海沿いの古工場と猫

 しばらく大福の毛並みを整えていると、黒瀬さんが声を掛けてきた。

「お前さ、俺……」そう口にしたとき、被せるようにして「唯稀、車見てくれねぇか」と男性が言ってきた。

 黒瀬さんは男性に「今行く」と返してから、こちらを向き、「わりぃ、仕事無理すんなよ」と言い、男性の所へ足を進めていった。

 後ろ姿を見ているうちに、大福が飛び降りて、工場から出て行った。黒瀬さんは男性と話しているようで、和やかな雰囲気が漂っていた。その様子を眺めてから、おもむろに腰を上げ、愛車に乗り込み、家に帰って少し横になった。

 夕方からは定食屋に行き、顔なじみになった客と軽く雑談をしながら、作業を続けていた。

 すると、ドアが開く音がして、祥子さんが「いらっしゃい」と元気よく迎え、視線を向けると、黒瀬さんが入ってきた。

 この時間に来るのは初めてのことで、少し驚きながら黒瀬さんを目で追った。口の端に煙草をくわえ、一番奥の席に向かい、腰掛けた。そこで煙草に火を点け、カウンターに目を向けてから、「生姜焼き定食」と祥子さんに言った。

 祥子さんは「あいよ」と落ち着いた声で言い、すぐに食事を作り始めたところで、誰かがこちらに声を掛けてきた。

「千乃ちゃん、お茶貰える?」そう言ったのは、顔なじみの漁師で若い男性だった。

 私はすぐに「はい、今お持ちします」と答えてから、お茶のピッチャーを持ち、向かって行った。

 すかさず男性がこちらに目を向け、「ほんと良く働くね、ちゃんと休み貰ってるの?」と湯呑を差し出して、話し掛けてきた。

「楽しいので平気です。休みもきっちり貰ってます」と明るく言うと、男性は「そっかぁ、家はどの辺?」と尋ねてきた。

「さぁ、どこでしょう」とまた明るく言ってみたら、男性が「まぁ、教えられないか。じゃあ、朝も来ようかな」と言って笑った。

 そこで、「千乃、俺にもお茶」と低い声が聞こえ、視線を向けると、黒瀬さんの目が据わっていた。

 何も言わずに帰ったのを怒っている気がして、男性に「失礼します」と告げ、足音を立てないように、黒瀬さんのほうに向かって行った。

 けれど、テーブルの上には湯呑もなくて、コップには水が半分くらい入っていた。そのままカウンターに向かい、水のピッチャーを手にして、コップに注いだ。

 その間にも顔なじみの客から声を掛けられ、黒瀬さんに「失礼します」と言ったところで、軽い舌打ちが聞こえた。

 そこに祥子さんが食事を運んできて、テーブルの上に置くと、黒瀬さんに向かって言った。

「唯稀、態度悪いよ。周りに客も居るんだから、少し愛想良くしな」

 二人の様子を窺いつつ、顔なじみの人の所へ向かって行き、「何かございましたか?」と思わず堅くなってしまった。

 険悪な雰囲気はないものの、今日はよく巻き込まれているような気がして、早く帰りたいと願わずにはいられなかった。