはどの辺だ」と尋ねたり、知っている場所が出てくると小さく頷いたりした。私は撮った場所を説明しながら、次々と写真を見せていく。風吹岩からの景色を表示すると、祖父はしばらく黙って画面を眺めていた。私はその表情を見て、もっと撮っておけばよかったと思う。魚屋道を歩くこと自体は楽ではなかったが、祖父がこうして喜んでくれるなら、もう一度行ってもいい。そんなことを考えていると、祖父が写真から顔を上げた。

「今回は、一人で行ったのか?」

「ううん。高橋さんと一緒に行った」

「高橋君か」

「うん」

 私は次の写真を表示した。そこには木々の向こうに広がる景色が写っている。高橋さんが撮ってくれた写真だった。私が祖父に見せたいと思っていた方向を伝えると、彼は少し離れた場所まで移動して、写真を撮ってくれた。画面を見ながら、そのときのことが自然に頭へ浮かんだ。私が「ここも撮っておきたい」と言えば待ってくれて、足元が悪いところでは先に進みすぎず、私の歩く速さに合わせてくれた。何かを大げさに手伝おうとするわけではない。ただ、私が必要だと思ったときには、いつも自然に手を貸してくれた。

「高橋君に頼んだのか」

「私からお願いした」

「休日だったんだろう?」

「うん」

「それでも来てくれたのか」

「……うん」

 答えながら、私は少しだけ視線を落とした。高橋さんに声をかけるまで、私はかなり迷っていた。祖父のために写真を撮るという目的があるとはいえ、休日に部下を誘うのは気が引けたし、断られても仕方がないと思っていた。それでも、一人で行くより高橋さんと行ったほうがいいと考えてしまった。理由を考えれば、祖父のために写真を撮るのだから、仕事ができて山歩きにも付き合ってくれそうな人を選んだという説明はできる。でも、それだけではない気がしていた。

「高橋さんは、頼みやすいんだと思う」

 自分でも気づかないうちに、そんな言葉が口から出ていた。

「そうか」

「お願いしても嫌な顔をしないし、何でも勝手にやってしまうわけでもないの。私が自分でやりたいことは任せてくれて、必要なところだけ手伝ってくれるから」

「それなら、お前も頼みやすいだろうな」

「……うん」

 私は画面を指で動かした。次に表示されたのは、雨ヶ峠へ向かう道の写真だった。高橋さんが少し前を歩いていて、振り返った瞬間に撮ったものだった。何気なく撮った一枚なのに、そのときの声まで思い出せる。私はその写真を長く表示したまま、次へ進めなかった。

「高橋君は、どんな人なんだ?」

 祖父の問いに、私はすぐには答えられなかった。

「仕事はできるよ。判断も早いし、周りもよく見てる。それに……思っていたより、人のことをよく見てる」

「ほう」

「私が何も言わなくても、困ってると気づくことがあるし、無理に聞き出そうともしない。必要なときだけ声をかけてくるから、話しやすいんだと思う」

 話しているうちに、自分が高橋さんのことを思っていた以上に細かく見ていたことに気づく。仕事ができる。周りを見ている。頼みやすい。話しやすい。どれも事実ではある。でも、私がこんなに一人の部下について考えていること自体が、少し不思議だった。

「一度、会ってみたいな」

「えっ?」

 祖父は、私の顔を見ながら穏やかに笑っていた。

「その高橋君にだ。お前が写真を撮りに行くために休日まで頼んだ人なんだろう。どんな人なのか、少しくらい顔を見てみたい」

「……高橋さんに会いたいの?」

「ああ。魚屋道の写真も撮ってくれたんだろう。礼くらい言いたい」

 私はすぐに返事ができなかった。高橋さんと祖父が話しているところを想像すると、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
 二人が会うこと自体は、何もおかしくない。祖父のために写真を撮ってくれたのだから、会えば祖父も喜ぶだろう。そう思うのに、なぜか私はその場面を想像してしまう。高橋さんが祖父にどんな話し方をするのか、祖父に何を聞かれて、どんな顔をするのか。考え始めると、次々に気になってしまう。

「……いつか、機会があればね」

「そうか。楽しみにしておく」

 私はスマートフォンへ視線を戻す。画面には、魚屋道の写真が表示されていて、その一枚を撮ったのが高橋さんだと思うと、さっきまでとは少し違って見えた。単なる景色の写真なのに、そこには高橋さんと歩いた時間まで残っているように感じる。

 祖父のために撮った写真なのだから、私が大切にする理由はそれで十分なはずだった。それでも、写真を閉じようとすると指が止まる。高橋さんと一緒に歩いたことを思い出すと、胸の奥に温かさが広がり、もう一度その道を歩いてみたいと思ってしまう。祖父に見せる写真を撮るためでもいい。別の理由でもいい。高橋さんと一緒なら、また歩いてみたい。

「美月。また写真を撮ってきてくれるか」

「うん。もちろん」

 祖父に答えながら、私はスマートフォンの画面を閉じた。そのとき、自分の中に浮かんだのは、次に魚屋道へ行くときの景色ではなく、高橋さんと、また一緒に歩くことだった。

 それが嬉しいと思ってしまった自分に、私は少し戸惑ってしまう。
 
 仕事で頼りになる部下だから……。
 休日に一緒に歩いて楽しかったから……。
 祖父のために協力してくれたから……。

 理由はいくつも並べられるのに、そのどれを当てはめても、胸の奥に残る感覚だけは説明できなかった。