「なあ、ライズ。お前、昨日はストレア嬢と何をしていたんだ?」
王立アルセリア学院に登校した僕を待ち受けていたのは、親友であるカイル・ベルンハルトのそんな質問だった。
「……おはよう、カイル」
「おう、おはよう。それで?」
「それで、とは?」
「とぼけるなよ。昨日、温室でストレア嬢と手を繋いでいたって噂になってるぞ」
「……え?」
思わず足を止めた。
手を繋いでいた?
確かに、昨日はストレア様と温室で魔法の練習をしていた。
僕が作り出した不格好な氷の塊を見て、彼女が声を上げて笑ってくれたこと。
そして、氷華術を教えるために、僕の手へそっと自分の手を重ねてくださったこと。
そのどちらも鮮明に覚えている。
けれど。
「……あれは、魔法を教えていただいていただけだよ」
「へえ?」
カイルがにやりと笑った。
「魔法を教わるだけで、あんなに仲睦まじい雰囲気になるものなのか?」
「……誰から聞いたんだい?」
「温室の近くを通りかかった生徒だとさ。氷華の姫君が男と手を取り合って笑っていたって、随分驚いていたらしいぜ」
「…………」
僕は思わず額に手を当てた。
……なるほど。
どうやら、思っていた以上に目立っていたらしい。
「しかも相手は、王太子殿下の目の前で求婚した伯爵家の次男だろ? そりゃ噂にもなるさ」
「……そうだね」
僕自身が何を言われようと、別に構わない。
けれど、ストレア様は違う。
彼女はつい先日、王太子殿下との婚約を正式に解消したばかりだ。
そんな彼女が別の男性と親しくしていると知られれば、心ない噂を立てる人間もいるだろう。
「……少し、軽率だったかな」
僕が呟くと、カイルは意外そうに眉を上げた。
「なんだよ。今さら後悔してるのか?」
「ストレア様に迷惑をかけてしまったかもしれないからね」
「……まあ、その心配はわかるけどさ」
カイルは腕を組み、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、お前が一人で勝手に悪いことをしたって決めつけるのも違うんじゃないか?」
「……どういうこと?」
「ストレア嬢だって、自分の意思でお前と会ってるんだろ?」
その言葉に、僕は瞬きをした。
「だったら、まず本人に聞いてみろよ。噂が嫌なのか、それとも気にしていないのか」
「……そうだね」
確かに、その通りだった。
彼女を大切にしたいと思うあまり、肝心の本人の気持ちを置き去りにしてはいけない。
僕は小さく頷いた。
「ありがとう、カイル」
「おう。まあ、礼なら今度飯でも奢ってくれ」
「……ちゃっかりしているね」
「親友だからな」
そう言って笑うカイルに、僕も思わず苦笑した。
昼休み。
僕は学院の中庭へ向かっていた。
ストレア様を見かけたという話を聞いたからだ。
中庭には小さな噴水があり、その周囲には学生たちが談笑するための長椅子が設置されている。
そんな場所の一角で、見覚えのある銀白色の髪が揺れていた。
「……ストレア様」
声をかけようとして、僕は足を止めた。
彼女の周囲に、三人の令嬢が立っていたからだ。
「ねえ、シュタインベル様。お聞きしましたわよ?」
「……何を、でしょうか」
「昨日、エールリッヒ伯爵家のご子息と温室で親しくなさっていたそうですわね」
一人の令嬢が、口元を扇で隠しながら笑った。
「王太子殿下との婚約が解消されて、まだ日も浅いというのに。随分と切り替えがお早いこと」
「本当に。さすがは氷華の姫君ですわね」
……ああ。
やっぱり、こういうことになるのか。
僕は思わず眉をひそめた。
けれど、彼女たちの前へ出ようとした、そのときだった。
「……お言葉ですが」
ストレア様が、静かに口を開いた。
「昨日、私がライズ様に氷魔法をお教えしていたことは事実です」
「まあ。お認めになるのね?」
「はい。隠すようなことではございませんので」
その声音は、いつもと変わらず穏やかだった。
「それに、殿下との婚約はすでに正式に解消されております。学院で友人と交流することについて、何か問題がございますでしょうか」
「そ、それは……」
「もちろん、誤解を招くような振る舞いには気をつけるべきでしょう。ですが、事実と異なる噂を広めることも、淑女として褒められた行いではないと存じます」
「…………っ!」
令嬢たちが言葉に詰まる。
……すごいな。
僕は思わず感心してしまった。
ストレア様は声を荒らげることなく、相手を侮辱することもなく、ただ冷静に自分の考えを伝えている。
これが、彼女の強さなのだろう。
「……では、私たちはこれで!」
令嬢たちは気まずそうに立ち去っていった。
その後ろ姿を見送ってから、僕はようやくストレア様へ近づいた。
「こんにちは、ストレア様」
「……あっ、ライズ様!」
