「ストレア。今日は王宮へ行くぞ」
朝食を終えた私に、お父様はそう告げました。
「……王宮、でございますか?」
「ああ。陛下から正式な召喚があった。レイド殿下との婚約について、話し合いの場が設けられる」
その言葉を聞いて、私は思わず手を止めました。
婚約破棄。
あの舞踏会で突然告げられた言葉が、脳裏をよぎります。
王太子レイド・アズナル殿下。
幼い頃から、私の婚約者だった方。
いつか王太子妃となり、隣に立つことを当然だと思っていました。
そのために、たくさんの努力を重ねてきました。
礼儀作法も、政治学も、外交学も。
魔法の研究だって、将来王国の役に立てばと思って続けてきたのです。
けれど。
「……承知いたしました、お父様」
私は静かに頷きました。
もう、あの方の隣に立つことはないのでしょう。
そう思うと、胸の奥に小さな痛みが走りました。
それが悲しみなのか、寂しさなのか。
今の私には、まだわかりませんでした。
「ストレア」
お父様が、優しく私の名前を呼びます。
「無理をする必要はない。今日の話し合いも、私がすべて引き受けて構わんのだぞ」
「……いいえ」
私は首を横に振りました。
「私自身に関わることですから。最後まで、きちんと向き合いたいと思います」
「……そうか」
お父様は少しだけ目を細めました。
そして、静かに頷きます。
「わかった。ならば、一緒に行こう」
その声音は、いつもより少しだけ柔らかく感じられました。
王宮へ到着すると、私たちは侍従の案内で奥の会議室へ通されました。
室内には、すでに国王陛下がいらっしゃいました。
そして、その隣にはレイド殿下の姿もあります。
「シュタインベル公爵。よく来てくれた」
「陛下。本日はお時間をいただき、感謝申し上げます」
お父様が深く頭を下げます。
私もそれに倣いました。
「ストレア・シュタインベルにございます。本日はよろしくお願いいたします」
「ああ。顔を上げてくれ」
国王陛下の声音は、普段よりも重々しいものでした。
「まずは、先日の舞踏会で息子が起こした騒動について、王家を代表して謝罪したい」
「……陛下」
「そなたには、長年にわたり王太子妃となるための努力を重ねてもらった。それにもかかわらず、あのような形で名誉を傷つけてしまったこと、誠に申し訳なく思う」
私は思わず目を見開きました。
国王陛下が、私に頭を下げようとなさったのです。
「ど、どうかお顔をお上げください!」
慌てて声を上げると、陛下は小さく苦笑されました。
「そなたは相変わらず優しいな」
「……恐れ入ります」
「だが、今回の件については王家に非がある。そこは明確にしておかねばなるまい」
その言葉に、隣にいたレイド殿下が不満そうに顔を歪めました。
「父上! 私は間違ったことなどしておりません!」
「レイド。黙りなさい」
「しかし!」
「黙れと言っている」
静かな声でした。
けれど、その一言でレイド殿下は口を閉ざしました。
陛下は深いため息をつき、私へと視線を戻されます。
「ストレア。そなたに一つ尋ねたい」
「はい」
「レイドとの婚約について、そなた自身はどう考えている?」
……私自身。
その言葉に、胸が小さく揺れました。
婚約を続けたいか。
それとも、解消したいか。
これまで、そのようなことを尋ねられた経験はありませんでした。
幼い頃に婚約が決まり、私はそれを受け入れました。
王太子妃にふさわしい淑女になる。
それこそが、私に与えられた役目だったからです。
ですが。
今となっては、もう。
「……恐れながら、陛下」
私はゆっくりと口を開きました。
「私も、婚約の解消を望みます」
その瞬間、レイド殿下が顔を上げました。
「……何?」
私は殿下へ視線を向けます。
「殿下は、私を王太子妃としてふさわしくないとお考えなのでしょう」
「あ、ああ! 当然だ!」
「でしたら、これ以上婚約を続けることは、互いにとって望ましくないと存じます」
「…………」
