翌朝、目を覚ました瞬間から、昨日のことが頭に浮かんでいた。神谷課長が好きだ。たったそれだけのことなのに、朝の景色まで変わって見える。洗面所で顔を洗い、ネクタイを締め、いつものように家を出る。駅まで歩く道も、電車の揺れも、何一つ変わっていない。それなのに、会社へ近づくほど胸の奥が落ち着かなくなっていった。
昨日までなら、課長に会えば仕事の確認をして、必要なら少し雑談をして、一日の終わりに駅まで一緒に歩くこともあった。それを自然なことだと思っていた。今は違う。その時間が自分にとってどれほど大切だったのかを、好きだと認めたことで思い知らされてしまった。だから今日は、少し距離を置こうと思った。仕事に私情を持ち込まない。そのためにも、俺から余計なことをしない。それが課長に対する最低限の配慮だと思った。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん」
会社に着いて最初に交わした言葉は、いつもと同じだった。課長は自分の席でパソコンを立ち上げ、俺もチームのメールを確認する。周囲では社員たちが出勤してきて、椅子を引く音やキーボードを叩く音が重なっている。いつもの朝だ。俺は自分の仕事に集中しようとした。
ところが、斜め前にいる課長が資料を確認するために眼鏡を外しただけで、視線がそちらへ向いてしまう。髪を耳へかける仕草も、画面を見つめる真剣な表情も、昨日までなら何気なく見ていたものだった。それが今日は、いちいち気になってしまう。俺は慌ててモニターへ視線を戻し、メールを開く。文章が頭に入ってこない。何度か読み直して、ようやく内容を理解した。こんなことで仕事に支障を出すわけにはいかない。俺は小さく息を吐き、意識を業務へ戻した。
「高橋さん」
「はい」
「昨日お願いした取引先の件ですが、先方から返事が来ています」
「確認します」
課長が俺のデスクまで歩いてくる。いつもの距離だった。俺は椅子を少し引き、課長が画面を見やすい位置を空ける。普段なら二人でモニターを見ながら、その場で話を進めるところだった。だが今日は、必要な確認だけを済ませると、俺はすぐに椅子へ戻った。
「先方は午後の打ち合わせで、この条件を詰めたいそうです」
「分かりました。こちらで準備しておきます」
「お願いします」
課長が離れていく。俺はその背中を見ないようにした。見れば、また余計なことを考えるからだ。
「高橋さん」
再び声をかけられて、俺は顔を上げた。
「はい?」
「……何かありましたか?」
「何か、ですか?」
「昨日までと少し違う気がします」
ドクンと心臓が一つ、大きく鳴る。
課長は俺の顔をじっと見ている。問い詰めるような表情ではない。ただ、本当に分からないから聞いているようだった。俺は何と言えばいいのか分からず、視線を資料へ落とした。
「いえ。何もありません」
「そうですか?」
「はい。少し仕事に集中しようと思っただけです」
「仕事に?」
「はい」
嘘ではない。仕事に集中したいのは本当だった。ただ、仕事だけに集中しなければ、自分の気持ちが顔に出てしまいそうだった。
「分かりました」
課長はそれ以上聞かず、自分の席へ戻っていく課長を見送りながら、俺は胸の奥に妙な苦さを感じた。
もっと近くにいたいと思うのに、自分から離れようとしている。
話したいと思うのに、必要なことしか話さない。
昨日までなら嬉しかった課長との会話が、今日は緊張する。
好きになるというのは、もっと温かいものだと思っていた。実際には、こんなにも自分を不器用にするものなのか。
午前中は取引先との打ち合わせに追われた。俺が担当している案件で、先方から急な条件変更が入ったため、営業担当と一緒に話を整理する。数字を確認し、相手が本当に困っている部分を聞き出して、こちらから出せる代替案を提示する。話がまとまったところで電話を切ると、隣の席の後輩が安堵したように息を吐いた。
「高橋さん、助かりました」
「まだ終わってないぞ。午後までに資料を直そう」
「はい」
仕事をしている間は余計なことを考えずに済んだ。俺は昔から、誰かの困っていることを放っておけなかった。自分のことは雑に扱ってしまうのに、他人のことになると細かいところまで気になる。そんな自分の性格を、以前は欠点だと思っていた。