こちらに気づいた彼女が、ぱっと表情を明るくする。
その反応が嬉しくて、僕も自然と微笑んでしまった。
「先ほどのお話、少し聞こえてしまいました」
「……そう、でしたか」
ストレア様はわずかに眉を下げた。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね」
「いえ。とても立派だったと思います」
「……ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
けれど、その表情にはどこか迷いが残っているように見えた。
「……あの、ライズ様」
「はい?」
「昨日のことで、何かご迷惑をおかけしておりませんか?」
僕は思わず瞬きをした。
……まさか。
彼女も、同じことを考えていたのか。
「実は、僕も同じことを聞こうと思っていたんです」
「……え?」
「ストレア様に、迷惑をかけてしまったんじゃないかって」
そう告げると、彼女は驚いたように目を見開いた。
そして、ふるふると首を横に振る。
「そのようなことはございません!」
思っていたよりも大きな声だった。
ストレア様自身も驚いたらしく、慌てて口元に手を添える。
「……し、失礼いたしました」
「いえ」
「ですが、本当に迷惑などとは思っておりません。昨日は、私もとても楽しかったですから」
そう言って、彼女は少しだけ頬を染めた。
「……それに」
「それに?」
「ライズ様とご一緒していたことを、恥ずかしいことだとは思いたくありません」
「…………」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
……ああ。
本当に、この人は。
自分がどう見られるかを気にしているのに、それでも僕との時間を否定しようとはしない。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとうございます、ストレア様」
「い、いえ。当然のことを申し上げただけですから」
彼女は照れくさそうに視線を逸らした。
そんな姿を見ていると、つい微笑んでしまう。
「それなら、これからもご一緒していただけますか?」
「……もちろんです」
「よかった」
僕はほっと息を吐いた。
「実は、もう温室へ誘ってはいけないのかと、少し心配していたんです」
「そ、そのようなことは!」
ストレア様が慌てて顔を上げる。
「私も、またご一緒したいと思っておりましたので……!」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
そして、みるみる頬を赤く染める。
「……あ」
「……ストレア様?」
「い、今のは、その……!」
困ったように視線を泳がせる彼女。
けれど、しばらくしてから、小さく息を吐いた。
「……いえ。取り消しません」
「え?」
「私も、またライズ様とお話ししたいと思っています」
今度は、はっきりとした声だった。
その言葉があまりにも嬉しくて、僕は一瞬だけ返事を忘れてしまった。
「……ライズ様?」
「……ああ、すみません」
慌てて笑みを浮かべる。
「嬉しくて、少し驚いてしまいました」
「……そう、ですか」
「はい。とても嬉しいです」
ストレア様は恥ずかしそうに俯いた。
けれど、その口元には小さな微笑みが浮かんでいた。
そのとき。
「あら、ストレア。こちらにいらしたのね」
背後から明るい声が聞こえた。
振り返ると、栗色の髪を肩のあたりで揃えた少女が歩いてきた。
学院の制服を着た、柔らかな雰囲気の少女だった。
「フィオナさん」
ストレア様が顔を上げる。
「探してくださっていたのですか?」
「ええ。次の授業の資料を一緒に確認しようと思って」
少女はそう答えると、僕へ視線を向けた。
「……あら?」
そして、何かに気づいたように目を輝かせる。
「もしかして、ライズ・エールリッヒ様?」
「はい。初めまして」
僕が一礼すると、彼女も丁寧に頭を下げた。
「フィオナ・ベルクと申します。学院には奨学生として通っております。ストレアには、いつもお世話になっているんです」
「そうなんですね」
「ええ。それで……」
フィオナさんは、僕とストレア様を交互に見つめた。
そして、にっこりと笑う。
「噂の方に、ようやくお会いできました」
「……フィオナさん!」
ストレア様が珍しく慌てた声を上げた。
「そ、そのような言い方は……!」
「あら、だって本当でしょう?」
「……もう!」
困り果てたように眉を下げるストレア様。
その様子を見て、フィオナさんは楽しそうに笑った。
……なるほど。
どうやら、ストレア様には気兼ねなく話せる友人がいるらしい。
少しだけ安心した。
「でも、よかった」
