「……さて、どうしたものかな」
シュタインベル公爵邸から帰宅した僕は、自室の椅子に腰を下ろしながら、そんな言葉を漏らした。
別に、困ったことが起きたわけではない。
いや、正確には困ったことだらけなのだけれど。
王太子殿下の目の前で、公爵令嬢に求婚する機会を願い出た。
翌日には、その父親であるガイウス公爵閣下に呼び出された。
そして、どういうわけか。
「……茶会、か」
三日後、ストレア様とお茶をする約束まで取りつけてしまった。
我ながら、驚くべき行動力だと思う。
普段の僕は、そこまで積極的な人間ではない。
むしろ、面倒事はできるだけ避けたい性格だ。
伯爵家の次男という立場も、僕にはちょうどよかった。
家督は兄が継ぐ予定だし、僕は学院を卒業した後、王国の文官として働ければ十分だと考えていた。
それが、たった二日でこの有様だ。
人生とは、本当に何が起きるかわからない。
「……でも、後悔はしていないんだよな」
目を閉じると、あの淡い水色の瞳が浮かんでくる。
そして今日、公爵邸で見せてくれた小さな微笑み。
思い出すだけで、自然と口元が緩んでしまう。
「……重症だな、これは」
自分で自分に呆れてしまった。
けれど、仕方がない。
生まれて初めて、誰かに一目惚れしてしまったのだから。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「ライズ様。旦那様がお呼びでございます」
「……父上が?」
「はい。書斎までお越しになるように、と」
僕は思わず天井を仰いだ。
……ああ。
そういえば、まだこちらの問題が残っていた。
「わかった。すぐに行くよ」
どうやら、今日も簡単には休めそうにないらしい。
父の書斎を訪れると、そこには険しい表情をした男性が座っていた。
アルベルト・エールリッヒ。
エールリッヒ伯爵家当主にして、僕の父親だ。
普段は冷静沈着で、感情を表に出すことは少ない。
領地の運営にも優れており、王都の貴族たちからは実直な人物として知られている。
そんな父が、今は明らかに不機嫌だった。
「ライズ」
「はい、父上」
「……お前は、一体何を考えている?」
開口一番、それだった。
まあ、当然の反応だろう。
「申し訳ありません」
「謝罪が聞きたいわけではない」
父は深いため息をついた。
「王太子殿下の婚約者に、殿下の目の前で求婚する機会を願い出るとは……。しかも、その場にはシュタインベル公爵までいたそうだな」
「はい」
「……お前には、貴族としての常識がないのか?」
「一応、あるつもりです」
「ならば、なぜあのような真似をした?」
……それは、もう何度も聞かれた質問だった。
そして、答えも変わらない。
「ストレア様の瞳が、とても美しかったからです」
「…………」
父が額を押さえた。
「……お前は本当に、私の息子なのか?」
「残念ながら、間違いないかと」
「冗談を言っている場合か!」
叱られてしまった。
けれど、父が怒るのも無理はない。
僕の発言は、僕一人の問題では済まない。
エールリッヒ家にも影響する可能性があるのだ。
「……父上」
「なんだ」
「今回の件で、ご迷惑をおかけしたことは反省しています」
僕は深く頭を下げた。
「ですが、ストレア様にお伝えした言葉を取り消すつもりはありません」
「…………」
「まだ、あの方のことを十分に知っているわけではありません。だからこそ、これから知っていきたいと思っています」
父はしばらく黙っていた。
そして、やがて小さく息を吐く。
「……シュタインベル公爵から、すでに連絡が来ている」
「え?」
思わず顔を上げた。
「お前と娘の交流について、当面は反対しないそうだ。ただし、正式な婚約などという話ではない」
「……はい」
「王家との婚約解消も、まだ手続きの途中だ。くれぐれも軽率な真似はするな」
「承知しております」
父はそこで一度言葉を切り、僕を見つめた。
「それから、ライズ」
「はい?」
「公爵令嬢と親しくなるということは、相応の責任を伴う。お前自身の気持ちだけでなく、相手の立場も考えなさい」
その言葉には、先ほどまでの叱責とは違う重みがあった。