「これまでのご厚意には感謝しております。ですが、今後はそれぞれ別の道を歩むべきかと」
私が頭を下げると、レイド殿下はなぜか不快そうに顔を歪めました。
「……随分と、あっさりしているのだな」
「……はい?」
「私との婚約がなくなるのだぞ? 少しは惜しいと思わないのか!」
その言葉に、私は一瞬だけ困惑しました。
婚約を破棄すると宣言されたのは、殿下ご自身のはずです。
それなのに、どうしてそのようなことをおっしゃるのでしょう。
「……殿下」
私は静かに答えました。
「婚約について、私が惜しむかどうかは、すでに関係のないことかと存じます」
「なっ……!」
「私は、殿下のお気持ちを尊重したまでです」
レイド殿下は何かを言いかけましたが、結局言葉を飲み込みました。
その様子を見て、お父様が小さく息を吐きます。
「陛下。娘の意思も確認できたことです。正式な手続きへ進ませていただきたい」
「……うむ」
その後、両家の婚約解消についての協議が始まりました。
王家と公爵家の間で結ばれた婚約です。
当然、ただ一枚の書類に署名すれば終わるというものではありません。
これまでの取り決めや、将来の役割についても整理する必要があります。
もっとも、その大部分はお父様と陛下が事前に話し合ってくださっていたようでした。
婚約解消によってシュタインベル公爵家の名誉が傷つかないよう、王家から正式な説明がなされること。
今回の騒動が、私の不品行や能力不足によるものではないと明確にすること。
そして、婚約のために公爵家が負担してきた費用についても、適切な補償を行うこと。
一つ一つの条件が確認されていきます。
その中で、お父様は特に一つの点を強く求められました。
「娘の瞳の色を、婚約破棄の正当な理由として扱わぬこと。それだけは、必ず明言していただきたい」
「……ガイウス」
「娘は生まれ持った瞳の色を理由に、長年不当な評価を受けてまいりました。それを王家が肯定するのであれば、私は決して承服いたしかねます」
お父様の声音は静かでした。
けれど、そこには一歩も譲らないという強い意思が込められていました。
国王陛下はしばらく考え込まれた後、ゆっくりと頷かれました。
「……当然の要求だ。瞳の色で人の価値が決まるものではない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなりました。
すぐに王国の価値観が変わるわけではないでしょう。
それでも。
私の瞳を、否定しなくてもいい。
そう認めていただけたことが、嬉しかったのです。
やがて、すべての確認が終わりました。
目の前に差し出されたのは、一枚の書類。
婚約解消に関する正式な同意書でした。
私は羽根ペンを手に取ります。
そして、ほんの一瞬だけ、その文字を見つめました。
ストレア・シュタインベル。
これまで、何度も書いてきた自分の名前。
けれど、今日は少しだけ意味が違って感じられました。
この署名をすれば、私はもう王太子の婚約者ではなくなります。
幼い頃から目指してきた未来が、ここで終わるのです。
……不思議ですね。
悲しいはずなのに。
どうしてでしょう。
少しだけ、肩の荷が下りたような気がするのです。
私は静かにペンを走らせました。
そして、最後の一文字を書き終えます。
「……これで、よろしいでしょうか」
「ああ」
陛下は書類を確認すると、頷かれました。
「これをもって、レイド・アズナルとストレア・シュタインベルの婚約を、正式に解消する」
その言葉が、静かな室内に響きました。
こうして。
私は、王太子の婚約者ではなくなりました。
王宮を出ると、午後の柔らかな日差しが私たちを迎えてくれました。
「……ストレア」
馬車へ乗り込む前、お父様が私を呼び止めます。
「本当に、よかったのだな?」
「……はい」
私は頷きました。
「これで、よかったのだと思います」
「……そうか」
お父様はしばらく私を見つめていました。
そして、不意に大きな手を伸ばし、私の頭を優しく撫でてくださいました。
