「……少し早く着きすぎたかな」
シュタインベル公爵邸の前に立った僕は、懐中時計を確認して小さく呟いた。
約束の時刻までは、まだ二十分ほどある。
今日は、ストレア様との初めてのお茶会だ。
王宮での舞踏会から始まり、公爵閣下との面談を経て、ようやく実現した二人の交流。
そう考えると、自然と胸が高鳴ってしまう。
「……落ち着こう」
僕は一度深呼吸をした。
いつものように振る舞えばいい。
妙に格好をつける必要も、無理に気の利いたことを言う必要もない。
ただ、彼女と楽しくお話しできれば、それで十分だ。
そう自分に言い聞かせ、門番へ来訪を告げる。
すると、すぐに使用人が迎えに現れた。
「ライズ・エールリッヒ様でございますね。お待ちしておりました」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞ、こちらへ。お嬢様がお待ちでございます」
……お待ち?
もしかして、ストレア様も早くから準備してくださっていたのだろうか。
そんなことを考えると、少しだけ嬉しくなった。
案内されたのは、公爵邸の南側に位置する庭園だった。
丁寧に手入れされた花々が咲き誇り、中央には小さな噴水がある。
そして、その奥。
白い柱に囲まれた東屋の下に、見覚えのある少女が立っていた。
「……ライズ様」
僕の姿に気づいた彼女が、ゆっくりと振り返る。
銀白色の長い髪。
透き通るような淡い水色の瞳。
今日は白を基調とした清楚なドレスに身を包んでおり、髪には小さな青いリボンが結ばれていた。
……ああ。
やっぱり、綺麗だ。
「ストレア様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
僕が一礼すると、彼女も優雅に膝を折った。
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。お会いできるのを楽しみにしておりました」
「……そうですか」
「はい。ですから、今日は少し早めに……」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
そして、なぜか頬を赤く染める。
「……い、いえ。何でもございません」
……なるほど。
もしかして、僕と同じだったのかな。
そう思うと、思わず頬が緩んでしまう。
「僕も楽しみにしていましたよ」
「……っ」
「おかげで、約束より随分早く着いてしまいました」
そう告げると、ストレア様は驚いたように目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……では、私たちは似た者同士なのかもしれませんね」
「そうですね」
その言葉が、なんだか嬉しかった。
「……ごほん」
不意に、背後から咳払いが聞こえた。
振り返ると、そこには腕を組んだガイウス公爵が立っていた。
……あ。
いらっしゃったんですね。
「エールリッヒ」
「こ、公爵閣下。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「うむ」
公爵は重々しく頷いた。
「先に言っておくが、娘は昨日、ようやく王家との婚約を正式に解消したばかりだ」
「はい。承知しております」
「無理に答えを求めたり、困らせたりすることは許さん」
「もちろんです」
「それから……」
「あなた」
公爵の言葉を遮るように、柔らかな声が響いた。
そこに現れたのは、上品な雰囲気を纏った女性だった。
淡い銀色の髪に、優しげな青い瞳。
シュタインベル公爵夫人、セレフィーナ様だ。
「いつまでお話ししているおつもりですか?」
「いや、私は父親として当然の注意を……」
「そのお話は、昨日から何度もなさっていたでしょう?」
「む……」
「せっかくストレアが楽しみにしていたのですから、そろそろ二人にしてあげましょう」
「し、しかし……!」
「あなた?」
「……わかった」
公爵が渋々頷く。
……すごい。
あのガイウス公爵閣下を、たった一言で黙らせてしまった。
僕が驚いていると、セレフィーナ様はこちらへ微笑みかけた。
「ライズ様。どうか娘と仲良くしてあげてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「ふふ。では、私たちは失礼しますね」
公爵夫妻が庭園を後にする。
もっとも、公爵閣下は最後まで名残惜しそうにこちらを振り返っていたけれど。
「……申し訳ございません、ライズ様」
ストレア様が困ったように眉を下げた。
「お父様は、少々心配性でいらっしゃるのです」
「いえ。大切な娘さんを心配するのは当然だと思います」
「……ありがとうございます」
彼女はほっとしたように息を吐いた。
それから僕を席へと案内する。
白い円卓には、美しく飾られた茶器と、色とりどりの焼き菓子が並べられていた。
「お手紙を拝見して、甘いものがお好きだと伺いましたので」
「はい。とても好きですよ」
「それでしたら、よかったです」
ストレア様は嬉しそうに頷いた。
「本日は厨房長にお願いして、いくつか用意していただきました」
「どれも美味しそうですね」
「……はい」
そこで、彼女の視線が一瞬だけ一つの皿へ向けられた。
小さな林檎のタルト。
香ばしく焼かれた生地の上に、薄く切られた林檎が綺麗に並んでいる。
……あれ?
