海沿いの古工場と猫

 次の日。定食屋はとても忙しく、昼前までお客が絶えなかった。配膳や片付けに追われ、人も疎らになった頃、祥子さんが声を掛けてきた。

「千乃ちゃん、今日も宜しく。また夕方から頼むよ」明るい口調で、カウンターにビニール袋を置くと、祥子さんは食器類を洗い始めた。

「はい。お疲れ様でした」そう返して、ビニール袋を持ち、店を後にした。

 工場に着いてみると、相変わらず車の下から足先が覗いていて、黒いスニーカーが目についた。ふと立ち止まり、見ていると、軽い舌打ちが聞こえて、黒瀬さんが滑ってきた。途端に身体が立ち上がり、黒瀬さんは軍手をくわえながら、眉間に皺を寄せていた。

 機嫌が悪そうだと思ったけれど、よく見ると、手の甲を気にしているようだった。

 思わず「どうしたんですか?」と尋ねてみると、黒瀬さんは「別に」と言って、テーブルに向かって行った。そこでティッシュを手に取り、手の甲を軽く拭き出した。汚れていたのかと、また見ていると、丸まったティッシュがテーブルの上に落ちた。そこで目を凝らしたら、ティッシュに血のようなものが付いていた。

 すぐに黒瀬さんに駆け寄り、その手を掴んで、「怪我したんですか」と声を上げ、地面にビニール袋を置いた。そして、すぐに鞄からポーチを出し、消毒液と絆創膏を手に取った。

 すると、黒瀬さんが手を振り払おうとしながら言った。

「見りゃ分かるだろ。ただのかすり傷だし、ほっときゃ治る」

 それでも私は黒瀬さんの手を掴んだまま返した。

「こういうのは最初が肝心なんです。黙っててください」

「あ、そう」と黒瀬さんは乱暴に言い、息を吐いて、気怠そうに立っていた。

 私はテーブルの上のティッシュを一枚取り、傷口を拭きながら、黒瀬さんに向かって言った。

「菌が入ったら車も直せません。放置するのはやめて下さい」

 口調がきつくなったせいか、黒瀬さんは少し俯いて言った。

「わるかった……ありがとな」

「いえ。余計なお世話でした」

 お互いに早口になったところで、手当が終わり、気まずい空気が漂い始めた。

 何か話そうかと考えてみたけれど、思いつかずに、視線を彷徨わせていたときだった。

「お前、いつもそれ持って歩いてんのか」と黒瀬さんが尋ねてきて、仕舞いかけたポーチを、もう一度テーブルの上に置いた。

「一応。もしもの時に……」そう答えてみると、黒瀬さんがポーチを見ながら言った。

「へぇ、女の子らしくて、可愛いな」

 その言葉に、なぜか恥ずかしくなり、少し身を引いたとき、近くから自転車が向かって来る音が聞こえた。