不意にフィオナさんが呟いた。
「……何がですか?」
僕が尋ねると、彼女はストレア様へ視線を向ける。
「最近のストレア、前よりずっと楽しそうなんです」
「……え?」
ストレア様が目を見開いた。
「そ、そのようなことは……」
「ありますよ。私、ちゃんと見ていますから」
フィオナさんは柔らかく微笑んだ。
「だから、これからも仲良くしてあげてくださいね、ライズ様」
その言葉に、僕は自然と頷いた。
「もちろんです」
すると、ストレア様は何とも言えない表情を浮かべた。
「……お二人とも、私を子供扱いしていませんか?」
「そんなことありませんよ」
「ええ、もちろん」
僕とフィオナさんが同時に答える。
それを聞いたストレア様は、しばらく僕たちを見つめていた。
そして。
「……もう、知りません」
小さく頬を膨らませた。
「…………」
……あ。
これは、初めて見る表情だ。
いつも穏やかで、礼儀正しくて。
誰に対しても完璧な淑女として振る舞う彼女が、今は少しだけ拗ねている。
その姿が、あまりにも可愛らしかった。
「……ふふっ」
思わず笑みが漏れる。
「……ライズ様?」
「いえ。すみません」
僕は慌てて首を横に振った。
「ただ、ストレア様にもそんな表情があるんだなと思いまして」
「……っ!」
彼女の頬が一気に赤くなる。
「わ、忘れてください!」
「……難しいお願いですね」
「ライズ様!」
今度は、はっきりと抗議の声が上がった。
けれど、その直後。
「……ふふっ」
彼女自身が小さく笑った。
僕も、フィオナさんも笑う。
穏やかな昼下がりの中庭に、三人の笑い声が響いた。
やがて、次の授業を知らせる予鈴が鳴った。
「……あら、もうこんな時間」
フィオナさんが時計を確認する。
「ストレア、そろそろ戻りましょう」
「はい」
ストレア様は頷くと、僕へ向き直った。
「ライズ様。本日はお話しできて嬉しかったです」
「僕もです」
「それでは、また」
彼女は優雅に一礼した。
そして、フィオナさんと並んで歩き始める。
その後ろ姿を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
……本当に、嬉しいな。
最初に出会ったとき、彼女は王太子から婚約破棄を告げられた直後だった。
大勢の貴族に囲まれ、心ない言葉を浴びせられても、決して表情を崩さなかった。
けれど、今は違う。
笑うこともあれば、照れることもある。
ときには、少しだけ拗ねたりもする。
その一つ一つが、僕にはたまらなく愛おしく感じられた。
「……もっと、知りたいな」
ぽつりと呟く。
彼女の好きなもの。
苦手なもの。
楽しかった思い出も、悲しかった出来事も。
少しずつでいい。
彼女が話してくれるのなら、僕は何だって聞いてみたい。
そして、いつか。
僕と一緒にいることが、彼女にとって当たり前になってくれたら。
……なんて。
さすがに、少し気が早いだろうか。
そんなことを考えていると、不意に声が聞こえた。
「……ライズ様!」
顔を上げる。
少し離れた場所で、ストレア様が振り返っていた。
「どうかしましたか?」
僕が尋ねると、彼女は少しだけ迷ったように視線を揺らした。
そして。
「……また、明日も」
「……はい?」
「明日も、お話しできたら嬉しいです!」
そう告げて、彼女は恥ずかしそうに頭を下げた。
それから、逃げるようにフィオナさんのもとへ駆け寄っていく。
「…………」
僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
……ああ。
どうしよう。
嬉しくて、仕方がない。
気がつけば、自然と笑みが浮かんでいた。
「……もちろんです」
もう聞こえていないだろう彼女へ向けて、小さく答える。
明日も、会いたい。
明後日も、その次の日も。
彼女と話せる時間が、もっと増えたらいい。
そんな願いが、胸の奥で少しずつ大きくなっていく。
……そうだ。
明日、もう一度ちゃんと伝えてみよう。
これからも、定期的に会う時間を作れないか、と。
きっと、彼女と過ごす毎日は楽しい。
少なくとも、今の僕はそう確信していた。
黄金色の瞳が尊ばれるこの国で。
誰よりも美しい淡い水色の瞳を持つ少女。
その少女が、今日も僕に笑いかけてくれた。
たったそれだけのことが。
僕にとっては、何よりも幸せだったのだ。
王立アルセリア学院に登校した僕を待ち受けていたのは、親友であるカイル・ベルンハルトのそんな質問だった。
「……おはよう、カイル」
「おう、おはよう。それで?」
「それで、とは?」
「とぼけるなよ。昨日、温室でストレア嬢と手を繋いでいたって噂になってるぞ」
「……え?」
思わず足を止めた。
手を繋いでいた?