今、少しだけ目が輝いたような。
気のせいだろうか。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
「ありがとうございます」
促されるまま席に着く。
ストレア様も向かい側に腰を下ろした。
侍女がお茶を注ぎ終えると、少し離れた場所へ下がっていく。
ようやく、二人で話せる時間になった。
……とはいえ。
「…………」
「…………」
困った。
何を話そう。
舞踏会では、勢いに任せてあれほど大胆なことを言えたというのに。
いざ落ち着いて向かい合うと、妙に緊張してしまう。
ストレア様も同じなのか、ティーカップに手を添えたまま、どこか落ち着かない様子だった。
……よし。
ここは僕から話しかけよう。
「そういえば、ストレア様」
「は、はい!」
「先日、学院の図書館であなたの研究資料を拝見しました」
「……私の研究、ですか?」
「ええ。氷属性魔法の魔力消費についての研究です」
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「……あちらをご覧になったのですね」
「はい。とても興味深かったです」
「ありがとうございます。ですが、まだ改善の余地が多く残っておりまして……」
「それでも、魔力の少ない人が利用できる冷却装置という発想は素晴らしいと思いました」
そう告げると、ストレア様は驚いたように目を見開いた。
「……そこまで、お読みくださったのですか?」
「もちろんです」
「ですが、あの資料は専門的な内容が多く、途中から随分と難しい記述になっていたかと……」
「正直に言うと、全部を理解できたわけではありません」
僕は苦笑した。
「でも、あなたが何を目指して研究しているのかは、少しだけわかった気がします」
「……何を、目指して」
「ええ。魔法が得意な人だけではなく、誰もが便利に暮らせるようにしたい。そういう思いがあるんじゃないですか?」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい。その通りです」
その声は、先ほどまでより少しだけ弾んでいた。
「魔法は、優れた才能を持つ者だけのものではないと、私は考えております」
「ええ」
「例えば、夏場に食料を保存するための冷却魔法は、魔力の消費が大きいのです。ですが、魔力の流れを工夫すれば、少ない魔力でも同じ効果を得られるのではないかと……」
そこまで話して、彼女ははっとした。
「……も、申し訳ございません!」
「え?」
「私ばかり、お話ししてしまいました」
ストレア様は恥ずかしそうに俯いた。
「研究のお話になると、つい夢中になってしまいまして……」
僕は思わず首を傾げた。
「どうして謝るんですか?」
「……え?」
「僕はもっと聞きたいですよ」
彼女が顔を上げる。
「好きなことを話しているストレア様は、とても楽しそうですから」
「…………っ」
その頬が、また赤くなった。
「ラ、ライズ様は……」
「はい?」
「本当に、そのようなことを平然とおっしゃるのですね……」
「……すみません」
「い、いえ! 嫌というわけではないのです!」
慌てて首を振る彼女。
そして、小さな声で付け加えた。
「……ただ、少しだけ、慣れていないだけで」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「なら、少しずつ慣れていただけたら嬉しいです」
「……もう」
ストレア様は困ったように眉を下げた。
けれど、その表情はどこか柔らかかった。
しばらくして、僕たちはお茶を楽しみながら学院の授業や好きな本について話した。
彼女は歴史書や魔法学の文献を好み、僕は法律や経済に関する本をよく読む。
意外なことに、好みはそれほど似ていなかった。
けれど、不思議と会話が途切れることはなかった。
知らないことを教えてもらうのは楽しかったし、僕の話にも彼女は真剣に耳を傾けてくれたからだ。
そして。
「……ストレア様」
「はい?」
「その林檎のタルト、召し上がらないんですか?」
僕が尋ねると、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「……え?」
「先ほどから、何度かご覧になっていたようなので」
「そ、それは……!」
彼女の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「……お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました」
「どうしてですか?」
「私、少々……甘いものが好きでして」
