黄金の瞳を持たない氷華の姫君は、今日も僕の隣で微笑んでいる

「なあ、ライズ。お前、最近ずいぶん楽しそうだよな」

昼休み。

王立アルセリア学院の食堂で昼食を取っていた僕に、親友のカイル・ベルンハルトがそんなことを言ってきた。

「……そうかな?」

「ああ。というか、ここ数日ずっと機嫌がいいだろ」

「別に、そんなつもりはないんだけど」

「無自覚かよ……」

カイルは呆れたようにため息をついた。

そして、にやりと笑う。

「さては、氷華の姫君と何かあったな?」

「……何かって?」

「そりゃあ、お前。男と女が親しくなれば、いろいろあるだろ?」

「何を想像しているのか知らないけど、昨日は一緒にお菓子を食べただけだよ」

「……は?」

カイルが目を丸くした。

「お菓子?」

「うん。ストレア様が手作りの焼き菓子をくださったんだ」

「…………」

「林檎の風味があって、美味しかったよ」

そこまで話すと、カイルはなぜか額を押さえた。

「……お前、本当にすげえな」

「何が?」

「いや、もういい。俺が悪かった」

……どうして謝られたのだろう。

首を傾げていると、カイルは今度こそ大きなため息をついた。

「まあ、いいさ。それで? ストレア嬢とは順調なのか?」

「順調、なのかな」

僕は少し考えた。

昨日、ストレア様は僕のために焼き菓子を作ってくださった。

料理が得意というわけではないのに、わざわざ厨房に立って、何度も挑戦してくださったらしい。

それを知ったとき、僕は本当に嬉しかった。

ただ、だからといって、彼女が僕に恋愛感情を抱いているとは限らない。

少なくとも、今の彼女は僕と話す時間を嫌がってはいない。

それだけでも、十分すぎるほど幸せだった。

「……少しずつ、仲良くなれていると思うよ」

僕が答えると、カイルはふっと笑った。

「そりゃよかったな」

「ありがとう」

「ただ、あんまり浮かれすぎるなよ。学院じゃ、お前たちのことを噂してる連中も多いんだからな」

「……そうだね」

そのことは、僕も気になっていた。

ストレア様は王太子殿下との婚約を解消したばかりだ。

そんな彼女と僕が親しくしていれば、面白おかしく噂を広める人間だっているだろう。

僕が気にするべきなのは、自分への評判ではない。

ストレア様が、その噂で傷つかないかどうかだ。

「……気をつけるよ」

そう答えると、カイルは満足そうに頷いた。

「おう。まあ、頑張れよ」

そのときだった。

「……ライズ様?」

背後から、柔らかな声が聞こえた。

振り返ると、そこには見覚えのある少女が立っていた。

銀白色の長い髪。

淡い水色の瞳。

そして、学院の制服を上品に着こなした、美しい少女。

ストレア・シュタインベル様だった。

「ストレア様」

思わず立ち上がる。

「こんにちは。何かご用でしょうか?」

「はい。もしよろしければ、放課後に少しだけお時間をいただけないかと思いまして」

「もちろんです」

ほとんど考えることなく答えてしまった。

すると、ストレア様はほっとしたように微笑まれた。

「ありがとうございます。実は、先日お話しした氷魔法の研究について、少しお見せしたいものがあるのです」

「それは楽しみですね」

「では、放課後に学院の温室でお待ちしております」

そう告げると、ストレア様は丁寧に一礼して立ち去っていった。

その後ろ姿を見送っていると。

「……ライズ」

「なんだい?」

「お前、今すごく嬉しそうな顔してるぞ」

「……そう?」

「ああ。見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにな」

……そんなに顔に出ていただろうか。

僕は思わず頬を掻いた。

放課後。

約束の時間に学院の温室を訪れると、ストレア様はすでに到着していた。

温室の中には、色とりどりの花々が咲き誇っている。

柔らかな陽光が硝子張りの天井から降り注ぎ、室内には穏やかな暖かさが満ちていた。

「お待たせしました、ストレア様」

「いいえ。私も先ほど来たところです」

彼女はそう言って微笑んだ。

「今日は、こちらをご覧いただきたくて」

そう告げると、ストレア様は温室の奥に設置された小さな装置へと歩み寄った。

金属の管と魔石が組み込まれた、見慣れない器具だった。

「こちらは、私が研究している冷却装置の試作品です」

「……これが?」

「はい。少ない魔力で一定の温度を保てるよう、魔力の循環経路を工夫してみました」

ストレア様が魔石へ指を添える。

すると、装置から微かな冷気が流れ始めた。

「……なるほど」

僕は装置へ顔を近づける。

