……
まだ、両手で包んでいた。
十本の指は曲がったままなのに、その下が急に空っぽになった。椀の縁も、水もない。手のひらだけが器を包む形を残している。体のほうが少し遅れて、何がなくなったのか、まだ気づいていないようだった。
反射的に前へ手を伸ばした。靴底が硬い地面に引っかかり、よろめく。
そばを車が通り過ぎた。
馬車じゃない。
灰色の車体の後ろに、赤いランプ。排気管から熱が漏れる。車はすぐ角を曲がり、あまりいい匂いではないのに泣きたくなるようなものを、後に残した。
アスファルトの道端に立ち、ゆっくり顔を上げた。
電線。
電柱。
二階の壁にはエアコンの室外機が掛かり、その下へ長く水の跡が延びている。自動販売機の隣には自転車が止まっていた。前籠に中途半端に押し込まれたレジ袋が、風を受けて膨らみ、また柔らかくしぼむ。
薄い白が、籠の中で何度も息をしていた。
塀の向こうから蝉の声が押し寄せた。
今度こそ、本当に蝉だった。
馴染みがありすぎて、かえって泣けてきた。
塀の上から濃い緑の葉が覗き、縁だけが日差しに白く光っている。影は僕のところまでは届かず、塀の際に細く溜まっていた。見えているのに、すぐには逃げ込まなかった。
自販機に、日本語が書いてあった。
読めた。
どの文字も、ちゃんとそこにいてくれた。水があること、お茶があること、右のボタンの飲み物は今ないことまで教えてくれる。「売り切れ」だって知っている字だ。何がないのか、僕にもわかる。想像しなくていい。大勢の口の中から、ようやくわかる言葉が出てくるのを待たなくていい。あんな、わからないままでいたかった言葉を。
飲み物の写真には、水滴が印刷されていた。
ただの写真なのに、見ていると喉の奥まで少し涼しくなる気がした。
近づいて、機械の側面に手を当てた。
日差しを受けた金属は熱かった。
「日本?」
自分にしか聞こえないくらい、小さな声だった。
「日本だよ」
後ろで、誰かが答えた。
振り向いた。
薄い色のシャツ。肘の下までまくった袖。手に提げた買い物袋。数歩離れたところで、男の人が立ち止まっていた。金色の髪は風に少し乱れていたけれど、青い目はもう僕を見ていた。
知っている目だった。
「トーマス?」
彼はすぐには答えなかった。
先に目元がほころんで、それから口元が、どう笑えばいいのかわからないみたいに動いた。近づいてくると、買い物袋が脚に触れ、中のものが小さく鳴った。
「来たんだね」
「僕――」
彼の目が手のひらに止まった。
口元の笑みも、そこで少し止まった。
「……手は、まだ痛い?」
「もう痛くないよ。かゆいだけ」
手のひらを返して見せた。
「ちっちゃい子に噛まれてさ。あんなに小さいくせに、遠慮がないんだから」
彼は口を結び、少し横へ目をそらした。
「きっと、怖かったんだよ」
「僕だって怖かったよ」
「うん」
ひどく小さな返事だった。
また手を見下ろした彼は、なぜか耳のあたりが少し赤かった。伸びてきた指先はかさぶたを避け、そっと手首を支えた。
「見せて」
葉の影が肩の上で揺れた。ずいぶん丁寧に見てくれる。僕が指を少し曲げただけで、すぐ手の力を緩めた。
「こっちも」
指先がこめかみのそばで止まる。
「そこも治った。触らないで」
手がすぐ引っ込んだ。
「疲れてる?何か食べた?先にどこかで座ろうか」
口を開けたまま、しばらく見てしまった。
ひとつも答えが追いつかない。
彼もこちらを見ていた。やがて、ようやく自分が急ぎすぎたと気づいたように、うつむいて笑った。
「ごめん。ゆっくり話そう」
まず、頭の上を見た。
髪は、ちゃんと生えていた。
「伸びたんだね」
僕の視線を追って、彼は手を上げた。
「伸びたよ」
「よかった」
なぜか、急に笑いたくなった。さっきまで自販機につかまっていただけなのに、次には胸が痛くなるほど笑っていて、鼻の奥までつんとした。体の中から、短い笑いが何度もせり上がってくる。うつむいたまま、熱い金属に手をついていた。
彼は隣で待っていた。
笑い終わってから、買い物袋を反対の手に持ち替えた。
「今はクリスだよ」
「そっか」
鼻をすすり、今度こそ覚えようとした。
「名前、服に書いておいてくれない?次に会ったら先に見るから」
「考えておく」
真面目に言うので、また笑ってしまった。
笑い終わって、聞いた。
「今、何年?」
「二〇〇四年」
彼を見た。
背後ではまだ、機械が小さく唸っていた。日差しに熱くなった鉄板の向こうで、見えない飲み物を何列も冷やしている。
「ここ、戦争はしてないよね?」
「してない」
「縛られて、焼かれたりもしない?」
彼の笑みが、ゆっくり消えた。
「しないよ」
「よかった」
うなずいた。
言葉は、小さく口から落ちた。言ってから、両脚がずっとそれを待っていたのだと気づいた。もう走らなくていい理由を。
「じゃあ、先にちょっと座ってもいい?」
……
彼の家は遠くなかった。
建物の前には水が撒かれていて、コンクリートの半分はまだ濡れ、半分はもう乾いていた。その上を歩くと、靴底から湿った匂いが立ち、植木鉢の土の匂いと混ざった。
水は少しずつ引いていく。
乾いたところと濡れたところの境目は、とてもゆっくり動いた。ようやく僕にも、急がずに眺めていられる速さだった。
階段は涼しかった。
中に入って初めて、外の日差しに目が少し痛くなっていたと気づいた。壁も段も手すりも、初めはよく見えない。彼の後ろを歩きながら、暗がりから輪郭が浮かび上がるのを待った。目を細めなくていい場所に、自分が慣れるのを待った。
ドアが閉まっても、玄関で靴を見下ろしていた。
靴底の溝には砂が詰まっている。足の甲には草で切った細い傷が何本かあり、乾いた汗が、その周りに白っぽい塩を残していた。
彼がスリッパを置いてくれた。
足を入れる。
柔らかな底が足の裏を受け止めて、かえって落ち着かなかった。足指を動かしてみる。その下には砂利も、熱く刺さる砂もなかった。
つけたばかりのエアコンは、まだ十分に冷えていない。彼が日の当たる側のカーテンを閉めると、部屋が少し暗くなった。薄い布は光を遮りきれず、柔らかな薄黄色に変えて床へ落とした。
太陽は、まだそこにいる。
けれど布一枚の向こうから、今だけは僕を直接見つけられずにいた。
「お風呂はこっち」
二歩ほど歩いてから、彼が振り向いた。
「先に水でもいいよ。お腹すいてる? 何か作ろうか。それとも、先に寝たい?」
「クリス」
「うん?」
「まず、ひとつ選んで」
彼が止まった。
僕は指を一本立てた。
「一度にひとつしかできないから」
「わかった」
少し笑って、台所へ向かう。
「じゃあ、先に冷たいものを食べよう」
入口までついていき、冷蔵庫を開けるところを見ていた。
冷凍室はいっぱいだった。透明な容器がいくつも重なり、壁には白い霜がついている。いちばん手前のひとつを引き抜くと、その後ろにもひとつ見えた。中はやっぱり氷だった。
大きいもの、小さいもの。どれも固く凍って、隣り合っている。
あんな小さな扉の中に、夏でも流れていかずに済む水が、こんなに入るなんて。
「お店でも始めるの?」
「何の?」
「かき氷屋さん」
僕の視線を追った彼の口元が、少し動いた。
「始めないよ」
台所の隅には、かき氷器まで置いてあった。
氷を入れ、器を取り、削れてくる白いかけらを受け止める。手慣れていて、ほとんど下を見ずに物を取った。氷が高く積もると、器を少し回して真ん中を盛り上げ、最後に薄緑のシロップをかけた。
もう、匂いがした。
ミント。
運ばれてきた器の匙は、柄がこちらを向き、手を伸ばせばちょうどつかめるところにあった。
「どうして、僕がこれを好きだって知ってるの?」
受け取りながら、また顔を見てしまう。
「この前もそうだった。僕、話したっけ?」
彼はすぐ答えず、器の縁からこぼれそうな氷を戻してくれた。