「いいじゃないですか。僕も好きですよ」
「ですが、あまり食べすぎるのは淑女として……」
「それなら、一緒に食べませんか?」
「……一緒に?」
「はい。僕も気になっていたんです」
そう言って、僕は一つ手に取った。
口へ運ぶと、香ばしい生地と林檎の優しい甘さが広がる。
「……美味しい」
思わず声が漏れた。
「本当に美味しいですね、これ」
「……っ!」
ストレア様の瞳が、ぱっと輝いた。
「そ、そうでしょう! こちらの林檎は北方の公爵領で育てられたもので、焼くと甘みが強くなるのです!」
「へえ、そうなんですか」
「はい! それに、生地には蜂蜜を少し加えておりまして……」
そこまで話して、彼女は口を閉じた。
「…………」
「ストレア様?」
「……また、夢中になってしまいました」
恥ずかしそうに目を伏せる。
僕は思わず笑ってしまった。
「いいと思いますよ」
「……え?」
「好きなものについて話しているときのあなたは、とても素敵です」
「~~~~っ!」
……あ。
また赤くなってしまった。
もしかして、僕は少し褒めすぎなのだろうか。
けれど、思ったことを口にしているだけなのだから、仕方がない。
「……ライズ様」
「はい」
「一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ストレア様は、少しだけ迷うような素振りを見せた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……私とお話ししていて、楽しいですか?」
その問いに、僕は一瞬だけ驚いた。
そして、すぐに頷いた。
「はい。とても」
「……本当に?」
「ええ。できれば、もう少しお話ししていたいくらいです」
彼女の水色の瞳が、わずかに揺れた。
「……そう、ですか」
そして、そっとティーカップへ視線を落とす。
「……私も」
「え?」
「私も、とても楽しいです」
小さな、小さな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
その言葉が嬉しくて、僕は自然と微笑んでいた。
「それなら、よかったです」
ストレア様は顔を上げた。
そして、ほんの少しだけ。
口元を緩めてくれた。
……ああ。
やっぱり、この人の笑顔は綺麗だ。
もっと見たい。
もっと、いろいろな表情を知りたい。
そんな気持ちが、胸の奥から湧き上がってくる。
けれど、焦る必要はない。
僕たちは、まだ出会ったばかりなのだから。
「ストレア様」
「はい?」
「また、こうしてお茶をご一緒していただけませんか?」
彼女は少し驚いたように瞬きをした。
そして、ゆっくりと頷く。
「……はい」
その声には、先ほどまでの戸惑いがほとんど感じられなかった。
「私でよろしければ、ぜひ」
僕は嬉しくなって、思わず笑みを深めた。
こうして、僕たちの初めてのお茶会は、穏やかに幕を閉じた。
ただ一つ。
帰り際に、僕は気づいてしまったことがある。
それは。
ストレア様が、僕と話している間も、何度か林檎のタルトへ視線を向けていたことだ。
そして、僕が最後の一つを彼女へ勧めると。
「……よろしいのですか?」
と、信じられないほど嬉しそうな声を上げたこと。
……なるほど。
どうやら、完璧な淑女と呼ばれる彼女には、僕がまだ知らない可愛らしい一面があるらしい。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
次に会うときは、もう少しだけ彼女の好きなものを知れたらいい。
僕はそう考えながら、公爵邸を後にした。
そして。
この日から僕は、林檎のタルトを見るたびに、淡い水色の瞳を輝かせた一人の少女を思い出すようになったのだった。
シュタインベル公爵邸の前に立った僕は、懐中時計を確認して小さく呟いた。
約束の時刻までは、まだ二十分ほどある。
今日は、ストレア様との初めてのお茶会だ。
王宮での舞踏会から始まり、公爵閣下との面談を経て、ようやく実現した二人の交流。
そう考えると、自然と胸が高鳴ってしまう。
「……落ち着こう」
僕は一度深呼吸をした。
いつものように振る舞えばいい。
妙に格好をつける必要も、無理に気の利いたことを言う必要もない。
ただ、彼女と楽しくお話しできれば、それで十分だ。
そう自分に言い聞かせ、門番へ来訪を告げる。
すると、すぐに使用人が迎えに現れた。
「ライズ・エールリッヒ様でございますね。お待ちしておりました」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞ、こちらへ。お嬢様がお待ちでございます」
……お待ち?