「一時の情熱で相手を振り回すことは、決して許されん。ましてや、彼女は昨日婚約を破棄されたばかりなのだ」
「……はい」
「お前が彼女を好ましく思うことは自由だ。しかし、その気持ちに応えるかどうかは、彼女自身が決めることだと忘れるな」
僕は静かに頷いた。
「肝に銘じます」
すると、父はようやく表情を和らげた。
「……まったく。お前は昔から、妙なところで頑固だったな」
「父上に似たのかもしれません」
「そこまで馬鹿な真似をした覚えはない」
……そうでしょうか。
母上に尋ねれば、案外面白い話が聞けそうな気もするけれど。
もちろん、今は黙っておこう。
「もうよい。下がりなさい」
「失礼いたします」
書斎を出る直前、父がもう一度口を開いた。
「ライズ」
「はい」
「……その令嬢を大切にするのだぞ」
僕は少しだけ驚いた。
振り返ると、父はすでに書類へ目を落としている。
「はい、父上」
そう答えると、僕は静かに扉を閉めた。
翌日。
王立アルセリア学院へ登校した僕は、朝から散々な目に遭っていた。
「おい、ライズ!」
教室に入った途端、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、茶色の髪をした青年がこちらへ駆け寄ってくる。
カイル・ベルンハルト。
ベルンハルト子爵家の次男で、学院入学以来の親友だ。
明るく社交的な性格で、学院内にも知り合いが多い。
そのせいか、妙な噂を仕入れてくることも少なくない。
そして今、彼の表情は驚きと好奇心に満ちていた。
「お前、王太子殿下の前で公爵令嬢に求婚したって本当か!?」
「……カイル、声が大きい」
「大きくもなるだろ!」
周囲の生徒たちも、ちらちらとこちらを見ている。
……参ったな。
どうやら噂は、すでに学院中へ広がっているらしい。
「で、どうなんだよ!」
「求婚したわけじゃないよ」
「は?」
「正式な婚約が解消されたら、求婚する機会が欲しいとお願いしたんだ」
「……何が違うんだ、それ」
「大違いだよ」
少なくとも、僕にとっては。
ストレア様が僕の申し出を受け入れてくれるかどうかは、まだわからないのだから。
カイルはしばらく呆れたように僕を眺めていたが、やがて大きなため息をついた。
「……お前さあ」
「なんだい?」
「普段はあんなに慎重なくせに、どうして恋愛になるとそこまで突っ走れるんだ?」
「僕にもわからない」
「わからないで済ませるなよ!」
もっともな指摘だった。
「それで? 公爵閣下には何を言われたんだ?」
「馬鹿な男だと言われたよ」
「……だろうな」
即答された。
少しくらい慰めてくれてもいいと思う。
「でも、交流することは認めていただけた」
「……は?」
「三日後に、茶会を開いてくださるそうだ」
カイルは口を開けたまま固まった。
そして、数秒後。
「お前、本当に何をやったんだよ!?」
再び大声を上げた。
……だから、声が大きいって。
「いや、普通にお話ししただけだよ」
「普通に話して公爵令嬢との茶会を取りつけられるなら、世の貴族の男たちは苦労しないだろ!」
「そうなのかな」
「そうなんだよ!」
カイルは頭を抱えた。
けれど、次の瞬間にはにやりと笑みを浮かべる。
「それにしても、あの氷華の姫君か」
「……何か問題でも?」
「いや? むしろ、お前らしいと思ってさ」
「僕らしい?」
「ああ。お前、昔から周りが何と言おうと、自分がいいと思ったものは曲げなかっただろ」
そう言われると、少し思い当たる節がある。
「でもな、ライズ」
カイルは珍しく真剣な顔をした。
「ストレア嬢は、王太子殿下に婚約破棄されたばかりなんだろ?」
「……うん」
「なら、焦るなよ。お前が本気なのはわかるけど、相手の気持ちだってあるんだからな」
その言葉に、僕は思わず笑みを浮かべた。
「父上にも、同じことを言われたよ」
「そりゃそうだろ。俺だって心配するさ」
「ありがとう、カイル」
「……お、おう」
照れくさくなったのか、カイルは視線を逸らした。
そして、すぐにいつもの調子で笑う。
「まあ、頑張れよ。どうせなら、氷華の姫君を振り向かせてみせろ」