確かに、周囲の空気が少しだけ冷たくなっている。

「これなら、魔力の少ない人でも使えるんですか?」

「まだ改良が必要ですが、理論上は可能なはずです」

そう答える彼女の表情は、とても生き生きとしていた。

研究について説明するたびに、淡い水色の瞳が輝く。

……ああ。

やっぱり、この人は本当に魔法が好きなんだな。

僕は自然と微笑んでいた。

「素晴らしいですね、ストレア様」

「……ありがとうございます」

「完成したら、きっとたくさんの人が喜びますよ」

その言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。

「はい。私も、そうなればよいと思っています」

それからしばらく、僕たちは装置の仕組みについて話した。

もっとも、専門的な部分は僕には難しかったけれど。

そんな僕の様子に気づいたのか、ストレア様はふと首を傾げた。

「……ライズ様は、氷魔法をお使いになれますか?」

「簡単なものなら。ただ、精密な制御はあまり得意ではありません」

「そうなのですね」

彼女は少し考え込んだ後、ぱっと顔を明るくした。

「それでしたら、少し練習してみませんか?」

「……僕が、ですか?」

「はい。せっかくですから」

……なるほど。

これは、なかなか面白そうだ。

「ぜひ、お願いします」

僕が答えると、ストレア様は嬉しそうに微笑んだ。

そして、そっと右手を差し出す。

「では、まずは私がお手本をお見せしますね」

彼女の掌に、淡い青色の光が集まった。

次の瞬間。

小さな氷の結晶が生まれる。

それはゆっくりと形を変え、やがて一輪の花になった。

薄く透き通った花弁。

繊細に作り込まれた茎。

まるで本物の花を、そのまま氷へ変えたような美しさだった。

「……すごい」

僕は思わず声を漏らした。

「本当に、綺麗ですね」

「ありがとうございます。こちらは氷華術と呼ばれる技法の一つで、魔力の流れを細かく調整する必要があるのです」

ストレア様は少しだけ誇らしそうに微笑んだ。

「では、ライズ様も挑戦してみてください」

「……頑張ってみます」

僕は右手を差し出した。

魔力を集中させる。

冷気を生み出し、その形を整える。

理論は理解できている。

あとは、実践するだけだ。

「……よし」

小さな氷の塊が掌に現れる。

そこから花弁を作ろうとしたのだけれど。

「…………」

どうにも、うまくいかない。

花弁のつもりで伸ばした部分は妙に太く、茎も曲がってしまった。

完成したものは。

「……これは」

僕は自分の掌を見つめた。

丸くて、少し歪んでいて。

申し訳程度に突起がついている。

……うん。

どう見ても、花ではない。

「……ストレア様」

「は、はい」

「僕には、どうやら芸術的な才能がないようです」

そう言って、完成した氷の塊を見せる。

ストレア様はじっとそれを見つめた。

そして。

「……ふっ」

小さな声が漏れた。

「……あ」

彼女が慌てて口元を押さえる。

「も、申し訳ございません。決して笑おうとしたわけでは……」

「いえ、いいんですよ」

僕は自分の作った氷をもう一度眺めた。

「それにしても、何でしょうね、これ。花を作ったつもりだったんですが……」

「……そ、それは」

ストレア様の肩が、小さく震え始めた。

「……林檎、でしょうか」

「林檎?」

僕は掌の氷を見つめ直す。

なるほど。

確かに、丸い形と上についている突起が、林檎に見えなくもない。

「……昨日のお菓子のことを考えていたからでしょうか」

そう呟いた瞬間だった。

「……ふふっ」

ストレア様の口元から、笑い声が漏れた。

そして。

「ふふっ……あははっ!」

彼女は、楽しそうに笑い始めた。

僕は思わず目を見開いた。

……あ。

笑っている。

いつものような、控えめな微笑みではない。

声を上げて、本当に楽しそうに。

彼女は笑っていた。

「も、申し訳……ふふっ……だって、ライズ様……」

「……そんなに面白かったですか?」

「い、いえ……ですが……ふふっ」

僕はもう一度、自分の作った氷を見つめた。

……うん。

確かに、これはひどい。

そう思ったら、僕までおかしくなってきた。

「……ははっ」

気がつけば、僕も笑っていた。

二人の笑い声が、静かな温室に響く。

しばらくして、ようやく笑いが収まった。

ストレア様は目元に浮かんだ涙を、そっと指先で拭った。

「……申し訳ございません。私ったら、随分と失礼なことを……」

「いえ。僕も自分で笑ってしまいましたから」

「……そう、ですか」

彼女は少しだけ俯いた。

