土曜日の夕方、私は三宮駅の改札を出て、待ち合わせ場所のカフェへ向かっていた。神戸に戻ってきてから、昔の友人と会う機会が少しずつ増えている。
東京にいた頃は仕事の予定で休日が埋まることが多く、誰かと約束をして食事をすること自体がほとんどなかった。
今日会うのは、高校時代の同級生だった。名前は佐伯真紀。高校三年間、同じクラスだっただけではない。放課後に一緒に帰ったり、試験前に図書室で勉強したり、進路について何度も話したりした。卒業後はそれぞれ別の場所で生活するようになったものの、連絡が途切れたわけではない。私が神戸に戻ってきたことを知った真紀から『久しぶりに会おう』と連絡が来て、今日こうして顔を合わせることになったわけだ。
「久しぶり、美月。元気そうじゃない」
「久しぶり。真紀も元気そうだね」
「その言い方、昔から変わらないね。なんか仕事の打ち合わせみたい」
席に着くなりそう言われて、私は笑ってしまうた。真紀は昔から、人の変化に気づくのが早かった。髪型を変えたときも、疲れているときも、私が何も言わないうちに気づいていた。自分でも整理できていないことまで見つけられていた。
注文した飲み物が届くと、真紀はストローを手に取りながら、私の顔をじっと見てきた。
「神戸に戻ってきて、どう? 東京にいた頃と何か変わった?」
「仕事は忙しいよ。東京にいたときと、それほど変わらない」
「仕事の話じゃなくて、美月自身の話」
「私自身?」
「そう。なんか雰囲気が違う」
私は返事をせず、カップに口をつけた。自分では、何が変わったのか分からない。神戸へ戻ってきた理由は祖父のことだった。仕事を辞めたわけでもないし、職場では以前と同じように課長として働いている。やるべきことを整理して、部下に指示を出し、問題があれば自分で対応する。それが私の日常だ。
東京にいた頃と比べて、特別なことが増えたわけではない。そう考えていたのに、真紀にそう言われると、頭の中にいくつかの場面が浮かんでくる。
病院で祖父と話したこと。
仕事の帰りに高橋さんと話したこと。
そして、休日に魚屋道を歩いたこと。
「そういえば、この前、魚屋道に行ったんだ」
「魚屋道? 六甲の?」
「うん。祖父が昔よく歩いてた場所だから、写真を撮ってきてほしいって言われて」
「一人で?」
「……部下の人と一緒に行った」
自分でも、答えるまでに少し間があったことに気づく。真紀は何も言わずに私を見ている。私は続けて説明する必要があるような気がして、写真を撮りに行った理由を話した。
「祖父が病院にいるから、景色を見たいって。蛙岩や風吹岩だけじゃなくて、道の途中の写真もたくさん欲しいって言われたの。それで、部下の人に手伝ってもらったの」
「へえ」
「休日だったし、最初は頼むかどうか迷ったんだ。仕事のことなら頼めるけど、休日に部下を誘うのはどうなのかなって」
「それで?」
「それで……お願いした」
「へぇ~、美月が誰かにお願いしたんだ」
「祖父のためだから」
「分かってる。でも、昔の美月なら一人で行って、全部自分で撮ってきたんじゃない?」
その言葉に、反論できなかった。高校時代からの私は、何でも自分でやろうとする性格で、人に迷惑をかけるくらいなら、自分が大変なほうを選ぶ。
誰かに手伝ってほしいと思っても、頼む前に自分で片づけてしまう。大人になってからも、その部分はあまり変わっていなかったと思う。
仕事でも、自分でできることなら自分で処理したほうが早いと考えてしまう。だから、誰かに頼ることに慣れていない。それは自分でも分かっていた。
「その人って、どんな人? 男の人? それとも女の人?」
「……男性で、……高橋さんって言うの。その人は、頼んでも嫌な顔をしない人なんだ」
「高橋さんって、どんな人? 他には?」
「仕事ができる。判断も早いし、周りをよく見てる。普段は少し自分のことを後回しにしすぎるところがあるけど」