もしかして、ストレア様も早くから準備してくださっていたのだろうか。
そんなことを考えると、少しだけ嬉しくなった。
案内されたのは、公爵邸の南側に位置する庭園だった。
丁寧に手入れされた花々が咲き誇り、中央には小さな噴水がある。
そして、その奥。
白い柱に囲まれた東屋の下に、見覚えのある少女が立っていた。
「……ライズ様」
僕の姿に気づいた彼女が、ゆっくりと振り返る。
銀白色の長い髪。
透き通るような淡い水色の瞳。
今日は白を基調とした清楚なドレスに身を包んでおり、髪には小さな青いリボンが結ばれていた。
……ああ。
やっぱり、綺麗だ。
「ストレア様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
僕が一礼すると、彼女も優雅に膝を折った。
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。お会いできるのを楽しみにしておりました」
「……そうですか」
「はい。ですから、今日は少し早めに……」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
そして、なぜか頬を赤く染める。
「……い、いえ。何でもございません」
……なるほど。
もしかして、僕と同じだったのかな。
そう思うと、思わず頬が緩んでしまう。
「僕も楽しみにしていましたよ」
「……っ」
「おかげで、約束より随分早く着いてしまいました」
そう告げると、ストレア様は驚いたように目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……では、私たちは似た者同士なのかもしれませんね」
「そうですね」
その言葉が、なんだか嬉しかった。
「……ごほん」
不意に、背後から咳払いが聞こえた。
振り返ると、そこには腕を組んだガイウス公爵が立っていた。
……あ。
いらっしゃったんですね。
「エールリッヒ」
「こ、公爵閣下。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「うむ」
公爵は重々しく頷いた。
「先に言っておくが、娘は昨日、ようやく王家との婚約を正式に解消したばかりだ」
「はい。承知しております」
「無理に答えを求めたり、困らせたりすることは許さん」
「もちろんです」
「それから……」
「あなた」
公爵の言葉を遮るように、柔らかな声が響いた。
そこに現れたのは、上品な雰囲気を纏った女性だった。
淡い銀色の髪に、優しげな青い瞳。
シュタインベル公爵夫人、セレフィーナ様だ。
「いつまでお話ししているおつもりですか?」
「いや、私は父親として当然の注意を……」
「そのお話は、昨日から何度もなさっていたでしょう?」
「む……」
「せっかくストレアが楽しみにしていたのですから、そろそろ二人にしてあげましょう」
「し、しかし……!」
「あなた?」
「……わかった」
公爵が渋々頷く。
……すごい。
あのガイウス公爵閣下を、たった一言で黙らせてしまった。
僕が驚いていると、セレフィーナ様はこちらへ微笑みかけた。
「ライズ様。どうか娘と仲良くしてあげてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「ふふ。では、私たちは失礼しますね」
公爵夫妻が庭園を後にする。
もっとも、公爵閣下は最後まで名残惜しそうにこちらを振り返っていたけれど。
「……申し訳ございません、ライズ様」
ストレア様が困ったように眉を下げた。
「お父様は、少々心配性でいらっしゃるのです」
「いえ。大切な娘さんを心配するのは当然だと思います」
「……ありがとうございます」
彼女はほっとしたように息を吐いた。
それから僕を席へと案内する。
白い円卓には、美しく飾られた茶器と、色とりどりの焼き菓子が並べられていた。
「お手紙を拝見して、甘いものがお好きだと伺いましたので」
「はい。とても好きですよ」
「それでしたら、よかったです」
ストレア様は嬉しそうに頷いた。
「本日は厨房長にお願いして、いくつか用意していただきました」
「どれも美味しそうですね」
「……はい」
そこで、彼女の視線が一瞬だけ一つの皿へ向けられた。
小さな林檎のタルト。
香ばしく焼かれた生地の上に、薄く切られた林檎が綺麗に並んでいる。
……あれ?