「もちろん、そのつもりだよ」
僕がそう答えると、カイルは楽しそうに笑った。
そんな騒がしい朝を終え、昼休み。
僕は学院の図書館を訪れていた。
目的は一つ。
ストレア様について、もう少し知るためだ。
もちろん、本人に直接尋ねるのが一番だと思う。
けれど、せっかくお茶会に招いていただけるのだから、少しでも共通の話題を見つけておきたかった。
彼女は学院でも屈指の秀才だ。
特に魔法学においては、教師たちからも高く評価されている。
僕は書架から、学院の研究発表をまとめた資料を取り出した。
「……あった」
目当ての名前は、すぐに見つかった。
ストレア・シュタインベル。
研究題目は、氷属性魔法における魔力消費の効率化について。
……難しいな。
僕は魔法学が不得意というわけではない。
けれど、彼女の研究はかなり専門的だった。
それでも読み進めていくうちに、少しずつ内容が理解できてきた。
氷魔法は、冷気を生み出すだけのものではない。
魔力の流れを細かく制御することで、氷の形状や硬度を自在に変化させることができる。
彼女は、その制御に必要な魔力を減らす方法を研究していた。
しかも、研究の最後には、生活への応用についても書かれている。
食料の保存。
夏場の室温管理。
そして、魔力の少ない人でも利用できる冷却装置。
「……すごいな」
思わず、声が漏れた。
単純に優秀なだけではない。
彼女は自分の才能を、誰かの生活を豊かにするために使おうとしている。
そのことが、文章から伝わってきた。
僕は資料を閉じ、静かに息を吐いた。
……ああ。
また一つ、好きになれるところを見つけてしまった。
もっとも、彼女に会ったとき、いきなり研究の感想を長々と語るのは避けたほうがいいだろう。
僕が知りたいのは、研究内容だけではない。
どんなことに喜び、どんなことで悩むのか。
彼女自身のことなのだから。
そんなことを考えながら帰宅すると、僕の部屋に一通の封書が届けられていた。
差出人は、シュタインベル公爵家。
「……招待状?」
封を開くと、そこには二日後の茶会について、丁寧な文字で記されていた。
そして、最後に。
小さな追伸が添えられていた。
『ライズ様。もし、お苦手なお菓子などございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ。』
その下には、ストレア様の署名があった。
「…………」
僕はしばらく、その文字を見つめた。
……なんだろう。
たったそれだけの文章なのに、ひどく嬉しかった。
彼女が、僕のためにお菓子の好みを気にしてくれた。
そう考えるだけで、胸が温かくなる。
僕は早速、机に向かった。
返事を書こう。
苦手なお菓子は特にない。
それから、できれば。
ストレア様が好きなお菓子も、教えていただきたい。
僕は便箋を広げ、ペンを手に取った。
『ストレア様』
そこまで書いて、少し考える。
……うん。
やっぱり、正直に書こう。
『ご丁寧なお心遣いをありがとうございます。僕は甘いものが好きなので、特に苦手なお菓子はありません。もしよろしければ、当日はストレア様がお好きなお菓子を一緒にいただけたら嬉しいです。』
書き終えて、もう一度読み返す。
少しだけ馴れ馴れしいだろうか。
いや、これくらいなら大丈夫……だと思いたい。
僕は手紙を封筒へ収めた。
そして、窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの空が、淡い青色から茜色へと変わっていた。
二日後。
僕は、また彼女に会える。
今度は、舞踏会のような騒がしい場所ではない。
きっと、ゆっくりお話しできるはずだ。
「……楽しみだな」
自然と、笑みが零れた。
最初は、あの美しい瞳に恋をした。
けれど。
彼女のことを知れば知るほど、きっと新しい魅力が見つかるのだろう。
そして、いつの日か。
瞳だけではなく、彼女自身を心から愛していると、胸を張って言えるようになりたい。
僕はそう思いながら、もう一度招待状へと視線を落とした。
……ところで。
ストレア様は、一体どんなお菓子がお好きなのだろう。