「ずいぶん詳しいね」
「同じ部署のチームリーダーだから、それくらいは把握してる」
「そういうところ」
「何?」
「仕事の説明みたいに話すところ」
私は思わず真紀を見た。真紀は楽しそうに笑っている。からかわれているのだと分かったが、何をどう返せばいいのか分からなかった。
「高橋さんは、最初は苦手だったんだ」
「へえ。今は?」
「……仕事では信頼してる」
「仕事では?」
私は答えなかった。真紀はそれ以上追及せず、飲み物に口をつけた。しばらくしてから、窓の外を眺めるようにして話し始める。
「美月って、高校の頃からそうだったよね。誰かを頼るのが苦手で、何でも自分で決めて、誰かに心配されると逆に気を遣う。でも、友達のことになるとすごく細かいところまで見てる」
「そうだった?」
「そうだよ。私が部活で落ち込んでたときも、何も聞かずに帰り道でジュース買ってくれたじゃん。あれ、今でも覚えてる」
そんな昔のことまで覚えているのかと思い、私は笑ってしまう。私自身は、そんなことをしたことすら忘れていた。真紀は笑いながら続ける。
「自分が頼るのは苦手なのに、人から頼られると放っておけない。それも昔から変わらない」
「それは……仕事でも同じかもしれない」
「その高橋さんも、そういうところがある人?」
「そうだね。うん、そうかも」
また自然に名前が出る。私はそこで初めて、今日の会話の中で高橋さんの話を何度もしていることに気づいてしまう。
真紀に会ってから、私は祖父のことを話し、その流れで魚屋道の話をし、そこから高橋さんの話をしている。
最初から話そうと思っていたわけではない。聞かれたから答えただけだ。それなのに、話しているうちに仕事ぶりや魚屋道での様子まで次々と思い出してしまう。
「高橋さんって、最近少し痩せたんだ」
「へえ」
「前は九十キロを超えてたんだけど、最近は運動を始めたみたいで。魚屋道を歩いたときも、前に比べてずいぶん楽そうだった」
「美月、よく見てるね」
「同じ部署の上司だから」
「まーた、それ言う」
真紀に笑われ、私は言葉に詰まってしまう。確かに、さっきから同じことを言っているからだ。
仕事だから。
上司だから。
同じ部署だから。
そう説明すれば、私が高橋さんのことを細かく知っている理由を自分自身にも説明できる気がした。
それでも、魚屋道を歩いている高橋さんの姿を思い出すと、胸の奥に違和感が生まれてきた。坂道を上るたびに苦しそうにしていた姿も覚えている。
私は、どうしてそこまで高橋さんのことを見ているのだろう。
「美月。その人の話をするとき、顔が少し柔らかくなるよ」
「……そう?」
「うん」
私は反射的に頬へ手を当てろつ、真紀が吹き出す。
「そこまでしなくてもいいって」
「別に、何もないよ」
「何もないなら、それでいいんじゃない?」
「……そうだね」
そう答えたものの、心の中では引っかかっている。真紀は私に何かを決めつけようとはしない。ただ、昔から私を知っている人間として、変化に気づいただけなのだろう。
私はカップの中身を見つめながら、さっきまで話していた高橋さんのことを考えてしまう。
仕事ができ、周りを見ている。それと自分のことを後回しにする。最近は、自分自身を大切にするようになったし、私が困っていると、必要以上に踏み込まずに手を貸してくれる。魚屋道へ誘ったときも、理由を聞かずに「行きます」と答えてくれた。
「……どうして、こんなに話したんだろう」
「何が?」
「高橋さんのこと」
「話したかったからじゃない?」
「私が?」
「うん。美月が自分から話してるんだから、そうなんじゃない?」
話したかったのだろうか?
誰かに聞いてほしかったのだろうか?
それとも、私自身が高橋さんについて考えるために、言葉にしていただけなのだろうか?
