「……ほう。ならば、その覚悟、詳しく聞かせてもらおうか」
低く響いた声に、僕は思わず背筋を伸ばした。
目の前に立つのは、シュタインベル公爵家当主、ガイウス・シュタインベル公爵。
王国でも屈指の権力を持ち、政界では冷徹な公爵として恐れられている人物だ。
そんな人が、今まさに僕を睨んでいる。
……正直、怖い。
いや、本当に怖い。
けれど、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。
「公爵閣下。突然の無礼をお許しください」
「無礼だと理解しているのなら、なぜあのような発言をした?」
「それは……」
僕は一瞬だけ言葉に詰まった。
理由は簡単だ。
ストレア様の瞳が美しかったから。
そして、そんな彼女が理不尽に傷つけられていることに、我慢がならなかったから。
ただ、それをそのまま伝えてよいものか。
そんな僕の迷いを見透かしたように、ガイウス公爵は鼻を鳴らした。
「ふん。答えられぬか」
「いえ、そうではありません」
僕は首を横に振った。
「ストレア様の瞳に、一目惚れしたからです」
「…………」
「それ以外に、理由はございません」
ガイウス公爵の眉間に、深い皺が刻まれた。
……あれ?
もしかして、正直に答えないほうがよかった?
「貴様……」
「は、はい」
「私の娘に求婚しようという理由が、瞳に一目惚れしたから、だと?」
「はい」
「…………馬鹿者が」
おっしゃる通りです。
僕自身、今になって自分がどれほど無謀なことをしたのか理解し始めていた。
公爵令嬢への求婚。
しかも、王太子との婚約破棄が宣言された直後のことだ。
常識的に考えれば、正気を疑われても仕方がない。
「お父様……!」
そのとき、ストレア様が慌てた様子で声を上げた。
「ライズ様は、私を庇おうとしてくださっただけです。どうか、そのようにお怒りにならないでください」
「ストレア」
ガイウス公爵の声音が、わずかに柔らかくなった。
「お前は黙っていなさい。これは父親として、確かめねばならぬことだ」
「ですが……」
「心配するな。取って食おうというわけではない」
……その言い方、あまり安心できないんですが。
もっとも、ストレア様が僕を庇ってくれたことには驚いた。
初対面で、あれだけ非常識な発言をした男だというのに。
本当に、優しい人なんだな。
そう思っていると、今度は別の方向から怒声が飛んできた。
「ガイウス公爵! 私を無視するつもりか!」
レイド王太子だった。
顔を真っ赤にして、こちらを睨みつけている。
「そこの伯爵家の次男もそうだ! 王太子である私を愚弄するなど、許されると思っているのか!」
「……殿下」
ガイウス公爵が、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、周囲の空気が変わった気がした。
「私の娘との婚約を破棄すると、先ほど宣言されたそうですな」
「ああ、そうだ!」
「その決定について、陛下の御裁可はいただいておられるのでしょうか」
「父上には、後で説明すればよい!」
「なるほど」
公爵は静かに頷いた。
「つまり、正式な手続きも踏まず、王家と公爵家の間で交わされた婚約を、一方的に破棄すると宣言されたわけですな」
「なっ……!」
「しかも、その理由は娘の瞳の色であると」
「それがどうした!」
「……そうですか」
公爵の口元から、笑みが消えた。
「では、その件につきましては、改めて陛下とお話しさせていただきましょう」
その言葉に、王太子の表情がわずかに強張る。
「ま、待て! 私は……!」
「殿下」
たった一言だった。
けれど、その声には周囲を黙らせるだけの威圧感があった。
「今宵は、娘を連れて失礼いたします」
公爵はそう告げると、ストレア様へと向き直った。
「帰るぞ、ストレア」
「……はい、お父様」
ストレア様は静かに頷いた。
そして、僕のほうを見る。
淡い水色の瞳が、ほんの少し揺れた。
「あの……ライズ様」
「はい」
「先ほどは、その……ありがとうございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「ですが、あのようなことを人前でおっしゃいますと、ライズ様のお立場まで悪くなってしまいます」
……ああ。
この人は、こんなときでも他人の心配をするのか。
僕は思わず微笑んだ。
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「……本当に?」
「ええ。自分で決めて言ったことですから」
「…………」
「それに、あなたに綺麗だと伝えられたので、僕は満足しています」
「っ……!」
ストレア様の頬が、また赤く染まった。
「そ、そういうことを……簡単におっしゃらないでください……」
小さく呟く彼女。
その姿があまりにも可愛らしくて、僕は思わず笑みを深めてしまった。
「……エールリッヒ」
背後から、低い声が聞こえた。