そんな些細なことさえ、今の僕にはたまらなく気になるのだった。
シュタインベル公爵邸から帰宅した僕は、自室の椅子に腰を下ろしながら、そんな言葉を漏らした。
別に、困ったことが起きたわけではない。
いや、正確には困ったことだらけなのだけれど。
王太子殿下の目の前で、公爵令嬢に求婚する機会を願い出た。
翌日には、その父親であるガイウス公爵閣下に呼び出された。
そして、どういうわけか。
「……茶会、か」
三日後、ストレア様とお茶をする約束まで取りつけてしまった。
我ながら、驚くべき行動力だと思う。
普段の僕は、そこまで積極的な人間ではない。
むしろ、面倒事はできるだけ避けたい性格だ。
伯爵家の次男という立場も、僕にはちょうどよかった。
家督は兄が継ぐ予定だし、僕は学院を卒業した後、王国の文官として働ければ十分だと考えていた。
それが、たった二日でこの有様だ。
人生とは、本当に何が起きるかわからない。
「……でも、後悔はしていないんだよな」
目を閉じると、あの淡い水色の瞳が浮かんでくる。
そして今日、公爵邸で見せてくれた小さな微笑み。
思い出すだけで、自然と口元が緩んでしまう。
「……重症だな、これは」
自分で自分に呆れてしまった。
けれど、仕方がない。
生まれて初めて、誰かに一目惚れしてしまったのだから。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「ライズ様。旦那様がお呼びでございます」
「……父上が?」
「はい。書斎までお越しになるように、と」
僕は思わず天井を仰いだ。
……ああ。
そういえば、まだこちらの問題が残っていた。
「わかった。すぐに行くよ」
どうやら、今日も簡単には休めそうにないらしい。
父の書斎を訪れると、そこには険しい表情をした男性が座っていた。
アルベルト・エールリッヒ。
エールリッヒ伯爵家当主にして、僕の父親だ。
普段は冷静沈着で、感情を表に出すことは少ない。
領地の運営にも優れており、王都の貴族たちからは実直な人物として知られている。
そんな父が、今は明らかに不機嫌だった。
「ライズ」
「はい、父上」
「……お前は、一体何を考えている?」
開口一番、それだった。
まあ、当然の反応だろう。
「申し訳ありません」
「謝罪が聞きたいわけではない」
父は深いため息をついた。
「王太子殿下の婚約者に、殿下の目の前で求婚する機会を願い出るとは……。しかも、その場にはシュタインベル公爵までいたそうだな」
「はい」
「……お前には、貴族としての常識がないのか?」
「一応、あるつもりです」
「ならば、なぜあのような真似をした?」
……それは、もう何度も聞かれた質問だった。
そして、答えも変わらない。
「ストレア様の瞳が、とても美しかったからです」
「…………」
父が額を押さえた。
「……お前は本当に、私の息子なのか?」
「残念ながら、間違いないかと」
「冗談を言っている場合か!」
叱られてしまった。
けれど、父が怒るのも無理はない。
僕の発言は、僕一人の問題では済まない。
エールリッヒ家にも影響する可能性があるのだ。
「……父上」
「なんだ」
「今回の件で、ご迷惑をおかけしたことは反省しています」
僕は深く頭を下げた。
「ですが、ストレア様にお伝えした言葉を取り消すつもりはありません」
「…………」
「まだ、あの方のことを十分に知っているわけではありません。だからこそ、これから知っていきたいと思っています」
父はしばらく黙っていた。
そして、やがて小さく息を吐く。
「……シュタインベル公爵から、すでに連絡が来ている」
「え?」
思わず顔を上げた。
「お前と娘の交流について、当面は反対しないそうだ。ただし、正式な婚約などという話ではない」
「……はい」
「王家との婚約解消も、まだ手続きの途中だ。くれぐれも軽率な真似はするな」
「承知しております」
父はそこで一度言葉を切り、僕を見つめた。
「それから、ライズ」
「はい?」
「公爵令嬢と親しくなるということは、相応の責任を伴う。お前自身の気持ちだけでなく、相手の立場も考えなさい」