今、少しだけ目が輝いたような。
気のせいだろうか。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
「ありがとうございます」
促されるまま席に着く。
ストレア様も向かい側に腰を下ろした。
侍女がお茶を注ぎ終えると、少し離れた場所へ下がっていく。
ようやく、二人で話せる時間になった。
……とはいえ。
「…………」
「…………」
困った。
何を話そう。
舞踏会では、勢いに任せてあれほど大胆なことを言えたというのに。
いざ落ち着いて向かい合うと、妙に緊張してしまう。
ストレア様も同じなのか、ティーカップに手を添えたまま、どこか落ち着かない様子だった。
……よし。
ここは僕から話しかけよう。
「そういえば、ストレア様」
「は、はい!」
「先日、学院の図書館であなたの研究資料を拝見しました」
「……私の研究、ですか?」
「ええ。氷属性魔法の魔力消費についての研究です」
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「……あちらをご覧になったのですね」
「はい。とても興味深かったです」
「ありがとうございます。ですが、まだ改善の余地が多く残っておりまして……」
「それでも、魔力の少ない人が利用できる冷却装置という発想は素晴らしいと思いました」
そう告げると、ストレア様は驚いたように目を見開いた。
「……そこまで、お読みくださったのですか?」
「もちろんです」
「ですが、あの資料は専門的な内容が多く、途中から随分と難しい記述になっていたかと……」
「正直に言うと、全部を理解できたわけではありません」
僕は苦笑した。
「でも、あなたが何を目指して研究しているのかは、少しだけわかった気がします」
「……何を、目指して」
「ええ。魔法が得意な人だけではなく、誰もが便利に暮らせるようにしたい。そういう思いがあるんじゃないですか?」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい。その通りです」
その声は、先ほどまでより少しだけ弾んでいた。
「魔法は、優れた才能を持つ者だけのものではないと、私は考えております」
「ええ」
「例えば、夏場に食料を保存するための冷却魔法は、魔力の消費が大きいのです。ですが、魔力の流れを工夫すれば、少ない魔力でも同じ効果を得られるのではないかと……」
そこまで話して、彼女ははっとした。
「……も、申し訳ございません!」
「え?」
「私ばかり、お話ししてしまいました」
ストレア様は恥ずかしそうに俯いた。
「研究のお話になると、つい夢中になってしまいまして……」
僕は思わず首を傾げた。
「どうして謝るんですか?」
「……え?」
「僕はもっと聞きたいですよ」
彼女が顔を上げる。
「好きなことを話しているストレア様は、とても楽しそうですから」
「…………っ」
その頬が、また赤くなった。
「ラ、ライズ様は……」
「はい?」
「本当に、そのようなことを平然とおっしゃるのですね……」
「……すみません」
「い、いえ! 嫌というわけではないのです!」
慌てて首を振る彼女。
そして、小さな声で付け加えた。
「……ただ、少しだけ、慣れていないだけで」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「なら、少しずつ慣れていただけたら嬉しいです」
「……もう」
ストレア様は困ったように眉を下げた。
けれど、その表情はどこか柔らかかった。
しばらくして、僕たちはお茶を楽しみながら学院の授業や好きな本について話した。
彼女は歴史書や魔法学の文献を好み、僕は法律や経済に関する本をよく読む。
意外なことに、好みはそれほど似ていなかった。
けれど、不思議と会話が途切れることはなかった。
知らないことを教えてもらうのは楽しかったし、僕の話にも彼女は真剣に耳を傾けてくれたからだ。
そして。
「……ストレア様」
「はい?」
「その林檎のタルト、召し上がらないんですか?」
僕が尋ねると、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「……え?」
