
「私は、あなたをお慕い申しておりません。」
婚約者である彼女は、いつも僕に冷たい視線を向けながら、そう言う。
今日も差し出した僕の手を見下ろして、形のよい眉をわずかに寄せていた。
「僕は、それでも構わないよ。」
彼女の手を取り、舞踏会に向けたダンスの練習を始める。
細い腰に手を添えると、彼女の肩がぴくりと揺れた。それでも、その美しい顔に笑みが浮かぶことはない。
僕がなぜ、こんなに余裕でいられるのか。
それは、王家に代々受け継がれる、ある力のおかげだ。
その力の存在は公表されておらず、王家の中だけで守られている。
軽く足を踏み出しながら、彼女の目をまっすぐに見つめた。
すると、聞こえてくるのだ。
涼しげな表情からは想像もつかない、彼女の心の声が。
(近い近い近い。お顔が近いです、殿下……!その距離で見つめるのはおやめください。まつ毛まで見えております。長い。美しい。どうしてまつ毛一本に至るまで完璧なの……?)
僕は、緩みそうになる口元を引き締めた。
(しかも腰に、お手が。私の腰に殿下のお手が……!落ち着くのよ、これは練習。ただの練習。殿下にとっては公務のようなもの。私にとっては一生に一度の祝祭ですけれど……!)
「……何か、おかしいでしょうか。」
堪えきれず、少し笑ってしまったらしい。
彼女の視線が、いっそう鋭くなる。
「いや。今日も綺麗だと思って。」
「練習中に、そのようなお世辞は結構です。」
(綺麗!?今、綺麗とおっしゃいました!?私を!?誰か、今のお言葉を書き留めて。いいえ、誰も呼ばないで。この時間が終わってしまう……!)
返ってくる言葉は冷たい。
けれど、つないだ手は、ほんの少しだけ僕の手を握り返していた。
(好き……。今日も好き。昨日より好き。これ以上好きになって、どうするつもりなの、私……。)
……それは、こちらの台詞なのだけれど。
僕の婚約者は、今日も僕に冷たい。
そして今日も、どうしようもなく可愛い。
彼女は、令嬢たちの間で「悪役令嬢」と呼ばれている。
凛とした顔立ちに、まっすぐ相手を射抜くような目。
誰を前にしても臆することなく、間違っていると思えば、はっきりと口にする。
強く、美しい人だ。
ただ、正しいことを言うときほど、その言葉は鋭くなる。
人前で非を指摘され、彼女を疎ましく思う者も少なくなかった。
「まるで、お芝居に出てくる悪役の令嬢ね。」
いつだったか、彼女に注意された令嬢が、陰でそう口にした。
当時、王都で評判だった恋物語の芝居には、美しく気位の高い貴族の娘が登場した。鋭い言葉で主人公を追い詰め、恋路を邪魔する役どころだ。
きつい目元と、歯に衣着せぬ物言い。
彼女に反感を抱く令嬢たちは、その姿を面白がって重ね合わせた。
やがて「悪役令嬢」という呼び名だけが広まり、彼女をよく知らない者まで、意地の悪い人なのだと噂するようになった。
けれど、僕の知る彼女は違う。
学園に通っていた頃、給仕の少女が茶をこぼしたことがあった。
幸い、客の服にはかからなかった。それでも、同じテーブルにいた令嬢たちは、少女の震える手を見ながら笑っていた。
その笑い声を止めたのが、彼女だった。
「失敗をなさった方を囲んで笑うのが、皆様のおっしゃる淑女の振る舞いなのでしょうか。」
静かな声だった。
けれど、聞こえなかったふりを許さない、よく通る声でもあった。
令嬢の一人が、顔を赤くして言い返した。
「少し冗談を言っていただけですわ。」
「でしたら、お相手も笑える冗談になさってください。」
その場は、すっかり静まり返った。
彼女は給仕の少女に向き直ると、濡れた手元に視線を落とした。
「火傷はしていませんか。片づけは後で結構ですから、先に手を冷やしていらっしゃい。」
少女が下がったあと、彼女は何事もなかったように席に戻った。
その一件も、彼女は冷たい、人前で恥をかかせるのが好きだという噂になって広まった。
僕はというと、少し離れた席で、彼女の方ばかり見ていた。
僕たちは、学園では同じ学年だった。
彼女はいつも学年首位の成績を収め、教師からの信頼も厚かった。
課題に手を抜かず、決められたことを守り、自分の家柄を理由に誰かを従わせることもない。
そして、その厳しさは僕にも平等だった。
一度、僕が提出期限を過ぎた課題を受け取ってもらったことがある。
公務が重なったためだったが、事情を知らない学生たちの前で、教師はただ「殿下ですから」と言った。
彼女は、その場で僕を見た。
「殿下にご事情がおありなのは承知しております。ですが、特別な扱いをお受けになるのでしたら、その理由はお示しになるべきです。」