「いつか、わかるよ」
「また、そうやって」
大きくひと匙すくった。
教会のときより細かい氷は、舌に載せ、軽く押すだけでほどけた。ミントの甘い冷たさが口いっぱいになり、喉の奥へ向かっていく。すぐ飲み込むのは惜しい。でも、いつまでも含んでいられず、先に歯がつんと痛んだ。
肩がすくんだ。
彼はすぐ、器を受け取ろうとするように手を伸ばした。
「平気、平気」
しっかり器を持ち、口の中がいっぱいのまま言った。
「今度は本当だから」
「何が?」
「歯が、しみるの」
彼は僕を見て、少ししてから、うつむいて笑った。
ゆっくり食べながら、もう一度台所を見た。
冷凍室は閉まっていた。
氷は、その中で安心して凍っていられる。太陽がもっと高くなり、誰かの窓辺や屋根や、逃げ場のないあらゆるものを照らしても、まだそこにいられる。
扉を開けて、容器をひとつ出せば、もう一杯作れる。
「普段も、よく食べるの?」
台所を片づけていた手が止まった。
「たまに」
自分の器を見下ろした。
あんなにたくさん、氷がある。
なのに彼は、自分の分さえ作らなかった。
……
シャワーを浴びながら、蛇口を開けては閉め、閉めては開けた。
水は、同じところから出てくる。
好きなだけ、流れ続ける。肩を、膝を、かさぶたになってもまだ痛みを覚えているところを伝っていく。閉めれば止まり、開ければ出る。蛇口を握って何度も試すうち、そこに触れている指を離すのが、少し惜しくなった。
頭を下げ、首の後ろに水を当てた。
汗にまみれた肌が、少しずつ洗われていく。髪が頬に貼りつき、毛先に集まった雫が足の甲へ落ちた。シャンプーのかすかな香りは、泡立てると狭い浴室いっぱいに広がった。
急いで出なくてもいい気がした。
目を閉じて、もう少し立っていた。
やがて彼が、洗って乾かした服をドアの外に置いてくれた。いつもの一式を着直すと、襟が乾いて柔らかく、首の後ろに触れた。そこだけが頼りなく軽かった。長いこと貼りついていた夏を、一枚剝がしてもらったようだった。
浴室から出ると、食事が用意されていた。
薄切りのきゅうりが、冷たい汁に少し浸っている。よそいたてのご飯からは湯気が上がっていた。茶碗を持とうとして指先が熱くなり、慌てて耳たぶをつまむ。
彼が箸を渡してくれた。
ひと口食べただけで、もう少し食べるかと聞かれた。コップの水が半分減ると、すぐ元どおりになった。
目の前のわずかな場所がどんどん整っていくのを見て、とうとう顔を上げた。
「おかずくらい、自分で取れるよ」
「知ってる」
「水も、自分で注げる」
「うん」
彼は手を引っ込めた。
けれど箸を置いた途端、また僕の顔を見る。
次に何が要るのか、待っているみたいだった。
その目が怖いわけではなかった。ただ、自分がどこにいればいいのか、少しわからなかった。彼はちゃんとテーブルの向こうに座っているのに、とても近くに感じた。まるで僕はここで何度も食事をしていて、次の言葉を置く場所まで、もう用意されているみたいに。
でも僕には、その場所がまだ見つからない。
うつむいて、残りのご飯を口へ運んだ。
食後、ソファでひと眠りした。
目を覚ますと、薄い毛布がかかっていた。エアコンの風は弱められ、手の甲に触れると、もう少しひんやりした。
カーテンは閉めきられていなかった。
明るい隙間が一本残り、眠る前より少し先の床を照らしていた。光の中を埃がゆっくり通っていく。細かく、ゆっくりと。この午後には、そんなふうに何もせず過ごせる場所が、いくらでもあるみたいだった。
寝転んだまま、しばらく見ていた。
日差しが、ただの日差しでいられることもあるんだ。
逃げなくていい。どこかに日が当たるまでに、何かを済ませなくてもいい。光が少し進み、もう少し進んでも、僕はまだここで横になっていられる。
クリスは食卓に座っていた。
起きた気配に顔を上げる。
「よく眠れた?」
目をこすりながらうなずいた。
そう聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
彼が氷水を注いでくれた。受け取ると、コップの表面がすぐ白く曇った。指でなぞると、透明な筋が残る。
「近くに図書館、ある?」
「あるよ」
「ちょっと行きたい」
彼は水差しを脇へ寄せた。
「何を探すの?」
「歴史の本かな。古代ギリシャの」
言ってから、自分でも少し心細くなった。
あそこが本当に古代ギリシャだったのかも、わかっていない。映画で見た兜をひとつ知っているだけ。海辺に町があり、兵士が大勢いた。家が軒を連ね、燃え始めると、どこまでがどの家なのかもわからなくなった。
それで、何が調べられるんだろう。
でも、試すくらいはできる。
「あそこで、子供の面倒を見てたんだ。これくらいの子」
腰のあたりに手を止めた。
「僕を噛んだ子」
彼は僕の手を見て、小さくうなずいた。
「お母さんがいなくなって、どうしても探しに帰ろうとするから。止められなくて、一緒に行ってた。そのあとは石の家に住んでて、食べ物を分けてくれる人もいて……」
いろいろなことが一緒に浮かび、口にするとかえってまとまらなかった。まだ小さい子なのだと先に伝えたかったし、谷にはほかの人たちがいて、引き取ってもらえるはずだとも言いたかった。
けれど、裾を握るあの力がずっと残っていた。
最後に出たのは、ひと言だけだった。
「急に、いなくなっちゃったから」
クリスは少し黙った。
「その子のことは、あとで考えよう」
顔を上げた。
「え?」
「お父さんとお母さんに、会いに行こう」
急いで言った。長いこと胸に置いていたものを、ようやく出せたみたいだった。
「今からでも行ける。私も一緒に行く」
僕は何も言わなかった。
エアコンの風がふくらはぎを撫でた。涼しいのに、足指が少しずつ縮まっていった。
「あの子の名前とか、住んでた通りとかを調べたいんじゃないよ。本に載ってるわけないって、それくらいわかってる。ただ、あの町がどうなったのか、あの人たちが――」
「わかってる」
「わかってない」
硬い声が出た。
自分にもわかった。
彼は一瞬止まり、声を和らげた。
「そのことは、ゆっくり調べられる。先に二人に会おう。ね?」
「行かない」
彼が僕を見た。
「ひと目だけでもいい」
「ひと目見て、そのあとは?」
膝の毛布をどけ、畳んだ。うまくいかず、角がどうしても揃わない。もう一度広げ、折り直す。柔らかな布を表に、裏に返しても、ひとつだけ角が余った。
「もう、こんなことになってるんだよ」
「それでも、会えるよ」
「どうやって?」
毛布を握り締めた。
「目の前に立って、娘ですって言うの? 信じなかったら? 信じてくれたら、どうするの?」
顔を上げた。
「それで? 話の途中で、急にいなくなるの。また待たせるの?」
「言わなくてもいい」
「我慢できなくなるよ」
部屋が静まった。
別の理由を見つけるより先に、その言葉が飛び出してしまった。
うつむいて、毛布を脇に置いた。
「今は普通に暮らしてるのに、僕が戻って何になるの。これからこんなことが起きるって知らせて、自分の子を見るたび、いつ消えるんだろうって心配させるの?」
彼は答えなかった。
「そんなもの、背負わせたくない」
「今、全部決めなくていいんだよ」
彼は立ち上がり、テーブルの端の鍵を取った。
「まず行こう。近くまで行くか、話すかは、着いてから決めればいい」
「行かないって言った」
「一緒に来て」
声は、まだ落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、その奥の譲らなさを押し返せなかった。僕の言葉はそこに落ちて、何の跡も残せない。彼を止めるには軽すぎるみたいだった。
「今度こそ、どうしても連れていきたい」
「今度こそって?」
僕も立ち上がった。
膝がテーブルにぶつかり、コップの氷が小さく鳴った。