「よく頑張ったな」
「……お父様」
「もう、無理に王太子妃らしく振る舞う必要はない。これからは、お前自身の幸せを考えなさい」
その言葉に、胸が詰まりました。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げました。
けれど。
自分自身の幸せ。
そう言われても、何をすればよいのか、すぐには思いつきませんでした。
これまでの私は、誰かに求められる姿を目指して生きてきました。
王太子妃としてふさわしい女性。
シュタインベル公爵家の令嬢。
誰からも非難されない、完璧な淑女。
そんな私が、これから何を望めばよいのでしょうか。
答えは、まだ見つかりません。
屋敷に戻った後も、そのことばかり考えていました。
ところが。
夕方になって、私のもとへ一通の手紙が届けられたのです。
「……ライズ様から?」
封筒には、見覚えのある名前が記されていました。
ライズ・エールリッヒ。
昨日、お茶会の招待状をお送りした方です。
私は少しだけ胸を高鳴らせながら、封を開きました。
『ご丁寧なお心遣いをありがとうございます。僕は甘いものが好きなので、特に苦手なお菓子はありません』
そこまで読んで、思わず微笑みました。
……よかった。
甘いものがお好きなのですね。
それでしたら、厨房長にも相談して、美味しいお菓子を用意していただきましょう。
そんなことを考えながら、続きを読み進めます。
『もしよろしければ、当日はストレア様がお好きなお菓子を一緒にいただけたら嬉しいです』
「…………っ」
手が止まりました。
……私の、好きなお菓子?
私は、もう一度その一文を読み返しました。
ライズ様は、ご自分の好みではなく、私の好きなものを一緒に食べたいとおっしゃっているのです。
たった、それだけのこと。
けれど。
なぜでしょう。
胸の奥が、じんわりと温かくなりました。
「……本当に、不思議な方」
思わず、そんな言葉が零れます。
あの方は、いつもそうです。
私が今まで当たり前だと思っていたことを、簡単に覆してしまいます。
黄金色の瞳こそが美しいという価値観も。
公爵令嬢として完璧でなければならないという思い込みも。
そして、今度は。
自分の好きなものを、大切にしていいのだと。
そう言われているような気がしたのです。
「……お菓子」
私は少し考えました。
好きなお菓子なら、あります。
小さな頃から、ずっと好きだったもの。
ですが、あまり淑女らしい好みではないかもしれません。
……いえ。
そんなことを気にする必要は、もうないのでしょうか。
私はそっと手紙を胸元へ寄せました。
明日。
ライズ様が、この屋敷へいらっしゃいます。
あの方とお話しするのは、これで三度目。
まだ、お互いのことをほとんど知りません。
それでも。
「……楽しみ、です」
ぽつりと呟いてから、私は目を見開きました。
……あ。
今、私は。
自分から、楽しみだと思いました。
誰かに命じられたからでも。
公爵令嬢としての義務だからでもありません。
ただ、あの方に会えることが。
あの方とお話しできることが。
純粋に、楽しみだったのです。
「……ふふ」
自然と、笑みが零れました。
婚約者ではなくなった今日。
私は、これから何を目指せばいいのかわからなくなっていました。
けれど、たった一つだけ。
明日が楽しみだと思える理由を、見つけることができたのです。
「……ライズ様」
私は小さく、その名前を呼びました。
あの方は、また私の瞳を褒めてくださるのでしょうか。
そう考えるだけで、頬が熱くなります。
……困りましたね。
どうやら私は、明日も落ち着いてお話しすることが難しそうです。
それでも。
できることなら、もう一度。
あの方の優しい琥珀色の瞳を、近くで見てみたい。
そんなことを思いながら、私は手紙を大切に机の引き出しへしまいました。
明日は、きっと。
今日よりも少しだけ、素敵な一日になる。
なぜだか、そんな気がしていました。
