サンドイッチをひと口食べたカトランは、しばらく無言でいた。
わたしとパトリスは、ハラハラとカトランの表情をうかがうのだけど、どう感じているのか読み取れない。
やがて、カトランが口をひらいた。
「美味いな」
素っ気ない口調だけど、真っ赤な瞳にサンドイッチを近付け、興味深そうに挟んである具を確認しているので、お気に召してくれたみたい。
緊張を解いたパトリスと微笑み合う。
パトリスにとっては大きな挑戦だったのだろう。小さなおじいちゃんのように背中を丸めて、お茶をいただく姿が微笑ましい。
――やったね!
いまは心の中でだけ、パトリスに声をかけた。
わたしも、お茶をいただこうとしたとき。
「……口紅を変えたのか?」
カトランの唐突な言葉に、ティーカップを落としそうになる。
「あ、はい……」
カトランがわたしのお化粧に興味を示すだなんて、どういう心境の変化だろう。
チラリと表情をうかがうも、どうということもない顔をしている。
ふと、気恥ずかしさがこみ上げた。
――わたしを……、女性として見てくれるようになったのかしら……?
あのとき……、
『……しかし、当主夫人であるアデールでさえ、化粧などしていないのに……』
『してます』
『……え?』
『してます』
カトランはジーッとわたしの顔を見詰めていた。信じられないといった表情で。
なんだか、こう……、わたしの「おぼこさ」を確認されているようで、あまり嬉しくなかった。
ティーカップを置き、カトランの表情をうかがった。
「マノン様からいただいたお化粧品はすべて領民に配りましたので……」
「ああ」
「……これは、商人のリュリュに『派手になりすぎず、少し気持ちの華やぐようなものを』と、わたしが別にお願いしたものです……」
「よく似合っている」
ドキッと息の詰まるような高鳴りを感じて、思わず視線を下げると、不安げにわたしを見詰めるパトリスと目が合った。
なぜだろう。その瞬間に、
――俺は2年後、必ず妻としよう。ただひとり、アデールを妻としよう。
というカトランの声が胸に蘇った。
「だ、大丈夫なのよ……? パトリス」
「……ほんとう?」
パトリスは、カトランがわたしのことを『色気付いた』『謹厳なガルニエ家の家風に合わない』と不快に思っているのではないかと、心配になったのだろう。
恐らく、そういうことではない。
ただ、カトランはパトリスの様子に気が付いたのか、わざとらしい咳ばらいをひとつした。
「……すまない」
「いえ……」
「いや、その……」
「……はい」
「リュリュから聞いていた」
「え?」
「……奥様が口紅を購入されたので、必ず褒めてあげるようにと……。俺はなかなか、そういうことに気付かぬたちだから……」
「ぷっ。……あ、当てずっぽうだったのですか?」
「当たってよかった」
「……よ、よかったですわね」
笑いすぎないように努力しているのだけど、どうしても声が震える。
気まずそうに視線を逸らすカトランの表情も、ホッとしてわたしの唇をまじまじと眺めるパトリスも愛おしい。
『……口紅を変えたのか?』
『変えてません』
と、わたしが仏頂面になる展開も覚悟していたのかと思うと、カトランの浮かべる表情がますます愛おしく思えてくる。
そして、リュリュから聞いていたのだと正直に打ち明けずにはいられない、カトランのまっすぐ過ぎる誠実さが、とても温かいものとして胸の奥に広がる。
「……アデールの定めた家規で、ご婦人の装いを褒めることは禁止されていなかったと思うが……?」
「ええ、紳士のたしなみですわね」
「そうか……」
視線を窓の外にやったまま、抑揚のない声で言うのは、カトランが照れているからなのかもしれない。
――よく似合っている。
というセリフまで、リュリュの指南によるものなのかは聞かずにおく。
どちらにしても……、わたしがドキッとしてしまったのは本当だし。カトランが口にしてくれたというだけで充分だ。
「ほんとだっ! ……ちょっとだけ、前よりピンク色になってるね」
「そうよ、パトリス。よく分かったわね」
カトランが、チラッとわたしを見た。
そして、すぐに視線を窓の外に戻してしまう。
こみ上げるものを抑えて、努めて穏やかに話しかけた。もう少し、そのお顔を見せてもらいたい。