「は、はい!」
振り返ると、ガイウス公爵が僕を見据えていた。
「明日の午後、我が屋敷へ来い」
「……明日、ですか?」
「そうだ。詳しい話は、そこで聞かせてもらう」
有無を言わせぬ口調だった。
「よいな?」
「……承知いたしました」
こうして、僕の人生で最も長い一日が終わった。
いや。
正確には、翌日のほうが長かったのだけれど。
翌日の午後。
僕はシュタインベル公爵邸の前に立っていた。
目の前には、巨大な鉄柵と、その奥に広がる立派な庭園。
さらに奥には、宮殿と見紛うほど壮麗な屋敷が建っている。
……大きいな。
同じ貴族とはいえ、伯爵家と公爵家ではここまで違うのか。
昨日の舞踏会での出来事を思い出し、思わずため息が漏れた。
「……本当に、何をやっているんだろうな。僕は」
けれど、不思議と後悔はなかった。
ストレア様のあの瞳を思い出すだけで、胸が温かくなる。
あれほど美しい瞳を持つ人に、もう一度会えるかもしれない。
そう考えると、自然と足が前へ進んだ。
屋敷の使用人に案内され、僕は公爵の執務室へ通された。
「失礼いたします」
「入れ」
重厚な扉を開くと、部屋の奥にガイウス公爵が座っていた。
机の上には大量の書類。
その鋭い眼差しが、まっすぐ僕に向けられる。
「よく来たな、エールリッヒ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「座れ」
促されるまま、僕は向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらくの沈黙。
……胃が痛くなってきた。
「さて」
公爵が口を開いた。
「早速だが、本題に入ろう」
「はい」
「貴様は、我が娘に求婚する機会が欲しいと言ったな」
「はい」
「では、問おう。貴様はストレアについて、どれほど知っている?」
その質問に、僕は少し考えた。
「王立アルセリア学院でも屈指の成績を収めていること。礼儀作法に優れ、魔法学でも高く評価されていること。そして、非常に努力家でいらっしゃることです」
「ほう」
「ですが、それ以上のことは、ほとんど存じません」
「……正直だな」
「嘘をついても仕方がありませんから」
公爵は腕を組んだ。
「では、なぜ求婚しようと思った?」
「昨日も申し上げた通りです」
僕は彼の目を見つめた。
「ストレア様の瞳が、とても美しいと思ったからです」
「それだけで、人生を共にする覚悟ができると?」
「……いいえ」
今度は、迷わず答えられた。
「昨日の僕には、そこまでの覚悟を語る資格はありません」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「ですが、彼女のことをもっと知りたいと思いました」
「…………」
「何が好きで、何が嫌いなのか。何をすると笑って、どんなときに悲しむのか。そういうことを、少しずつ知っていきたいんです」
僕は一度、言葉を切った。
「そのうえで、いつか本当に彼女の隣に立てる男になりたい。そう考えています」
公爵は何も言わなかった。
ただ、じっと僕を見つめている。
やがて。
「……ふん」
小さく鼻を鳴らした。
「貴様は、本当に馬鹿な男だな」
「……申し訳ありません」
「褒めているつもりだ」
「……え?」
思わず顔を上げた。
公爵は、呆れたような表情を浮かべていた。
「公爵家の娘に求婚しようというのに、己の立場も考えず、瞳が美しいなどという理由を堂々と口にする」
「…………」
「しかも、今は人生を共にする覚悟がないと正直に認める始末だ」
……言われてみれば、本当にひどい。
「だが」
公爵の声音が、少しだけ柔らかくなった。
「少なくとも、嘘で娘の歓心を買おうとする男ではないようだ」
「……ありがとうございます」
「勘違いするな。私はまだ、貴様を認めたわけではない」
そう告げると、公爵は机に置かれた書類へ目を落とした。
「王家との婚約については、正式な解消に向けて協議を進めている。今すぐ貴様との婚約を認めることなどできん」
「承知しております」
「それに、何より大切なのはストレア自身の意思だ」
その言葉に、僕は深く頷いた。
「もちろんです」
「……よろしい」
公爵は立ち上がった。
「ならば、まずは娘と交流する機会を与えよう」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、娘が望めば、の話だ」
思わず、胸が高鳴った。
「ありがとうございます!」
「礼を言うのはまだ早い。もし娘を泣かせるようなことがあれば……」
公爵は、にっこりと笑った。
「そのときは、覚悟しておくことだな」
……怖い。
やっぱり、この人は怖い。
けれど。
それほどまでに娘を大切にしているのだと思うと、少しだけ親近感も湧いた。
「肝に銘じます」
僕がそう答えたときだった。
控えめなノックの音が響いた。
「お父様。ストレアです」
……え?
