海沿いの古工場と猫

 黒瀬さんはキッチンから戻ってくると、小部屋の前に立って言った。

「俺、帰るけど、あんま動くなよ……」

「あの、……鞄取って貰えませんか」咄嗟に思い出し、声を掛けた。

 そこで黒瀬さんは辺りを見回し、ソファーに置かれた鞄を手にして、こちらに渡してきた。

 差し出された鞄を受け取り、中から財布を出して、お札を二枚手にし、黒瀬さんに差し出した。

「車、ありがとうございました。遅くなってすみません」

「まいどあり」と黒瀬さんは言い、ポケットに札を入れ、小さな紙切れを手に取り、こちらに差し出しながら言った。

「なんかあったら電話しろ。じゃあな」

「ありがとうございました……」

 紙切れを受け取って言うと、黒瀬さんは玄関から抜け出して行った。

 二つ折りにされた小さな紙切れを開くと、電話番号が書かれていて、隅のほうに猫のスタンプが押されていた。

 その可愛さに口元を緩めて、携帯を手にし、電話番号を入力した。次に苗字を入力したものの、名前の部分で指を止めた。名前は耳にしていたけれど、漢字が分からず、『黒瀬さん』と登録した。

 大きく深呼吸をしてから、おもむろに立ち上がり、玄関に向かい、鍵を閉めた。踵を返して、居間に行くと、テーブルの上に風邪薬と栄養ドリンクが二本置かれていた。

 黒瀬さんの態度や言葉遣いには愛想がなくて、少し乱暴に感じていたけれど、所々に優しさが見えてきた。居間からキッチンに行けば、小さな鍋におかゆも残っているし、冷蔵庫を開ければ、飲み物が何本か入っていた。

 ふと、視線を上げると、オーブンが目に入り、しばらく使っていないことに気付いた。再び冷蔵庫を開けて、中を見回すと、そこにある材料からお菓子を作れそうだった。

 それよりも身体中が汗でベタついて気持ち悪く、熱いお風呂に入ってから、取り掛かろうと思った。浴室にある追い焚きボタンを押し、浴室から抜け出して、キッチンでコップを手にした。

 軽く水を注ぎ、テーブルまで行って風邪薬の箱を開け、一袋口に入れてから、水を飲み込んだ。そこから小部屋に向かい、着替えを左手に持ち、コップも持って、流し台に置いてから、浴室に行った。

 お風呂に入って、着替えを済ませ、髪を乾かしていると、翌日には職場に行けそうだと思った。

 そして、冷蔵庫からお菓子に使う材料を手に取り、キッチンで丁寧に作り始めた。

 お菓子が出来た頃には、夕方になっていて、早めに寝ておこうと、小部屋に向かって行った。