あの日の返事が今聞こえる

 あの日の返事がいま聞こえる

 鋭い角度の朝日が射す通学路。
 通学路の中ほどにある線路の遮断機が派手な案山子みたい。その向こうに青空と白い雲。
 早すぎた教室にはまだわたしだけ。チョークが以前のようには減らない。電子黒板のおかげで黒板消しを叩く音も減った。少し寂しいな。
 教室の隅、板の間の上に体育座り。晴れた日は、ここからの青空が眩しい。やがて一人二人と教室の席が埋まる、次第にガヤガヤし出すけど補聴器のわたしはよく聞き取れない。誰もわたしを見ない。体育座りのまま、わたしは埋まっていく椅子を眺めてる。
 ああ、そうだ。確か、今日は教育実習の大学生が来る初日だったかな。教室も少し浮ついている。誰とも目が合わない教室がもうにぎやかだ。
 あ、ユウマが来た。おはよう。
 大好きだった子にそっくり。やさしいし。


 中学の時、わたしは過呼吸で救急車を呼んだことがある。病院の先生が教えてくれた。
 窒息することはないんだって。 なのに息苦しいなんて、不思議。
 半年前に、ユウマが全校集会で倒れた子の介抱をしていた。あの子も過呼吸に見えた。ユウマが駆け寄る姿にわたしはあの日を思い出す。
 補聴器のわたしは、すこし発音にも癖があるみたい。だから人前で話すとき、すごくあがってしまう。そしてそのことで視線を集めてしまうと、もう言葉が出なくなる。息苦しい気がする。
 高校でも同じことをやらかしたわたしを助けてくれたのが、ユウマそっくりの彼だ。彼は学級委員長。校則を変えた同級生の男の子。

 うちの高校は県下一の難関校。だから生徒の意識も高め。
 天知の前では正面から口元を隠さないほうがいいよね。天知の席は教室の前の方がいいんじゃないか。天知は髪を後ろで結ばなくていい。矢継ぎ早のわたしの名前が繰り返される。
 でも、これってなに?
 わたしは息苦しくて、その時学級委員長が言った。
 「一回止めよう。天知の気持ちだってあるんだから」
 「なら、天知に聞こうぜ。どうなんだよ?」
 ああ、くるしい。わたしを追い詰めないで。
 彼がわたしの前に立つ。その背中が近い。学級委員長だから?
 学級委員長は背中に回した手で、そっとわたしの指を握っている。わたしの震える指先。
 じゃない。
 学級委員長の指が震えている。彼の震えを知って、わたしは呼吸が戻っていく。

 どうしても言いたいことがあった。たくさん練習したから。アプリで録音して、スペクトル・アナライザーでおかしくないかチェックして。絶対に言いたいから。
 でも彼は震えて、上手く笑えないまま、泣いてしまった。
 ああ、「好きです」が遠い。
 わたしのあの日のありったけの勇気は、届いたの?
 走り抜けた遮断機が突っ立ったままで案山子みたい。その先の曲がり角、音のない衝撃に、景色が何度もひっくり返る。車が遅れてゆっくり通り過ぎていく。

 「ボクはこの学校のOBです。先に言っておくと、このクラスに弟がいます」
 実習の先生の言葉で全員がユウマを見る。そっくりだから。体育座りのわたしも見比べる。
 本当に似ている。
 「あの、先生。先生が在学中にこの学校の校則を変えたって、本当ですか?」
 「いえ、それは語弊があります。この学校、校則の一部を三年生が決める制度は今も残ってますよね?当時、天知という女子生徒がいました。その子がきっかけ。ボクの同級生でした。誰よりも早く学校にきて、花瓶の花を変えて、黒板消しを掃除するような、優しい子でした。でもハンディも少し持ってて。何かしなくちゃって。ボクたちは、彼女のためだと思ってた。でも今思えば、本人がどうしたかったのか、ちゃんと聞けてなかったんです。」

 「でも、花瓶とか黒板とか、なんで知ってるんですか?その子、誰よりも早くきてるんですよね?」
 少し意地悪な質問。
 「いや、それは……当時ボク、学級委員長だったし……」
 「先生、もしかして好きだったとか?その子のこと」
 ザワザワし出す。
 静かにして、聞こえない!
 「……うん。でも彼女は事故で亡くなりました。彼女が事故に合う数十分前、その時の言葉が心の中にずっとあって、忘れられなくて、決めたんです。教師になるって」
 「あの、その言葉って?」
 静まる教室。それでも誰かが小さな声で言った。先生がいっそう顔を上げた。

 「秘密。ボクは嬉しくて、なのに急に苦しくなって、彼女に返事が出来なかった。キミたちには、学校の仲間と一生共有できる何かを、学校生活の中で得てほしいと、心から願ってます」
 あの日の言葉は遠くなかった。ちゃんと届いていた。

 体育座りのこの場から見える青空が青すぎて、雲が眩しい。
 今日わたしはサヨナラをいう。彼と一緒に消した黒板、彼が資料を持って登ってくれた階段、待ち遠しい朝の通学路、そして案山子みたいな遮断機に。見守り続けてくれてありがとう。さようなら。
 遮断機がかんかん鳴りながら手を振りかえす。眩しかった雲がアンバーに滲む。町が柔らかな茜色、校舎の先っちょだけまだ見える。
 先生、がんばれ。

 おしまい