「なあ、ライズ。お前、最近ずいぶん楽しそうだよな」
昼休み。
王立アルセリア学院の食堂で昼食を取っていた僕に、親友のカイル・ベルンハルトがそんなことを言ってきた。
「……そうかな?」
「ああ。というか、ここ数日ずっと機嫌がいいだろ」
「別に、そんなつもりはないんだけど」
「無自覚かよ……」
カイルは呆れたようにため息をついた。
そして、にやりと笑う。
「さては、氷華の姫君と何かあったな?」
「……何かって?」
「そりゃあ、お前。男と女が親しくなれば、いろいろあるだろ?」
「何を想像しているのか知らないけど、昨日は一緒にお菓子を食べただけだよ」
「……は?」
カイルが目を丸くした。
「お菓子?」
「うん。ストレア様が手作りの焼き菓子をくださったんだ」
「…………」
「林檎の風味があって、美味しかったよ」
そこまで話すと、カイルはなぜか額を押さえた。
「……お前、本当にすげえな」
「何が?」
「いや、もういい。俺が悪かった」
……どうして謝られたのだろう。
首を傾げていると、カイルは今度こそ大きなため息をついた。
「まあ、いいさ。それで? ストレア嬢とは順調なのか?」
「順調、なのかな」
僕は少し考えた。
昨日、ストレア様は僕のために焼き菓子を作ってくださった。
料理が得意というわけではないのに、わざわざ厨房に立って、何度も挑戦してくださったらしい。
それを知ったとき、僕は本当に嬉しかった。
ただ、だからといって、彼女が僕に恋愛感情を抱いているとは限らない。
少なくとも、今の彼女は僕と話す時間を嫌がってはいない。
それだけでも、十分すぎるほど幸せだった。
「……少しずつ、仲良くなれていると思うよ」
僕が答えると、カイルはふっと笑った。
「そりゃよかったな」
「ありがとう」
「ただ、あんまり浮かれすぎるなよ。学院じゃ、お前たちのことを噂してる連中も多いんだからな」
「……そうだね」
そのことは、僕も気になっていた。
ストレア様は王太子殿下との婚約を解消したばかりだ。
そんな彼女と僕が親しくしていれば、面白おかしく噂を広める人間だっているだろう。
僕が気にするべきなのは、自分への評判ではない。
ストレア様が、その噂で傷つかないかどうかだ。
「……気をつけるよ」
そう答えると、カイルは満足そうに頷いた。
「おう。まあ、頑張れよ」
そのときだった。
「……ライズ様?」
背後から、柔らかな声が聞こえた。
振り返ると、そこには見覚えのある少女が立っていた。
銀白色の長い髪。
淡い水色の瞳。
そして、学院の制服を上品に着こなした、美しい少女。
ストレア・シュタインベル様だった。
「ストレア様」
思わず立ち上がる。
「こんにちは。何かご用でしょうか?」
「はい。もしよろしければ、放課後に少しだけお時間をいただけないかと思いまして」
「もちろんです」
ほとんど考えることなく答えてしまった。
すると、ストレア様はほっとしたように微笑まれた。
「ありがとうございます。実は、先日お話しした氷魔法の研究について、少しお見せしたいものがあるのです」
「それは楽しみですね」
「では、放課後に学院の温室でお待ちしております」
そう告げると、ストレア様は丁寧に一礼して立ち去っていった。
その後ろ姿を見送っていると。
「……ライズ」
「なんだい?」
「お前、今すごく嬉しそうな顔してるぞ」
「……そう?」
「ああ。見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにな」
……そんなに顔に出ていただろうか。
僕は思わず頬を掻いた。
放課後。
約束の時間に学院の温室を訪れると、ストレア様はすでに到着していた。
温室の中には、色とりどりの花々が咲き誇っている。
柔らかな陽光が硝子張りの天井から降り注ぎ、室内には穏やかな暖かさが満ちていた。