「いつの話? どうしていつも、何でも知ってるみたいな顔するの?」
鍵を持った手が止まった。
「そんなつもりは――」
「してるよ」
そういう意味ではないのかもしれない。それは、わかっていた。
でも、もう喉元には言葉が溢れていた。止められないし、あまり止めたくもなかった。やっと、通じる相手がいたのだ。どの言葉も我先にと飛び出して、もう体の中へ戻ろうとはしなかった。
「何でも、ゆっくりでいいんだね。あの子がどうなったかなんてどうでもよくて、調べるのはあと。まず親に会いに行って、あとは着いてから決めればいい」
「あの子がどうでもいいとは言ってない」
「そう言ったじゃない!」
急に声が大きくなった。
自分で驚いて、涙まで出てきた。
彼が半歩近づいた。
僕はすぐに下がった。
「君は、ゆっくりでいいよね」
彼はもう動かなかった。
「秋を待てる。夜が涼しくなって、葉っぱが黄色くなって、出かけるときにもう一枚持っていくようになるまで待てる。もっと寒くなれば、暖房をつけて、温かいものを食べられる。夏がつらくても、少し我慢すればいい。どうせ冬が来るんだから」
脚の脇に押しつけた手を、ますます強く握った。かさぶたが引っ張られて、かゆかった。
「薄着で出ちゃっても、取りに帰れる。ご飯を食べきれなくても、続きを食べられる。嫌な日には家に帰って寝ればいい。起きたら、同じベッドで、同じ場所にいる」
「私――」
「僕は、できないんだよ」
急に、息が続かなくなった。
鼻をすすった。ちゃんと伝えようとするほど、声がひどくなる。どの言葉も喉を通るたび、同じ痛いところを擦った。
「さっきまで、あの子に言ってたんだよ。また明日教えるって。明日って。それだけの言葉、言ったときには、何もおかしいと思わなかった」
自分の手を見た。
「それさえ、言っちゃいけないんだ」
クリスはそこに立っていた。
顔を上げる。さっきまで安心できたその顔が、今はこの言葉をぶつけられる、たったひとつの場所になっていた。
「君はいくつでも季節を過ごせる。名前を変えて、住む場所を変えて。いたいところに、いられる」
「私は、ただ――」
「僕は、ずっとここにいるのに!」
涙が落ちた。
拭おうと手を上げると、手のひらのざらついたかさぶたが、頬を少し引っかいた。
「襟がずっと濡れてるんだよ。やっと乾いても、次に目を開けたら、また首に貼りついてる。太陽があんなにまぶしくて、どこに行っても、まず陰を探さなきゃいけない」
声はだんだん小さくなり、最後はほとんど息だけになった。
「この夏、いったいいつになったら終わるの?」
彼が、そっと言った。
「私はここにいる」
「でも、君は僕じゃない」
その言葉を最後に、ようやく止まった。
テーブルの上の氷は小さくなり、水に浮かんでいた。もう互いに触れることもない。
彼の唇が少し動き、また閉じた。
鍵をテーブルの端へ戻す。
しばらくして、言った。
「わかった。今は、やめておこう」
僕は彼を見なかった。
彼も何も聞かなかった。畳み損ねて床に落ちた毛布を拾い、ソファの肘掛けに戻しただけだった。
「下にいるよ」
ドアが、静かに閉まった。
……
泣き終われば、少しはましになると思っていた。
せめて、軽くなるはずだった。
でも部屋が静かになると、あの言葉はまだ中に詰まっていた。ひとつも、口に出したからといって僕から離れてはくれなかった。
顔を洗いに行った。
冷たい水がまぶたに触れ、腫れたところが少し張った。洗面台に手をつき、鏡の中の、鼻先が赤くて髪の乱れた人を見た。そのとき、さっき自分が言ったことを思い出した。
いたいところに、いられる。
彼が泣くところを、僕は見ていた。
お墓の前だった。
あのときは、ひどく泣いていた。まともな慰めも思いつかず、そばにいることしかできなかった。
ちゃんと、見ていたのに。
さっきは、あの言葉を受け止めてくれる人が必要で、彼が死なないことしか思い出さなかった。
鏡についた水が、縁に沿って落ちていく。うつむいて、もう顔は見なかった。
蛇口を閉めた。
水が止まった。
少しして、もう一滴落ちた。洗面台の底に触れ、小さな音を立てた。
外で風鈴が鳴った。
どこかのベランダに掛けてあるのだろう。風は弱く、長いこと待たないと次の音がしない。かすかに触れて、すぐ止まることもあった。鳴っていない間、部屋はずっと静かで、自分の鼻をすする音まで聞こえた。
ゆっくり居間へ戻った。
日が傾き、テーブルの縁を照らしていた。コップの水滴が下まで流れ、小さく天板を濡らしている。紙で拭こうとして指が触れたとき、水がもうあまり冷たくないことに気づいた。
話してばかりで、ひと口も飲んでいなかった。
冷蔵庫が、ときどき小さく音を立てた。
冷凍室には、まだあんなに氷がある。
テーブルを拭いて、もう一度拭いた。水の跡はもうないのに、同じところをティッシュが行き来して、手が止まらなかった。
やがて、テーブルの端の鍵を取り、外へ出た。
クリスは、下の低い塀に座っていた。
塀の半分には、まだ日が当たっていた。彼は木陰にいるのに、靴先だけが明るいところに出ている。枝葉が動くと、光がズボンの裾を少し上り、またゆっくり引いていった。
両手は膝の上に置かれていた。シャツの袖をまくり直したらしく、さっきより整っている。何もせず、向かいの木を眺めていた彼が、足音に振り向いた。
近づいて、しばらく隣に立っていた。
「トーマ……クリス」
「うん」
「ごめんなさい」
彼が顔を上げた。
僕は靴先を見ながら、続きを言った。
「さっき言ったこと……君のせいじゃないのに」
彼は、すぐにいいよとは言わなかった。
そのおかげで、続きを言えた。
「君にも悲しいことがあるの、知ってる。見たこと、あるんだもん。ただ、僕……」
裾を指で揉んでいると、手のひらがかゆくなった。
「ここにいてくれたから、全部、ぶつけちゃった」
彼は少し横へずれた。
僕も座った。
塀には、昼間の温度がまだ残っていた。服越しに脚へ伝わり、石の家の外にあった壁を思い出した。手を膝に置き、指先をそっと布に当てた。もう揉まなかった。
しばらくして、彼が言った。
「あの子のこと、軽く言ってしまった。よくなかった」
僕はうつむいていた。
「お父さんとお母さんのことも。連れていこうとばかり思って、君の話を聞かなかった」
「助けようとしてくれたんだよね」
「急がせすぎた」
うなずいて、それから首を振った。
続けてやったせいで、自分でもわからなくなった。
彼は急かさなかった。
今度こそ、本当に急かさなかった。
座ったまま裾のしわを伸ばし、また握り、何度か繰り返した。靴先に陽が当たり、熱が少しずつ入ってくる。その小さな明るいところを見つめて、ようやく、とても小さな声で言った。
「本当は、会いたい」
彼がこちらを向いた。
「すごく」
また鼻の奥がつんとした。顔を上げると、上の階で誰かが洗濯物を干していた。白い袖が垂れ、風にそっと揺れている。袖口に集まった水滴は、なかなか落ちなかった。
「お母さんに、会いたい」
少しして、慌てて付け足した。
「お父さんにも。先にお母さんって言ったからって、お父さんが大事じゃないわけじゃないから」
クリスが笑った。
ほんの少しだった。僕もつられて少し笑えて、すぐには泣かずに済むくらいの。
「わかってる」
「二人の作ったご飯も食べたい。夏になると、お母さん、麦茶を冷蔵庫に入れてたんだ。大きなポットに。僕、飲むと戻すのが面倒で、いつも怒られてた」
自分の手を見た。
「次にお母さんが注ぐと、もう冷たくなくて。それで、また怒られる」
木の葉を抜けた風が、額の短い髪を持ち上げた。
「あの頃は、そんな小さなことで、よくひと夏じゅう言えるなあって思ってた」
手で目を押さえた。
手のひらの裏の暗闇にも、日差しの色が残っていた。