その表情には、恥ずかしさが滲んでいた。

「私、あのように声を上げて笑ったのは、久しぶりかもしれません」

「……そうなんですか?」

「はい。淑女たるもの、人前では慎みを忘れてはならないと教わってまいりましたので」

彼女は小さく微笑んだ。

「ですから、少し驚いてしまいました。自分にも、あんな笑い方ができるのですね」

その言葉を聞いて、僕は胸の奥が温かくなるのを感じた。

……そうか。

彼女はきっと、ずっと我慢してきたのだろう。

王太子の婚約者として。

公爵家の令嬢として。

誰からも非難されない、完璧な淑女であるために。

けれど。

「……僕は、さっきの笑顔も好きですよ」

思わず、そんな言葉が口から零れた。

ストレア様が、ぱちりと瞬きをした。

「……え?」

「とても楽しそうでしたから」

「…………っ」

彼女の頬が、ほんのりと赤く染まった。

「……ライズ様は、本当に」

「はい?」

「……何でもございません」

そう言って、彼女は小さく首を振った。

けれど、その口元にはまだ柔らかな笑みが浮かんでいる。

僕はそれを見て、改めて思った。

最初に心を奪われたのは、あの淡い水色の瞳だった。

けれど、今は。

彼女が楽しそうに話す姿も。

少し困ったように眉を下げる仕草も。

そして、今のように声を上げて笑う姿も。

全部、もっと知りたいと思っている。

「……ストレア様」

「はい?」

「また、一緒に何かしていただけませんか?」

そう尋ねると、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「……何か、ですか?」

「はい。魔法の練習でも、お茶会でも。何でも構いません」

僕は微笑んだ。

「あなたと一緒にいると、僕も楽しいので」

彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。

そして、ゆっくりと頷く。

「……はい」

その返事は、とても柔らかかった。

「私も、ライズ様とご一緒できれば嬉しいです」

胸が、大きく高鳴った。

……ああ。

本当に、この人には敵わない。

僕が微笑むと、ストレア様もまた、穏やかに微笑み返してくれた。

その笑顔を見ていると、自然と幸せな気持ちになる。

きっと、これからも。

僕はこの人の笑顔を、何度でも見たいと思うのだろう。

そんなことを考えていたときだった。

「……あの、ライズ様」

「はい?」

ストレア様が、少しだけ遠慮がちに口を開いた。

「もしよろしければ……」

「何でしょう?」

彼女は僕の掌に残された、歪な氷の塊を見つめた。

「……もう一度、作ってみませんか?」

「……え?」

「次は、私がお手伝いいたしますので」

そう言って、彼女はそっと僕の隣へ歩み寄った。

そして。

「失礼いたします」

小さく断ってから、僕の右手に自分の手を重ねた。

「……っ」

思わず、息が止まった。

彼女の指先は、氷魔法を扱っていたからか、少しだけ冷たかった。

けれど、不思議と。

触れられた場所から、温かさが広がっていくような気がした。

「このように、魔力をゆっくりと流して……」

ストレア様が、すぐ隣で説明を始める。

淡い水色の瞳が、真剣に僕の掌を見つめていた。

……近い。

ものすごく、近い。

「……ライズ様?」

「は、はい!」

「……どうかなさいましたか?」

「い、いえ。何でもありません」

慌てて首を振る。

すると、彼女は少しだけ首を傾げた。

けれど。

僕たちの手が重なっていることに気づいた瞬間。

「…………っ!」

その顔が、みるみる赤く染まっていった。

「……あ、あの!」

「は、はい!」

「こ、これは、その……魔力の流れをお伝えするためでして……!」

「も、もちろんです!」

「決して、他意があるわけでは……!」

「わ、わかっています!」

……何をやっているんだろう、僕たちは。

そう思った瞬間、思わず笑ってしまった。

「……ふふっ」

すると、ストレア様も小さく笑った。

「……もう、ライズ様ったら」

そう言いながらも、彼女はすぐには手を離さなかった。

僕も、離してほしいとは言わなかった。

温室の中には、柔らかな陽光が降り注いでいる。

重ねた掌の上では、小さな氷の花がゆっくりと形を成していた。

今度は、先ほどよりもずっと綺麗な花だった。

けれど。

僕にとって、それ以上に美しかったのは。

隣で楽しそうに微笑んでいる、彼女の笑顔だった。

……その笑顔を、もう一度。

いや。

これから先も、何度だって。

僕は、見ていたいと思ったのだった。