「お待たせしました、ストレア様」
「いいえ。私も先ほど来たところです」
彼女はそう言って微笑んだ。
「今日は、こちらをご覧いただきたくて」
そう告げると、ストレア様は温室の奥に設置された小さな装置へと歩み寄った。
金属の管と魔石が組み込まれた、見慣れない器具だった。
「こちらは、私が研究している冷却装置の試作品です」
「……これが?」
「はい。少ない魔力で一定の温度を保てるよう、魔力の循環経路を工夫してみました」
ストレア様が魔石へ指を添える。
すると、装置から微かな冷気が流れ始めた。
「……なるほど」
僕は装置へ顔を近づける。
確かに、周囲の空気が少しだけ冷たくなっている。
「これなら、魔力の少ない人でも使えるんですか?」
「まだ改良が必要ですが、理論上は可能なはずです」
そう答える彼女の表情は、とても生き生きとしていた。
研究について説明するたびに、淡い水色の瞳が輝く。
……ああ。
やっぱり、この人は本当に魔法が好きなんだな。
僕は自然と微笑んでいた。
「素晴らしいですね、ストレア様」
「……ありがとうございます」
「完成したら、きっとたくさんの人が喜びますよ」
その言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。
「はい。私も、そうなればよいと思っています」
それからしばらく、僕たちは装置の仕組みについて話した。
もっとも、専門的な部分は僕には難しかったけれど。
そんな僕の様子に気づいたのか、ストレア様はふと首を傾げた。
「……ライズ様は、氷魔法をお使いになれますか?」
「簡単なものなら。ただ、精密な制御はあまり得意ではありません」
「そうなのですね」
彼女は少し考え込んだ後、ぱっと顔を明るくした。
「それでしたら、少し練習してみませんか?」
「……僕が、ですか?」
「はい。せっかくですから」
……なるほど。
これは、なかなか面白そうだ。
「ぜひ、お願いします」
僕が答えると、ストレア様は嬉しそうに微笑んだ。
そして、そっと右手を差し出す。
「では、まずは私がお手本をお見せしますね」
彼女の掌に、淡い青色の光が集まった。
次の瞬間。
小さな氷の結晶が生まれる。
それはゆっくりと形を変え、やがて一輪の花になった。
薄く透き通った花弁。
繊細に作り込まれた茎。
まるで本物の花を、そのまま氷へ変えたような美しさだった。
「……すごい」
僕は思わず声を漏らした。
「本当に、綺麗ですね」
「ありがとうございます。こちらは氷華術と呼ばれる技法の一つで、魔力の流れを細かく調整する必要があるのです」
ストレア様は少しだけ誇らしそうに微笑んだ。
「では、ライズ様も挑戦してみてください」
「……頑張ってみます」
僕は右手を差し出した。
魔力を集中させる。
冷気を生み出し、その形を整える。
理論は理解できている。
あとは、実践するだけだ。
「……よし」
小さな氷の塊が掌に現れる。
そこから花弁を作ろうとしたのだけれど。
「…………」
どうにも、うまくいかない。
花弁のつもりで伸ばした部分は妙に太く、茎も曲がってしまった。
完成したものは。
「……これは」
僕は自分の掌を見つめた。
丸くて、少し歪んでいて。
申し訳程度に突起がついている。
……うん。
どう見ても、花ではない。
「……ストレア様」
「は、はい」
「僕には、どうやら芸術的な才能がないようです」
そう言って、完成した氷の塊を見せる。
ストレア様はじっとそれを見つめた。
そして。
「……ふっ」
小さな声が漏れた。
「……あ」
彼女が慌てて口元を押さえる。
「も、申し訳ございません。決して笑おうとしたわけでは……」
「いえ、いいんですよ」
僕は自分の作った氷をもう一度眺めた。
「それにしても、何でしょうね、これ。花を作ったつもりだったんですが……」