「もう一回、言ってくれたらいいのに」
隣の人は、何も言わなかった。
「会わないって言ったのは、会ったら帰れなくなるから。二人をつかんで、何も言えないまま、ずっとつかんでるかもしれない。それで、またいなくなる」
目から手を下ろし、膝に置いた。
指が、ゆっくり少し曲がった。
「二人まで、こんなふうに暮らしてほしくない」
「じゃあ、遠くから見よう」
彼が言った。
「まず、ひと目だけ」
彼を見た。
立ち上がらなかった。鍵を取ろうともしなかった。
「行きたくなったら、一緒に行こう」
鼻をすすった。
「一緒に来てくれる?」
「行くよ」
「我慢できなくて走っていったら、止めてね」
彼はしばらく僕を見た。
「わかった」
立ち上がって、ズボンを払った。
払ってから、土はもうとっくに洗い落とされていたことに気づいた。
……
電車に、数駅乗った。
彼は切符を二枚買い、一枚を渡してくれた。薄い紙には機械の中の温かさが残っていた。角をつまみ、彼が小銭をしまうのを待った。
駅には電車に間に合おうと走る人も、うつむいて鞄を探る人もいた。母親と手をつないだ小さな子が、二歩進んではぶら下がり、なかなかちゃんと歩こうとしない。
母親が顔を下げ、何かを言う。
その子はまた、素直にまっすぐ立った。
しばらく見ていた。
小さな手は、まだ母親の手の中にあった。二歩進み、ひと揺れして、また二歩進む。
クリスは何も聞かず、隣に立って、一緒に歩き出すのを待っていた。
車内は涼しかった。
座ると、思わず窓ガラスに手の甲をつけた。外は陽が照っているのに、ガラスは冷房で冷たくなっている。映った自分に指を当てると、その間を、遠くの家々が次々後ろへ流れた。
ときどき木の影が窓をかすめ、顔に落ちて、すぐに去った。
彼は隣に座り、自分の膝に手を置いていた。
もう、何かをしてくれようとはしなかった。
でも僕は、さっきより楽だった。ガラスに手を置いたままでいられたし、ずっと外を見てもよかった。何も言わず、二人を運ぶ車両に任せてもよかった。
駅を出ると、熱気が正面から押し寄せた。
肌に残っていた冷たさが、額から消え、次に首から消え、とうとう袖の中まで暑くなった。道沿いの家には簾が下りている。支柱を伝う朝顔の花は、もう薄く萎れて巻いていた。
道は、僕が教えた。
「こっち」
少し歩いて、また止まった。
「違う」
角の空き地を見た。
そこには店があるはずだった。ガラスの扉に色あせた広告が貼ってあって、子供の頃は通るたび覗き込んだ。先を歩くお母さんが呼び、一度で動かなければ迎えに戻ってきた。
今は、何もない。
柵の向こうに草が生え、背の高い何本かが外へ出て、道端で細い穂を揺らしていた。
しばらく立ってから、あの店はまだできていないのかもしれないと思い出した。
記憶の中では、ガラスの扉はそこにあり、広告も色あせたままだった。まばたきをすると、目の前には日に照らされた空き地しかなかった。
「先、行こう」
クリスがうなずいた。
また少し歩いた。
知っているものと知らないものが、隣り合っていた。同じ道なのに、あの壁は少し低く、この木は少し細い。記憶の中の目印には、もうあるものと、まだないものがあった。
まだないところを、いったん頭の中で空けなければ、今の道が見えなかった。
陰に入ると、自然に足が遅くなる。
陰を出ると、また急ぎたくなる。
彼はずっと、ついてきてくれた。
一度、手の甲に触れてしまい、とっさに手を引いた。彼はこちらを見ただけで、次の道を教えるのを待った。
「前の線路を渡って」
声が、少しかすれていた。
「渡ったら、また……」
最後まで言えなかった。
踏切が鳴った。
黄色と黒の遮断機が下り始めた。もうすぐそこだった。あと数歩で渡れる。思わず足を速めると、クリスが手を出して止めた。
目の前に、遮断機が下りた。
立ち止まった。
「この電車を待とう」
「わかってる」
半歩、下がった。
それでも、向こうを見てしまった。
線路の向こうの小道を、二人が遠ざかっていく。
男の人と、女の人。
二人の間には、ベビーカーがあった。
幌が広がり、中は見えない。女の人は二歩歩いて、腰をかがめた。中の子供の何かを直しているようだった。男の人も止まった。片手を持ち手に置き、もう片方を上げて、手の甲で顔をぬぐった。
足が、それ以上下がらなくなった。
あの仕草。
お父さんは、いつもああやって汗を拭いた。
頬からこすって、鼻の下まで来ると、最後に強くひと拭き。子供の頃は、そんな拭き方は格好悪いと言って、いつもハンカチを渡した。お父さんは受け取って、次にはまた同じように拭いた。
女の人が体を起こし、肩から落ちたバッグの紐を上げた。
その後ろ姿を見つめた。
二本の線路と、照り返す道を挟んで、スカートの色は日差しに薄く洗われていた。
でも僕は、お母さんが歩くとき、左肩が少し下がるのを知っている。
バッグを持っていると、もっとよくわかる。
「見て」
クリスの腕に触れた。
彼も、そちらを見た。
「あの二人……」
続きは、言うのが怖かった。
言葉が舌の奥で止まる。そのまま含んでおいた。まだ口にしなければ、ゆっくり確かめられる気がした。目の前の仕草を、もう一度ずつ見られる気がした。
女の人が、また顔を下げた。
男の人はベビーカーを少し押して、彼女が来るのを待つ。
小道を風が渡り、スカートの裾が脚からふわりと離れ、また戻った。幌の隅も動いた。女の人が手で押さえると、男の人の歩みがさらにゆっくりになった。
どこにでもいる、普通の二人だった。
少し外を歩き、疲れたら涼しいところで休めばいい。太陽がもう少し屋根の後ろへ下がったら、ベビーカーを押して帰る。扉を開け、外の暑さを向こうへ閉め出す。
冷蔵庫には、麦茶があるかもしれない。
お母さんが出して、ポットに触れ、飲んだあと戻さなかったのは誰、と聞く。
二人を見ていたら、叱られたくなった。
遮断機につかまった。
手のひらのかさぶたが、薄い皮膚の向こうで、熱くなった塗装に触れた。
胸も、ふっと熱くなった。
動かなかった。
歩くのが速すぎたのかもしれない。
さっきはあんなに急いだし、電車の涼しさはとっくに消えている。首の後ろから汗が襟へ入り込み、こめかみも濡れていた。この小道は全部、日差しに浸っている。線路の上の空気さえ、かすかに揺れていた。
少しくらい熱くても、普通だ。
線路に細い震えが伝わった。
先に、風が来た。
遠くから押し寄せ、裾をめくる。錆と埃の匂いが少しした。クリスがこちらを向き、手から顔へ目を移した。
言わなければいけないのは、わかっていた。
あそこが、熱くなり始めている。
肌じゃない。
もっと、深いところ。
でも、向こうの二人はまだ歩いていた。
「待って」
とても小さく言った。
クリスの手が重なった。
引き離そうとはしなかった。ただ遮断機から僕の手を外し、握った。
そのとき、電車が踏切へ入ってきた。
先頭車両が、小道を隠した。
続けて、一両。また一両。窓が次々目の前を流れ、ガラスの中では人影や座席や広告、細切れの日差しが揺れた。
背伸びした。
無駄だった。
「すぐ、通り過ぎるよ」
彼に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。
彼の手に少し力がこもった。
僕も強く握り返し、親指をその関節に押し当てた。確かな硬さが、手の中にある。もっと深く握り、一本ずつ指を落ち着かせようとした。
この電車さえ、通り過ぎれば。
もう一度、見られれば。
まだ、よく見えていない。
お母さんと呼ぼうかどうかさえ、決めていない。
なのに熱は、もう指先まで広がっていた。
電車はまだ目の前を走り続け、果てがないほど長かった。クリスのそばへ少し寄って、もっと深く、その手の中へ自分の手を押し込もうとした。
足の下から、硬い道が消えた。
電車が通り過ぎるまで、待てなかった。