心臓が跳ねた。
「入れ」
公爵が答えると、扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、昨日の舞踏会で出会った少女だった。
今日は淡い青色の普段着に身を包み、銀白色の髪を緩やかに流している。
そして、あの美しい水色の瞳。
僕は思わず立ち上がった。
「ストレア様」
「……ライズ様」
彼女も僕の姿に気づき、小さく目を見開いた。
「本当に、いらしてくださったのですね」
「はい。公爵閣下にお招きいただきましたので」
「……そう、ですか」
彼女は少しだけ視線を伏せた。
すると、公爵が僕たちを交互に見つめて口を開いた。
「ストレア。エールリッヒは、お前と交流する機会が欲しいそうだ」
「……え?」
「無論、無理にとは言わん。お前が嫌なら、この話はここで終わりにする」
その言葉を聞いて、ストレア様は驚いたように顔を上げた。
そして、僕を見つめる。
「……ライズ様」
「はい」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
彼女は胸の前で、そっと両手を重ねた。
「昨日、私の瞳を美しいとおっしゃってくださいましたよね」
「はい」
「……あれは、本心でございますか?」
かすかに震える声だった。
僕は一瞬、言葉を失った。
そして、気づく。
きっと彼女は、今まで何度も自分の瞳を否定されてきたのだろう。
だからこそ、僕の言葉が信じられないのかもしれない。
僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「もちろん、本心です」
「…………」
「昨日も申し上げましたが、僕はあなたの瞳が世界で一番美しいと思っています」
彼女の頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。
「……そ、そうですか」
そして。
本当に、ほんの少しだけ。
彼女の口元が緩んだ。
「……ありがとうございます」
その微笑みを見た瞬間。
僕の胸が、また大きく高鳴った。
……ああ。
やっぱり。
僕は、この人のことが好きなんだ。
昨日は瞳に心を奪われた。
けれど、今日はその笑顔に見惚れてしまった。
これから彼女のことを知っていけば、きっともっと好きになるのだろう。
そんな予感がした。
「……お父様」
ストレア様が、静かに口を開いた。
「もしよろしければ、私もライズ様とお話ししてみたいです」
「……そうか」
公爵はしばらく娘を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「ならば、近いうちに茶会の席を設けよう」
「ありがとうございます、お父様」
ストレア様が嬉しそうに微笑む。
その姿を見て、公爵の表情もわずかに和らいだ。
そして、僕へと視線を向ける。
「エールリッヒ」
「は、はい!」
「……娘を、頼んだぞ」
その言葉に、僕は深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
こうして僕は、氷華の姫君と交流する機会を得た。
まだ彼女のことは、ほとんど何も知らない。
好きな食べ物も。
好きな花も。
どんなことをしているときに、心から笑うのかも。
だけど。
これから少しずつ、知っていけたらいい。
あの美しい瞳に、もっとたくさんの笑顔が映るように。
僕は、そう願っていた。
そして、このときの僕はまだ知らなかった。
完璧な淑女と呼ばれる彼女が、実は驚くほど恋に不器用な少女だということを。
低く響いた声に、僕は思わず背筋を伸ばした。
目の前に立つのは、シュタインベル公爵家当主、ガイウス・シュタインベル公爵。
王国でも屈指の権力を持ち、政界では冷徹な公爵として恐れられている人物だ。
そんな人が、今まさに僕を睨んでいる。
……正直、怖い。
いや、本当に怖い。
けれど、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。
「公爵閣下。突然の無礼をお許しください」
「無礼だと理解しているのなら、なぜあのような発言をした?」
「それは……」
僕は一瞬だけ言葉に詰まった。
理由は簡単だ。
ストレア様の瞳が美しかったから。
そして、そんな彼女が理不尽に傷つけられていることに、我慢がならなかったから。
ただ、それをそのまま伝えてよいものか。
そんな僕の迷いを見透かしたように、ガイウス公爵は鼻を鳴らした。
「ふん。答えられぬか」
「いえ、そうではありません」
僕は首を横に振った。
「ストレア様の瞳に、一目惚れしたからです」
「…………」
「それ以外に、理由はございません」
ガイウス公爵の眉間に、深い皺が刻まれた。
……あれ?