「……そ、それは」
ストレア様の肩が、小さく震え始めた。
「……林檎、でしょうか」
「林檎?」
僕は掌の氷を見つめ直す。
なるほど。
確かに、丸い形と上についている突起が、林檎に見えなくもない。
「……昨日のお菓子のことを考えていたからでしょうか」
そう呟いた瞬間だった。
「……ふふっ」
ストレア様の口元から、笑い声が漏れた。
そして。
「ふふっ……あははっ!」
彼女は、楽しそうに笑い始めた。
僕は思わず目を見開いた。
……あ。
笑っている。
いつものような、控えめな微笑みではない。
声を上げて、本当に楽しそうに。
彼女は笑っていた。
「も、申し訳……ふふっ……だって、ライズ様……」
「……そんなに面白かったですか?」
「い、いえ……ですが……ふふっ」
僕はもう一度、自分の作った氷を見つめた。
……うん。
確かに、これはひどい。
そう思ったら、僕までおかしくなってきた。
「……ははっ」
気がつけば、僕も笑っていた。
二人の笑い声が、静かな温室に響く。
しばらくして、ようやく笑いが収まった。
ストレア様は目元に浮かんだ涙を、そっと指先で拭った。
「……申し訳ございません。私ったら、随分と失礼なことを……」
「いえ。僕も自分で笑ってしまいましたから」
「……そう、ですか」
彼女は少しだけ俯いた。
その表情には、恥ずかしさが滲んでいた。
「私、あのように声を上げて笑ったのは、久しぶりかもしれません」
「……そうなんですか?」
「はい。淑女たるもの、人前では慎みを忘れてはならないと教わってまいりましたので」
彼女は小さく微笑んだ。
「ですから、少し驚いてしまいました。自分にも、あんな笑い方ができるのですね」
その言葉を聞いて、僕は胸の奥が温かくなるのを感じた。
……そうか。
彼女はきっと、ずっと我慢してきたのだろう。
王太子の婚約者として。
公爵家の令嬢として。
誰からも非難されない、完璧な淑女であるために。
けれど。
「……僕は、さっきの笑顔も好きですよ」
思わず、そんな言葉が口から零れた。
ストレア様が、ぱちりと瞬きをした。
「……え?」
「とても楽しそうでしたから」
「…………っ」
彼女の頬が、ほんのりと赤く染まった。
「……ライズ様は、本当に」
「はい?」
「……何でもございません」
そう言って、彼女は小さく首を振った。
けれど、その口元にはまだ柔らかな笑みが浮かんでいる。
僕はそれを見て、改めて思った。
最初に心を奪われたのは、あの淡い水色の瞳だった。
けれど、今は。
彼女が楽しそうに話す姿も。
少し困ったように眉を下げる仕草も。
そして、今のように声を上げて笑う姿も。
全部、もっと知りたいと思っている。
「……ストレア様」
「はい?」
「また、一緒に何かしていただけませんか?」
そう尋ねると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……何か、ですか?」
「はい。魔法の練習でも、お茶会でも。何でも構いません」
僕は微笑んだ。
「あなたと一緒にいると、僕も楽しいので」
彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……はい」
その返事は、とても柔らかかった。
「私も、ライズ様とご一緒できれば嬉しいです」
胸が、大きく高鳴った。
……ああ。
本当に、この人には敵わない。
僕が微笑むと、ストレア様もまた、穏やかに微笑み返してくれた。
その笑顔を見ていると、自然と幸せな気持ちになる。
きっと、これからも。
僕はこの人の笑顔を、何度でも見たいと思うのだろう。
そんなことを考えていたときだった。
「……あの、ライズ様」
「はい?」
ストレア様が、少しだけ遠慮がちに口を開いた。
「もしよろしければ……」
「何でしょう?」