まだ、両手で包んでいた。
十本の指は曲がったままなのに、その下が急に空っぽになった。椀の縁も、水もない。手のひらだけが器を包む形を残している。体のほうが少し遅れて、何がなくなったのか、まだ気づいていないようだった。
反射的に前へ手を伸ばした。靴底が硬い地面に引っかかり、よろめく。
そばを車が通り過ぎた。
馬車じゃない。
灰色の車体の後ろに、赤いランプ。排気管から熱が漏れる。車はすぐ角を曲がり、あまりいい匂いではないのに泣きたくなるようなものを、後に残した。
アスファルトの道端に立ち、ゆっくり顔を上げた。
電線。
電柱。
二階の壁にはエアコンの室外機が掛かり、その下へ長く水の跡が延びている。自動販売機の隣には自転車が止まっていた。前籠に中途半端に押し込まれたレジ袋が、風を受けて膨らみ、また柔らかくしぼむ。
薄い白が、籠の中で何度も息をしていた。
塀の向こうから蝉の声が押し寄せた。
今度こそ、本当に蝉だった。
馴染みがありすぎて、かえって泣けてきた。
塀の上から濃い緑の葉が覗き、縁だけが日差しに白く光っている。影は僕のところまでは届かず、塀の際に細く溜まっていた。見えているのに、すぐには逃げ込まなかった。
自販機に、日本語が書いてあった。
読めた。
どの文字も、ちゃんとそこにいてくれた。水があること、お茶があること、右のボタンの飲み物は今ないことまで教えてくれる。「売り切れ」だって知っている字だ。何がないのか、僕にもわかる。想像しなくていい。大勢の口の中から、ようやくわかる言葉が出てくるのを待たなくていい。あんな、わからないままでいたかった言葉を。
飲み物の写真には、水滴が印刷されていた。
ただの写真なのに、見ていると喉の奥まで少し涼しくなる気がした。
近づいて、機械の側面に手を当てた。
日差しを受けた金属は熱かった。
「日本?」
自分にしか聞こえないくらい、小さな声だった。
「日本だよ」
後ろで、誰かが答えた。
振り向いた。
薄い色のシャツ。肘の下までまくった袖。手に提げた買い物袋。数歩離れたところで、男の人が立ち止まっていた。金色の髪は風に少し乱れていたけれど、青い目はもう僕を見ていた。
知っている目だった。
「トーマス?」
彼はすぐには答えなかった。
先に目元がほころんで、それから口元が、どう笑えばいいのかわからないみたいに動いた。近づいてくると、買い物袋が脚に触れ、中のものが小さく鳴った。
「来たんだね」
「僕――」
彼の目が手のひらに止まった。
口元の笑みも、そこで少し止まった。
「……手は、まだ痛い?」
「もう痛くないよ。かゆいだけ」
手のひらを返して見せた。
「ちっちゃい子に噛まれてさ。あんなに小さいくせに、遠慮がないんだから」
彼は口を結び、少し横へ目をそらした。
「きっと、怖かったんだよ」
「僕だって怖かったよ」
「うん」
ひどく小さな返事だった。
また手を見下ろした彼は、なぜか耳のあたりが少し赤かった。伸びてきた指先はかさぶたを避け、そっと手首を支えた。
「見せて」
葉の影が肩の上で揺れた。ずいぶん丁寧に見てくれる。僕が指を少し曲げただけで、すぐ手の力を緩めた。
「こっちも」
指先がこめかみのそばで止まる。
「そこも治った。触らないで」
手がすぐ引っ込んだ。
「疲れてる?何か食べた?先にどこかで座ろうか」
口を開けたまま、しばらく見てしまった。
ひとつも答えが追いつかない。
彼もこちらを見ていた。やがて、ようやく自分が急ぎすぎたと気づいたように、うつむいて笑った。
「ごめん。ゆっくり話そう」
まず、頭の上を見た。
髪は、ちゃんと生えていた。
「伸びたんだね」
僕の視線を追って、彼は手を上げた。
「伸びたよ」
「よかった」
なぜか、急に笑いたくなった。さっきまで自販機につかまっていただけなのに、次には胸が痛くなるほど笑っていて、鼻の奥までつんとした。体の中から、短い笑いが何度もせり上がってくる。うつむいたまま、熱い金属に手をついていた。
彼は隣で待っていた。
笑い終わってから、買い物袋を反対の手に持ち替えた。
「今はクリスだよ」
「そっか」
鼻をすすり、今度こそ覚えようとした。
「名前、服に書いておいてくれない?次に会ったら先に見るから」
「考えておく」
真面目に言うので、また笑ってしまった。
笑い終わって、聞いた。
「今、何年?」
「二〇〇四年」
彼を見た。
背後ではまだ、機械が小さく唸っていた。日差しに熱くなった鉄板の向こうで、見えない飲み物を何列も冷やしている。
「ここ、戦争はしてないよね?」
「してない」
「縛られて、焼かれたりもしない?」
彼の笑みが、ゆっくり消えた。
「しないよ」
「よかった」
うなずいた。
言葉は、小さく口から落ちた。言ってから、両脚がずっとそれを待っていたのだと気づいた。もう走らなくていい理由を。
「じゃあ、先にちょっと座ってもいい?」
……
彼の家は遠くなかった。
建物の前には水が撒かれていて、コンクリートの半分はまだ濡れ、半分はもう乾いていた。その上を歩くと、靴底から湿った匂いが立ち、植木鉢の土の匂いと混ざった。
水は少しずつ引いていく。
乾いたところと濡れたところの境目は、とてもゆっくり動いた。ようやく僕にも、急がずに眺めていられる速さだった。
階段は涼しかった。
中に入って初めて、外の日差しに目が少し痛くなっていたと気づいた。壁も段も手すりも、初めはよく見えない。彼の後ろを歩きながら、暗がりから輪郭が浮かび上がるのを待った。目を細めなくていい場所に、自分が慣れるのを待った。
ドアが閉まっても、玄関で靴を見下ろしていた。
靴底の溝には砂が詰まっている。足の甲には草で切った細い傷が何本かあり、乾いた汗が、その周りに白っぽい塩を残していた。
彼がスリッパを置いてくれた。
足を入れる。
柔らかな底が足の裏を受け止めて、かえって落ち着かなかった。足指を動かしてみる。その下には砂利も、熱く刺さる砂もなかった。
つけたばかりのエアコンは、まだ十分に冷えていない。彼が日の当たる側のカーテンを閉めると、部屋が少し暗くなった。薄い布は光を遮りきれず、柔らかな薄黄色に変えて床へ落とした。
太陽は、まだそこにいる。
けれど布一枚の向こうから、今だけは僕を直接見つけられずにいた。
「お風呂はこっち」
二歩ほど歩いてから、彼が振り向いた。
「先に水でもいいよ。お腹すいてる? 何か作ろうか。それとも、先に寝たい?」
「クリス」
「うん?」
「まず、ひとつ選んで」
彼が止まった。
僕は指を一本立てた。
「一度にひとつしかできないから」
「わかった」
少し笑って、台所へ向かう。
「じゃあ、先に冷たいものを食べよう」
入口までついていき、冷蔵庫を開けるところを見ていた。
冷凍室はいっぱいだった。透明な容器がいくつも重なり、壁には白い霜がついている。いちばん手前のひとつを引き抜くと、その後ろにもひとつ見えた。中はやっぱり氷だった。
大きいもの、小さいもの。どれも固く凍って、隣り合っている。
あんな小さな扉の中に、夏でも流れていかずに済む水が、こんなに入るなんて。
「お店でも始めるの?」
「何の?」
「かき氷屋さん」
僕の視線を追った彼の口元が、少し動いた。
「始めないよ」
台所の隅には、かき氷器まで置いてあった。
氷を入れ、器を取り、削れてくる白いかけらを受け止める。手慣れていて、ほとんど下を見ずに物を取った。氷が高く積もると、器を少し回して真ん中を盛り上げ、最後に薄緑のシロップをかけた。
もう、匂いがした。
ミント。
運ばれてきた器の匙は、柄がこちらを向き、手を伸ばせばちょうどつかめるところにあった。
「どうして、僕がこれを好きだって知ってるの?」
受け取りながら、また顔を見てしまう。
「この前もそうだった。僕、話したっけ?」
彼はすぐ答えず、器の縁からこぼれそうな氷を戻してくれた。
