嫌いだった課長と恋をするまで

 月曜日の朝、会社へ向かう電車の中で、俺は窓の外を眺めていた。週明けの神戸の街は、いつもと変わらない。駅へ向かう人の流れも、信号を待つ車の列も、昨日までと何も変わっていない。俺自身も、たぶん外から見れば何も変わっていないだろう。体重九十キロを超えた身体で電車に乗り、会社へ行き、チームリーダーとして仕事をする。少し違うのは、課長に告白して、振られたという事実を抱えていることだけだ。それでも、会社へ着けば仕事は待っている。俺はスマートフォンをポケットへしまい、開いたドアから降りた。

 自分の席に着いてパソコンを起動すると、週末の間に届いたメールがいくつも並んでいた。取引先からの確認事項、チームの進捗報告、今日の打ち合わせに必要な資料。順番に目を通していると、自然と頭の中が仕事へ切り替わっていく。恋愛のことを考えないようにしているわけじゃない。ただ、仕事をしている時間まで課長のことばかり考えていても仕方がないと思えるようになっていた。そんなことを考えながら資料を整理していると、向かいの席に小川が立った。

「高橋さん、十時からの打ち合わせなんですけど、先方から参加する人が一人増えたそうです」

「五人になったのか?」

「はい。会議室はそのままで大丈夫ですか?」

「問題ない。資料だけ一部増やしておくよ」

「分かりました。お願いします」

 小川が自分の席へ戻っていく。俺は資料を修正しながら、今日の予定を確認した。午前中の打ち合わせが終わったら、午後は別の取引先へ向かう。その合間にチームの案件も確認しなければならない。いつも通り忙しい。だからこそ助かっていた。仕事をしていれば、自分が何を考えているのかをいちいち気にしなくて済む。俺は修正した資料を印刷し、必要なものを鞄へ入れた。

 
 十時の打ち合わせを終えて部署へ戻ると、課長が自席で資料を確認していた。俺に気づくと、課長が顔を上げる。ほんの一瞬、胸の奥が反応した。
 告白してから、課長と顔を合わせるたびに、こういう感覚がある。以前なら気にも留めなかった小さな変化だ。今は課長の視線一つで意識してしまう。それでも俺は、いつものように課長のところまで歩いた。

「課長、打ち合わせの件ですが、先方は基本的にこちらの提案で進める方向です。ただ、一つだけ条件を追加したいそうです」

「どんな条件ですか?」

「納期についてです。向こうとしては少し早めたいようですが、今の人員だと難しいと思います」

「高橋さんはどう考えていますか?」

「一週間なら短縮できます。ただ、それ以上は品質に影響が出る可能性があります」

 課長は俺の話を聞きながら資料へ目を落とした。

「分かりました。では、その案で先方に返答しましょう。必要なら私からも説明します」

「ありがとうございます。俺のほうから先に話してみます」

「お願いします」

 それだけのやり取りで終わる。俺は席へ戻りながら、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じていた。課長は俺を頼ってくれている。俺も課長の判断を信頼している。恋愛とは関係のないところで積み重ねてきたものまで、告白一つで消えるわけじゃない。それが分かっただけで、今日は仕事に集中できそうだった。

 
 昼休みになると、小川と一緒に食堂へ向かった。仕事の話をしながら昼食を済ませ、午後の予定を確認する。小川が週末に見た映画の話を始めたので、俺も知っている作品について少し話した。笑ったし、くだらないことで意見が食い違って言い合いにもなった。そんな普通の時間を過ごしているうちに、俺は自分が思っていたより普通に笑えていることに気づいてしまった。告白して、振られて、それでも会社へ来ている。そういう毎日を続けていけばいいのだと思うと、肩に入っていた力が少し抜けた。

 
 午後の外回りを終えて会社へ戻ったころには、窓の外が少しずつ夕方の色に変わっていた。自席で報告書をまとめていると、課長が近づいてくる。

「高橋さん、先ほどの案件ですが、先方から返事がありました」

「どうでした?」

「こちらの条件で進めるそうです」

「よかったです」

「高橋さんが先に整理してくれていたので、話が早かったです。助かりました」

 課長の笑顔を見た瞬間、胸が温かくなる。やっぱり俺は、この人が好きなんだ。告白を断られたからといって、好きだった気持ちまでなくなるわけじゃない。今も課長が笑えば嬉しいし、仕事を任せてもらえれば嬉しい。ただ、その嬉しさを何か別の意味へ変えようとは思わない。課長が俺を恋人として選ばないという答えは、もう聞いている。その答えを変えようとも思っていない。ただ好きな人が笑っている。それを見て嬉しいと思うくらいなら、誰に迷惑をかけるわけでもない。

「それなら、よかったです。俺も安心しました」

「今日はもう大丈夫ですよ。遅くならないようにしてください」

「課長もですよ」

「私はもう少し残ります」

「じゃあ、俺も残ったほうがいいですか?」

「高橋さんは帰ってもらって大丈夫です」

「分かりました。お先に失礼します」

「お疲れさまでした」

 以前なら、課長がまだ仕事をしていると、自分も残って手伝おうとしていたかもしれない。今は、課長自身が大丈夫だと言ったなら、その言葉を信じることにした。それは突き放すことではなく、相手の判断を尊重することなのだと思う。

 
 会社を出て駅へ向かう途中、スマートフォンに課長から、明日の予定について確認する短いメッセージが届いている。俺は歩きながら内容を確認し、必要なことだけ返えす。
 少し前までは、こんな時間に課長から連絡が来れば、それだけで一日中浮かれていたかもしれない。正直、今も嬉しい。でも、そこに意味を足すことはしない。仕事の連絡なら仕事の連絡として受け取ればいい。そう思える自分が、少し不思議だった。

 
 電車に乗り、窓の外に流れていく街の明かりを眺めながら、今日一日を振り返る。特別な出来事は何もなかった。仕事をして、課長と話して、同僚と昼飯を食べて、帰る。それだけの一日だ。でも、俺にとっては、その「それだけ」が大事なのだ。告白したことで、俺と課長の関係が全部変わったわけじゃない。俺たちは今まで通り、会社では上司と部下として仕事をしている。そして俺自身も、少しずつその日常へ戻っている。

 課長のことはまだ好きだ。明日も顔を合わせれば、きっと嬉しくなるだろう。それでも、もうその気持ちを急いでどこかへ持っていこうとは思わない。仕事をして、仲間と話して、自分の時間を過ごす。その中に課長への気持ちが残っていてもいい。そんなふうに思えるようになったことが、今の俺には少し心地よかった。

 電車が次の駅へ滑り込む。ドアが開き、人が乗り込んでくる。俺は窓の外へ視線を戻した。

 明日も、たぶん同じ一日が始まる。
 俺はまだ、それでいいと思っていた。

 ただ、その「変わらない毎日」を、俺とは少し違う気持ちで見ている人がいることには、まだ気づいていなかった。