しかし、今は、それも自分の一部なのだと思えるようになっている。だからこそ、課長のことも気になるのだろう。疲れていれば休んでほしいと思う。無理をしていれば止めたくなる。笑っていれば、こちらまで嬉しくなる。その感情が恋なのだと分かってしまったから、俺は余計に慎重になっていた。
昼休み、社員食堂へ向かう途中で小川に声をかけられた。
「高橋さん、今日一緒に食べません?」
「いいよ」
「珍しいですね。今日は一人で行くのかと思ってました」
「何で?」
「朝からずっと仕事してる感じだったので」
「そんなに変だった?」
「少しだけです」
小川は笑いながら先を歩いていく。俺もその後を追った。食堂へ入る直前、何となく振り返ると、廊下の向こうに課長がいた。課長は松本さんと話をしている。東京本社から来ている松本さんとは仕事上の付き合いが長いらしく、二人は資料を見ながら何か確認していた。俺は足を止めかけた。
別に、おかしな光景ではない。
課長が仕事の話をしているだけだ。
そう分かっている。
それなのに、胸の奥がざわついてしまう。
「高橋さん?」
「……あぁ、行こう」
食事をしながらも、さっき見た光景が頭から離れない。松本さんは課長と同じ東京本社にいた人だ。仕事のことなら俺より詳しい部分もあるだろう。課長が東京にいた頃のことも知っている。俺の知らない課長を知っている人間がいる。そのことが、妙に気になった。
「高橋さん、午後の打ち合わせ、二時でしたよね?」
「そう。資料は昼から直す」
「じゃあ、先に戻ります?」
「あぁ、そうする」
小川との会話に集中しようとしたが、頭の隅から課長の姿が消えてくれなかった。
午後になれば仕事に追われ、そんなことを考える余裕もなくなった。先方との打ち合わせを終え、修正した資料を課長へ提出する。課長は内容を確認し、いくつか質問をした。俺は一つずつ答える。話が終わったところで、課長が資料から顔を上げた。
「高橋さん、ありがとうございます。助かりました」
「いえ。これくらいは」
「今日も頼りになりますね」
その言葉だけで、胸が熱くなってしまう。たった一言なのに、課長から認められたことが嬉しい。もっと言ってほしいと思ってしまう。もっと自分を見てほしいと思ってしまう。
「……ありがとうございます」
それだけ返して、俺は自分の席へ戻る。
仕事を続けながら、ふと考えてしまった。
俺は、課長にどう見られたいんだろう。
仕事のできる部下としてか。
頼れるチームリーダーとしてか。
それとも、一人の男としてか。
答えは分かっていた。
だからこそ、余計なことをしないようにしなければならなかった。
定時を少し過ぎたところで、俺は仕事を終えた。パソコンを閉じ、荷物をまとめる。以前なら、課長の仕事が終わるのを何となく待つこともあった。帰り道で話したいことがあれば、そのまま駅まで一緒に歩いた。
今日は待たずに先に帰ろうとした。
「お疲れさまでした、課長」
「お疲れさまです、高橋さん。もう帰るんですか?」
「はい。明日の準備もできていますので」
「そうですか」
「課長も、あまり遅くならないようにしてください」
「……ありがとうございます」
それだけ言って、俺は会社を出る。ビルを出ると、夜の神戸の街には仕事帰りの人が行き交っている。駅へ向かう人の流れに混ざりながら歩く。少し前までは、ここで課長と並んで歩き、仕事の話をしたり、くだらない話をしたり、途中でコンビニに寄ったり。特別なことなんて何もなかった。それでも俺は、その時間が好きだった。
駅の手前で、スマートフォンが震え、すぐに画面を見ると課長からだった。
『先ほどの資料ですが、一点だけ確認したいことがあります』
『承知しました。確認しておきます』
送信してから、スマートフォンをポケットへしまう。たったそれだけのやり取りなのに、もう一度会いたいと思ってしまった。
戻る理由ならある。それでも、戻らなかった。
課長と部下。
今の俺たちは、それでいい。
そう決めたはずなのに、駅へ向かう足取りは思ったより重かった。