教師が慌てて彼女を制した。
けれど、彼女は目を伏せなかった。
「皆が守っている期限です。何も説明がなければ、守る意味がないと思う方もいらっしゃいます。」
もっともだった。
僕は皆に事情を説明し、次からは事前に延長の許可を取ると約束した。
彼女はそれを聞くと、小さく頭を下げた。
それ以上責めることも、自分の意見が通ったと得意になることもなかった。
僕が王子だからと口をつぐまず、必要だと思ったことを伝えてくれる。
そのまっすぐさを、僕は好ましく思っていた。
だから、授業のあと、廊下で彼女を呼び止めた。
「さっきは、言ってくれてありがとう。次からは気をつけるよ。」
彼女は驚いたように目を見開いたあと、すぐに深く頭を下げた。
「……出過ぎたことを申し上げました。」
「そんなことはないよ。これからも、気づいたことがあれば教えてほしい。」
返事は、ごく小さな声だった。
そのときの僕には、俯いた彼女がどんな顔をしているのか、分からなかった。
卒業が近づいた頃、父から婚約者の候補を示された。
その中に、彼女の名前があった。
家同士の釣り合いに加え、学園での優秀な成績と、誠実な人柄が評価されたのだという。
僕に、異論はなかった。
むしろ、候補を記した書類を見た瞬間、ほかの名前を読む前に返事をしそうになったくらいだ。
父に希望を尋ねられたときも、迷わなかった。
彼女がいい。
いつか隣に立ってもらえるのなら、あの強く、清く、美しい人がいいと思った。
だから、婚約が正式に決まったときは嬉しかった。
……彼女から初めて、あの言葉を告げられるまでは。
『私は、あなたをお慕い申しておりません。』
俯いたままそう告げられ、さすがに、そのときは少し傷ついた。
けれど、その直後。
彼女が僕を見上げ、目が合った途端、まるで違う声が聞こえてきたのだ。
(本当に婚約してしまった……。殿下と、私が……。お隣に立ってもよろしいの?ああ、いけない。嬉しい。顔が緩んでしまう。どうしましょう、好きな方が婚約者になってしまった……!)
驚きすぎて、返事が遅れたことを覚えている。
それからも、彼女は僕に冷たい言葉を向ける。
そして目が合うたび、その言葉とは正反対の、愛らしい本音が聞こえてくる。
ただ、この力で何もかもが分かるわけではない。
聞こえるのは、目を合わせた相手が、そのとき心に浮かべていることだけだ。
彼女がなぜ、僕を好きだと思いながら拒むのか。
その理由は、まだ分からない。
「殿下。足が止まっております。」
声をかけられ、意識を目の前に戻した。
彼女が、わずかに眉をひそめて僕を見上げている。
(お疲れなのかしら。朝からお忙しかったものね。休憩をお願いした方が……でも、もう少しだけ、このままでいたい。……いいえ、殿下のお身体が先よ。)
「本日の練習は、ここまでになさってはいかがですか。」
「君は、もう終わりにしたい?」
そう尋ねると、彼女の唇が一瞬だけ開いた。
(嫌です。まだ一緒にいたいです。)
「……十分、練習できたかと存じます。」
僕はつないだ手を離さず、彼女の顔をのぞき込んだ。
「それなら、少しお茶にしよう。僕が、まだ君と一緒にいたいんだ。」
彼女は何か言おうとして、口を閉じた。
(……そういうことを、おっしゃらないで。)
それまで賑やかだった心の声が、ふいに小さくなる。
(離れたく、なくなってしまうでしょう。)
その寂しげな響きに、僕は彼女の手を、そっと握り直した。
*
そして、舞踏会の夜。
僕の隣には、いつもより華やかに着飾った彼女がいた。
深い青のドレスに、結い上げた髪。
耳元の飾りが揺れるたび、白い首筋に淡い光が落ちる。
迎えに行ったときに綺麗だと伝えたら、いつものように「お気遣いは結構です」と返された。
そのときの心の声は、しばらく言葉になっていなかった。
会場に入ってからも、彼女は凛と背筋を伸ばしている。
僕の腕に添えられた指先だけが、少し強張っていた。
いくつかの挨拶を終えたところで、三人の令嬢が近づいてきた。
「殿下。今宵もお目にかかれて光栄です。」
華やかな笑みを浮かべ、揃って礼をする。
僕が挨拶を返すと、一人が胸元に手を添えた。
「先日の慈善演奏会では、お声をかけていただきありがとうございました。殿下のお優しさに、父も大変感激しておりましたわ。」
「楽しんでもらえたのなら、よかった。」
「ええ、とても。もしよろしければ、今夜はぜひ一曲、ご一緒させていただけませんか。」
そう言ってから、その令嬢はようやく僕の隣に視線を向けた。
「あら。申し訳ございません。婚約者様のお許しをいただくべきでしたわね。」