彼女は僕の掌に残された、歪な氷の塊を見つめた。
「……もう一度、作ってみませんか?」
「……え?」
「次は、私がお手伝いいたしますので」
そう言って、彼女はそっと僕の隣へ歩み寄った。
そして。
「失礼いたします」
小さく断ってから、僕の右手に自分の手を重ねた。
「……っ」
思わず、息が止まった。
彼女の指先は、氷魔法を扱っていたからか、少しだけ冷たかった。
けれど、不思議と。
触れられた場所から、温かさが広がっていくような気がした。
「このように、魔力をゆっくりと流して……」
ストレア様が、すぐ隣で説明を始める。
淡い水色の瞳が、真剣に僕の掌を見つめていた。
……近い。
ものすごく、近い。
「……ライズ様?」
「は、はい!」
「……どうかなさいましたか?」
「い、いえ。何でもありません」
慌てて首を振る。
すると、彼女は少しだけ首を傾げた。
けれど。
僕たちの手が重なっていることに気づいた瞬間。
「…………っ!」
その顔が、みるみる赤く染まっていった。
「……あ、あの!」
「は、はい!」
「こ、これは、その……魔力の流れをお伝えするためでして……!」
「も、もちろんです!」
「決して、他意があるわけでは……!」
「わ、わかっています!」
……何をやっているんだろう、僕たちは。
そう思った瞬間、思わず笑ってしまった。
「……ふふっ」
すると、ストレア様も小さく笑った。
「……もう、ライズ様ったら」
そう言いながらも、彼女はすぐには手を離さなかった。
僕も、離してほしいとは言わなかった。
温室の中には、柔らかな陽光が降り注いでいる。
重ねた掌の上では、小さな氷の花がゆっくりと形を成していた。
今度は、先ほどよりもずっと綺麗な花だった。
けれど。
僕にとって、それ以上に美しかったのは。
隣で楽しそうに微笑んでいる、彼女の笑顔だった。
……その笑顔を、もう一度。
いや。
これから先も、何度だって。
僕は、見ていたいと思ったのだった。
昼休み。
王立アルセリア学院の食堂で昼食を取っていた僕に、親友のカイル・ベルンハルトがそんなことを言ってきた。
「……そうかな?」
「ああ。というか、ここ数日ずっと機嫌がいいだろ」
「別に、そんなつもりはないんだけど」
「無自覚かよ……」
カイルは呆れたようにため息をついた。
そして、にやりと笑う。
「さては、氷華の姫君と何かあったな?」
「……何かって?」
「そりゃあ、お前。男と女が親しくなれば、いろいろあるだろ?」
「何を想像しているのか知らないけど、昨日は一緒にお菓子を食べただけだよ」
「……は?」
カイルが目を丸くした。
「お菓子?」
「うん。ストレア様が手作りの焼き菓子をくださったんだ」
「…………」
「林檎の風味があって、美味しかったよ」
そこまで話すと、カイルはなぜか額を押さえた。
「……お前、本当にすげえな」
「何が?」
「いや、もういい。俺が悪かった」
……どうして謝られたのだろう。
首を傾げていると、カイルは今度こそ大きなため息をついた。
「まあ、いいさ。それで? ストレア嬢とは順調なのか?」
「順調、なのかな」
僕は少し考えた。
昨日、ストレア様は僕のために焼き菓子を作ってくださった。
料理が得意というわけではないのに、わざわざ厨房に立って、何度も挑戦してくださったらしい。
それを知ったとき、僕は本当に嬉しかった。
ただ、だからといって、彼女が僕に恋愛感情を抱いているとは限らない。
少なくとも、今の彼女は僕と話す時間を嫌がってはいない。
それだけでも、十分すぎるほど幸せだった。
「……少しずつ、仲良くなれていると思うよ」
僕が答えると、カイルはふっと笑った。
「そりゃよかったな」
「ありがとう」
「ただ、あんまり浮かれすぎるなよ。学院じゃ、お前たちのことを噂してる連中も多いんだからな」
「……そうだね」
そのことは、僕も気になっていた。