もしかして、正直に答えないほうがよかった?
「貴様……」
「は、はい」
「私の娘に求婚しようという理由が、瞳に一目惚れしたから、だと?」
「はい」
「…………馬鹿者が」
おっしゃる通りです。
僕自身、今になって自分がどれほど無謀なことをしたのか理解し始めていた。
公爵令嬢への求婚。
しかも、王太子との婚約破棄が宣言された直後のことだ。
常識的に考えれば、正気を疑われても仕方がない。
「お父様……!」
そのとき、ストレア様が慌てた様子で声を上げた。
「ライズ様は、私を庇おうとしてくださっただけです。どうか、そのようにお怒りにならないでください」
「ストレア」
ガイウス公爵の声音が、わずかに柔らかくなった。
「お前は黙っていなさい。これは父親として、確かめねばならぬことだ」
「ですが……」
「心配するな。取って食おうというわけではない」
……その言い方、あまり安心できないんですが。
もっとも、ストレア様が僕を庇ってくれたことには驚いた。
初対面で、あれだけ非常識な発言をした男だというのに。
本当に、優しい人なんだな。
そう思っていると、今度は別の方向から怒声が飛んできた。
「ガイウス公爵! 私を無視するつもりか!」
レイド王太子だった。
顔を真っ赤にして、こちらを睨みつけている。
「そこの伯爵家の次男もそうだ! 王太子である私を愚弄するなど、許されると思っているのか!」
「……殿下」
ガイウス公爵が、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、周囲の空気が変わった気がした。
「私の娘との婚約を破棄すると、先ほど宣言されたそうですな」
「ああ、そうだ!」
「その決定について、陛下の御裁可はいただいておられるのでしょうか」
「父上には、後で説明すればよい!」
「なるほど」
公爵は静かに頷いた。
「つまり、正式な手続きも踏まず、王家と公爵家の間で交わされた婚約を、一方的に破棄すると宣言されたわけですな」
「なっ……!」
「しかも、その理由は娘の瞳の色であると」
「それがどうした!」
「……そうですか」
公爵の口元から、笑みが消えた。
「では、その件につきましては、改めて陛下とお話しさせていただきましょう」
その言葉に、王太子の表情がわずかに強張る。
「ま、待て! 私は……!」
「殿下」
たった一言だった。
けれど、その声には周囲を黙らせるだけの威圧感があった。
「今宵は、娘を連れて失礼いたします」
公爵はそう告げると、ストレア様へと向き直った。
「帰るぞ、ストレア」
「……はい、お父様」
ストレア様は静かに頷いた。
そして、僕のほうを見る。
淡い水色の瞳が、ほんの少し揺れた。
「あの……ライズ様」
「はい」
「先ほどは、その……ありがとうございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「ですが、あのようなことを人前でおっしゃいますと、ライズ様のお立場まで悪くなってしまいます」
……ああ。
この人は、こんなときでも他人の心配をするのか。
僕は思わず微笑んだ。
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「……本当に?」
「ええ。自分で決めて言ったことですから」
「…………」
「それに、あなたに綺麗だと伝えられたので、僕は満足しています」
「っ……!」
ストレア様の頬が、また赤く染まった。
「そ、そういうことを……簡単におっしゃらないでください……」
小さく呟く彼女。
その姿があまりにも可愛らしくて、僕は思わず笑みを深めてしまった。
「……エールリッヒ」
背後から、低い声が聞こえた。
「は、はい!」
振り返ると、ガイウス公爵が僕を見据えていた。
「明日の午後、我が屋敷へ来い」
「……明日、ですか?」
「そうだ。詳しい話は、そこで聞かせてもらう」
有無を言わせぬ口調だった。
「よいな?」
「……承知いたしました」
こうして、僕の人生で最も長い一日が終わった。
いや。
正確には、翌日のほうが長かったのだけれど。
翌日の午後。
僕はシュタインベル公爵邸の前に立っていた。
目の前には、巨大な鉄柵と、その奥に広がる立派な庭園。
さらに奥には、宮殿と見紛うほど壮麗な屋敷が建っている。
……大きいな。
