滅びの魔女と楽園の神官

 ノインは内心で呆れと感心とを混ぜてつぶやいた。美徳ではあるが、今のこの世では、その性質は彼を脅かすものになりかねない。

「あなたはなぜ、旅をするのですか」

 ノインは思わず微笑んだ。
 彼が想像しているような、たいそうな理由はない。ノインのおこないは、この世にほとんど何ももたらさない。
 世界に散らばる仲間たちのあいだにだけ、ひっそりと受け継がれてゆく。

「この世に何があって、どんな人たちが、どんなことをして生きているのか、この目で見るためよ。そしてわたしは、わたしが見たものを記録するの」

 胸に手を当てる。服の下には、首からかけた小さな水晶板がある。服の上から軽く押さえると、それは肌に押しつけられて一瞬ひやりとし、すぐ体温に馴染む。

「あなたは前も言いましたね。国が滅びるならそれを記録すると。いったい、何なのですか?」
「あなたの知っている記録と、同じよ。国には国の記録―歴史があるでしょう。国に起こったことや、人々の暮らしについて、誰かが記したから残っているものよ」
「ではノインは、歴史学者、ですか?」

 知っているものに当てはめようとするヴィンセントに、ノインは「いいえ」とはっきり否定した。

「わたしたちは、推測したり、解釈したりはしない。ただ目の前にあるものを、その通り記録するだけ」
「記録して、どうするのです?」
「どうって、何も……」

 答えられるものがなく、声が途切れる。
 ノインの役目は、記録することまでだ。その先は父も母も、何も言っていなかった。
 ヴィンセントは、ノインを不思議そうに見る。

「記録するのは、あとから確かめて、何かに使うためだと思うのですが、ノインは?」

 ノインは服の上から水晶板を握りしめた。ヴィンセントの疑問が純粋だからこそ、答えに詰まる。彼への明確な答えを、ノインは持たなかった。

「……いつか誰かが、この世界に起こった物事、生きた人々の、事実に最も近い情報を知ろうとすることがあれば、わたしたちの記録に、求めるものがあるでしょう」
「歴史書があるのに?」
「公の記録は、歪められるものだわ。権力者の都合や、記す者の立場によって、同じ出来事でも異なる印象になる。そういうこと、経験にない?」

 光の玉を足下に、ふたたび歩き始める。ヴィンセントが付いてくるのを足音で確かめ、先ほどよりはやや急ぎぎみに木々をかきわけて進んだ。

「ノインの言うことはわかります」

 小さな声だったが、小枝を踏む足音が響いて聞こえるほど静まりかえった夜の森では、十分な声量だ。

「だとしたらノインは、誰とも知れない、いつ訪れるかわからない機会のために、たったひとりで旅をしているのですか?」
「やたら壮大な言い回しだけれど、まあ、そうね」

 うなずいて、やけに悲愴な声のヴィンセントへ、笑みを含む調子で返す。

「悪くないわよ。心動かされるものごとに、たくさん出会ったわ」

 ノインが言うと、ヴィンセントは、実感のあるようすでうなずいた。しかし、すぐに眉を寄せて考え込むようなしぐさをみせる。

「幸せな結婚式、豊かな実りを祝う祭、冬を越えた歓び。でも……」
「でも?」
「村や、街の人々なら彼らの人生ですが、通りすがりの旅人は、その幸福な気持ちを少し分けてもらうだけです」

 ヴィンセントが挙げたのは、これまで彼が出会ってきた人々との記憶なのだろう。旅の途上で巡りあったなら、幸運な出来事のはずが、ヴィンセントは幸せそうではなかった。

「すべて他人の人生で、どの幸福も、僕自身のものにはならないのです。ノインもそうでしょう。それを寂しいと思うのは、僕の独り善がりでしょうか」
「確かに独り善がりだけれど、思い遣りって、そういう独り善がりから生まれるんだと思うわ」

 ヴィンセントのような高貴な青年が、なぜ、寂しさを感じてまで旅をしているのか、つい尋ねそうになる。見聞を広めるためと本人は言うが、供も護衛もつけずにいるのには、何か理由がありそうだ。
 深入りしないほうがいい。
 ノインは、踏み出しかけた足をそろりと引っ込めるような心地で、自分を戒めた。

「わたしを思ってくれるのは嬉しいと思う。でも、哀れまれたら困るわね」
「あなたを哀れむ資格など、僕にはありません」

 ヴィンセントは、やけに重くつぶやいた。彼の表情が気になり、思わず立ち止まって振り返るノインに、ヴィンセントがぶつかる。

「あっ! ごめんなさい、ヴィンセント」

 ヴィンセントは、たたらを踏んだノインを彼の胸で受け止め、支えてくれた。

「いいえ。お怪我はありませんか」
「無事よ。気を取られると危ないわね」

 ノインは、連れがいるという、いつもと違う状況に、自分が慣れていないのを感じた。暗い森だろうと、足下の悪い山道だろうと、ひとりだったら気を散らすものもなく、危なげなく行けるのだ。