「いつか、わかるよ」
「また、そうやって」
大きくひと匙すくった。
教会のときより細かい氷は、舌に載せ、軽く押すだけでほどけた。ミントの甘い冷たさが口いっぱいになり、喉の奥へ向かっていく。すぐ飲み込むのは惜しい。でも、いつまでも含んでいられず、先に歯がつんと痛んだ。
肩がすくんだ。
彼はすぐ、器を受け取ろうとするように手を伸ばした。
「平気、平気」
しっかり器を持ち、口の中がいっぱいのまま言った。
「今度は本当だから」
「何が?」
「歯が、しみるの」
彼は僕を見て、少ししてから、うつむいて笑った。
ゆっくり食べながら、もう一度台所を見た。
冷凍室は閉まっていた。
氷は、その中で安心して凍っていられる。太陽がもっと高くなり、誰かの窓辺や屋根や、逃げ場のないあらゆるものを照らしても、まだそこにいられる。
扉を開けて、容器をひとつ出せば、もう一杯作れる。
「普段も、よく食べるの?」
台所を片づけていた手が止まった。
「たまに」
自分の器を見下ろした。
あんなにたくさん、氷がある。
なのに彼は、自分の分さえ作らなかった。
……
シャワーを浴びながら、蛇口を開けては閉め、閉めては開けた。
水は、同じところから出てくる。
好きなだけ、流れ続ける。肩を、膝を、かさぶたになってもまだ痛みを覚えているところを伝っていく。閉めれば止まり、開ければ出る。蛇口を握って何度も試すうち、そこに触れている指を離すのが、少し惜しくなった。
頭を下げ、首の後ろに水を当てた。
汗にまみれた肌が、少しずつ洗われていく。髪が頬に貼りつき、毛先に集まった雫が足の甲へ落ちた。シャンプーのかすかな香りは、泡立てると狭い浴室いっぱいに広がった。
急いで出なくてもいい気がした。
目を閉じて、もう少し立っていた。
やがて彼が、洗って乾かした服をドアの外に置いてくれた。いつもの一式を着直すと、襟が乾いて柔らかく、首の後ろに触れた。そこだけが頼りなく軽かった。長いこと貼りついていた夏を、一枚剝がしてもらったようだった。
浴室から出ると、食事が用意されていた。
薄切りのきゅうりが、冷たい汁に少し浸っている。よそいたてのご飯からは湯気が上がっていた。茶碗を持とうとして指先が熱くなり、慌てて耳たぶをつまむ。
彼が箸を渡してくれた。
ひと口食べただけで、もう少し食べるかと聞かれた。コップの水が半分減ると、すぐ元どおりになった。
目の前のわずかな場所がどんどん整っていくのを見て、とうとう顔を上げた。
「おかずくらい、自分で取れるよ」
「知ってる」
「水も、自分で注げる」
「うん」
彼は手を引っ込めた。
けれど箸を置いた途端、また僕の顔を見る。
次に何が要るのか、待っているみたいだった。
その目が怖いわけではなかった。ただ、自分がどこにいればいいのか、少しわからなかった。彼はちゃんとテーブルの向こうに座っているのに、とても近くに感じた。まるで僕はここで何度も食事をしていて、次の言葉を置く場所まで、もう用意されているみたいに。
でも僕には、その場所がまだ見つからない。
うつむいて、残りのご飯を口へ運んだ。
食後、ソファでひと眠りした。
目を覚ますと、薄い毛布がかかっていた。エアコンの風は弱められ、手の甲に触れると、もう少しひんやりした。
カーテンは閉めきられていなかった。
明るい隙間が一本残り、眠る前より少し先の床を照らしていた。光の中を埃がゆっくり通っていく。細かく、ゆっくりと。この午後には、そんなふうに何もせず過ごせる場所が、いくらでもあるみたいだった。
寝転んだまま、しばらく見ていた。
日差しが、ただの日差しでいられることもあるんだ。
逃げなくていい。どこかに日が当たるまでに、何かを済ませなくてもいい。光が少し進み、もう少し進んでも、僕はまだここで横になっていられる。
クリスは食卓に座っていた。
起きた気配に顔を上げる。
「よく眠れた?」
目をこすりながらうなずいた。
そう聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
彼が氷水を注いでくれた。受け取ると、コップの表面がすぐ白く曇った。指でなぞると、透明な筋が残る。
「近くに図書館、ある?」
「あるよ」
「ちょっと行きたい」
彼は水差しを脇へ寄せた。
「何を探すの?」
「歴史の本かな。古代ギリシャの」
言ってから、自分でも少し心細くなった。
あそこが本当に古代ギリシャだったのかも、わかっていない。映画で見た兜をひとつ知っているだけ。海辺に町があり、兵士が大勢いた。家が軒を連ね、燃え始めると、どこまでがどの家なのかもわからなくなった。
それで、何が調べられるんだろう。
でも、試すくらいはできる。
「あそこで、子供の面倒を見てたんだ。これくらいの子」
腰のあたりに手を止めた。
「僕を噛んだ子」
彼は僕の手を見て、小さくうなずいた。
「お母さんがいなくなって、どうしても探しに帰ろうとするから。止められなくて、一緒に行ってた。そのあとは石の家に住んでて、食べ物を分けてくれる人もいて……」
いろいろなことが一緒に浮かび、口にするとかえってまとまらなかった。まだ小さい子なのだと先に伝えたかったし、谷にはほかの人たちがいて、引き取ってもらえるはずだとも言いたかった。
けれど、裾を握るあの力がずっと残っていた。
最後に出たのは、ひと言だけだった。
「急に、いなくなっちゃったから」
クリスは少し黙った。
「その子のことは、あとで考えよう」
顔を上げた。
「え?」
「お父さんとお母さんに、会いに行こう」
急いで言った。長いこと胸に置いていたものを、ようやく出せたみたいだった。
「今からでも行ける。私も一緒に行く」
僕は何も言わなかった。
エアコンの風がふくらはぎを撫でた。涼しいのに、足指が少しずつ縮まっていった。
「あの子の名前とか、住んでた通りとかを調べたいんじゃないよ。本に載ってるわけないって、それくらいわかってる。ただ、あの町がどうなったのか、あの人たちが――」
「わかってる」
「わかってない」
硬い声が出た。
自分にもわかった。
彼は一瞬止まり、声を和らげた。
「そのことは、ゆっくり調べられる。先に二人に会おう。ね?」
「行かない」
彼が僕を見た。
「ひと目だけでもいい」
「ひと目見て、そのあとは?」
膝の毛布をどけ、畳んだ。うまくいかず、角がどうしても揃わない。もう一度広げ、折り直す。柔らかな布を表に、裏に返しても、ひとつだけ角が余った。
「もう、こんなことになってるんだよ」
「それでも、会えるよ」
「どうやって?」
毛布を握り締めた。
「目の前に立って、娘ですって言うの? 信じなかったら? 信じてくれたら、どうするの?」
顔を上げた。
「それで? 話の途中で、急にいなくなるの。また待たせるの?」
「言わなくてもいい」
「我慢できなくなるよ」
部屋が静まった。
別の理由を見つけるより先に、その言葉が飛び出してしまった。
うつむいて、毛布を脇に置いた。
「今は普通に暮らしてるのに、僕が戻って何になるの。これからこんなことが起きるって知らせて、自分の子を見るたび、いつ消えるんだろうって心配させるの?」
彼は答えなかった。
「そんなもの、背負わせたくない」
「今、全部決めなくていいんだよ」
彼は立ち上がり、テーブルの端の鍵を取った。
「まず行こう。近くまで行くか、話すかは、着いてから決めればいい」
「行かないって言った」
「一緒に来て」
声は、まだ落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、その奥の譲らなさを押し返せなかった。僕の言葉はそこに落ちて、何の跡も残せない。彼を止めるには軽すぎるみたいだった。
「今度こそ、どうしても連れていきたい」
「今度こそって?」
僕も立ち上がった。
膝がテーブルにぶつかり、コップの氷が小さく鳴った。