僕の腕に添えられた指が、わずかに動いた。
「誘ってくれてありがとう。でも、最初の一曲は婚約者と踊る約束をしているんだ。」
僕が答えると、令嬢は残念そうに眉を下げた。
「まあ。殿下は本当に誠実でいらっしゃいますのね。」
続いて、隣にいた令嬢が口を開く。
「私たち、少し心配しておりましたの。こちらの方は学園にいらした頃から、何事にも大変厳しくていらしたでしょう?」
「……心配?」
「ええ。殿下がお気を遣われているのではないかと。」
柔らかな声だった。
親しい者を気遣うような響きさえあった。
「私など、以前お茶会で少し冗談を申し上げただけで、皆様の前でお叱りを受けてしまって。あれ以来、お話しするときは緊張してしまいますの。」
覚えのある話だった。
彼女に注意された理由は、都合よく抜け落ちている。
「殿下には、心安らぐお時間も必要ですもの。お隣に立たれる方が、もう少し柔らかなお人柄でしたら……。」
「そのようなことを申し上げては失礼ですわ。」
たしなめた令嬢も、口元には笑みを残していた。
「悪役令嬢だなんて噂を、殿下がお気になさっているはずがございませんもの。」
その呼び名を、本人の前で口にする。
僕は微笑みを引っ込めた。
「僕の婚約者に対して、ずいぶんな言い方をするね。」
令嬢たちの表情が、揃って強張った。
「そのようなつもりでは……。私たちは、ただ殿下のことを思って。」
「殿下。」
隣から、静かな声がした。
彼女は僕の腕から手を離し、半歩だけ身を引いていた。
「私でしたら、構いません。」
構わないはずがない。
そう思いながら顔を向けると、彼女もまた、僕を見上げた。
いつもと同じ、涼しげな表情。
けれど、目が合った瞬間に聞こえてきた声に、僕は息をのんだ。
(お願いです。私を庇わないで。)
彼女の唇は、少しも動いていない。
(殿下まで悪く言われてしまう。あんな女を選ぶなんて、人を見る目がないと。王家にふさわしくない婚約者だと。)
僕は、何も言えずに彼女を見つめた。
(私が嫌われるだけなら、それでよかったのに。)
彼女の指先が、ドレスの脇でそっと握り込まれた。
(だから、お慕いしていないと申し上げているのに。殿下が私をお嫌いになれば、ご婚約を解消していただけると思ったのに。)
胸の奥が、ゆっくりと痛んだ。
冷たい言葉を向けられても、僕には彼女の好意が聞こえていた。
それが嬉しくて、可愛くて。
どうして本心を隠すのか分からないまま、僕はその声に甘えていた。
彼女は、僕に嫌われようとしていたのだ。
僕を、守るつもりで。
(殿下には、もっと皆様に祝福される方がいらっしゃるわ。優しくて、愛らしくて、お隣に立っても誰にも眉をひそめられないような方が。)
彼女の目が、わずかに細くなった。
笑おうとしたのかもしれない。
(……でも、最初の一曲を約束してくださって、嬉しかった。)
僕は、手を伸ばしかけた。
(今夜だけでいいと思っていたの。最後に一度だけ、一緒に踊れたら。それを覚えていれば、きっと――。)
彼女が目を伏せた。
声が、途切れる。
「どうぞ、皆様とお話しください。私は少し、席を外しますので。」
いつものように、落ち着いた声だった。
僕は今まで、その落ち着きを、彼女の強さだと思っていた。
いったい何度、こんなふうに自分を納得させて、僕の隣から離れようとしていたのだろう。
「……構わないわけがない。」
彼女の肩が、小さく揺れた。
僕は令嬢たちに向き直った。
「学園でのお茶会なら、僕もその場にいたよ。給仕の失敗を笑っていた君たちを、彼女が止めた日だね。」
誰も、答えなかった。
「僕はあの日、彼女を立派だと思った。今も、その気持ちは変わっていない。」
「殿下、私たちは……。」
「僕を気遣ってくれるのなら、僕が大切にしている人への礼節も忘れないでほしい。」
令嬢たちは顔を見合わせ、ぎこちなく頭を下げた。
短い謝罪を残し、人の輪の向こうへ戻っていく。
その姿を見送ってから、僕は彼女の前に立った。
彼女はまだ、顔を上げようとしなかった。
「僕との婚約は、君にとって迷惑だった?」
「……いいえ。」
答えた直後、彼女は唇を結んだ。
それから、取り繕うように言葉を重ねる。
「王家からいただいたお話ですもの。そのようには、思っておりません。」
「僕は嬉しかったよ。」
彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
「父上に候補を示されたとき、君がいいと答えた。僕が、君を選んだんだ。」
(……殿下が?)
