黄金の瞳を持たない氷華の姫君は、今日も僕の隣で微笑んでいる

「……もう少し、でしょうか」

私は目の前に置かれた小さな焼き菓子を見つめながら、そっと呟きました。

香ばしい匂いが漂っています。

表面には綺麗な焼き色がついていて、見た目はなかなか悪くありません。

少なくとも、私にはそう見えます。

「……よし」

小さく頷いて、一つ手に取ります。

そして、期待を込めて口へ運びました。

「…………」

固い。

とても、固いです。

「……どうしてでしょう」

思わず首を傾げました。

材料の分量は、教えていただいた通りに量ったはずです。

焼き時間も間違っていません。

それなのに。

「……また、失敗してしまいました」

私は深いため息をつきました。

どうやら、私にはお菓子作りの才能がないようです。

昨日、ライズ様とのお茶会がありました。

初めて二人でゆっくりとお話しした時間は、私にとって、とても楽しいものでした。

魔法の研究についてお話ししたり、学院での生活について伺ったり。

それから、一緒に林檎のタルトをいただいたり。

……思い返すと、少しだけ恥ずかしくなります。

何しろ、私はあの方の前で、随分と食い意地を張ってしまいましたから。

最後に残っていた林檎のタルトを勧めていただいたときなど、嬉しさのあまり声を弾ませてしまいました。

公爵令嬢として、あまり褒められた振る舞いではありません。

けれど、ライズ様は笑ってくださいました。

嫌な笑い方ではなく、とても優しい笑顔で。

『好きなものについて話しているときのあなたは、とても素敵です』

「……っ」

思い出した途端、頬が熱くなります。

……もう。

あの方は、どうしてあんなにも簡単に人を褒められるのでしょうか。

私は今まで、淑女として恥ずかしくない振る舞いを心がけてきました。

けれど、ライズ様の前では、それがどうにも難しいのです。

「……お嬢様?」

不意に声をかけられ、私は我に返りました。

顔を上げると、屋敷の料理長が心配そうにこちらを見つめています。

「お加減でも悪いのでしょうか?」

「い、いいえ! 何でもございません!」

慌てて首を振ります。

すると、料理長は安心したように微笑みました。

「それでしたら、よろしいのですが。……しかし、お嬢様が自らお菓子を作りたいとおっしゃるとは、驚きました」

「……そうでしょうか」

「ええ。これまで厨房へいらっしゃることはあっても、実際に調理をなさることはありませんでしたから」

それは、確かにその通りでした。

貴族の令嬢である私は、普段、自ら料理をする必要がありません。

食事はすべて使用人たちが用意してくださいますし、お茶会のお菓子も料理長にお任せしています。

けれど。

昨日、ライズ様が林檎のタルトを美味しそうに召し上がっていた姿が、どうしても頭から離れなかったのです。

『本当に美味しいですね、これ』

あの方は、心から嬉しそうに笑っていました。

その表情を見たとき。

私は、ふと思ったのです。

もし、自分が作ったお菓子を食べていただけたら。

あの方は、どんな顔をなさるのでしょうか、と。

「……一度、自分で作ってみたかったのです」

私は小さく答えました。

料理長は何も言わず、優しく頷いてくださいました。

「そうでございましたか。では、もう一度挑戦してみましょう」