好きになったから近づきたい。
好きになったからこそ、近づいてはいけない。
その二つが胸の中でぶつかりながら、俺は一人で駅への道を歩くのだった。
昨日までなら、課長に会えば仕事の確認をして、必要なら少し雑談をして、一日の終わりに駅まで一緒に歩くこともあった。それを自然なことだと思っていた。今は違う。その時間が自分にとってどれほど大切だったのかを、好きだと認めたことで思い知らされてしまった。だから今日は、少し距離を置こうと思った。仕事に私情を持ち込まない。そのためにも、俺から余計なことをしない。それが課長に対する最低限の配慮だと思った。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん」
会社に着いて最初に交わした言葉は、いつもと同じだった。課長は自分の席でパソコンを立ち上げ、俺もチームのメールを確認する。周囲では社員たちが出勤してきて、椅子を引く音やキーボードを叩く音が重なっている。いつもの朝だ。俺は自分の仕事に集中しようとした。
ところが、斜め前にいる課長が資料を確認するために眼鏡を外しただけで、視線がそちらへ向いてしまう。髪を耳へかける仕草も、画面を見つめる真剣な表情も、昨日までなら何気なく見ていたものだった。それが今日は、いちいち気になってしまう。俺は慌ててモニターへ視線を戻し、メールを開く。文章が頭に入ってこない。何度か読み直して、ようやく内容を理解した。こんなことで仕事に支障を出すわけにはいかない。俺は小さく息を吐き、意識を業務へ戻した。
「高橋さん」
「はい」
「昨日お願いした取引先の件ですが、先方から返事が来ています」
「確認します」
課長が俺のデスクまで歩いてくる。いつもの距離だった。俺は椅子を少し引き、課長が画面を見やすい位置を空ける。普段なら二人でモニターを見ながら、その場で話を進めるところだった。だが今日は、必要な確認だけを済ませると、俺はすぐに椅子へ戻った。
「先方は午後の打ち合わせで、この条件を詰めたいそうです」
「分かりました。こちらで準備しておきます」
「お願いします」
課長が離れていく。俺はその背中を見ないようにした。見れば、また余計なことを考えるからだ。
「高橋さん」
再び声をかけられて、俺は顔を上げた。
「はい?」
「……何かありましたか?」
「何か、ですか?」
「昨日までと少し違う気がします」
ドクンと心臓が一つ、大きく鳴る。
課長は俺の顔をじっと見ている。問い詰めるような表情ではない。ただ、本当に分からないから聞いているようだった。俺は何と言えばいいのか分からず、視線を資料へ落とした。
「いえ。何もありません」
「そうですか?」
「はい。少し仕事に集中しようと思っただけです」
「仕事に?」
「はい」
嘘ではない。仕事に集中したいのは本当だった。ただ、仕事だけに集中しなければ、自分の気持ちが顔に出てしまいそうだった。
「分かりました」
課長はそれ以上聞かず、自分の席へ戻っていく課長を見送りながら、俺は胸の奥に妙な苦さを感じた。
もっと近くにいたいと思うのに、自分から離れようとしている。
話したいと思うのに、必要なことしか話さない。
昨日までなら嬉しかった課長との会話が、今日は緊張する。
好きになるというのは、もっと温かいものだと思っていた。実際には、こんなにも自分を不器用にするものなのか。
午前中は取引先との打ち合わせに追われた。俺が担当している案件で、先方から急な条件変更が入ったため、営業担当と一緒に話を整理する。数字を確認し、相手が本当に困っている部分を聞き出して、こちらから出せる代替案を提示する。話がまとまったところで電話を切ると、隣の席の後輩が安堵したように息を吐いた。
「高橋さん、助かりました」
「まだ終わってないぞ。午後までに資料を直そう」
「はい」
仕事をしている間は余計なことを考えずに済んだ。俺は昔から、誰かの困っていることを放っておけなかった。自分のことは雑に扱ってしまうのに、他人のことになると細かいところまで気になる。そんな自分の性格を、以前は欠点だと思っていた。