朝食を終えた私に、お父様はそう告げました。
「……王宮、でございますか?」
「ああ。陛下から正式な召喚があった。レイド殿下との婚約について、話し合いの場が設けられる」
その言葉を聞いて、私は思わず手を止めました。
婚約破棄。
あの舞踏会で突然告げられた言葉が、脳裏をよぎります。
王太子レイド・アズナル殿下。
幼い頃から、私の婚約者だった方。
いつか王太子妃となり、隣に立つことを当然だと思っていました。
そのために、たくさんの努力を重ねてきました。
礼儀作法も、政治学も、外交学も。
魔法の研究だって、将来王国の役に立てばと思って続けてきたのです。
けれど。
「……承知いたしました、お父様」
私は静かに頷きました。
もう、あの方の隣に立つことはないのでしょう。
そう思うと、胸の奥に小さな痛みが走りました。
それが悲しみなのか、寂しさなのか。
今の私には、まだわかりませんでした。
「ストレア」
お父様が、優しく私の名前を呼びます。
「無理をする必要はない。今日の話し合いも、私がすべて引き受けて構わんのだぞ」
「……いいえ」
私は首を横に振りました。
「私自身に関わることですから。最後まで、きちんと向き合いたいと思います」
「……そうか」
お父様は少しだけ目を細めました。
そして、静かに頷きます。
「わかった。ならば、一緒に行こう」
その声音は、いつもより少しだけ柔らかく感じられました。
王宮へ到着すると、私たちは侍従の案内で奥の会議室へ通されました。
室内には、すでに国王陛下がいらっしゃいました。
そして、その隣にはレイド殿下の姿もあります。
「シュタインベル公爵。よく来てくれた」
「陛下。本日はお時間をいただき、感謝申し上げます」
お父様が深く頭を下げます。
私もそれに倣いました。
「ストレア・シュタインベルにございます。本日はよろしくお願いいたします」
「ああ。顔を上げてくれ」
国王陛下の声音は、普段よりも重々しいものでした。
「まずは、先日の舞踏会で息子が起こした騒動について、王家を代表して謝罪したい」
「……陛下」
「そなたには、長年にわたり王太子妃となるための努力を重ねてもらった。それにもかかわらず、あのような形で名誉を傷つけてしまったこと、誠に申し訳なく思う」
私は思わず目を見開きました。
国王陛下が、私に頭を下げようとなさったのです。
「ど、どうかお顔をお上げください!」
慌てて声を上げると、陛下は小さく苦笑されました。
「そなたは相変わらず優しいな」
「……恐れ入ります」
「だが、今回の件については王家に非がある。そこは明確にしておかねばなるまい」
その言葉に、隣にいたレイド殿下が不満そうに顔を歪めました。
「父上! 私は間違ったことなどしておりません!」
「レイド。黙りなさい」
「しかし!」
「黙れと言っている」
静かな声でした。
けれど、その一言でレイド殿下は口を閉ざしました。
陛下は深いため息をつき、私へと視線を戻されます。
「ストレア。そなたに一つ尋ねたい」
「はい」
「レイドとの婚約について、そなた自身はどう考えている?」
……私自身。
その言葉に、胸が小さく揺れました。
婚約を続けたいか。
それとも、解消したいか。
これまで、そのようなことを尋ねられた経験はありませんでした。
幼い頃に婚約が決まり、私はそれを受け入れました。
王太子妃にふさわしい淑女になる。
それこそが、私に与えられた役目だったからです。
ですが。
今となっては、もう。
「……恐れながら、陛下」
私はゆっくりと口を開きました。
「私も、婚約の解消を望みます」
その瞬間、レイド殿下が顔を上げました。
「……何?」
私は殿下へ視線を向けます。
「殿下は、私を王太子妃としてふさわしくないとお考えなのでしょう」
「あ、ああ! 当然だ!」
「でしたら、これ以上婚約を続けることは、互いにとって望ましくないと存じます」
「…………」
「これまでのご厚意には感謝しております。ですが、今後はそれぞれ別の道を歩むべきかと」