「……はい!」

私は袖をまくり、再び材料へと向き直りました。

今度こそ、美味しい焼き菓子を作ってみせます。

そう意気込んだのですが。

「……あっ」

混ぜていた生地が、勢い余って器から飛び出しました。

白い粉がふわりと舞い上がります。

「こ、これは……」

「お嬢様。もう少し優しく混ぜていただければ……」

「……申し訳ございません」

どうやら、お菓子作りというものは、私が思っていた以上に難しいようです。

氷属性魔法の精密制御なら、学院の教師にも褒めていただける自信があります。

複雑な魔法陣の構築も、膨大な計算が必要な研究も、苦ではありません。

それなのに、目の前の小さな生地一つ、思い通りに扱えないのですから。

……少しだけ、悔しいです。

「焦らなくても大丈夫ですよ、お嬢様」

料理長が微笑みました。

「お菓子作りは、何度も失敗して覚えていくものです」

「……そういうものなのですね」

「ええ。それに、大切なのは上手に作ることだけではありません」

「……?」

「誰かのために作りたいと思う、そのお気持ちも大切なのですよ」

その言葉に、私は思わず手を止めました。

誰かのために。

……そう、ですね。

私はもう一度、生地へと視線を落としました。

「……では、もう少しだけ頑張ってみます」

今度は、少しずつ。

焦らず、丁寧に。

料理長に教えていただきながら、私は再び焼き菓子作りへと取りかかりました。

翌日の放課後。

私は小さな包みを胸に抱え、学院の中庭へ向かっていました。

中には、昨日作った林檎の焼き菓子が入っています。

何度も失敗を重ね、ようやく形になったものです。

もちろん、料理長が作るお菓子には到底及びません。

少しだけ形も不揃いですし、焼き色にも差があります。

それでも。

「……大丈夫、でしょうか」

思わず不安が口をついて出ました。

今日、ライズ様には短い手紙をお送りしました。

放課後、少しだけお時間をいただけないかと。

お返事には、快く承諾する旨が書かれていました。

……ですが。

いざお渡しするとなると、急に恥ずかしくなってきます。

もし、美味しくなかったら。

もし、迷惑だと思われたら。

そんな考えばかりが浮かんでしまうのです。

「ストレア様」

不意に声が聞こえました。

顔を上げると、中庭の東屋の近くにライズ様が立っていました。

黒に近い濃紺の髪が、午後の日差しを受けて柔らかく輝いています。

私の姿を認めると、あの方は嬉しそうに微笑まれました。

「こんにちは。お待ちしていました」

「こ、こんにちは、ライズ様」

私は慌てて一礼します。

「突然お呼び立てしてしまい、申し訳ございません」

「いえ。ストレア様にお会いできるなら、僕は嬉しいですよ」

「……っ」

……またです。

また、そんなことを。

私は頬が熱くなるのを感じながら、そっと包みを差し出しました。

「あ、あの……こちらを」

「……僕に、ですか?」

「はい。その……昨日、少しだけお菓子作りをしてみまして」

ライズ様が目を丸くされました。

「ストレア様が作られたんですか?」

「……はい」

私は小さく頷きました。

「先日のお茶会で、ライズ様が林檎のタルトを美味しそうに召し上がっていらしたので……」

そこまで言って、言葉に詰まります。

……あれ?