どれも確かな答えとは思わなかった。
店を出る頃には、空が少しずつ夕方の色に変わっていた。駅へ向かう道を真紀と並んで歩きながら、高校時代の話をいくつかした。
昔通っていた店の話や、卒業式の日のこと。くだらないことで笑った記憶まで蘇ってきて、私は何度も笑いあう。
真紀と別れて一人になると、さっきまでの会話が頭に蘇る。高橋さんの名前を何度も口にしたことも、真紀に指摘されたことも、簡単には消えなかった。
駅のホームで電車を待ちながら、私はスマートフォンを取り出した。連絡先を開くと、仕事の連絡の中に高橋さんとのやり取りが並んでいる。必要な連絡しかしていない。それなのに、画面を見ていると、魚屋道で撮った写真を一緒に確認したときのことが浮かんでくる。
私は画面を閉じ、スマートフォンを鞄へ戻した。電車が到着し、乗り込んだあとも、真紀の言葉が頭から離れなかった。
『話したかったからじゃない?』
その言葉を何度も考えながら、私は窓の外へ視線を向ける。神戸の街が流れていく中、高橋さんのことを考えている自分が、少し不思議だった。
まだ、その理由を自分の中でうまく言葉にできない。ただ、次に職場で顔を合わせたとき、私はどんな顔をすればいいのだろう。
東京にいた頃は仕事の予定で休日が埋まることが多く、誰かと約束をして食事をすること自体がほとんどなかった。
今日会うのは、高校時代の同級生だった。名前は佐伯真紀。高校三年間、同じクラスだっただけではない。放課後に一緒に帰ったり、試験前に図書室で勉強したり、進路について何度も話したりした。卒業後はそれぞれ別の場所で生活するようになったものの、連絡が途切れたわけではない。私が神戸に戻ってきたことを知った真紀から『久しぶりに会おう』と連絡が来て、今日こうして顔を合わせることになったわけだ。
「久しぶり、美月。元気そうじゃない」
「久しぶり。真紀も元気そうだね」
「その言い方、昔から変わらないね。なんか仕事の打ち合わせみたい」
席に着くなりそう言われて、私は笑ってしまうた。真紀は昔から、人の変化に気づくのが早かった。髪型を変えたときも、疲れているときも、私が何も言わないうちに気づいていた。自分でも整理できていないことまで見つけられていた。
注文した飲み物が届くと、真紀はストローを手に取りながら、私の顔をじっと見てきた。
「神戸に戻ってきて、どう? 東京にいた頃と何か変わった?」
「仕事は忙しいよ。東京にいたときと、それほど変わらない」
「仕事の話じゃなくて、美月自身の話」
「私自身?」
「そう。なんか雰囲気が違う」
私は返事をせず、カップに口をつけた。自分では、何が変わったのか分からない。神戸へ戻ってきた理由は祖父のことだった。仕事を辞めたわけでもないし、職場では以前と同じように課長として働いている。やるべきことを整理して、部下に指示を出し、問題があれば自分で対応する。それが私の日常だ。
東京にいた頃と比べて、特別なことが増えたわけではない。そう考えていたのに、真紀にそう言われると、頭の中にいくつかの場面が浮かんでくる。
病院で祖父と話したこと。
仕事の帰りに高橋さんと話したこと。
そして、休日に魚屋道を歩いたこと。
「そういえば、この前、魚屋道に行ったんだ」
「魚屋道? 六甲の?」
「うん。祖父が昔よく歩いてた場所だから、写真を撮ってきてほしいって言われて」
「一人で?」
「……部下の人と一緒に行った」
自分でも、答えるまでに少し間があったことに気づく。真紀は何も言わずに私を見ている。私は続けて説明する必要があるような気がして、写真を撮りに行った理由を話した。
「祖父が病院にいるから、景色を見たいって。蛙岩や風吹岩だけじゃなくて、道の途中の写真もたくさん欲しいって言われたの。それで、部下の人に手伝ってもらったの」
「へえ」
「休日だったし、最初は頼むかどうか迷ったんだ。仕事のことなら頼めるけど、休日に部下を誘うのはどうなのかなって」
「それで?」
「それで……お願いした」
「へぇ~、美月が誰かにお願いしたんだ」
「祖父のためだから」
「分かってる。でも、昔の美月なら一人で行って、全部自分で撮ってきたんじゃない?」
その言葉に、反論できなかった。高校時代からの私は、何でも自分でやろうとする性格で、人に迷惑をかけるくらいなら、自分が大変なほうを選ぶ。
誰かに手伝ってほしいと思っても、頼む前に自分で片づけてしまう。大人になってからも、その部分はあまり変わっていなかったと思う。
仕事でも、自分でできることなら自分で処理したほうが早いと考えてしまう。だから、誰かに頼ることに慣れていない。それは自分でも分かっていた。
「その人って、どんな人? 男の人? それとも女の人?」
「……男性で、……高橋さんって言うの。その人は、頼んでも嫌な顔をしない人なんだ」
「高橋さんって、どんな人? 他には?」
「仕事ができる。判断も早いし、周りをよく見てる。普段は少し自分のことを後回しにしすぎるところがあるけど」
「ずいぶん詳しいね」