私が頭を下げると、レイド殿下はなぜか不快そうに顔を歪めました。
「……随分と、あっさりしているのだな」
「……はい?」
「私との婚約がなくなるのだぞ? 少しは惜しいと思わないのか!」
その言葉に、私は一瞬だけ困惑しました。
婚約を破棄すると宣言されたのは、殿下ご自身のはずです。
それなのに、どうしてそのようなことをおっしゃるのでしょう。
「……殿下」
私は静かに答えました。
「婚約について、私が惜しむかどうかは、すでに関係のないことかと存じます」
「なっ……!」
「私は、殿下のお気持ちを尊重したまでです」
レイド殿下は何かを言いかけましたが、結局言葉を飲み込みました。
その様子を見て、お父様が小さく息を吐きます。
「陛下。娘の意思も確認できたことです。正式な手続きへ進ませていただきたい」
「……うむ」
その後、両家の婚約解消についての協議が始まりました。
王家と公爵家の間で結ばれた婚約です。
当然、ただ一枚の書類に署名すれば終わるというものではありません。
これまでの取り決めや、将来の役割についても整理する必要があります。
もっとも、その大部分はお父様と陛下が事前に話し合ってくださっていたようでした。
婚約解消によってシュタインベル公爵家の名誉が傷つかないよう、王家から正式な説明がなされること。
今回の騒動が、私の不品行や能力不足によるものではないと明確にすること。
そして、婚約のために公爵家が負担してきた費用についても、適切な補償を行うこと。
一つ一つの条件が確認されていきます。
その中で、お父様は特に一つの点を強く求められました。
「娘の瞳の色を、婚約破棄の正当な理由として扱わぬこと。それだけは、必ず明言していただきたい」
「……ガイウス」
「娘は生まれ持った瞳の色を理由に、長年不当な評価を受けてまいりました。それを王家が肯定するのであれば、私は決して承服いたしかねます」
お父様の声音は静かでした。
けれど、そこには一歩も譲らないという強い意思が込められていました。
国王陛下はしばらく考え込まれた後、ゆっくりと頷かれました。
「……当然の要求だ。瞳の色で人の価値が決まるものではない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなりました。
すぐに王国の価値観が変わるわけではないでしょう。
それでも。
私の瞳を、否定しなくてもいい。
そう認めていただけたことが、嬉しかったのです。
やがて、すべての確認が終わりました。
目の前に差し出されたのは、一枚の書類。
婚約解消に関する正式な同意書でした。
私は羽根ペンを手に取ります。
そして、ほんの一瞬だけ、その文字を見つめました。
ストレア・シュタインベル。
これまで、何度も書いてきた自分の名前。
けれど、今日は少しだけ意味が違って感じられました。
この署名をすれば、私はもう王太子の婚約者ではなくなります。
幼い頃から目指してきた未来が、ここで終わるのです。
……不思議ですね。
悲しいはずなのに。
どうしてでしょう。
少しだけ、肩の荷が下りたような気がするのです。
私は静かにペンを走らせました。
そして、最後の一文字を書き終えます。
「……これで、よろしいでしょうか」
「ああ」
陛下は書類を確認すると、頷かれました。
「これをもって、レイド・アズナルとストレア・シュタインベルの婚約を、正式に解消する」
その言葉が、静かな室内に響きました。
こうして。
私は、王太子の婚約者ではなくなりました。
王宮を出ると、午後の柔らかな日差しが私たちを迎えてくれました。
「……ストレア」
馬車へ乗り込む前、お父様が私を呼び止めます。
「本当に、よかったのだな?」
「……はい」
私は頷きました。
「これで、よかったのだと思います」
「……そうか」
お父様はしばらく私を見つめていました。
そして、不意に大きな手を伸ばし、私の頭を優しく撫でてくださいました。
