お昼下がり。今日やるべきことをすべてやり終え、手持ち無沙汰になってしまった。
誰もいない午後の日が差す暖炉の前に腰を降ろし、チェスの駒を磨く。
温泉地での〈お試し初回〉を控えて、気持ちがソワソワする。なにもしていないと落ち着かない。
『図上演習はパトリスにはまだ少し早い……。まずは、チェスから親しむといい』
カトランがパトリスのために、ひとつひとつ手彫りで削り出してくれた。
ふたりが盤面をにらみ、わたしが見守る。温かな対戦の時間を思い返すだけでも、心がほころぶ。
馬の形をした『ナイト』の駒には、カトランの苦心した跡が見える。脆そうなたてがみの部分を壊してしまわないよう、慎重に優しく撫でるようにして磨く。
使っては磨き、使っては磨き、駒にはツヤと風合いが出始めている。
――少しずつ、少しずつ……、家族……、の時間が積み重なっていく……。
カトランはあまり自分の気持ちを言葉にはしてくれないけれど、こうして形や行動で表してくれる。
『パトリスの、この一手が素晴らしかったな。ポーンの使い方が上手くなった』
パトリスがついに初勝利をあげたときも、カトランは「よくやった」とか「強くなった」なんて言葉をかけてあげることはなかった。
けれど、いつものように淡々と盤面を振り返るその声には、どこか優しい響きがこもっていた。
「ふふっ……」
パトリスが勝利を噛み締める、とてもとても控え目な、とてもとても上品なドヤ顔を思い出し、自然と笑みがこぼれた。
透んだグリーンの瞳には達成感とかすかな高揚と、それに確かな自信の色もうかがえた。
チェスでは聞いたことのない特別ルールのハンデ戦だったけれど、強い強いカトランに初めて勝てたことは、まだ幼いパトリスにとって大事件だったことだろう。
わたしまで誇らしい気持ちになってしまった。
そのとき、カチャンという小さな音が、廊下の向こうで響いた気がした。
――厨房……? いや、夕飯の支度にはまだ早いはずだけど……。
城の給仕係は、料理だけではなくほかの作業も受け持っている。
いまの時間なら、厨房は無人のはずだけど……? と、駒を置いて様子を見にいく。
賊ということはないと思うのだけど、念のため、恐る恐る厨房の中をのぞく。
――やっぱり、誰もいないわね……。
なにか食器でも落ちてしまったのかしらと、中を見てあるく。
火が落とされた大きな石造りの竈に、天井から吊るされた燻製肉。ひんやりとした石畳の床。
謹厳な家風を映すかのように、清掃の行き届いた気持ちのいい厨房をあるくと、作業台の向こうに小さな影があった。
「……パトリス?」
「見付かっちゃった……」
「ふふっ、見付けちゃったわね。なに? かくれんぼ?」
「ううん」
しゃがんだまま首を振るパトリスの前でわたしも膝を抱き、視線を合わせる。
はにかむような笑み。
――ケガはないようね……。
悪戯がばれてしまったような、照れ臭そうな笑みを浮かべるパトリスに顔を寄せ、声を潜める。
「ふふっ。じゃあ、なにしてたの?」
「う~ん……」
「教えてくれないのぉ~?」
「……サンドイッチを、つくりたくて」
「あら、お腹がすいちゃった?」
パトリスはまた首を振って、頬をすこし赤くした。
「……アデールがつくってくれたサンドイッチ、美味しかったから……。養父上にも食べさせてあげたいなって……」
「ふふっ、そう。わたしのサンドイッチが美味しいだなんて、光栄だわ」
「ほんとうだよ?」
「うん、ありがとう。疑ってないわよ?」
パトリスは自分を捨てた実の母であるセリアよりも、わたしを選んでくれた。
――『ははうえ』は……、アデールがいい。
あの後、ふたりで手を繋いで厨房に行き、あり合わせのものでつくったサンドイッチ。
「……覚えてくれてるんだ」
「だって! ……美味しかったし」
だって! の声の響きに、力が込められていたことが、なんとも嬉しい。
「う~ん……、でもパトリスに重たい肉切り包丁は、まだちょっと危ないかな」
「そっか……、あのね」
「なに?」
「……アデールがつくるサンドイッチは、全部美味しいの?」
「ぷっ」
「え?」
「……自分では美味しいつもりだけど、パトリスが食べて判断してくれる?」
「分かった。……ボクでもつくれるのがいい……」
「覚えたいの?」
パトリスはより一層照れ臭そうに、コクリと頷いた。
「……アデール、行っちゃうんでしょ?」
「え? ……どこに?」
「温泉」
「あ、ああ……。ええ、すこしだけよ。四日だけ」
「……養父上が寂しくないように、ボクがサンドイッチつくってあげるの」
「ふふっ、そう」
「うん」
行っちゃうんでしょと言われたとき、ドキリとしてしまった。