「いつの話? どうしていつも、何でも知ってるみたいな顔するの?」
鍵を持った手が止まった。
「そんなつもりは――」
「してるよ」
そういう意味ではないのかもしれない。それは、わかっていた。
でも、もう喉元には言葉が溢れていた。止められないし、あまり止めたくもなかった。やっと、通じる相手がいたのだ。どの言葉も我先にと飛び出して、もう体の中へ戻ろうとはしなかった。
「何でも、ゆっくりでいいんだね。あの子がどうなったかなんてどうでもよくて、調べるのはあと。まず親に会いに行って、あとは着いてから決めればいい」
「あの子がどうでもいいとは言ってない」
「そう言ったじゃない!」
急に声が大きくなった。
自分で驚いて、涙まで出てきた。
彼が半歩近づいた。
僕はすぐに下がった。
「君は、ゆっくりでいいよね」
彼はもう動かなかった。
「秋を待てる。夜が涼しくなって、葉っぱが黄色くなって、出かけるときにもう一枚持っていくようになるまで待てる。もっと寒くなれば、暖房をつけて、温かいものを食べられる。夏がつらくても、少し我慢すればいい。どうせ冬が来るんだから」
脚の脇に押しつけた手を、ますます強く握った。かさぶたが引っ張られて、かゆかった。
「薄着で出ちゃっても、取りに帰れる。ご飯を食べきれなくても、続きを食べられる。嫌な日には家に帰って寝ればいい。起きたら、同じベッドで、同じ場所にいる」
「私――」
「僕は、できないんだよ」
急に、息が続かなくなった。
鼻をすすった。ちゃんと伝えようとするほど、声がひどくなる。どの言葉も喉を通るたび、同じ痛いところを擦った。
「さっきまで、あの子に言ってたんだよ。また明日教えるって。明日って。それだけの言葉、言ったときには、何もおかしいと思わなかった」
自分の手を見た。
「それさえ、言っちゃいけないんだ」
クリスはそこに立っていた。
顔を上げる。さっきまで安心できたその顔が、今はこの言葉をぶつけられる、たったひとつの場所になっていた。
「君はいくつでも季節を過ごせる。名前を変えて、住む場所を変えて。いたいところに、いられる」
「私は、ただ――」
「僕は、ずっとここにいるのに!」
涙が落ちた。
拭おうと手を上げると、手のひらのざらついたかさぶたが、頬を少し引っかいた。
「襟がずっと濡れてるんだよ。やっと乾いても、次に目を開けたら、また首に貼りついてる。太陽があんなにまぶしくて、どこに行っても、まず陰を探さなきゃいけない」
声はだんだん小さくなり、最後はほとんど息だけになった。
「この夏、いったいいつになったら終わるの?」
彼が、そっと言った。
「私はここにいる」
「でも、君は僕じゃない」
その言葉を最後に、ようやく止まった。
テーブルの上の氷は小さくなり、水に浮かんでいた。もう互いに触れることもない。
彼の唇が少し動き、また閉じた。
鍵をテーブルの端へ戻す。
しばらくして、言った。
「わかった。今は、やめておこう」
僕は彼を見なかった。
彼も何も聞かなかった。畳み損ねて床に落ちた毛布を拾い、ソファの肘掛けに戻しただけだった。
「下にいるよ」
ドアが、静かに閉まった。
……
泣き終われば、少しはましになると思っていた。
せめて、軽くなるはずだった。
でも部屋が静かになると、あの言葉はまだ中に詰まっていた。ひとつも、口に出したからといって僕から離れてはくれなかった。
顔を洗いに行った。
冷たい水がまぶたに触れ、腫れたところが少し張った。洗面台に手をつき、鏡の中の、鼻先が赤くて髪の乱れた人を見た。そのとき、さっき自分が言ったことを思い出した。
いたいところに、いられる。
彼が泣くところを、僕は見ていた。
お墓の前だった。
あのときは、ひどく泣いていた。まともな慰めも思いつかず、そばにいることしかできなかった。
ちゃんと、見ていたのに。
さっきは、あの言葉を受け止めてくれる人が必要で、彼が死なないことしか思い出さなかった。
鏡についた水が、縁に沿って落ちていく。うつむいて、もう顔は見なかった。
蛇口を閉めた。
水が止まった。
少しして、もう一滴落ちた。洗面台の底に触れ、小さな音を立てた。
外で風鈴が鳴った。
どこかのベランダに掛けてあるのだろう。風は弱く、長いこと待たないと次の音がしない。かすかに触れて、すぐ止まることもあった。鳴っていない間、部屋はずっと静かで、自分の鼻をすする音まで聞こえた。
ゆっくり居間へ戻った。
日が傾き、テーブルの縁を照らしていた。コップの水滴が下まで流れ、小さく天板を濡らしている。紙で拭こうとして指が触れたとき、水がもうあまり冷たくないことに気づいた。
話してばかりで、ひと口も飲んでいなかった。
冷蔵庫が、ときどき小さく音を立てた。
冷凍室には、まだあんなに氷がある。
テーブルを拭いて、もう一度拭いた。水の跡はもうないのに、同じところをティッシュが行き来して、手が止まらなかった。
やがて、テーブルの端の鍵を取り、外へ出た。
クリスは、下の低い塀に座っていた。
塀の半分には、まだ日が当たっていた。彼は木陰にいるのに、靴先だけが明るいところに出ている。枝葉が動くと、光がズボンの裾を少し上り、またゆっくり引いていった。
両手は膝の上に置かれていた。シャツの袖をまくり直したらしく、さっきより整っている。何もせず、向かいの木を眺めていた彼が、足音に振り向いた。
近づいて、しばらく隣に立っていた。
「トーマ……クリス」
「うん」
「ごめんなさい」
彼が顔を上げた。
僕は靴先を見ながら、続きを言った。
「さっき言ったこと……君のせいじゃないのに」
彼は、すぐにいいよとは言わなかった。
そのおかげで、続きを言えた。
「君にも悲しいことがあるの、知ってる。見たこと、あるんだもん。ただ、僕……」
裾を指で揉んでいると、手のひらがかゆくなった。
「ここにいてくれたから、全部、ぶつけちゃった」
彼は少し横へずれた。
僕も座った。
塀には、昼間の温度がまだ残っていた。服越しに脚へ伝わり、石の家の外にあった壁を思い出した。手を膝に置き、指先をそっと布に当てた。もう揉まなかった。
しばらくして、彼が言った。
「あの子のこと、軽く言ってしまった。よくなかった」
僕はうつむいていた。
「お父さんとお母さんのことも。連れていこうとばかり思って、君の話を聞かなかった」
「助けようとしてくれたんだよね」
「急がせすぎた」
うなずいて、それから首を振った。
続けてやったせいで、自分でもわからなくなった。
彼は急かさなかった。
今度こそ、本当に急かさなかった。
座ったまま裾のしわを伸ばし、また握り、何度か繰り返した。靴先に陽が当たり、熱が少しずつ入ってくる。その小さな明るいところを見つめて、ようやく、とても小さな声で言った。
「本当は、会いたい」
彼がこちらを向いた。
「すごく」
また鼻の奥がつんとした。顔を上げると、上の階で誰かが洗濯物を干していた。白い袖が垂れ、風にそっと揺れている。袖口に集まった水滴は、なかなか落ちなかった。
「お母さんに、会いたい」
少しして、慌てて付け足した。
「お父さんにも。先にお母さんって言ったからって、お父さんが大事じゃないわけじゃないから」
クリスが笑った。
ほんの少しだった。僕もつられて少し笑えて、すぐには泣かずに済むくらいの。
「わかってる」
「二人の作ったご飯も食べたい。夏になると、お母さん、麦茶を冷蔵庫に入れてたんだ。大きなポットに。僕、飲むと戻すのが面倒で、いつも怒られてた」
自分の手を見た。
「次にお母さんが注ぐと、もう冷たくなくて。それで、また怒られる」
木の葉を抜けた風が、額の短い髪を持ち上げた。
「あの頃は、そんな小さなことで、よくひと夏じゅう言えるなあって思ってた」
手で目を押さえた。
手のひらの裏の暗闇にも、日差しの色が残っていた。
「もう一回、言ってくれたらいいのに」