その言葉には、先ほどまでの叱責とは違う重みがあった。
「一時の情熱で相手を振り回すことは、決して許されん。ましてや、彼女は昨日婚約を破棄されたばかりなのだ」
「……はい」
「お前が彼女を好ましく思うことは自由だ。しかし、その気持ちに応えるかどうかは、彼女自身が決めることだと忘れるな」
僕は静かに頷いた。
「肝に銘じます」
すると、父はようやく表情を和らげた。
「……まったく。お前は昔から、妙なところで頑固だったな」
「父上に似たのかもしれません」
「そこまで馬鹿な真似をした覚えはない」
……そうでしょうか。
母上に尋ねれば、案外面白い話が聞けそうな気もするけれど。
もちろん、今は黙っておこう。
「もうよい。下がりなさい」
「失礼いたします」
書斎を出る直前、父がもう一度口を開いた。
「ライズ」
「はい」
「……その令嬢を大切にするのだぞ」
僕は少しだけ驚いた。
振り返ると、父はすでに書類へ目を落としている。
「はい、父上」
そう答えると、僕は静かに扉を閉めた。
翌日。
王立アルセリア学院へ登校した僕は、朝から散々な目に遭っていた。
「おい、ライズ!」
教室に入った途端、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、茶色の髪をした青年がこちらへ駆け寄ってくる。
カイル・ベルンハルト。
ベルンハルト子爵家の次男で、学院入学以来の親友だ。
明るく社交的な性格で、学院内にも知り合いが多い。
そのせいか、妙な噂を仕入れてくることも少なくない。
そして今、彼の表情は驚きと好奇心に満ちていた。
「お前、王太子殿下の前で公爵令嬢に求婚したって本当か!?」
「……カイル、声が大きい」
「大きくもなるだろ!」
周囲の生徒たちも、ちらちらとこちらを見ている。
……参ったな。
どうやら噂は、すでに学院中へ広がっているらしい。
「で、どうなんだよ!」
「求婚したわけじゃないよ」
「は?」
「正式な婚約が解消されたら、求婚する機会が欲しいとお願いしたんだ」
「……何が違うんだ、それ」
「大違いだよ」
少なくとも、僕にとっては。
ストレア様が僕の申し出を受け入れてくれるかどうかは、まだわからないのだから。
カイルはしばらく呆れたように僕を眺めていたが、やがて大きなため息をついた。
「……お前さあ」
「なんだい?」
「普段はあんなに慎重なくせに、どうして恋愛になるとそこまで突っ走れるんだ?」
「僕にもわからない」
「わからないで済ませるなよ!」
もっともな指摘だった。
「それで? 公爵閣下には何を言われたんだ?」
「馬鹿な男だと言われたよ」
「……だろうな」
即答された。
少しくらい慰めてくれてもいいと思う。
「でも、交流することは認めていただけた」
「……は?」
「三日後に、茶会を開いてくださるそうだ」
カイルは口を開けたまま固まった。
そして、数秒後。
「お前、本当に何をやったんだよ!?」
再び大声を上げた。
……だから、声が大きいって。
「いや、普通にお話ししただけだよ」
「普通に話して公爵令嬢との茶会を取りつけられるなら、世の貴族の男たちは苦労しないだろ!」
「そうなのかな」
「そうなんだよ!」
カイルは頭を抱えた。
けれど、次の瞬間にはにやりと笑みを浮かべる。
「それにしても、あの氷華の姫君か」
「……何か問題でも?」
「いや? むしろ、お前らしいと思ってさ」
「僕らしい?」
「ああ。お前、昔から周りが何と言おうと、自分がいいと思ったものは曲げなかっただろ」
そう言われると、少し思い当たる節がある。
「でもな、ライズ」
カイルは珍しく真剣な顔をした。
「ストレア嬢は、王太子殿下に婚約破棄されたばかりなんだろ?」
「……うん」
「なら、焦るなよ。お前が本気なのはわかるけど、相手の気持ちだってあるんだからな」
その言葉に、僕は思わず笑みを浮かべた。
「父上にも、同じことを言われたよ」
「そりゃそうだろ。俺だって心配するさ」
「ありがとう、カイル」
「……お、おう」
照れくさくなったのか、カイルは視線を逸らした。
そして、すぐにいつもの調子で笑う。
「まあ、頑張れよ。どうせなら、氷華の姫君を振り向かせてみせろ」
