滅びの魔女と楽園の神官

「そう? こんな世の中だもの、憂いが絶えなくても仕方がないでしょうね」

 ノインは他人事のように言う。それでもその言葉は、ヴィンセントを気遣うものだった。

「あなたがわたしを助けてくれたように、あなたは、人のことを思いやってばかりだから、そうやって憂いも多いのでしょうね」
「それは……初めて言われました」
「あら」

 薄灰色の神秘的な瞳にじっと見つめられて、少し気後れする。

「国のこと、そこに生きる人たちのことばかりじゃない、ヴィンセント」
「それは、僕の義務でもありますから」
「高貴な生まれって、大変ね」

 ヴィンセントは黙って微笑んだ。
 第一王子として生まれ、王妃にうとまれ、死んでもかまわないと思われている。

 それがヴィンセントだ。

 人々が憂いなく暮らす『楽園』を守るのが、ヴィンセントの生まれ持つ使命。たとえ壊れかけの楽園でも、ヴィンセントには、そうするほかに生きている価値はない。

「義務だとしても、あなたの思いやりはあなたの人柄で、良いところなのだと思う」

 宮廷や神殿にいるときと違い、ノインの目は、王子ではないヴィンセントを見てくれる。

 世界中で、ノインだけが。

 だから、彼女の言葉で表される、ずいぶんと善良な青年が、本当の自分であるかのように錯覚しそうになる。

(この道を、ずっと歩いていけたらいいのに。僕たちのほかには誰もいない道を)

 そんなふうに思ってしまったヴィンセントを咎めるように、前方から蹄鉄の音が聞こえてきた。土煙を上げて、馬が走ってくる。

「……ずいぶん急いでいるのね」

 道の端に寄りつつ、ノインが眉をひそめる。
 早駆けの馬は、何らかの緊急事態を思わせ、嫌な感じだ。

 馬上の人間はヴィンセントたちに目もくれず、馬に鞭を入れながらすれ違って行った。

「……あの人。見たことがあるわ」

 遠ざかる馬を見送って、ノインは怪訝な顔をした。

「知り合いですか?」
「違う。でも、どこかで……そう……軍の人間だわ。軍服じゃなかったけど」

 ノインの右手が、胸元を握りしめている。彼女のその癖も、だいぶ見慣れてきた。

「鞍に国の紋章もありませんでしたね。軍馬ではない……私用で、あのように急いでいたのでしょうか」
「……この先は、国境地帯よね」

 不穏なつぶやきを落としつつ、ノインは前に向き直った。

「ともかく行きましょう。街に着けば、何かわかるかもしれないわ」

 胸騒ぎがする。

 ヴィンセントはつい空を見上げ、星が何かを示していないか確かめた。だが、相変わらずの不吉な予兆のほかには、とりたてて目立つものはない。

 そのひとつの予兆があまりにも強く、すべての事柄が、国の滅亡につながっていると見なしそうになる。

「ヴィンセント、前を見ていないと、そんな調子じゃ街に着かないわ」

 空を見て足を止めたヴィンセントを、ノインが振り返る。ほんの少しの間だったが、思いがけず彼女との距離が空いていた。

 何をもっても消えることのない予兆。もしもそれが抗いようのない運命であれば、誰もこれ以上の罪を重ねることなくゆくすえを天に委ねることで、すべての贖罪が叶うだろうか。

 一瞬過ぎった考えに、己がひどく恐ろしくなり、ヴィンセントは早足にノインを追いかけた。