柊木主任の甘やかな執着

「……ふざけるな。俺がどれだけ……」
 
 低く掠れた声とともに、柊木の長くてすべらかな指が、夏月の腕を掴んだ。
 普段の洗練されたスマートな様(さま)はない。骨が軋むほどの強い力が、夏月の華奢な手首を捉える。
 
「ひいらぎ……っ、主任……!?」
 
 拒む間もなく強引に身体を引き寄せられ、夏月は足をもつれさせながら、誰もいない奥の応接室へと連れ込まれた。
 重厚な扉が閉ざされ、カチャリと静かな施錠音が暗闇に落ちる。瞬間、背中が冷たい壁に押し付けられた。
 
「……何を、して——」
 
 言いかけた夏月の唇のすぐ目と鼻の先に、柊木の顔があった。
 月光だけが差し込む静寂の密室。普段の柔らかい微笑みを完全に削ぎ落とした柊木が、逃げ場を失った夏月を、その腕の中に閉じ込めている。
 
 微かな息遣いすら伝わる距離で、彼の中に渦巻く激しい感情が伝わってくるかのようだった。
 
「いつまで『完璧な部下』の顔してんだよ。俺の前でまで……そんな嘘の笑い方するな」
「嘘じゃ……ありません……っ。私はただ、柊木主任の期待に応えたくて——」
「違う!」
 
 柊木が叫ぶように否定した。社内では絶対に聞くことのない、感情を剥き出しにした声だった。彼は両手を夏月の頭の脇の壁に強く突き、彼女の瞳を逃がさぬよう射抜いていた。
 
「期待に応えたい? 違うだろ。お前はただ、捨てられるのが怖くて、居場所がなくなるのが怖くて、そうやって自分を追い詰めて『完璧な成果物』になろうとしてるんだろ?」
「っ……!」
 
 痛いところを正確に突かれ、夏月は息を飲んだ。
 
「俺は、そんなこと求めてない。お前が『可愛げがない』……? こんなに努力して愛されようとしてる奴が可愛くないはず、ないだろ。愛嬌がない? 誰にでも媚びを売る必要なんてない。 要領が悪い? ふざけるな。その裏に、どれだけの努力があるかも知らないくせに。……俺は知ってる。お前がどれだけ裏で血を吐くような努力をして、一人で耐えて、誰にも見せない場所で綺麗に笑おうとしてるか!」
「……柊木主任が知っていたって、どうしようもないじゃないですか……」
 
 夏月の口から、決壊したように感情が溢れ出した。完璧な営業スマイルの仮面が音を立てて割れ、その下から覗いたのは、傷つき疲弊しきった一人の素顔だった。必死に隠していた努力を知られていたことが恥ずかしくなる。姉のように何でも易々とこなす柊木の側に居る資格が——『完璧な部下』という役割さえ奪われた気がした。
 
「私は、姉さんみたいに生まれつき愛される才能なんてない。完璧でもない。努力して、隙をなくして、誰の足も引っ張らないように、せめて『完璧』を演じるしかない。『完璧』を演じても『可愛げ』かないから愛されなかった私を、この会社が——柊木主任が、ようやく居場所をくれたんです」
 
 涙すら流せないまま、悔しさと諦念で声を震わせる夏月。そんな彼女の頬を、柊木の手がそっと包み込んだ。今度は壊れ物を扱うように、愛おしくてたまらないというように、親指で彼女の頬を優しく撫でる。
 
「……完璧じゃなくていい。俺がお前に側にいて欲しいのは『完璧ない部下』だからじゃなくて、お前だからなんだ」
「……私、だから?」
「そう。お前だから大切で、お前だから側にいて欲しくて……お前だから好きなんだ」

 至近距離で囁かれた言葉に、夏月は目を見開いた。
 
「お前は『優秀な部下』だから価値があるんじゃない。俺が惹かれたのは……そんな綺麗な表向きの『完璧な榎原さん』じゃないんだよ」
 
 柊木の瞳に、深くて甘い、けれど逃げ場のない執着の光が揺れていた。
 
「裏で必死になって、腹黒く企んで、努力して足掻いて強がって見せる……そんな器用になりきれない、お前自身が、たまらなく愛おしいんだ」
「ひ、いらぎ……主任……」
「『可愛げがない』?  最高じゃないか。そんなもの、他の男に見せる必要なんて微塵もない。……お前が可愛くないって思う強がりも、努力も、全部俺に独占させて?」
「……」
「……返事は?」
「…………はい」
 
 赤くなって頷いた夏月の言葉と同時に、柊木の唇が夏月の額に、目元に、そして震える頬へと落ちていく。優しく、けれど確実に彼女の檻を壊していくような、熱く甘やかすキスだった。
 
「……それからな、夏月。お前が一人で抱え込んで、これから徹夜しようとしてた案件だけど」
 
 柊木は夏月の耳元に唇を寄せ、低く喉を鳴らして笑った。
 
「提携先の役員と営業部長から、新しいロゴの承認は貰ってきたし、特急印刷のラインは俺がさっきルートを押さえてきた。お前一人で無理する必要なんてない。……もっと俺を頼って?」

 驚いた表情の夏月に、優しく柊木が微笑んで彼女の頭を撫でる。その暖かさに、ゆるりと全て解けていく。
 
「……さすが、柊木主任」
「だろ? お前の元指導係で、上司だぞ。……部下に一人に無理させて逃げるような、不甲斐ない男だと思ってた?」
「思ってないです」
 
 夏月の胸の奥で、長年彼女を縛りつけていた冷たい呪縛が、音を立てて溶けていく。一人で戦わなくてもいい。完璧じゃなくてもいい。彼は、自分が一番隠したかった『完璧じゃなくて可愛げのない夏月』を、すべて知った上で丸ごと愛してくれるのだ。
 
「……ほんと、柊木主任って、ズルいですよね」
「ズルくて結構。……二度と『私には価値がない』なんて言わさない。覚えるまで、何度だって俺が教えてやるよ」
 
 柊木の手が夏月の腰を抱き寄せ、隙間を埋めるように固く抱きしめた。夏月は初めて自分の意志で、彼の胸元に額を預け、長い長い溜息とともに身体の力を抜いた。