確かに、昨日はストレア様と温室で魔法の練習をしていた。
僕が作り出した不格好な氷の塊を見て、彼女が声を上げて笑ってくれたこと。
そして、氷華術を教えるために、僕の手へそっと自分の手を重ねてくださったこと。
そのどちらも鮮明に覚えている。
けれど。
「……あれは、魔法を教えていただいていただけだよ」
「へえ?」
カイルがにやりと笑った。
「魔法を教わるだけで、あんなに仲睦まじい雰囲気になるものなのか?」
「……誰から聞いたんだい?」
「温室の近くを通りかかった生徒だとさ。氷華の姫君が男と手を取り合って笑っていたって、随分驚いていたらしいぜ」
「…………」
僕は思わず額に手を当てた。
……なるほど。
どうやら、思っていた以上に目立っていたらしい。
「しかも相手は、王太子殿下の目の前で求婚した伯爵家の次男だろ? そりゃ噂にもなるさ」
「……そうだね」
僕自身が何を言われようと、別に構わない。
けれど、ストレア様は違う。
彼女はつい先日、王太子殿下との婚約を正式に解消したばかりだ。
そんな彼女が別の男性と親しくしていると知られれば、心ない噂を立てる人間もいるだろう。
「……少し、軽率だったかな」
僕が呟くと、カイルは意外そうに眉を上げた。
「なんだよ。今さら後悔してるのか?」
「ストレア様に迷惑をかけてしまったかもしれないからね」
「……まあ、その心配はわかるけどさ」
カイルは腕を組み、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、お前が一人で勝手に悪いことをしたって決めつけるのも違うんじゃないか?」
「……どういうこと?」
「ストレア嬢だって、自分の意思でお前と会ってるんだろ?」
その言葉に、僕は瞬きをした。
「だったら、まず本人に聞いてみろよ。噂が嫌なのか、それとも気にしていないのか」
「……そうだね」
確かに、その通りだった。
彼女を大切にしたいと思うあまり、肝心の本人の気持ちを置き去りにしてはいけない。
僕は小さく頷いた。
「ありがとう、カイル」
「おう。まあ、礼なら今度飯でも奢ってくれ」
「……ちゃっかりしているね」
「親友だからな」
そう言って笑うカイルに、僕も思わず苦笑した。
昼休み。
僕は学院の中庭へ向かっていた。
ストレア様を見かけたという話を聞いたからだ。
中庭には小さな噴水があり、その周囲には学生たちが談笑するための長椅子が設置されている。
そんな場所の一角で、見覚えのある銀白色の髪が揺れていた。
「……ストレア様」
声をかけようとして、僕は足を止めた。
彼女の周囲に、三人の令嬢が立っていたからだ。
「ねえ、シュタインベル様。お聞きしましたわよ?」
「……何を、でしょうか」
「昨日、エールリッヒ伯爵家のご子息と温室で親しくなさっていたそうですわね」
一人の令嬢が、口元を扇で隠しながら笑った。
「王太子殿下との婚約が解消されて、まだ日も浅いというのに。随分と切り替えがお早いこと」
「本当に。さすがは氷華の姫君ですわね」
……ああ。
やっぱり、こういうことになるのか。
僕は思わず眉をひそめた。
けれど、彼女たちの前へ出ようとした、そのときだった。
「……お言葉ですが」
ストレア様が、静かに口を開いた。
「昨日、私がライズ様に氷魔法をお教えしていたことは事実です」
「まあ。お認めになるのね?」
「はい。隠すようなことではございませんので」
その声音は、いつもと変わらず穏やかだった。
「それに、殿下との婚約はすでに正式に解消されております。学院で友人と交流することについて、何か問題がございますでしょうか」
「そ、それは……」
「もちろん、誤解を招くような振る舞いには気をつけるべきでしょう。ですが、事実と異なる噂を広めることも、淑女として褒められた行いではないと存じます」
「…………っ!」
令嬢たちが言葉に詰まる。
……すごいな。
僕は思わず感心してしまった。
ストレア様は声を荒らげることなく、相手を侮辱することもなく、ただ冷静に自分の考えを伝えている。
これが、彼女の強さなのだろう。
「……では、私たちはこれで!」
令嬢たちは気まずそうに立ち去っていった。
その後ろ姿を見送ってから、僕はようやくストレア様へ近づいた。
「こんにちは、ストレア様」
「……あっ、ライズ様!」
こちらに気づいた彼女が、ぱっと表情を明るくする。
その反応が嬉しくて、僕も自然と微笑んでしまった。
「先ほどのお話、少し聞こえてしまいました」