わたしを城から追い出すような話を、どこかでパトリスが耳にしたのかと、悪い想像を巡らせてしまったのだ。
――それが……、カトランが寂しくないようにだなんて……。
少しの自己嫌悪も、なんだか心地いい。
「パトリス」
「……なに、アデール」
「正直に教えてください」
「う、うん……。なに?」
「寂しいのはパトリスですね?」
「ち、違う……」
グリーンの瞳を所在なさげにキョロキョロとさせる姿が、なんともいえず愛らしい。
もう! 抱き締めて頬擦りしちゃうぞ!? という気持ちでニヤニヤ眺める。
「……ボ、ボクも……、寂しい……かもしれないね」
「ふふっ、嬉しいわ」
「う、嬉しいのは変だよぉ……」
口を尖らせたパトリスと一緒に、サンドイッチをつくる。
「ここにね、端切れのベーコンやハムがしまってあるの」
「ほんとだ」
「ふふっ、ギオやみんなの夜のお酒のお供だけど、これを少しもらって、軽く洗って塩抜きして……」
「うん」
「それから酢漬けのキャベツと、あとチーズも一緒にパンで挟んだら……」
冬場の保存用にベーコンやハムには、たっぷりの塩が利いている。キャベツの酢とチーズが塩味を和らげてくれるし、余計な味付けをしなくても、充分に味がする。
「……美味しい? これ」
「どうぞ、召し上がれ」
わたしが微笑むと、パトリスがひと口食べてみる。
「どう?」
「美味しい」
「よかったわ」
パトリスはモグモグしながら、何度も頷いてくれた。
即席のサンドイッチはパトリス子爵閣下のお気に召したようなので、ふたりで新しいのをつくって、カトランの執務室へと持っていく。
許しを得て、3人でお茶の時間にさせてもらう。
パトリスがつくったサンドイッチだと伝えると、当のパトリスから抗議された。
「……ほとんど、アデールがつくってくれたのに……」
「ふふっ。正直なのはいいことね。だけど、養父上のためにつくりたいって言ってくれたのはパトリスよ? わたしは、そのお手伝いをしただけ」
「う~ん……、うん。分かった」
まるで年の離れた姉弟の『口げんか』を眺めるようにしていた無言のカトランが、サンドイッチを手に取った。
わたしとパトリスは、ハッとふり向き、その様子を見守る。
カトランは喜んでくれるだろうか。
ゴクリと、わたしとパトリスの喉が、おなじタイミングで音をたてた。
誰もいない午後の日が差す暖炉の前に腰を降ろし、チェスの駒を磨く。
温泉地での〈お試し初回〉を控えて、気持ちがソワソワする。なにもしていないと落ち着かない。
『図上演習はパトリスにはまだ少し早い……。まずは、チェスから親しむといい』
カトランがパトリスのために、ひとつひとつ手彫りで削り出してくれた。
ふたりが盤面をにらみ、わたしが見守る。温かな対戦の時間を思い返すだけでも、心がほころぶ。
馬の形をした『ナイト』の駒には、カトランの苦心した跡が見える。脆そうなたてがみの部分を壊してしまわないよう、慎重に優しく撫でるようにして磨く。
使っては磨き、使っては磨き、駒にはツヤと風合いが出始めている。
――少しずつ、少しずつ……、家族……、の時間が積み重なっていく……。
カトランはあまり自分の気持ちを言葉にはしてくれないけれど、こうして形や行動で表してくれる。
『パトリスの、この一手が素晴らしかったな。ポーンの使い方が上手くなった』
パトリスがついに初勝利をあげたときも、カトランは「よくやった」とか「強くなった」なんて言葉をかけてあげることはなかった。
けれど、いつものように淡々と盤面を振り返るその声には、どこか優しい響きがこもっていた。
「ふふっ……」
パトリスが勝利を噛み締める、とてもとても控え目な、とてもとても上品なドヤ顔を思い出し、自然と笑みがこぼれた。
透んだグリーンの瞳には達成感とかすかな高揚と、それに確かな自信の色もうかがえた。
チェスでは聞いたことのない特別ルールのハンデ戦だったけれど、強い強いカトランに初めて勝てたことは、まだ幼いパトリスにとって大事件だったことだろう。
わたしまで誇らしい気持ちになってしまった。
そのとき、カチャンという小さな音が、廊下の向こうで響いた気がした。
――厨房……? いや、夕飯の支度にはまだ早いはずだけど……。
城の給仕係は、料理だけではなくほかの作業も受け持っている。
いまの時間なら、厨房は無人のはずだけど……? と、駒を置いて様子を見にいく。
賊ということはないと思うのだけど、念のため、恐る恐る厨房の中をのぞく。
――やっぱり、誰もいないわね……。
なにか食器でも落ちてしまったのかしらと、中を見てあるく。