同じ貴族とはいえ、伯爵家と公爵家ではここまで違うのか。
昨日の舞踏会での出来事を思い出し、思わずため息が漏れた。
「……本当に、何をやっているんだろうな。僕は」
けれど、不思議と後悔はなかった。
ストレア様のあの瞳を思い出すだけで、胸が温かくなる。
あれほど美しい瞳を持つ人に、もう一度会えるかもしれない。
そう考えると、自然と足が前へ進んだ。
屋敷の使用人に案内され、僕は公爵の執務室へ通された。
「失礼いたします」
「入れ」
重厚な扉を開くと、部屋の奥にガイウス公爵が座っていた。
机の上には大量の書類。
その鋭い眼差しが、まっすぐ僕に向けられる。
「よく来たな、エールリッヒ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「座れ」
促されるまま、僕は向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらくの沈黙。
……胃が痛くなってきた。
「さて」
公爵が口を開いた。
「早速だが、本題に入ろう」
「はい」
「貴様は、我が娘に求婚する機会が欲しいと言ったな」
「はい」
「では、問おう。貴様はストレアについて、どれほど知っている?」
その質問に、僕は少し考えた。
「王立アルセリア学院でも屈指の成績を収めていること。礼儀作法に優れ、魔法学でも高く評価されていること。そして、非常に努力家でいらっしゃることです」
「ほう」
「ですが、それ以上のことは、ほとんど存じません」
「……正直だな」
「嘘をついても仕方がありませんから」
公爵は腕を組んだ。
「では、なぜ求婚しようと思った?」
「昨日も申し上げた通りです」
僕は彼の目を見つめた。
「ストレア様の瞳が、とても美しいと思ったからです」
「それだけで、人生を共にする覚悟ができると?」
「……いいえ」
今度は、迷わず答えられた。
「昨日の僕には、そこまでの覚悟を語る資格はありません」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「ですが、彼女のことをもっと知りたいと思いました」
「…………」
「何が好きで、何が嫌いなのか。何をすると笑って、どんなときに悲しむのか。そういうことを、少しずつ知っていきたいんです」
僕は一度、言葉を切った。
「そのうえで、いつか本当に彼女の隣に立てる男になりたい。そう考えています」
公爵は何も言わなかった。
ただ、じっと僕を見つめている。
やがて。
「……ふん」
小さく鼻を鳴らした。
「貴様は、本当に馬鹿な男だな」
「……申し訳ありません」
「褒めているつもりだ」
「……え?」
思わず顔を上げた。
公爵は、呆れたような表情を浮かべていた。
「公爵家の娘に求婚しようというのに、己の立場も考えず、瞳が美しいなどという理由を堂々と口にする」
「…………」
「しかも、今は人生を共にする覚悟がないと正直に認める始末だ」
……言われてみれば、本当にひどい。
「だが」
公爵の声音が、少しだけ柔らかくなった。
「少なくとも、嘘で娘の歓心を買おうとする男ではないようだ」
「……ありがとうございます」
「勘違いするな。私はまだ、貴様を認めたわけではない」
そう告げると、公爵は机に置かれた書類へ目を落とした。
「王家との婚約については、正式な解消に向けて協議を進めている。今すぐ貴様との婚約を認めることなどできん」
「承知しております」
「それに、何より大切なのはストレア自身の意思だ」
その言葉に、僕は深く頷いた。
「もちろんです」
「……よろしい」
公爵は立ち上がった。
「ならば、まずは娘と交流する機会を与えよう」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、娘が望めば、の話だ」
思わず、胸が高鳴った。
「ありがとうございます!」
「礼を言うのはまだ早い。もし娘を泣かせるようなことがあれば……」
公爵は、にっこりと笑った。
「そのときは、覚悟しておくことだな」
……怖い。
やっぱり、この人は怖い。
けれど。
それほどまでに娘を大切にしているのだと思うと、少しだけ親近感も湧いた。
「肝に銘じます」
僕がそう答えたときだった。
控えめなノックの音が響いた。
「お父様。ストレアです」
……え?