「……そう、でしたか」
ストレア様はわずかに眉を下げた。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね」
「いえ。とても立派だったと思います」
「……ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
けれど、その表情にはどこか迷いが残っているように見えた。
「……あの、ライズ様」
「はい?」
「昨日のことで、何かご迷惑をおかけしておりませんか?」
僕は思わず瞬きをした。
……まさか。
彼女も、同じことを考えていたのか。
「実は、僕も同じことを聞こうと思っていたんです」
「……え?」
「ストレア様に、迷惑をかけてしまったんじゃないかって」
そう告げると、彼女は驚いたように目を見開いた。
そして、ふるふると首を横に振る。
「そのようなことはございません!」
思っていたよりも大きな声だった。
ストレア様自身も驚いたらしく、慌てて口元に手を添える。
「……し、失礼いたしました」
「いえ」
「ですが、本当に迷惑などとは思っておりません。昨日は、私もとても楽しかったですから」
そう言って、彼女は少しだけ頬を染めた。
「……それに」
「それに?」
「ライズ様とご一緒していたことを、恥ずかしいことだとは思いたくありません」
「…………」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
……ああ。
本当に、この人は。
自分がどう見られるかを気にしているのに、それでも僕との時間を否定しようとはしない。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとうございます、ストレア様」
「い、いえ。当然のことを申し上げただけですから」
彼女は照れくさそうに視線を逸らした。
そんな姿を見ていると、つい微笑んでしまう。
「それなら、これからもご一緒していただけますか?」
「……もちろんです」
「よかった」
僕はほっと息を吐いた。
「実は、もう温室へ誘ってはいけないのかと、少し心配していたんです」
「そ、そのようなことは!」
ストレア様が慌てて顔を上げる。
「私も、またご一緒したいと思っておりましたので……!」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
そして、みるみる頬を赤く染める。
「……あ」
「……ストレア様?」
「い、今のは、その……!」
困ったように視線を泳がせる彼女。
けれど、しばらくしてから、小さく息を吐いた。
「……いえ。取り消しません」
「え?」
「私も、またライズ様とお話ししたいと思っています」
今度は、はっきりとした声だった。
その言葉があまりにも嬉しくて、僕は一瞬だけ返事を忘れてしまった。
「……ライズ様?」
「……ああ、すみません」
慌てて笑みを浮かべる。
「嬉しくて、少し驚いてしまいました」
「……そう、ですか」
「はい。とても嬉しいです」
ストレア様は恥ずかしそうに俯いた。
けれど、その口元には小さな微笑みが浮かんでいた。
そのとき。
「あら、ストレア。こちらにいらしたのね」
背後から明るい声が聞こえた。
振り返ると、栗色の髪を肩のあたりで揃えた少女が歩いてきた。
学院の制服を着た、柔らかな雰囲気の少女だった。
「フィオナさん」
ストレア様が顔を上げる。
「探してくださっていたのですか?」
「ええ。次の授業の資料を一緒に確認しようと思って」
少女はそう答えると、僕へ視線を向けた。
「……あら?」
そして、何かに気づいたように目を輝かせる。
「もしかして、ライズ・エールリッヒ様?」
「はい。初めまして」
僕が一礼すると、彼女も丁寧に頭を下げた。
「フィオナ・ベルクと申します。学院には奨学生として通っております。ストレアには、いつもお世話になっているんです」
「そうなんですね」
「ええ。それで……」
フィオナさんは、僕とストレア様を交互に見つめた。
そして、にっこりと笑う。
「噂の方に、ようやくお会いできました」
「……フィオナさん!」
ストレア様が珍しく慌てた声を上げた。
「そ、そのような言い方は……!」
「あら、だって本当でしょう?」
「……もう!」
困り果てたように眉を下げるストレア様。
その様子を見て、フィオナさんは楽しそうに笑った。
……なるほど。