火が落とされた大きな石造りの竈に、天井から吊るされた燻製肉。ひんやりとした石畳の床。
謹厳な家風を映すかのように、清掃の行き届いた気持ちのいい厨房をあるくと、作業台の向こうに小さな影があった。
「……パトリス?」
「見付かっちゃった……」
「ふふっ、見付けちゃったわね。なに? かくれんぼ?」
「ううん」
しゃがんだまま首を振るパトリスの前でわたしも膝を抱き、視線を合わせる。
はにかむような笑み。
――ケガはないようね……。
悪戯がばれてしまったような、照れ臭そうな笑みを浮かべるパトリスに顔を寄せ、声を潜める。
「ふふっ。じゃあ、なにしてたの?」
「う~ん……」
「教えてくれないのぉ~?」
「……サンドイッチを、つくりたくて」
「あら、お腹がすいちゃった?」
パトリスはまた首を振って、頬をすこし赤くした。
「……アデールがつくってくれたサンドイッチ、美味しかったから……。養父上にも食べさせてあげたいなって……」
「ふふっ、そう。わたしのサンドイッチが美味しいだなんて、光栄だわ」
「ほんとうだよ?」
「うん、ありがとう。疑ってないわよ?」
パトリスは自分を捨てた実の母であるセリアよりも、わたしを選んでくれた。
――『ははうえ』は……、アデールがいい。
あの後、ふたりで手を繋いで厨房に行き、あり合わせのものでつくったサンドイッチ。
「……覚えてくれてるんだ」
「だって! ……美味しかったし」
だって! の声の響きに、力が込められていたことが、なんとも嬉しい。
「う~ん……、でもパトリスに重たい肉切り包丁は、まだちょっと危ないかな」
「そっか……、あのね」
「なに?」
「……アデールがつくるサンドイッチは、全部美味しいの?」
「ぷっ」
「え?」
「……自分では美味しいつもりだけど、パトリスが食べて判断してくれる?」
「分かった。……ボクでもつくれるのがいい……」
「覚えたいの?」
パトリスはより一層照れ臭そうに、コクリと頷いた。
「……アデール、行っちゃうんでしょ?」
「え? ……どこに?」
「温泉」
「あ、ああ……。ええ、すこしだけよ。四日だけ」
「……養父上が寂しくないように、ボクがサンドイッチつくってあげるの」
「ふふっ、そう」
「うん」
行っちゃうんでしょと言われたとき、ドキリとしてしまった。
わたしを城から追い出すような話を、どこかでパトリスが耳にしたのかと、悪い想像を巡らせてしまったのだ。
――それが……、カトランが寂しくないようにだなんて……。
少しの自己嫌悪も、なんだか心地いい。
「パトリス」
「……なに、アデール」
「正直に教えてください」
「う、うん……。なに?」
「寂しいのはパトリスですね?」
「ち、違う……」
グリーンの瞳を所在なさげにキョロキョロとさせる姿が、なんともいえず愛らしい。
もう! 抱き締めて頬擦りしちゃうぞ!? という気持ちでニヤニヤ眺める。
「……ボ、ボクも……、寂しい……かもしれないね」
「ふふっ、嬉しいわ」
「う、嬉しいのは変だよぉ……」
口を尖らせたパトリスと一緒に、サンドイッチをつくる。
「ここにね、端切れのベーコンやハムがしまってあるの」
「ほんとだ」
「ふふっ、ギオやみんなの夜のお酒のお供だけど、これを少しもらって、軽く洗って塩抜きして……」
「うん」
「それから酢漬けのキャベツと、あとチーズも一緒にパンで挟んだら……」
冬場の保存用にベーコンやハムには、たっぷりの塩が利いている。キャベツの酢とチーズが塩味を和らげてくれるし、余計な味付けをしなくても、充分に味がする。
「……美味しい? これ」
「どうぞ、召し上がれ」
わたしが微笑むと、パトリスがひと口食べてみる。
「どう?」
「美味しい」
「よかったわ」
パトリスはモグモグしながら、何度も頷いてくれた。
即席のサンドイッチはパトリス子爵閣下のお気に召したようなので、ふたりで新しいのをつくって、カトランの執務室へと持っていく。
許しを得て、3人でお茶の時間にさせてもらう。
パトリスがつくったサンドイッチだと伝えると、当のパトリスから抗議された。
「……ほとんど、アデールがつくってくれたのに……」
「ふふっ。正直なのはいいことね。だけど、養父上のためにつくりたいって言ってくれたのはパトリスよ? わたしは、そのお手伝いをしただけ」
「う~ん……、うん。分かった」
まるで年の離れた姉弟の『口げんか』を眺めるようにしていた無言のカトランが、サンドイッチを手に取った。
わたしとパトリスは、ハッとふり向き、その様子を見守る。
カトランは喜んでくれるだろうか。
ゴクリと、わたしとパトリスの喉が、おなじタイミングで音をたてた。