「よく頑張ったな」
「……お父様」
「もう、無理に王太子妃らしく振る舞う必要はない。これからは、お前自身の幸せを考えなさい」
その言葉に、胸が詰まりました。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げました。
けれど。
自分自身の幸せ。
そう言われても、何をすればよいのか、すぐには思いつきませんでした。
これまでの私は、誰かに求められる姿を目指して生きてきました。
王太子妃としてふさわしい女性。
シュタインベル公爵家の令嬢。
誰からも非難されない、完璧な淑女。
そんな私が、これから何を望めばよいのでしょうか。
答えは、まだ見つかりません。
屋敷に戻った後も、そのことばかり考えていました。
ところが。
夕方になって、私のもとへ一通の手紙が届けられたのです。
「……ライズ様から?」
封筒には、見覚えのある名前が記されていました。
ライズ・エールリッヒ。
昨日、お茶会の招待状をお送りした方です。
私は少しだけ胸を高鳴らせながら、封を開きました。
『ご丁寧なお心遣いをありがとうございます。僕は甘いものが好きなので、特に苦手なお菓子はありません』
そこまで読んで、思わず微笑みました。
……よかった。
甘いものがお好きなのですね。
それでしたら、厨房長にも相談して、美味しいお菓子を用意していただきましょう。
そんなことを考えながら、続きを読み進めます。
『もしよろしければ、当日はストレア様がお好きなお菓子を一緒にいただけたら嬉しいです』
「…………っ」
手が止まりました。
……私の、好きなお菓子?
私は、もう一度その一文を読み返しました。
ライズ様は、ご自分の好みではなく、私の好きなものを一緒に食べたいとおっしゃっているのです。
たった、それだけのこと。
けれど。
なぜでしょう。
胸の奥が、じんわりと温かくなりました。
「……本当に、不思議な方」
思わず、そんな言葉が零れます。
あの方は、いつもそうです。
私が今まで当たり前だと思っていたことを、簡単に覆してしまいます。
黄金色の瞳こそが美しいという価値観も。
公爵令嬢として完璧でなければならないという思い込みも。
そして、今度は。
自分の好きなものを、大切にしていいのだと。
そう言われているような気がしたのです。
「……お菓子」
私は少し考えました。
好きなお菓子なら、あります。
小さな頃から、ずっと好きだったもの。
ですが、あまり淑女らしい好みではないかもしれません。
……いえ。
そんなことを気にする必要は、もうないのでしょうか。
私はそっと手紙を胸元へ寄せました。
明日。
ライズ様が、この屋敷へいらっしゃいます。
あの方とお話しするのは、これで三度目。
まだ、お互いのことをほとんど知りません。
それでも。
「……楽しみ、です」
ぽつりと呟いてから、私は目を見開きました。
……あ。
今、私は。
自分から、楽しみだと思いました。
誰かに命じられたからでも。
公爵令嬢としての義務だからでもありません。
ただ、あの方に会えることが。
あの方とお話しできることが。
純粋に、楽しみだったのです。
「……ふふ」
自然と、笑みが零れました。
婚約者ではなくなった今日。
私は、これから何を目指せばいいのかわからなくなっていました。
けれど、たった一つだけ。
明日が楽しみだと思える理由を、見つけることができたのです。
「……ライズ様」
私は小さく、その名前を呼びました。
あの方は、また私の瞳を褒めてくださるのでしょうか。
そう考えるだけで、頬が熱くなります。
……困りましたね。
どうやら私は、明日も落ち着いてお話しすることが難しそうです。
それでも。
できることなら、もう一度。
あの方の優しい琥珀色の瞳を、近くで見てみたい。
そんなことを思いながら、私は手紙を大切に机の引き出しへしまいました。
明日は、きっと。
今日よりも少しだけ、素敵な一日になる。
なぜだか、そんな気がしていました。
