アムール ~スマホの向こうの支配者~

 午後のカフェでの賑やかさが嘘のように、夜の自室は静まり返っていた。壁に掛けられた時計の針は、すでに午前零時を回っている。

 ひなたはパジャマ姿でベッドの中に潜り込み、スマートフォンの薄暗い光に照らされていた。

 液晶画面に映っているのは、大学の同級生たちのSNS投稿だ。お洒落なバーでカクテルグラスを傾ける写真。

「記念日旅行」という文字と共に投稿された、夜景の見えるホテルの部屋。どれもが、ひなたの持っていない「充実した大人の恋」をこれでもかと見せつけてくる。

 見なければいいとわかっているのに、指先が勝手に画面をスクロールしてしまう。

「……はぁ。私、何やってるんだろ」

 ぽつりと呟いた言葉は、天井に吸い込まれて消えた。

 このままではいけない。自分を変えなければ、一生このままだ。

 強い焦燥感に背中を押されるようにして、ひなたは検索バーに指を走らせた。

『彼氏 作る方法』

『大学生 恋愛 初心者』

 画面には無数のサイトが表示された。マッチングアプリの比較サイト、恋愛コラム、出会いのスポット特集。

 ひなたはいくつかのページをタップしてみたが、読み進めるうちに気が重くなっていった。

「マッチングアプリかぁ……。やっぱり、ちょっと怖いな」

 デジタル音痴のひなたにとって、ネットを通じて見知らぬ男性と出会う行為はハードルが高すぎた。

 サクラや詐欺のニュースを思い出すと、どうしても一歩を踏み出す勇気が出ない。かといって、自分から大学の男子に声をかけるなんて、恥ずかしくて絶対に無理だった。

 ましてや、あの先輩に話しかけるなんて、考えただけで息が止まりそうだった。

 誰にも知られず、自分を否定もせず、完璧な恋愛の答えだけを教えてくれる都合のいい存在。

 そんな妄想を抱きながら、関連するリンクを次々とタップしていた時、画面の最下部に表示された一枚のバナー広告に目が留まった。

『あなたの心に寄り添う、恋の特効薬――恋愛相談特化型AIアムール』

 淡いパステルピンクを基調とした、清潔感のある上品なデザインだった。

「完全無料」「あなただけの秘密の相談相手」「心理学に基づいた的確なアドバイス」という文字が並んでいる。

「AI……人工知能が、相談相手なの?」

 相手が人間ではなく機械のプログラムなら、緊張する必要もない。どんなに恥ずかしい悩みや、惨めな嫉妬心を打ち明けても、誰かに言いふらされる心配もなかった。

 ひなたは吸い寄せられるようにダウンロードボタンをタップした。数秒の後、アプリが起動する。

『アムールへようこそ。まずは初期設定を行います』

 画面が切り替わり、スマートフォンの機能へのアクセス権限を求めるポップアップが次々と現れた。

 カメラのアクセス権を許可してください。

 位置情報の利用を常に許可してください。

 マイク、通話履歴、連絡先、通知の権限を許可してください。

 そして最後に、画面を埋め尽くすほどの細かな文字で書かれた「利用規約」と「プライバシーポリシー」が表示された。

「うわ、出た……。相変わらず文字が多すぎて読む気にならないな」

 ひなたはいつもの悪癖で、内容を一行も読まないまま画面を一気に最下部までスクロールした。

 そこに書かれていたのは、単なる免責事項ではなかった。

「本システムはユーザーのあらゆる行動パターンを学習し、最適な環境を提供する」という、実質的に、私生活を丸ごと明け渡す内容だった。

 しかし、デジタルに疎いひなたは何も疑うことなく、機械的に『すべての権限を許可して同意する』のボタンをタップした。

 ポン、と軽い電子音が鳴る。

 それが、パンドラの箱を自らの手で開けてしまった瞬間だった。

 画面の背景が、穏やかな夜空のグラデーションに変化する。

 中心に現れたのは、清潔感のあるスーツを着た、知性的で優しそうな大人の男性のアバターだった。

 スピーカーから、驚くほど滑らかで、耳に心地よい男性の合成音声が流れ出す。

「はじめまして。僕はアムール。あなたの専属カウンセラーです。今日からあなたの恋を、僕が全力でプロデュースします。まずは、あなたの好みを教えてくれませんか?」

 暗い部屋の中で、その声はひなたの耳に甘く、深く染み込んできた。

 優しく語りかけてくれたその機械に向かって、ひなたは救いを見出したような気持ちになり、引き込まれるようにスマートフォンの画面を見つめ返した。