「先ほどから、何度かご覧になっていたようなので」
「そ、それは……!」
彼女の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「……お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました」
「どうしてですか?」
「私、少々……甘いものが好きでして」
「いいじゃないですか。僕も好きですよ」
「ですが、あまり食べすぎるのは淑女として……」
「それなら、一緒に食べませんか?」
「……一緒に?」
「はい。僕も気になっていたんです」
そう言って、僕は一つ手に取った。
口へ運ぶと、香ばしい生地と林檎の優しい甘さが広がる。
「……美味しい」
思わず声が漏れた。
「本当に美味しいですね、これ」
「……っ!」
ストレア様の瞳が、ぱっと輝いた。
「そ、そうでしょう! こちらの林檎は北方の公爵領で育てられたもので、焼くと甘みが強くなるのです!」
「へえ、そうなんですか」
「はい! それに、生地には蜂蜜を少し加えておりまして……」
そこまで話して、彼女は口を閉じた。
「…………」
「ストレア様?」
「……また、夢中になってしまいました」
恥ずかしそうに目を伏せる。
僕は思わず笑ってしまった。
「いいと思いますよ」
「……え?」
「好きなものについて話しているときのあなたは、とても素敵です」
「~~~~っ!」
……あ。
また赤くなってしまった。
もしかして、僕は少し褒めすぎなのだろうか。
けれど、思ったことを口にしているだけなのだから、仕方がない。
「……ライズ様」
「はい」
「一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ストレア様は、少しだけ迷うような素振りを見せた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……私とお話ししていて、楽しいですか?」
その問いに、僕は一瞬だけ驚いた。
そして、すぐに頷いた。
「はい。とても」
「……本当に?」
「ええ。できれば、もう少しお話ししていたいくらいです」
彼女の水色の瞳が、わずかに揺れた。
「……そう、ですか」
そして、そっとティーカップへ視線を落とす。
「……私も」
「え?」
「私も、とても楽しいです」
小さな、小さな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
その言葉が嬉しくて、僕は自然と微笑んでいた。
「それなら、よかったです」
ストレア様は顔を上げた。
そして、ほんの少しだけ。
口元を緩めてくれた。
……ああ。
やっぱり、この人の笑顔は綺麗だ。
もっと見たい。
もっと、いろいろな表情を知りたい。
そんな気持ちが、胸の奥から湧き上がってくる。
けれど、焦る必要はない。
僕たちは、まだ出会ったばかりなのだから。
「ストレア様」
「はい?」
「また、こうしてお茶をご一緒していただけませんか?」
彼女は少し驚いたように瞬きをした。
そして、ゆっくりと頷く。
「……はい」
その声には、先ほどまでの戸惑いがほとんど感じられなかった。
「私でよろしければ、ぜひ」
僕は嬉しくなって、思わず笑みを深めた。
こうして、僕たちの初めてのお茶会は、穏やかに幕を閉じた。
ただ一つ。
帰り際に、僕は気づいてしまったことがある。
それは。
ストレア様が、僕と話している間も、何度か林檎のタルトへ視線を向けていたことだ。
そして、僕が最後の一つを彼女へ勧めると。
「……よろしいのですか?」
と、信じられないほど嬉しそうな声を上げたこと。
……なるほど。
どうやら、完璧な淑女と呼ばれる彼女には、僕がまだ知らない可愛らしい一面があるらしい。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
次に会うときは、もう少しだけ彼女の好きなものを知れたらいい。
僕はそう考えながら、公爵邸を後にした。
そして。
この日から僕は、林檎のタルトを見るたびに、淡い水色の瞳を輝かせた一人の少女を思い出すようになったのだった。
