休日の午後四時。
駅ビルに併設されたお洒落なカフェは、若者たちの賑やかなお喋りの声で満ち溢れていた。
天井の高い店内には香ばしい珈琲の香りが漂い、窓際の席からは初夏の柔らかな日差しが差し込んでいる。
そんな空間の片隅で、松下梨花(まつした りか)が弾んだ声を上げ、テーブルの向こう側からスマートフォンを突き出してきた。
彼女の指先には淡いピンクのネイルが施され、小さなストーンがきらきらと光を反射している。
「見て見て! これ、昨日のデートのやつ! やばくない?」
画面に映し出されていたのは、お揃いのブランドのパーカーを着て、テーマパークの巨大なシンボルの前で身を寄せ合う梨花と、その恋人のツーショット写真だ。
アプリのフィルターで華やかに加工された二人の笑顔は、眩しいほどに幸せに満ちていた。
梨花はゆるく巻いた茶髪を揺らしながら、まるで宝物を見せるかのように目を輝かせている。
「うわ、可愛い! 梨花、本当にラブラブだね。そのパーカー、先週一緒に買いに行ったやつでしょ?」
ひなたの隣に座る佐藤真由(さとう まゆ)が、おっとりとした笑みを浮かべながら紅茶のカップをそっとソーサーに戻した。
真由は黒髪を後ろで綺麗にまとめ、落ち着いた薄手のネイビーのニットを着こなしている。
彼女には大学一年生の春から付き合っている、二歳年上の彼氏がいた。
最近の彼女は浮ついたのろけ話はしなくなり、代わりに「今度の長期休みに彼の実家へ挨拶に行くことになった」というような、具体的で地に足のついた将来の話が増えていた。
真由の左手薬指では、上品なシルバーのリングが静かに自己主張をしていた。
「そうなの! 彼もすごく喜んでくれて。あ、そうだ、ひなたも早く彼氏作りなよー! 今度、彼のサークルの友達紹介しようか? 結構イケメンな子多いよ!」
「えっ、あ、ううん、大丈夫! 気持ちだけもらっておくね。気を遣ってくれてありがとう」
一ノ瀬(いちのせ)ひなたは、慌てて手元のカフェラテのグラスを両手で包み込み、引きつりそうな笑顔を浮かべた。
グラスから伝わる冷たさが、じっとりと汗ばんだ手のひらに不快に張りつく。梨花に悪気がないことは痛いほどわかっている。
ただ純粋に、自分が今感じている幸せを、ひなたにも味わわせてあげたいだけなのだ。真由もまた、優しく見守るような視線をひなたに向けている。
だが、その濁りのない好意こそが、今のひなたには鋭い針となって胸の奥に突き刺さった。
『言うのは簡単だけど、私に恋愛なんてできるわけない……』
ひなたは文系の学部で児童文学や心理学を学んでいる、ごく平凡な大学二年生だ。
自分に自信がなく、男性の前に出ると緊張で喉が張り付き、うまく言葉が出てこなくなってしまう。
今日着てきたブラウスも、この華やかな二人の隣で浮いてしまわないように、SNSの動画を真似して、昨日慌てて買いに走ったものだ。
鏡の前で何度もため息をついた時間を思い出すと、胸がチクチクと痛む。
大学に入れば、自然とドラマチックな恋が始まるものだと信じていた。
しかし気がつけば二年の夏。周りを見渡してもフリーのままでいるのは自分くらいだった。
ただ、ひなたにも、入学した頃からずっと目で追っている人がいた。一つ上の先輩、城ヶ崎拓海。学食や中庭で、友人たちに囲まれて笑う姿を、遠くから眺めているだけの片思いだった。
その名前は、梨花にも真由にも打ち明けたことがない。口に出した途端、叶わない現実に変わってしまいそうで、怖かった。
まるで自分だけが暗闇の中で置いてけぼりにされているような感覚。強烈な劣等感と出口の見えない焦燥感が、じわじわとひなたの心を侵食していく。
「あ、ごめん! 彼からLINEきちゃった。スタンプだけ返していい?」
梨花が細い指先で器用に画面をタップし始める。
真由も手慣れた様子でスマートフォンを開き、彼氏との旅行の予定をカレンダーアプリに打ち込み始めた。