「カトラン。……もっと、よく見ていただけると……、わたしもお化粧をした甲斐があるというものですのよ?」
「そういうものか……」
「ええ、そういうものです」
それから、パトリスとカトランによる、わたしの唇の観察会が始まってしまった。
これは、照れ臭い。
まるで品評会のように、ふたりしてここまでマジマジと眺められるとは思わなかった。
乱倫の王都では嘲笑と侮蔑の視線に囲まれていたわたしだけど、真摯で真剣な観察対象? 観賞対象? にされてしまうというのも……。
パトリスは一生懸命に、わたしの唇の「ちょっとだけピンク色」について説明しようとしてくれて、カトランは分かったような分からないような表情で、まっすぐに見詰めてくる。
嬉しいやら気恥ずかしいやら、居心地が悪いのか、とても幸せなのか。
――きっと……、こうして……、2年なんてあっという間に過ぎてしまうわね。
2年後。わたしはどうなっているだろう。
いまよりもっと、ふたりと分かり合えているだろうか。
カトランの『妻』にふさわしい、わたしになれているだろうか。
王国最強の武人。30倍の帝国軍を援軍もなしに独力で退けた、血みどろの狂戦公。
辺境伯カトラン・ガルニエ。
国王陛下も母女大公も、その存在を無視できない、王国北方の雄。
目を険しく細めたり、大きく見開いたり……。ちょっとだけ……、顔が近い……、かな? 意識するとわたしの唇が勝手にピクピクしてしまう。
カトランの真っ赤な瞳は、わたしの唇を、鼻先を、そして瞳をと忙しく動く。
戦場で敵を射抜くような鋭い眼光は、まるでわたしを獲物として狙っているかのよう。
つい目を逸らすと、カトランの耳の先がほんのり赤く染まっているのを見付けてしまって、わたしはますます視線のやり場に困る。
顔と唇を動かさないままに、天井を見詰めた。
やがて感嘆の色を帯びたカトランの声が、穏やかに響いた。
「……たしかに。前よりも、わずかにピンク色だな」
「ですよね、養父上!」
「ようやく分かった……。恩に着る、パトリス」
そんなことで、安堵のため息を吐かないでいてほしい。狂戦公。
わたしの肩から力が抜けていく。
「……春らしい色だな」
「ふふっ……。嬉しいですわ、カトラン」
だけど、カトランはわたしに、こんな表情も見せてくれるようになったのだ。
戦場や血の『赤』しか知らなかったカトランが、モノクロームに閉ざされた冬を乗り越え、その瞳に華やいだ春のピンク色を映してくれている。
まるで芽吹きのような、カトランの小さな微笑みがわたしに向いている。
パトリスはとても可愛らしいドヤ顔を浮かべて、わたしを見詰める。
――養父上にアデールのピンク色を分かってもらえたのは、ボクの武勲だよね!?
その小さな頭に、そっと手をやり撫でてあげると、パトリスはくすぐったそうに微笑んでくれた。
このパトリスに、
――2年後、妻とする。
という言葉が伝わったとき、ちょっとした大騒動になってしまうのだけど、それはまた別のお話。
いまはただ、この少し独特な、だけどきっと、わたしたちらしい温かなお茶の時間を、3人で楽しんだ。
わたしとパトリスは、ハラハラとカトランの表情をうかがうのだけど、どう感じているのか読み取れない。
やがて、カトランが口をひらいた。
「美味いな」
素っ気ない口調だけど、真っ赤な瞳にサンドイッチを近付け、興味深そうに挟んである具を確認しているので、お気に召してくれたみたい。
緊張を解いたパトリスと微笑み合う。
パトリスにとっては大きな挑戦だったのだろう。小さなおじいちゃんのように背中を丸めて、お茶をいただく姿が微笑ましい。
――やったね!
いまは心の中でだけ、パトリスに声をかけた。
わたしも、お茶をいただこうとしたとき。
「……口紅を変えたのか?」
カトランの唐突な言葉に、ティーカップを落としそうになる。
「あ、はい……」
カトランがわたしのお化粧に興味を示すだなんて、どういう心境の変化だろう。
チラリと表情をうかがうも、どうということもない顔をしている。
ふと、気恥ずかしさがこみ上げた。
――わたしを……、女性として見てくれるようになったのかしら……?
