その日、ヴィンセントは、初めて王都を離れた。
神殿から出ることさえ久しぶりだった。数名の神官と、ヴィンセントの側仕えのほかは、軍の兵士たちで構成された一行であった。
まだ十三の子どもだったヴィンセントは、なぜ自分が連れ出されたかを深く考えず、馬車の窓の外を流れる目新しい景色に気分を高揚させていた。
空は青く、どこまでも広く、実り豊かな金の畑、牧草地や、森の緑がよく映えた。
国民は温厚で、誰もがヴィンセントたちを歓迎してくれた。
(我が国は、こんなにも美しい……『楽園』なのですね)
たった数日間の旅だが、ヴィンセントは今でも、そのときの感情を思い出せる。
その旅の前半で、滅びの予兆を何としてでも消し、この美しい国を守らなければならないとの思いが、強く胸に刻まれた。
神殿にいて報告を聞くだけでは抱けない鮮烈な感情は、そのときのヴィンセントにとって、ひどく重要なものに思えた。
数日かけて、ヴィンセントの乗る馬車は、国の南の山岳地帯にたどり着いた。山の麓には小さな村があって、わずかな人々が細々と暮らしをいとなんでいた。
『殿下、お気をつけなさいませ』
神殿から付いてきたヴィンセントの側仕えは、馬車を降りるヴィンセントにささやいた。そのときは、彼が何を示しているのかわからなかった。
夜半、軍が張った天幕で眠りについていたヴィンセントは、神殿の者ではない、ひとりの将校に起こされて、寝ぼけ眼で外へ出た。
今にして思えば、もっと危機感を抱くべきだったのだ。
『何があるのです?』
眠気を引きずりながら尋ねたヴィンセントに、その将校が何を言ったか憶えていない。
だが彼がヴィンセントを振り返った直後、ヴィンセントの頭の横を、空気を裂いて矢が通り抜けた。ヴィンセントは何が起こったのかわかっていなかったが、将校はニヤリと笑って、夜の村中に響くほどの大声を上げた。
『殿下のお命を狙う者がいるぞ!』
各々の天幕から飛び出してきた兵士たちが松明に火を灯し、辺りはぱっと明るくなった。
そうして驚いて表に出てきた村人を、兵たちは躊躇無く斬った。血飛沫が炎を受けて、ぬらぬらと輝いて見えた。
(……彼らは、僕を……第一王子という、何の役にも立たなかった地位を……)
ヴィンセントは驚愕し、自分のそばにいた将校も、護衛のはずの兵士たちも恐ろしくなり、思わずその場を駆けだした。
がむしゃらに走って、気づけば誰もいない森に迷い込んでいた。村からの怒号や、炎の明かりは見聞きできていたが、そこへ戻りたくはなかった。
けれど、ヴィンセントがひとりで、どこに行くこともできやしない。
途方に暮れて立ち尽くしていたところ、目の前に突然、ひとりの少女が飛び込んできた。
『……っ』
ヴィンセントと同じ年頃の少女は、こちらに気づいて息を呑んだが、ヴィンセントがぼうっと突っ立っているだけなのを見て取ると、心配そうにささやいた。
『あなた、ここに居たらいけないひとでしょう』
『僕は……。いや、あなたは……』
森の木々からこぼれる月明かりを受けた色の薄い金髪が淡く輝き、少女は神秘的な光をまとっていた。
『わたしは行かないと。でも、あなたは戻らなければ』
『…………』
このときのヴィンセントは、衝撃で頭がぼんやりしていた。
殺されかけたのだというのはわかった。矢を射かけたのは村人ではなく、軍の者だろう。ヴィンセントを口実に村を襲うつもりで、自分を連れてきたのだ。
矢を逸らしたことを考えれば、殺すつもりではなかったかもしれない。だがきっと、死んでもいいとは思われていた。
ヴィンセントは村のあるほうへ顔を向け、震える息を吐き出した。
『戻ったら、僕は殺されてしまうかもしれません』
怖かった。妾腹に生まれたヴィンセントは、王妃に疎まれ、彼女の息子である第二王子の王位継承の妨げならないため、神殿へと追いやられた。それでも、命を狙われはしなかったのだ。
ヴィンセントが王妃にとって完全に無価値ではなかったからだが、己の立場を、これほどまで頼りなく感じたことはなかった。
『ここにいるほうが殺されるわ。だって、誰もあなたを見ていないもの』
ヴィンセントははっとして背後を振り返った。誰の姿も見えないものの、暗がりへと続く森の闇は不気味で、ぞっとさせられる。少女の言うとおり、ここには、ヴィンセントの味方をしてくれる側仕えもいない。
そのとき、村の方角がいっそう明るくなった。焦げ臭いにおいも漂い始める。軍は村を焼いたのか、炎がこの森の木々に燃え移ったようだった。
『なぜ、軍は村を襲ったのでしょう』
『国に対する反逆者とみなしたのよ』
少女の声が震えているように聞こえ、ヴィンセントは彼女へと視線を向けた。少女は村のほうへ顔を向け、胸元を握りしめていた。
『わたしたちは国に刃向かったりしない。ただ、真実を記録するだけなのに』
少女の瞳から、ひとすじの涙がこぼれる。