「同じ部署のチームリーダーだから、それくらいは把握してる」
「そういうところ」
「何?」
「仕事の説明みたいに話すところ」
私は思わず真紀を見た。真紀は楽しそうに笑っている。からかわれているのだと分かったが、何をどう返せばいいのか分からなかった。
「高橋さんは、最初は苦手だったんだ」
「へえ。今は?」
「……仕事では信頼してる」
「仕事では?」
私は答えなかった。真紀はそれ以上追及せず、飲み物に口をつけた。しばらくしてから、窓の外を眺めるようにして話し始める。
「美月って、高校の頃からそうだったよね。誰かを頼るのが苦手で、何でも自分で決めて、誰かに心配されると逆に気を遣う。でも、友達のことになるとすごく細かいところまで見てる」
「そうだった?」
「そうだよ。私が部活で落ち込んでたときも、何も聞かずに帰り道でジュース買ってくれたじゃん。あれ、今でも覚えてる」
そんな昔のことまで覚えているのかと思い、私は笑ってしまう。私自身は、そんなことをしたことすら忘れていた。真紀は笑いながら続ける。
「自分が頼るのは苦手なのに、人から頼られると放っておけない。それも昔から変わらない」
「それは……仕事でも同じかもしれない」
「その高橋さんも、そういうところがある人?」
「そうだね。うん、そうかも」
また自然に名前が出る。私はそこで初めて、今日の会話の中で高橋さんの話を何度もしていることに気づいてしまう。
真紀に会ってから、私は祖父のことを話し、その流れで魚屋道の話をし、そこから高橋さんの話をしている。
最初から話そうと思っていたわけではない。聞かれたから答えただけだ。それなのに、話しているうちに仕事ぶりや魚屋道での様子まで次々と思い出してしまう。
「高橋さんって、最近少し痩せたんだ」
「へえ」
「前は九十キロを超えてたんだけど、最近は運動を始めたみたいで。魚屋道を歩いたときも、前に比べてずいぶん楽そうだった」
「美月、よく見てるね」
「同じ部署の上司だから」
「まーた、それ言う」
真紀に笑われ、私は言葉に詰まってしまう。確かに、さっきから同じことを言っているからだ。
仕事だから。
上司だから。
同じ部署だから。
そう説明すれば、私が高橋さんのことを細かく知っている理由を自分自身にも説明できる気がした。
それでも、魚屋道を歩いている高橋さんの姿を思い出すと、胸の奥に違和感が生まれてきた。坂道を上るたびに苦しそうにしていた姿も覚えている。
私は、どうしてそこまで高橋さんのことを見ているのだろう。
「美月。その人の話をするとき、顔が少し柔らかくなるよ」
「……そう?」
「うん」
私は反射的に頬へ手を当てろつ、真紀が吹き出す。
「そこまでしなくてもいいって」
「別に、何もないよ」
「何もないなら、それでいいんじゃない?」
「……そうだね」
そう答えたものの、心の中では引っかかっている。真紀は私に何かを決めつけようとはしない。ただ、昔から私を知っている人間として、変化に気づいただけなのだろう。
私はカップの中身を見つめながら、さっきまで話していた高橋さんのことを考えてしまう。
仕事ができ、周りを見ている。それと自分のことを後回しにする。最近は、自分自身を大切にするようになったし、私が困っていると、必要以上に踏み込まずに手を貸してくれる。魚屋道へ誘ったときも、理由を聞かずに「行きます」と答えてくれた。
「……どうして、こんなに話したんだろう」
「何が?」
「高橋さんのこと」
「話したかったからじゃない?」
「私が?」
「うん。美月が自分から話してるんだから、そうなんじゃない?」
話したかったのだろうか?
誰かに聞いてほしかったのだろうか?
それとも、私自身が高橋さんについて考えるために、言葉にしていただけなのだろうか?
どれも確かな答えとは思わなかった。
店を出る頃には、空が少しずつ夕方の色に変わっていた。駅へ向かう道を真紀と並んで歩きながら、高校時代の話をいくつかした。
昔通っていた店の話や、卒業式の日のこと。くだらないことで笑った記憶まで蘇ってきて、私は何度も笑いあう。
真紀と別れて一人になると、さっきまでの会話が頭に蘇る。高橋さんの名前を何度も口にしたことも、真紀に指摘されたことも、簡単には消えなかった。
駅のホームで電車を待ちながら、私はスマートフォンを取り出した。連絡先を開くと、仕事の連絡の中に高橋さんとのやり取りが並んでいる。必要な連絡しかしていない。それなのに、画面を見ていると、魚屋道で撮った写真を一緒に確認したときのことが浮かんでくる。
私は画面を閉じ、スマートフォンを鞄へ戻した。電車が到着し、乗り込んだあとも、真紀の言葉が頭から離れなかった。
『話したかったからじゃない?』
その言葉を何度も考えながら、私は窓の外へ視線を向ける。神戸の街が流れていく中、高橋さんのことを考えている自分が、少し不思議だった。
まだ、その理由を自分の中でうまく言葉にできない。ただ、次に職場で顔を合わせたとき、私はどんな顔をすればいいのだろう。