どうやら、ストレア様には気兼ねなく話せる友人がいるらしい。
少しだけ安心した。
「でも、よかった」
不意にフィオナさんが呟いた。
「……何がですか?」
僕が尋ねると、彼女はストレア様へ視線を向ける。
「最近のストレア、前よりずっと楽しそうなんです」
「……え?」
ストレア様が目を見開いた。
「そ、そのようなことは……」
「ありますよ。私、ちゃんと見ていますから」
フィオナさんは柔らかく微笑んだ。
「だから、これからも仲良くしてあげてくださいね、ライズ様」
その言葉に、僕は自然と頷いた。
「もちろんです」
すると、ストレア様は何とも言えない表情を浮かべた。
「……お二人とも、私を子供扱いしていませんか?」
「そんなことありませんよ」
「ええ、もちろん」
僕とフィオナさんが同時に答える。
それを聞いたストレア様は、しばらく僕たちを見つめていた。
そして。
「……もう、知りません」
小さく頬を膨らませた。
「…………」
……あ。
これは、初めて見る表情だ。
いつも穏やかで、礼儀正しくて。
誰に対しても完璧な淑女として振る舞う彼女が、今は少しだけ拗ねている。
その姿が、あまりにも可愛らしかった。
「……ふふっ」
思わず笑みが漏れる。
「……ライズ様?」
「いえ。すみません」
僕は慌てて首を横に振った。
「ただ、ストレア様にもそんな表情があるんだなと思いまして」
「……っ!」
彼女の頬が一気に赤くなる。
「わ、忘れてください!」
「……難しいお願いですね」
「ライズ様!」
今度は、はっきりと抗議の声が上がった。
けれど、その直後。
「……ふふっ」
彼女自身が小さく笑った。
僕も、フィオナさんも笑う。
穏やかな昼下がりの中庭に、三人の笑い声が響いた。
やがて、次の授業を知らせる予鈴が鳴った。
「……あら、もうこんな時間」
フィオナさんが時計を確認する。
「ストレア、そろそろ戻りましょう」
「はい」
ストレア様は頷くと、僕へ向き直った。
「ライズ様。本日はお話しできて嬉しかったです」
「僕もです」
「それでは、また」
彼女は優雅に一礼した。
そして、フィオナさんと並んで歩き始める。
その後ろ姿を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
……本当に、嬉しいな。
最初に出会ったとき、彼女は王太子から婚約破棄を告げられた直後だった。
大勢の貴族に囲まれ、心ない言葉を浴びせられても、決して表情を崩さなかった。
けれど、今は違う。
笑うこともあれば、照れることもある。
ときには、少しだけ拗ねたりもする。
その一つ一つが、僕にはたまらなく愛おしく感じられた。
「……もっと、知りたいな」
ぽつりと呟く。
彼女の好きなもの。
苦手なもの。
楽しかった思い出も、悲しかった出来事も。
少しずつでいい。
彼女が話してくれるのなら、僕は何だって聞いてみたい。
そして、いつか。
僕と一緒にいることが、彼女にとって当たり前になってくれたら。
……なんて。
さすがに、少し気が早いだろうか。
そんなことを考えていると、不意に声が聞こえた。
「……ライズ様!」
顔を上げる。
少し離れた場所で、ストレア様が振り返っていた。
「どうかしましたか?」
僕が尋ねると、彼女は少しだけ迷ったように視線を揺らした。
そして。
「……また、明日も」
「……はい?」
「明日も、お話しできたら嬉しいです!」
そう告げて、彼女は恥ずかしそうに頭を下げた。
それから、逃げるようにフィオナさんのもとへ駆け寄っていく。
「…………」
僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
……ああ。
どうしよう。
嬉しくて、仕方がない。
気がつけば、自然と笑みが浮かんでいた。
「……もちろんです」
もう聞こえていないだろう彼女へ向けて、小さく答える。
明日も、会いたい。
明後日も、その次の日も。
彼女と話せる時間が、もっと増えたらいい。
そんな願いが、胸の奥で少しずつ大きくなっていく。
……そうだ。
明日、もう一度ちゃんと伝えてみよう。
これからも、定期的に会う時間を作れないか、と。
きっと、彼女と過ごす毎日は楽しい。
少なくとも、今の僕はそう確信していた。
黄金色の瞳が尊ばれるこの国で。
誰よりも美しい淡い水色の瞳を持つ少女。
その少女が、今日も僕に笑いかけてくれた。
たったそれだけのことが。
僕にとっては、何よりも幸せだったのだ。