ストレア様は王太子殿下との婚約を解消したばかりだ。
そんな彼女と僕が親しくしていれば、面白おかしく噂を広める人間だっているだろう。
僕が気にするべきなのは、自分への評判ではない。
ストレア様が、その噂で傷つかないかどうかだ。
「……気をつけるよ」
そう答えると、カイルは満足そうに頷いた。
「おう。まあ、頑張れよ」
そのときだった。
「……ライズ様?」
背後から、柔らかな声が聞こえた。
振り返ると、そこには見覚えのある少女が立っていた。
銀白色の長い髪。
淡い水色の瞳。
そして、学院の制服を上品に着こなした、美しい少女。
ストレア・シュタインベル様だった。
「ストレア様」
思わず立ち上がる。
「こんにちは。何かご用でしょうか?」
「はい。もしよろしければ、放課後に少しだけお時間をいただけないかと思いまして」
「もちろんです」
ほとんど考えることなく答えてしまった。
すると、ストレア様はほっとしたように微笑まれた。
「ありがとうございます。実は、先日お話しした氷魔法の研究について、少しお見せしたいものがあるのです」
「それは楽しみですね」
「では、放課後に学院の温室でお待ちしております」
そう告げると、ストレア様は丁寧に一礼して立ち去っていった。
その後ろ姿を見送っていると。
「……ライズ」
「なんだい?」
「お前、今すごく嬉しそうな顔してるぞ」
「……そう?」
「ああ。見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにな」
……そんなに顔に出ていただろうか。
僕は思わず頬を掻いた。
放課後。
約束の時間に学院の温室を訪れると、ストレア様はすでに到着していた。
温室の中には、色とりどりの花々が咲き誇っている。
柔らかな陽光が硝子張りの天井から降り注ぎ、室内には穏やかな暖かさが満ちていた。
「お待たせしました、ストレア様」
「いいえ。私も先ほど来たところです」
彼女はそう言って微笑んだ。
「今日は、こちらをご覧いただきたくて」
そう告げると、ストレア様は温室の奥に設置された小さな装置へと歩み寄った。
金属の管と魔石が組み込まれた、見慣れない器具だった。
「こちらは、私が研究している冷却装置の試作品です」
「……これが?」
「はい。少ない魔力で一定の温度を保てるよう、魔力の循環経路を工夫してみました」
ストレア様が魔石へ指を添える。
すると、装置から微かな冷気が流れ始めた。
「……なるほど」
僕は装置へ顔を近づける。
確かに、周囲の空気が少しだけ冷たくなっている。
「これなら、魔力の少ない人でも使えるんですか?」
「まだ改良が必要ですが、理論上は可能なはずです」
そう答える彼女の表情は、とても生き生きとしていた。
研究について説明するたびに、淡い水色の瞳が輝く。
……ああ。
やっぱり、この人は本当に魔法が好きなんだな。
僕は自然と微笑んでいた。
「素晴らしいですね、ストレア様」
「……ありがとうございます」
「完成したら、きっとたくさんの人が喜びますよ」
その言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。
「はい。私も、そうなればよいと思っています」
それからしばらく、僕たちは装置の仕組みについて話した。
もっとも、専門的な部分は僕には難しかったけれど。
そんな僕の様子に気づいたのか、ストレア様はふと首を傾げた。
「……ライズ様は、氷魔法をお使いになれますか?」
「簡単なものなら。ただ、精密な制御はあまり得意ではありません」
「そうなのですね」
彼女は少し考え込んだ後、ぱっと顔を明るくした。
「それでしたら、少し練習してみませんか?」
「……僕が、ですか?」
「はい。せっかくですから」
……なるほど。
これは、なかなか面白そうだ。