カチ、カチ、と静かに響くタップ音。
目の前に大好きな友人が二人もいるのに、ひなたの周りだけ、冷たいガラスの壁で隔てられたかのような孤独な静寂が広がっていた。
ひなたは自分のスマートフォンの、何も通知が来ていない真っ暗な画面を見つめた。
液晶には、作り笑いを浮かべたままフリーズしている、情けない自分の顔が映り込んでいる。
ひなたはスマホの操作があまり得意ではない。流れてくる動画やSNSをぼんやり眺めることくらいしか使っていない。
何か新しいアプリをダウンロードする時も、画面に出てくる長い「利用規約」や「プライバシーポリシー」なんて一行も読んだことがない。
細かな文字を見るだけで頭痛がしてくるからだ。いつも、ただ一番下まで高速でスクロールして、機械的に『同意する』のボタンを押すだけ。
その深く考えずに同意してしまう癖が、のちに自分を追い詰める致命的な罠になるとは、この時のひなたは知る由もなかった。
気づけば、窓の外の日差しはすっかり傾いていた。
「……じゃあ、そろそろ行こっか。私、この後彼と待ち合わせあるんだ」
梨花が申し訳なさそうに席を立った。「私も行くね。のんびり歩いて、駅ビルに寄っていくよ」と真由が続く。
「うん、二人とも楽しんできてね! また大学で!」
ひなたは精一杯の笑顔を作り、手を振って二人を送り出した。
一人残された席で、氷が溶けて薄まったカフェラテを一口すする。口の中に広がった不快な苦味は、今の自分の惨めな心境そのもののようだった。
夕暮れ時の街へ出ると、行き交うカップルたちの姿が嫌でも目に飛び込んでくる。誰もが世界の正解を知っているかのように幸せそうに笑っていた。
ひなたは逃げるように人混みをすり抜け、駅の改札へと向かいながら、心の中で切実に願った。
誰でもいい。私をこの惨めな焦りから救い出して、完璧な恋の仕方を教えてくれる、そんな都合のいい救世主が現れてくれないだろうか。
駅ビルに併設されたお洒落なカフェは、若者たちの賑やかなお喋りの声で満ち溢れていた。
天井の高い店内には香ばしい珈琲の香りが漂い、窓際の席からは初夏の柔らかな日差しが差し込んでいる。
そんな空間の片隅で、松下梨花(まつした りか)が弾んだ声を上げ、テーブルの向こう側からスマートフォンを突き出してきた。
彼女の指先には淡いピンクのネイルが施され、小さなストーンがきらきらと光を反射している。
「見て見て! これ、昨日のデートのやつ! やばくない?」
画面に映し出されていたのは、お揃いのブランドのパーカーを着て、テーマパークの巨大なシンボルの前で身を寄せ合う梨花と、その恋人のツーショット写真だ。
アプリのフィルターで華やかに加工された二人の笑顔は、眩しいほどに幸せに満ちていた。
梨花はゆるく巻いた茶髪を揺らしながら、まるで宝物を見せるかのように目を輝かせている。
「うわ、可愛い! 梨花、本当にラブラブだね。そのパーカー、先週一緒に買いに行ったやつでしょ?」
ひなたの隣に座る佐藤真由(さとう まゆ)が、おっとりとした笑みを浮かべながら紅茶のカップをそっとソーサーに戻した。
真由は黒髪を後ろで綺麗にまとめ、落ち着いた薄手のネイビーのニットを着こなしている。
彼女には大学一年生の春から付き合っている、二歳年上の彼氏がいた。
最近の彼女は浮ついたのろけ話はしなくなり、代わりに「今度の長期休みに彼の実家へ挨拶に行くことになった」というような、具体的で地に足のついた将来の話が増えていた。
真由の左手薬指では、上品なシルバーのリングが静かに自己主張をしていた。
「そうなの! 彼もすごく喜んでくれて。あ、そうだ、ひなたも早く彼氏作りなよー! 今度、彼のサークルの友達紹介しようか? 結構イケメンな子多いよ!」
「えっ、あ、ううん、大丈夫! 気持ちだけもらっておくね。気を遣ってくれてありがとう」