心臓が跳ねた。
「入れ」
公爵が答えると、扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、昨日の舞踏会で出会った少女だった。
今日は淡い青色の普段着に身を包み、銀白色の髪を緩やかに流している。
そして、あの美しい水色の瞳。
僕は思わず立ち上がった。
「ストレア様」
「……ライズ様」
彼女も僕の姿に気づき、小さく目を見開いた。
「本当に、いらしてくださったのですね」
「はい。公爵閣下にお招きいただきましたので」
「……そう、ですか」
彼女は少しだけ視線を伏せた。
すると、公爵が僕たちを交互に見つめて口を開いた。
「ストレア。エールリッヒは、お前と交流する機会が欲しいそうだ」
「……え?」
「無論、無理にとは言わん。お前が嫌なら、この話はここで終わりにする」
その言葉を聞いて、ストレア様は驚いたように顔を上げた。
そして、僕を見つめる。
「……ライズ様」
「はい」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
彼女は胸の前で、そっと両手を重ねた。
「昨日、私の瞳を美しいとおっしゃってくださいましたよね」
「はい」
「……あれは、本心でございますか?」
かすかに震える声だった。
僕は一瞬、言葉を失った。
そして、気づく。
きっと彼女は、今まで何度も自分の瞳を否定されてきたのだろう。
だからこそ、僕の言葉が信じられないのかもしれない。
僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「もちろん、本心です」
「…………」
「昨日も申し上げましたが、僕はあなたの瞳が世界で一番美しいと思っています」
彼女の頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。
「……そ、そうですか」
そして。
本当に、ほんの少しだけ。
彼女の口元が緩んだ。
「……ありがとうございます」
その微笑みを見た瞬間。
僕の胸が、また大きく高鳴った。
……ああ。
やっぱり。
僕は、この人のことが好きなんだ。
昨日は瞳に心を奪われた。
けれど、今日はその笑顔に見惚れてしまった。
これから彼女のことを知っていけば、きっともっと好きになるのだろう。
そんな予感がした。
「……お父様」
ストレア様が、静かに口を開いた。
「もしよろしければ、私もライズ様とお話ししてみたいです」
「……そうか」
公爵はしばらく娘を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「ならば、近いうちに茶会の席を設けよう」
「ありがとうございます、お父様」
ストレア様が嬉しそうに微笑む。
その姿を見て、公爵の表情もわずかに和らいだ。
そして、僕へと視線を向ける。
「エールリッヒ」
「は、はい!」
「……娘を、頼んだぞ」
その言葉に、僕は深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
こうして僕は、氷華の姫君と交流する機会を得た。
まだ彼女のことは、ほとんど何も知らない。
好きな食べ物も。
好きな花も。
どんなことをしているときに、心から笑うのかも。
だけど。
これから少しずつ、知っていけたらいい。
あの美しい瞳に、もっとたくさんの笑顔が映るように。
僕は、そう願っていた。
そして、このときの僕はまだ知らなかった。
完璧な淑女と呼ばれる彼女が、実は驚くほど恋に不器用な少女だということを。