「ぜひ、お願いします」
僕が答えると、ストレア様は嬉しそうに微笑んだ。
そして、そっと右手を差し出す。
「では、まずは私がお手本をお見せしますね」
彼女の掌に、淡い青色の光が集まった。
次の瞬間。
小さな氷の結晶が生まれる。
それはゆっくりと形を変え、やがて一輪の花になった。
薄く透き通った花弁。
繊細に作り込まれた茎。
まるで本物の花を、そのまま氷へ変えたような美しさだった。
「……すごい」
僕は思わず声を漏らした。
「本当に、綺麗ですね」
「ありがとうございます。こちらは氷華術と呼ばれる技法の一つで、魔力の流れを細かく調整する必要があるのです」
ストレア様は少しだけ誇らしそうに微笑んだ。
「では、ライズ様も挑戦してみてください」
「……頑張ってみます」
僕は右手を差し出した。
魔力を集中させる。
冷気を生み出し、その形を整える。
理論は理解できている。
あとは、実践するだけだ。
「……よし」
小さな氷の塊が掌に現れる。
そこから花弁を作ろうとしたのだけれど。
「…………」
どうにも、うまくいかない。
花弁のつもりで伸ばした部分は妙に太く、茎も曲がってしまった。
完成したものは。
「……これは」
僕は自分の掌を見つめた。
丸くて、少し歪んでいて。
申し訳程度に突起がついている。
……うん。
どう見ても、花ではない。
「……ストレア様」
「は、はい」
「僕には、どうやら芸術的な才能がないようです」
そう言って、完成した氷の塊を見せる。
ストレア様はじっとそれを見つめた。
そして。
「……ふっ」
小さな声が漏れた。
「……あ」
彼女が慌てて口元を押さえる。
「も、申し訳ございません。決して笑おうとしたわけでは……」
「いえ、いいんですよ」
僕は自分の作った氷をもう一度眺めた。
「それにしても、何でしょうね、これ。花を作ったつもりだったんですが……」
「……そ、それは」
ストレア様の肩が、小さく震え始めた。
「……林檎、でしょうか」
「林檎?」
僕は掌の氷を見つめ直す。
なるほど。
確かに、丸い形と上についている突起が、林檎に見えなくもない。
「……昨日のお菓子のことを考えていたからでしょうか」
そう呟いた瞬間だった。
「……ふふっ」
ストレア様の口元から、笑い声が漏れた。
そして。
「ふふっ……あははっ!」
彼女は、楽しそうに笑い始めた。
僕は思わず目を見開いた。
……あ。
笑っている。
いつものような、控えめな微笑みではない。
声を上げて、本当に楽しそうに。
彼女は笑っていた。
「も、申し訳……ふふっ……だって、ライズ様……」
「……そんなに面白かったですか?」
「い、いえ……ですが……ふふっ」
僕はもう一度、自分の作った氷を見つめた。
……うん。
確かに、これはひどい。
そう思ったら、僕までおかしくなってきた。
「……ははっ」
気がつけば、僕も笑っていた。
二人の笑い声が、静かな温室に響く。
しばらくして、ようやく笑いが収まった。
ストレア様は目元に浮かんだ涙を、そっと指先で拭った。
「……申し訳ございません。私ったら、随分と失礼なことを……」
「いえ。僕も自分で笑ってしまいましたから」
「……そう、ですか」
彼女は少しだけ俯いた。
その表情には、恥ずかしさが滲んでいた。
「私、あのように声を上げて笑ったのは、久しぶりかもしれません」
「……そうなんですか?」
「はい。淑女たるもの、人前では慎みを忘れてはならないと教わってまいりましたので」
彼女は小さく微笑んだ。
「ですから、少し驚いてしまいました。自分にも、あんな笑い方ができるのですね」
その言葉を聞いて、僕は胸の奥が温かくなるのを感じた。
……そうか。
彼女はきっと、ずっと我慢してきたのだろう。
王太子の婚約者として。
公爵家の令嬢として。
誰からも非難されない、完璧な淑女であるために。
けれど。