私、何を申し上げているのでしょう。

これでは、あの方のために作ったと言っているようなものではありませんか。

……いえ。

実際、その通りなのですが。

「もしよろしければ、召し上がっていただけませんか?」

勇気を振り絞って告げると、ライズ様はぱっと表情を明るくされました。

「もちろんです!」

「……ほ、本当ですか?」

「はい。すごく嬉しいです」

その言葉に、胸の奥が温かくなりました。

ライズ様は包みを受け取ると、中に入っていた焼き菓子を一つ取り出されます。

小さな林檎の焼き菓子。

私が何度も失敗して、ようやく作ることのできたものです。

「いただきます」

そう言って、ライズ様は一口召し上がりました。

「…………」

私は思わず息を止めます。

……どうでしょう。

美味しいでしょうか。

それとも。

「……あ」

ライズ様が小さく声を漏らしました。

「少し、固めですね」

「っ……!」

や、やはり。

私は思わず俯きました。

「も、申し訳ございません……。やはり、料理長にお願いしたほうが……」

「でも」

その言葉に、私は顔を上げました。

ライズ様は、もう一口召し上がっています。

「林檎の香りがしっかりしていて、美味しいですよ」

「……え?」

「甘さも僕の好みです。それに、噛んでいるうちに林檎の風味が広がってきますね」

そう言って、あの方は微笑まれました。

「ありがとうございます、ストレア様」

「…………」

私はしばらく、言葉を返すことができませんでした。

……美味しい。

そう、言っていただけた。

「……本当に、そう思ってくださいますか?」

「もちろんです」

「でも、少し固かったのでしょう?」

「はい。そこは少しだけ」

ライズ様は正直に頷かれました。

そして、柔らかく笑います。

「でも、僕のために作ってくださったんですよね?」

「っ……!」

私は思わず顔を伏せました。

「……は、はい」

小さな声で答えます。

すると、ライズ様は嬉しそうにおっしゃいました。

「それが、何より嬉しいです」

……もう。

本当に。

この方は、どうして。

どうして、こんなにも真っ直ぐなのでしょうか。

「……ライズ様」

「はい?」

「私、実は……お菓子を作るのが、あまり得意ではないのです」

「そうなんですか?」

「はい。昨日も何度も失敗してしまって……」

私は少しだけ苦笑しました。

「勉学や魔法には、それなりに自信があるのですが。どうやら、お菓子作りは別のようです」

すると、ライズ様は不思議そうに首を傾げられました。

「でも、初めて挑戦されたんですよね?」

「……はい」

「だったら、これから上手になればいいんじゃないですか?」

「…………」

「ストレア様は努力家ですし、きっとすぐに上達しますよ」

あまりにも当然のことのように。

あの方は、そうおっしゃいました。

私は、その言葉を胸の中で繰り返します。

……これから、上手になればいい。

完璧でなくても。

最初から、何でもできなくても。

それで、いいのでしょうか。

「……そう、ですね」

私は小さく頷きました。

そして、そっと微笑みます。

「では、次はもっと美味しいものを作れるように、頑張ってみます」

「楽しみにしています」

ライズ様は嬉しそうに答えてくださいました。

その笑顔を見ていると、私まで嬉しくなってしまいます。

……不思議です。

これまで私は、失敗することが怖くて仕方ありませんでした。

公爵令嬢として、王太子の婚約者として。

常に完璧でなければならないと、そう思ってきたからです。

けれど。

今日、私は失敗してしまったお菓子を、この方にお渡ししました。

それなのに、ライズ様は笑ってくださいました。

私を責めることも、呆れることもなく。

ただ、嬉しいと。

そう言ってくださったのです。

「……ライズ様」

「はい?」

「また、作ってもよろしいでしょうか?」

そう尋ねると、あの方は少し驚いたように目を見開きました。

そして。

「もちろんです。何度でも食べたいです」

そう言って、優しく微笑まれました。

その瞬間。

胸の奥に、小さな喜びが広がっていくのを感じました。

「……ありがとうございます」

私はそっと頭を下げます。

けれど、顔を上げたときには、自然と笑みが零れていました。

完璧な淑女でなくても。

何でもできる公爵令嬢でなくても。

この方は、私と一緒に笑ってくださる。

それが、今はとても嬉しかったのです。

……ただ。

一つだけ、困ったことがあります。

ライズ様が美味しそうに焼き菓子を召し上がっている姿を見ていると。

どうしてでしょう。

私まで、もう一つ食べたくなってしまうのです。

「……あの、ライズ様」

「はい?」

「もしよろしければ……私も、一ついただいてよろしいでしょうか」

すると、あの方は一瞬だけ目を丸くされました。

そして、楽しそうに笑います。

「もちろんです。一緒に食べましょう」

「……はい!」

私は思わず、弾んだ声で答えてしまいました。

……あ。

また、淑女らしくない振る舞いを。

そう思いましたが。

ライズ様は、ただ嬉しそうに微笑んでいらっしゃいました。

その笑顔を見て、私も小さく笑います。

どうやら私は。

この方の前では、完璧な淑女でいることが難しいようです。

けれど。

……それも、悪くないのかもしれませんね。

私はそんなことを思いながら、少しだけ固い林檎の焼き菓子を、そっと口へ運んだのでした。