初めて聞いた、という驚きが伝わってくる。
そうか。
僕は、そんなことさえ伝えていなかった。
彼女の気持ちは、何度も聞いていたのに。
「君が距離を置こうとするから、無理に踏み込んではいけないと思っていた。でも、僕の気持ちまで伝えずにいたら、何も分からないよね。」
楽団が、最初の曲を奏で始めた。
僕は彼女に、もう一度手を差し出した。
「僕は君が好きだ。だから、君に隣にいてほしい。」
その瞳が、大きく見開かれる。
(……好き?)
信じられないものに触れるような、小さな心の声。
僕はその目を見つめたまま、言葉を続けた。
「約束の一曲を、踊ってくれますか。」
彼女は差し出された僕の手を見つめ、それから、おずおずと指を重ねた。
広間の中央へ進み、向かい合う。
腰に手を添えると、練習のときと同じように、その肩が小さく揺れた。
彼女が顔を上げ、戸惑いの残る瞳で僕を見つめる。
(殿下が、私を好き……。いけない、足。足を動かして。ここで踏んだら、殿下のお足を踏んだ女として生涯悔やむことになるわ……!)
「大丈夫。練習どおりでいいよ。」
「……分かっております。」
返事はきちんとしていた。
ただ、頬には隠しきれない赤みが差している。
僕は彼女の歩幅に合わせ、ゆっくりと足を運んだ。
「君は覚えているかな。学園で、僕が課題の提出を遅らせた日のこと。」
「……差し出がましいことを申し上げました。」
「僕は嬉しかったんだ。君が、僕にもきちんと注意してくれたことが。」
彼女が不思議そうに眉を寄せる。
「王子だからと見過ごさず、僕がどう振る舞うべきか考えてくれた。説明をしたら、ちゃんと聞いてくれたね。」
「それは、当然のことです。」
「うん。その当然のことを、相手が誰でも変えずにできるところが好きなんだ。」
つないだ手に、少しだけ力がこもった。
(好き、と。また、好きとおっしゃった……。そのお顔で、そんなにまっすぐ……待って、今は大切なお話。しっかり聞くのよ、私。お顔に見惚れている場合ではないわ。けれど、お顔が……。)
僕は笑いそうになるのを堪えながら、続けた。
「給仕の子を庇ったあとも、君はお礼を待たずに席に戻った。誰も見ていなくても、きっと同じことをしただろう?」
「……お礼を言っていただくようなことではありません。あの子は、手が赤くなっておりましたから。」
「そういうところだよ。」
人の輪に沿って、ゆるやかに身体の向きを変える。
「君は、自分がどう思われるかより、目の前の人が困っていることを放っておけない。僕が疲れているときも、いつも先に気づいてくれる。」
彼女の唇が、かすかに震えた。
「でも、私は……言い方が、きついと。」
「そうだね。少し柔らかく伝えた方が、君の思いが届くこともあると思う。」
何でも肯定すればいいとは思わなかった。
彼女が僕にそうしてくれたように、僕も誠実に答えたかった。
「でも、だから君が隣にふさわしくないとは思わない。僕だって、至らないところはある。これからも教えてほしい。僕も、君と一緒に考えたい。」
(……一緒に。)
「君となら、そうやって生きていけると思ったんだ。」
彼女の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。
それでも、背筋は伸びたままだった。
泣くまいとするように、顎がわずかに上がる。
「私が隣にいては、殿下まで悪く言われるかもしれません。」
「だからといって、君と離れたいとは思わないよ。」
「ですが……。」
「僕の幸せを願ってくれるなら、僕が君といると幸せだということも、信じてほしい。」
彼女が息をのんだ。
僕はつないだ手を、そっと握り直した。
「君は、どうしたい?」
聞こえる答えを待つのではなく、彼女の言葉を待った。
彼女は何度か唇を開き、そのたびにためらった。
僕は急かさず、同じ速さで踊り続けた。
やがて、小さな声が届いた。
「……お隣に、いたいです。」
「うん。」