あのとき……、
『……しかし、当主夫人であるアデールでさえ、化粧などしていないのに……』
『してます』
『……え?』
『してます』
カトランはジーッとわたしの顔を見詰めていた。信じられないといった表情で。
なんだか、こう……、わたしの「おぼこさ」を確認されているようで、あまり嬉しくなかった。
ティーカップを置き、カトランの表情をうかがった。
「マノン様からいただいたお化粧品はすべて領民に配りましたので……」
「ああ」
「……これは、商人のリュリュに『派手になりすぎず、少し気持ちの華やぐようなものを』と、わたしが別にお願いしたものです……」
「よく似合っている」
ドキッと息の詰まるような高鳴りを感じて、思わず視線を下げると、不安げにわたしを見詰めるパトリスと目が合った。
なぜだろう。その瞬間に、
――俺は2年後、必ず妻としよう。ただひとり、アデールを妻としよう。
というカトランの声が胸に蘇った。
「だ、大丈夫なのよ……? パトリス」
「……ほんとう?」
パトリスは、カトランがわたしのことを『色気付いた』『謹厳なガルニエ家の家風に合わない』と不快に思っているのではないかと、心配になったのだろう。
恐らく、そういうことではない。
ただ、カトランはパトリスの様子に気が付いたのか、わざとらしい咳ばらいをひとつした。
「……すまない」
「いえ……」
「いや、その……」
「……はい」
「リュリュから聞いていた」
「え?」
「……奥様が口紅を購入されたので、必ず褒めてあげるようにと……。俺はなかなか、そういうことに気付かぬたちだから……」
「ぷっ。……あ、当てずっぽうだったのですか?」
「当たってよかった」
「……よ、よかったですわね」
笑いすぎないように努力しているのだけど、どうしても声が震える。
気まずそうに視線を逸らすカトランの表情も、ホッとしてわたしの唇をまじまじと眺めるパトリスも愛おしい。
『……口紅を変えたのか?』
『変えてません』
と、わたしが仏頂面になる展開も覚悟していたのかと思うと、カトランの浮かべる表情がますます愛おしく思えてくる。
そして、リュリュから聞いていたのだと正直に打ち明けずにはいられない、カトランのまっすぐ過ぎる誠実さが、とても温かいものとして胸の奥に広がる。
「……アデールの定めた家規で、ご婦人の装いを褒めることは禁止されていなかったと思うが……?」
「ええ、紳士のたしなみですわね」
「そうか……」
視線を窓の外にやったまま、抑揚のない声で言うのは、カトランが照れているからなのかもしれない。
――よく似合っている。
というセリフまで、リュリュの指南によるものなのかは聞かずにおく。
どちらにしても……、わたしがドキッとしてしまったのは本当だし。カトランが口にしてくれたというだけで充分だ。
「ほんとだっ! ……ちょっとだけ、前よりピンク色になってるね」
「そうよ、パトリス。よく分かったわね」
カトランが、チラッとわたしを見た。
そして、すぐに視線を窓の外に戻してしまう。
こみ上げるものを抑えて、努めて穏やかに話しかけた。もう少し、そのお顔を見せてもらいたい。
「カトラン。……もっと、よく見ていただけると……、わたしもお化粧をした甲斐があるというものですのよ?」
「そういうものか……」
「ええ、そういうものです」
それから、パトリスとカトランによる、わたしの唇の観察会が始まってしまった。
これは、照れ臭い。
まるで品評会のように、ふたりしてここまでマジマジと眺められるとは思わなかった。
乱倫の王都では嘲笑と侮蔑の視線に囲まれていたわたしだけど、真摯で真剣な観察対象? 観賞対象? にされてしまうというのも……。
パトリスは一生懸命に、わたしの唇の「ちょっとだけピンク色」について説明しようとしてくれて、カトランは分かったような分からないような表情で、まっすぐに見詰めてくる。
嬉しいやら気恥ずかしいやら、居心地が悪いのか、とても幸せなのか。
――きっと……、こうして……、2年なんてあっという間に過ぎてしまうわね。
2年後。わたしはどうなっているだろう。
いまよりもっと、ふたりと分かり合えているだろうか。
カトランの『妻』にふさわしい、わたしになれているだろうか。
王国最強の武人。30倍の帝国軍を援軍もなしに独力で退けた、血みどろの狂戦公。
辺境伯カトラン・ガルニエ。
国王陛下も母女大公も、その存在を無視できない、王国北方の雄。
目を険しく細めたり、大きく見開いたり……。ちょっとだけ……、顔が近い……、かな? 意識するとわたしの唇が勝手にピクピクしてしまう。
カトランの真っ赤な瞳は、わたしの唇を、鼻先を、そして瞳をと忙しく動く。
戦場で敵を射抜くような鋭い眼光は、まるでわたしを獲物として狙っているかのよう。
つい目を逸らすと、カトランの耳の先がほんのり赤く染まっているのを見付けてしまって、わたしはますます視線のやり場に困る。
顔と唇を動かさないままに、天井を見詰めた。
やがて感嘆の色を帯びたカトランの声が、穏やかに響いた。
「……たしかに。前よりも、わずかにピンク色だな」
「ですよね、養父上!」
「ようやく分かった……。恩に着る、パトリス」
そんなことで、安堵のため息を吐かないでいてほしい。狂戦公。
わたしの肩から力が抜けていく。
「……春らしい色だな」
「ふふっ……。嬉しいですわ、カトラン」
だけど、カトランはわたしに、こんな表情も見せてくれるようになったのだ。
戦場や血の『赤』しか知らなかったカトランが、モノクロームに閉ざされた冬を乗り越え、その瞳に華やいだ春のピンク色を映してくれている。
まるで芽吹きのような、カトランの小さな微笑みがわたしに向いている。
パトリスはとても可愛らしいドヤ顔を浮かべて、わたしを見詰める。
――養父上にアデールのピンク色を分かってもらえたのは、ボクの武勲だよね!?
その小さな頭に、そっと手をやり撫でてあげると、パトリスはくすぐったそうに微笑んでくれた。
このパトリスに、
――2年後、妻とする。
という言葉が伝わったとき、ちょっとした大騒動になってしまうのだけど、それはまた別のお話。
いまはただ、この少し独特な、だけどきっと、わたしたちらしい温かなお茶の時間を、3人で楽しんだ。