「もちろん、そのつもりだよ」
僕がそう答えると、カイルは楽しそうに笑った。
そんな騒がしい朝を終え、昼休み。
僕は学院の図書館を訪れていた。
目的は一つ。
ストレア様について、もう少し知るためだ。
もちろん、本人に直接尋ねるのが一番だと思う。
けれど、せっかくお茶会に招いていただけるのだから、少しでも共通の話題を見つけておきたかった。
彼女は学院でも屈指の秀才だ。
特に魔法学においては、教師たちからも高く評価されている。
僕は書架から、学院の研究発表をまとめた資料を取り出した。
「……あった」
目当ての名前は、すぐに見つかった。
ストレア・シュタインベル。
研究題目は、氷属性魔法における魔力消費の効率化について。
……難しいな。
僕は魔法学が不得意というわけではない。
けれど、彼女の研究はかなり専門的だった。
それでも読み進めていくうちに、少しずつ内容が理解できてきた。
氷魔法は、冷気を生み出すだけのものではない。
魔力の流れを細かく制御することで、氷の形状や硬度を自在に変化させることができる。
彼女は、その制御に必要な魔力を減らす方法を研究していた。
しかも、研究の最後には、生活への応用についても書かれている。
食料の保存。
夏場の室温管理。
そして、魔力の少ない人でも利用できる冷却装置。
「……すごいな」
思わず、声が漏れた。
単純に優秀なだけではない。
彼女は自分の才能を、誰かの生活を豊かにするために使おうとしている。
そのことが、文章から伝わってきた。
僕は資料を閉じ、静かに息を吐いた。
……ああ。
また一つ、好きになれるところを見つけてしまった。
もっとも、彼女に会ったとき、いきなり研究の感想を長々と語るのは避けたほうがいいだろう。
僕が知りたいのは、研究内容だけではない。
どんなことに喜び、どんなことで悩むのか。
彼女自身のことなのだから。
そんなことを考えながら帰宅すると、僕の部屋に一通の封書が届けられていた。
差出人は、シュタインベル公爵家。
「……招待状?」
封を開くと、そこには二日後の茶会について、丁寧な文字で記されていた。
そして、最後に。
小さな追伸が添えられていた。
『ライズ様。もし、お苦手なお菓子などございましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ。』
その下には、ストレア様の署名があった。
「…………」
僕はしばらく、その文字を見つめた。
……なんだろう。
たったそれだけの文章なのに、ひどく嬉しかった。
彼女が、僕のためにお菓子の好みを気にしてくれた。
そう考えるだけで、胸が温かくなる。
僕は早速、机に向かった。
返事を書こう。
苦手なお菓子は特にない。
それから、できれば。
ストレア様が好きなお菓子も、教えていただきたい。
僕は便箋を広げ、ペンを手に取った。
『ストレア様』
そこまで書いて、少し考える。
……うん。
やっぱり、正直に書こう。
『ご丁寧なお心遣いをありがとうございます。僕は甘いものが好きなので、特に苦手なお菓子はありません。もしよろしければ、当日はストレア様がお好きなお菓子を一緒にいただけたら嬉しいです。』
書き終えて、もう一度読み返す。
少しだけ馴れ馴れしいだろうか。
いや、これくらいなら大丈夫……だと思いたい。
僕は手紙を封筒へ収めた。
そして、窓の外へ視線を向ける。
夕暮れの空が、淡い青色から茜色へと変わっていた。
二日後。
僕は、また彼女に会える。
今度は、舞踏会のような騒がしい場所ではない。
きっと、ゆっくりお話しできるはずだ。
「……楽しみだな」
自然と、笑みが零れた。
最初は、あの美しい瞳に恋をした。
けれど。
彼女のことを知れば知るほど、きっと新しい魅力が見つかるのだろう。
そして、いつの日か。
瞳だけではなく、彼女自身を心から愛していると、胸を張って言えるようになりたい。
僕はそう思いながら、もう一度招待状へと視線を落とした。
……ところで。
ストレア様は、一体どんなお菓子がお好きなのだろう。
そんな些細なことさえ、今の僕にはたまらなく気になるのだった。