「……僕は、さっきの笑顔も好きですよ」
思わず、そんな言葉が口から零れた。
ストレア様が、ぱちりと瞬きをした。
「……え?」
「とても楽しそうでしたから」
「…………っ」
彼女の頬が、ほんのりと赤く染まった。
「……ライズ様は、本当に」
「はい?」
「……何でもございません」
そう言って、彼女は小さく首を振った。
けれど、その口元にはまだ柔らかな笑みが浮かんでいる。
僕はそれを見て、改めて思った。
最初に心を奪われたのは、あの淡い水色の瞳だった。
けれど、今は。
彼女が楽しそうに話す姿も。
少し困ったように眉を下げる仕草も。
そして、今のように声を上げて笑う姿も。
全部、もっと知りたいと思っている。
「……ストレア様」
「はい?」
「また、一緒に何かしていただけませんか?」
そう尋ねると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……何か、ですか?」
「はい。魔法の練習でも、お茶会でも。何でも構いません」
僕は微笑んだ。
「あなたと一緒にいると、僕も楽しいので」
彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……はい」
その返事は、とても柔らかかった。
「私も、ライズ様とご一緒できれば嬉しいです」
胸が、大きく高鳴った。
……ああ。
本当に、この人には敵わない。
僕が微笑むと、ストレア様もまた、穏やかに微笑み返してくれた。
その笑顔を見ていると、自然と幸せな気持ちになる。
きっと、これからも。
僕はこの人の笑顔を、何度でも見たいと思うのだろう。
そんなことを考えていたときだった。
「……あの、ライズ様」
「はい?」
ストレア様が、少しだけ遠慮がちに口を開いた。
「もしよろしければ……」
「何でしょう?」
彼女は僕の掌に残された、歪な氷の塊を見つめた。
「……もう一度、作ってみませんか?」
「……え?」
「次は、私がお手伝いいたしますので」
そう言って、彼女はそっと僕の隣へ歩み寄った。
そして。
「失礼いたします」
小さく断ってから、僕の右手に自分の手を重ねた。
「……っ」
思わず、息が止まった。
彼女の指先は、氷魔法を扱っていたからか、少しだけ冷たかった。
けれど、不思議と。
触れられた場所から、温かさが広がっていくような気がした。
「このように、魔力をゆっくりと流して……」
ストレア様が、すぐ隣で説明を始める。
淡い水色の瞳が、真剣に僕の掌を見つめていた。
……近い。
ものすごく、近い。
「……ライズ様?」
「は、はい!」
「……どうかなさいましたか?」
「い、いえ。何でもありません」
慌てて首を振る。
すると、彼女は少しだけ首を傾げた。
けれど。
僕たちの手が重なっていることに気づいた瞬間。
「…………っ!」
その顔が、みるみる赤く染まっていった。
「……あ、あの!」
「は、はい!」
「こ、これは、その……魔力の流れをお伝えするためでして……!」
「も、もちろんです!」
「決して、他意があるわけでは……!」
「わ、わかっています!」
……何をやっているんだろう、僕たちは。
そう思った瞬間、思わず笑ってしまった。
「……ふふっ」
すると、ストレア様も小さく笑った。
「……もう、ライズ様ったら」
そう言いながらも、彼女はすぐには手を離さなかった。
僕も、離してほしいとは言わなかった。
温室の中には、柔らかな陽光が降り注いでいる。
重ねた掌の上では、小さな氷の花がゆっくりと形を成していた。
今度は、先ほどよりもずっと綺麗な花だった。
けれど。
僕にとって、それ以上に美しかったのは。
隣で楽しそうに微笑んでいる、彼女の笑顔だった。
……その笑顔を、もう一度。
いや。
これから先も、何度だって。
僕は、見ていたいと思ったのだった。