隣の人は、何も言わなかった。
「会わないって言ったのは、会ったら帰れなくなるから。二人をつかんで、何も言えないまま、ずっとつかんでるかもしれない。それで、またいなくなる」
目から手を下ろし、膝に置いた。
指が、ゆっくり少し曲がった。
「二人まで、こんなふうに暮らしてほしくない」
「じゃあ、遠くから見よう」
彼が言った。
「まず、ひと目だけ」
彼を見た。
立ち上がらなかった。鍵を取ろうともしなかった。
「行きたくなったら、一緒に行こう」
鼻をすすった。
「一緒に来てくれる?」
「行くよ」
「我慢できなくて走っていったら、止めてね」
彼はしばらく僕を見た。
「わかった」
立ち上がって、ズボンを払った。
払ってから、土はもうとっくに洗い落とされていたことに気づいた。
……
電車に、数駅乗った。
彼は切符を二枚買い、一枚を渡してくれた。薄い紙には機械の中の温かさが残っていた。角をつまみ、彼が小銭をしまうのを待った。
駅には電車に間に合おうと走る人も、うつむいて鞄を探る人もいた。母親と手をつないだ小さな子が、二歩進んではぶら下がり、なかなかちゃんと歩こうとしない。
母親が顔を下げ、何かを言う。
その子はまた、素直にまっすぐ立った。
しばらく見ていた。
小さな手は、まだ母親の手の中にあった。二歩進み、ひと揺れして、また二歩進む。
クリスは何も聞かず、隣に立って、一緒に歩き出すのを待っていた。
車内は涼しかった。
座ると、思わず窓ガラスに手の甲をつけた。外は陽が照っているのに、ガラスは冷房で冷たくなっている。映った自分に指を当てると、その間を、遠くの家々が次々後ろへ流れた。
ときどき木の影が窓をかすめ、顔に落ちて、すぐに去った。
彼は隣に座り、自分の膝に手を置いていた。
もう、何かをしてくれようとはしなかった。
でも僕は、さっきより楽だった。ガラスに手を置いたままでいられたし、ずっと外を見てもよかった。何も言わず、二人を運ぶ車両に任せてもよかった。
駅を出ると、熱気が正面から押し寄せた。
肌に残っていた冷たさが、額から消え、次に首から消え、とうとう袖の中まで暑くなった。道沿いの家には簾が下りている。支柱を伝う朝顔の花は、もう薄く萎れて巻いていた。
道は、僕が教えた。
「こっち」
少し歩いて、また止まった。
「違う」
角の空き地を見た。
そこには店があるはずだった。ガラスの扉に色あせた広告が貼ってあって、子供の頃は通るたび覗き込んだ。先を歩くお母さんが呼び、一度で動かなければ迎えに戻ってきた。
今は、何もない。
柵の向こうに草が生え、背の高い何本かが外へ出て、道端で細い穂を揺らしていた。
しばらく立ってから、あの店はまだできていないのかもしれないと思い出した。
記憶の中では、ガラスの扉はそこにあり、広告も色あせたままだった。まばたきをすると、目の前には日に照らされた空き地しかなかった。
「先、行こう」
クリスがうなずいた。
また少し歩いた。
知っているものと知らないものが、隣り合っていた。同じ道なのに、あの壁は少し低く、この木は少し細い。記憶の中の目印には、もうあるものと、まだないものがあった。
まだないところを、いったん頭の中で空けなければ、今の道が見えなかった。
陰に入ると、自然に足が遅くなる。
陰を出ると、また急ぎたくなる。
彼はずっと、ついてきてくれた。
一度、手の甲に触れてしまい、とっさに手を引いた。彼はこちらを見ただけで、次の道を教えるのを待った。
「前の線路を渡って」
声が、少しかすれていた。
「渡ったら、また……」
最後まで言えなかった。
踏切が鳴った。
黄色と黒の遮断機が下り始めた。もうすぐそこだった。あと数歩で渡れる。思わず足を速めると、クリスが手を出して止めた。
目の前に、遮断機が下りた。
立ち止まった。
「この電車を待とう」
「わかってる」
半歩、下がった。
それでも、向こうを見てしまった。
線路の向こうの小道を、二人が遠ざかっていく。
男の人と、女の人。
二人の間には、ベビーカーがあった。
幌が広がり、中は見えない。女の人は二歩歩いて、腰をかがめた。中の子供の何かを直しているようだった。男の人も止まった。片手を持ち手に置き、もう片方を上げて、手の甲で顔をぬぐった。
足が、それ以上下がらなくなった。
あの仕草。
お父さんは、いつもああやって汗を拭いた。
頬からこすって、鼻の下まで来ると、最後に強くひと拭き。子供の頃は、そんな拭き方は格好悪いと言って、いつもハンカチを渡した。お父さんは受け取って、次にはまた同じように拭いた。
女の人が体を起こし、肩から落ちたバッグの紐を上げた。
その後ろ姿を見つめた。
二本の線路と、照り返す道を挟んで、スカートの色は日差しに薄く洗われていた。
でも僕は、お母さんが歩くとき、左肩が少し下がるのを知っている。
バッグを持っていると、もっとよくわかる。
「見て」
クリスの腕に触れた。
彼も、そちらを見た。
「あの二人……」
続きは、言うのが怖かった。
言葉が舌の奥で止まる。そのまま含んでおいた。まだ口にしなければ、ゆっくり確かめられる気がした。目の前の仕草を、もう一度ずつ見られる気がした。
女の人が、また顔を下げた。
男の人はベビーカーを少し押して、彼女が来るのを待つ。
小道を風が渡り、スカートの裾が脚からふわりと離れ、また戻った。幌の隅も動いた。女の人が手で押さえると、男の人の歩みがさらにゆっくりになった。
どこにでもいる、普通の二人だった。
少し外を歩き、疲れたら涼しいところで休めばいい。太陽がもう少し屋根の後ろへ下がったら、ベビーカーを押して帰る。扉を開け、外の暑さを向こうへ閉め出す。
冷蔵庫には、麦茶があるかもしれない。
お母さんが出して、ポットに触れ、飲んだあと戻さなかったのは誰、と聞く。
二人を見ていたら、叱られたくなった。
遮断機につかまった。
手のひらのかさぶたが、薄い皮膚の向こうで、熱くなった塗装に触れた。
胸も、ふっと熱くなった。
動かなかった。
歩くのが速すぎたのかもしれない。
さっきはあんなに急いだし、電車の涼しさはとっくに消えている。首の後ろから汗が襟へ入り込み、こめかみも濡れていた。この小道は全部、日差しに浸っている。線路の上の空気さえ、かすかに揺れていた。
少しくらい熱くても、普通だ。
線路に細い震えが伝わった。
先に、風が来た。
遠くから押し寄せ、裾をめくる。錆と埃の匂いが少しした。クリスがこちらを向き、手から顔へ目を移した。
言わなければいけないのは、わかっていた。
あそこが、熱くなり始めている。
肌じゃない。
もっと、深いところ。
でも、向こうの二人はまだ歩いていた。
「待って」
とても小さく言った。
クリスの手が重なった。
引き離そうとはしなかった。ただ遮断機から僕の手を外し、握った。
そのとき、電車が踏切へ入ってきた。
先頭車両が、小道を隠した。
続けて、一両。また一両。窓が次々目の前を流れ、ガラスの中では人影や座席や広告、細切れの日差しが揺れた。
背伸びした。
無駄だった。
「すぐ、通り過ぎるよ」
彼に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。
彼の手に少し力がこもった。
僕も強く握り返し、親指をその関節に押し当てた。確かな硬さが、手の中にある。もっと深く握り、一本ずつ指を落ち着かせようとした。
この電車さえ、通り過ぎれば。
もう一度、見られれば。
まだ、よく見えていない。
お母さんと呼ぼうかどうかさえ、決めていない。
なのに熱は、もう指先まで広がっていた。
電車はまだ目の前を走り続け、果てがないほど長かった。クリスのそばへ少し寄って、もっと深く、その手の中へ自分の手を押し込もうとした。
足の下から、硬い道が消えた。
電車が通り過ぎるまで、待てなかった。