しかし、今は、それも自分の一部なのだと思えるようになっている。だからこそ、課長のことも気になるのだろう。疲れていれば休んでほしいと思う。無理をしていれば止めたくなる。笑っていれば、こちらまで嬉しくなる。その感情が恋なのだと分かってしまったから、俺は余計に慎重になっていた。
昼休み、社員食堂へ向かう途中で小川に声をかけられた。
「高橋さん、今日一緒に食べません?」
「いいよ」
「珍しいですね。今日は一人で行くのかと思ってました」
「何で?」
「朝からずっと仕事してる感じだったので」
「そんなに変だった?」
「少しだけです」
小川は笑いながら先を歩いていく。俺もその後を追った。食堂へ入る直前、何となく振り返ると、廊下の向こうに課長がいた。課長は松本さんと話をしている。東京本社から来ている松本さんとは仕事上の付き合いが長いらしく、二人は資料を見ながら何か確認していた。俺は足を止めかけた。
別に、おかしな光景ではない。
課長が仕事の話をしているだけだ。
そう分かっている。
それなのに、胸の奥がざわついてしまう。
「高橋さん?」
「……あぁ、行こう」
食事をしながらも、さっき見た光景が頭から離れない。松本さんは課長と同じ東京本社にいた人だ。仕事のことなら俺より詳しい部分もあるだろう。課長が東京にいた頃のことも知っている。俺の知らない課長を知っている人間がいる。そのことが、妙に気になった。
「高橋さん、午後の打ち合わせ、二時でしたよね?」
「そう。資料は昼から直す」
「じゃあ、先に戻ります?」
「あぁ、そうする」
小川との会話に集中しようとしたが、頭の隅から課長の姿が消えてくれなかった。
午後になれば仕事に追われ、そんなことを考える余裕もなくなった。先方との打ち合わせを終え、修正した資料を課長へ提出する。課長は内容を確認し、いくつか質問をした。俺は一つずつ答える。話が終わったところで、課長が資料から顔を上げた。
「高橋さん、ありがとうございます。助かりました」
「いえ。これくらいは」
「今日も頼りになりますね」
その言葉だけで、胸が熱くなってしまう。たった一言なのに、課長から認められたことが嬉しい。もっと言ってほしいと思ってしまう。もっと自分を見てほしいと思ってしまう。
「……ありがとうございます」
それだけ返して、俺は自分の席へ戻る。
仕事を続けながら、ふと考えてしまった。
俺は、課長にどう見られたいんだろう。
仕事のできる部下としてか。
頼れるチームリーダーとしてか。
それとも、一人の男としてか。
答えは分かっていた。
だからこそ、余計なことをしないようにしなければならなかった。
定時を少し過ぎたところで、俺は仕事を終えた。パソコンを閉じ、荷物をまとめる。以前なら、課長の仕事が終わるのを何となく待つこともあった。帰り道で話したいことがあれば、そのまま駅まで一緒に歩いた。
今日は待たずに先に帰ろうとした。
「お疲れさまでした、課長」
「お疲れさまです、高橋さん。もう帰るんですか?」
「はい。明日の準備もできていますので」
「そうですか」
「課長も、あまり遅くならないようにしてください」
「……ありがとうございます」
それだけ言って、俺は会社を出る。ビルを出ると、夜の神戸の街には仕事帰りの人が行き交っている。駅へ向かう人の流れに混ざりながら歩く。少し前までは、ここで課長と並んで歩き、仕事の話をしたり、くだらない話をしたり、途中でコンビニに寄ったり。特別なことなんて何もなかった。それでも俺は、その時間が好きだった。
駅の手前で、スマートフォンが震え、すぐに画面を見ると課長からだった。
『先ほどの資料ですが、一点だけ確認したいことがあります』
『承知しました。確認しておきます』
送信してから、スマートフォンをポケットへしまう。たったそれだけのやり取りなのに、もう一度会いたいと思ってしまった。
戻る理由ならある。それでも、戻らなかった。
課長と部下。
今の俺たちは、それでいい。
そう決めたはずなのに、駅へ向かう足取りは思ったより重かった。
好きになったから近づきたい。
好きになったからこそ、近づいてはいけない。
その二つが胸の中でぶつかりながら、俺は一人で駅への道を歩くのだった。