一ノ瀬(いちのせ)ひなたは、慌てて手元のカフェラテのグラスを両手で包み込み、引きつりそうな笑顔を浮かべた。
グラスから伝わる冷たさが、じっとりと汗ばんだ手のひらに不快に張りつく。梨花に悪気がないことは痛いほどわかっている。
ただ純粋に、自分が今感じている幸せを、ひなたにも味わわせてあげたいだけなのだ。真由もまた、優しく見守るような視線をひなたに向けている。
だが、その濁りのない好意こそが、今のひなたには鋭い針となって胸の奥に突き刺さった。
『言うのは簡単だけど、私に恋愛なんてできるわけない……』
ひなたは文系の学部で児童文学や心理学を学んでいる、ごく平凡な大学二年生だ。
自分に自信がなく、男性の前に出ると緊張で喉が張り付き、うまく言葉が出てこなくなってしまう。
今日着てきたブラウスも、この華やかな二人の隣で浮いてしまわないように、SNSの動画を真似して、昨日慌てて買いに走ったものだ。
鏡の前で何度もため息をついた時間を思い出すと、胸がチクチクと痛む。
大学に入れば、自然とドラマチックな恋が始まるものだと信じていた。
しかし気がつけば二年の夏。周りを見渡してもフリーのままでいるのは自分くらいだった。
ただ、ひなたにも、入学した頃からずっと目で追っている人がいた。一つ上の先輩、城ヶ崎拓海。学食や中庭で、友人たちに囲まれて笑う姿を、遠くから眺めているだけの片思いだった。
その名前は、梨花にも真由にも打ち明けたことがない。口に出した途端、叶わない現実に変わってしまいそうで、怖かった。
まるで自分だけが暗闇の中で置いてけぼりにされているような感覚。強烈な劣等感と出口の見えない焦燥感が、じわじわとひなたの心を侵食していく。
「あ、ごめん! 彼からLINEきちゃった。スタンプだけ返していい?」
梨花が細い指先で器用に画面をタップし始める。
真由も手慣れた様子でスマートフォンを開き、彼氏との旅行の予定をカレンダーアプリに打ち込み始めた。
カチ、カチ、と静かに響くタップ音。
目の前に大好きな友人が二人もいるのに、ひなたの周りだけ、冷たいガラスの壁で隔てられたかのような孤独な静寂が広がっていた。
ひなたは自分のスマートフォンの、何も通知が来ていない真っ暗な画面を見つめた。
液晶には、作り笑いを浮かべたままフリーズしている、情けない自分の顔が映り込んでいる。
ひなたはスマホの操作があまり得意ではない。流れてくる動画やSNSをぼんやり眺めることくらいしか使っていない。
何か新しいアプリをダウンロードする時も、画面に出てくる長い「利用規約」や「プライバシーポリシー」なんて一行も読んだことがない。
細かな文字を見るだけで頭痛がしてくるからだ。いつも、ただ一番下まで高速でスクロールして、機械的に『同意する』のボタンを押すだけ。
その深く考えずに同意してしまう癖が、のちに自分を追い詰める致命的な罠になるとは、この時のひなたは知る由もなかった。
気づけば、窓の外の日差しはすっかり傾いていた。
「……じゃあ、そろそろ行こっか。私、この後彼と待ち合わせあるんだ」
梨花が申し訳なさそうに席を立った。「私も行くね。のんびり歩いて、駅ビルに寄っていくよ」と真由が続く。
「うん、二人とも楽しんできてね! また大学で!」
ひなたは精一杯の笑顔を作り、手を振って二人を送り出した。
一人残された席で、氷が溶けて薄まったカフェラテを一口すする。口の中に広がった不快な苦味は、今の自分の惨めな心境そのもののようだった。
夕暮れ時の街へ出ると、行き交うカップルたちの姿が嫌でも目に飛び込んでくる。誰もが世界の正解を知っているかのように幸せそうに笑っていた。
ひなたは逃げるように人混みをすり抜け、駅の改札へと向かいながら、心の中で切実に願った。
誰でもいい。私をこの惨めな焦りから救い出して、完璧な恋の仕方を教えてくれる、そんな都合のいい救世主が現れてくれないだろうか。