「ほかの方と踊ってほしくないと、思ってしまいました。殿下がお幸せなら、それでよいはずなのに……私と一緒に、幸せになっていただきたいのです。」
「なっているよ。今も。」
彼女の眉が、くしゃりと歪んだ。
そして、いつもの冷たい言葉を口にする代わりに。
「私は、あなたをお慕いしております。」
震える声で、そう言った。
「ずっと、お慕いしておりました。」
聞き慣れているはずの気持ちだった。
それなのに、声にして伝えられるだけで、こんなにも胸がいっぱいになるなんて知らなかった。
「……嬉しい。」
僕の声まで、少し掠れた。
「……あの日のこと、私も覚えております。」
彼女が、つないだ手に視線を落とした。
「課題のことで、殿下に意見を申し上げた日です。あとから廊下で、声をかけてくださいましたね。」
「覚えているよ。」
「叱られるのだと思いました。不敬だと、もう口を出すなと、そう言われることを覚悟しておりました。」
彼女は少し困ったように笑った。
「私は、言わなくてもよいことまで言ってしまいますから。あの日も、もっと穏やかにお伝えできたはずなのに、と……。」
「でも、僕には必要な言葉だった。」
「はい。殿下は、そう受け止めてくださいました。」
彼女が顔を上げた。
「言ってくれてありがとう、と。これからも教えてほしい、と。」
その声が、かすかに震える。
「私の言葉に耳を傾けて、ご自身の振る舞いを改めてくださったことが、嬉しかったのです。王子でいらっしゃるのに、私にお礼まで……。」
僕は、彼女の目を見つめた。
「それから、殿下のお姿を探すようになりました。今日はどなたとお話しされているのか、笑っていらっしゃるのか。気づけば、いつも……。」
頬の赤みが、いっそう濃くなる。
「ですから、婚約のお話をいただいたときは、本当に嬉しかったのです。」
あの廊下で、彼女はただ恐縮しているのだと思っていた。
同じ日のことを、僕とは違う気持ちで、大切に覚えていてくれたのだ。
心の声が聞こえても、知らないことは、まだこんなにもある。
「話してくれて、ありがとう。」
そう伝えると、彼女の瞳が揺れた。
(……また、そうやって笑ってくださる。あの日から、ずっと、その笑顔が好きなの。)
胸がいっぱいになって、僕は彼女の手を握り直した。
彼女が驚いたように僕を見る。
目が合った途端、あふれ出したのは、やはりあの声だった。
(お笑いになった……!私が好きと申し上げたら、こんなに嬉しそうに……。好き。やっぱり好き。ああ、もう、一生お笑いになっていてほしい。できれば私のお隣で。欲張りすぎるかしら。でも、今、一緒にいていいと……!)
「もちろん。」
思わず返事をすると、彼女が首を傾げた。
僕は微笑んで、言葉を足した。
「これからも、僕の隣にいて。」
曲が終わる。
重ねた手は、そのままだった。
彼女は頬を染め、今度こそ、僕に笑いかけてくれた。
*
それから、季節が巡った。
彼女の評判が、一晩で変わったわけではない。
けれど僕たちは揃って人前に立ち、言葉を交わし、少しずつ、彼女の人柄を知る人も増えていった。
彼女は相変わらず、不正や理不尽を見過ごせない。
僕にも遠慮なく意見を言う。
ただ、二人きりになると、時折、自分から僕の手を取るようになった。
その手を握り返し、目を合わせるたびに聞こえる心の声は、相変わらず僕への愛でいっぱいだった。
そして今日。
僕たちは、婚礼の儀を終えた。
皆の前で誓いを交わし、指輪を贈り合い、正式に夫婦となった。
ようやく二人きりになった控えの間で、彼女はまだ少し落ち着かない様子で、自分の指に収まった指輪を眺めていた。
「疲れた?」
「いいえ。……まだ、夢の中にいるようで。」
顔を上げた彼女と、目が合う。
(夫。こちらの方が、私の夫……。何度考えても、言葉の意味が大きすぎるわ。こんなに素敵な方と、明日も明後日も、その先も……?)
胸が温かくなる。
同時に、今日こそ話さなければと思った。
「君に、伝えておくことがあるんだ。」
隣に腰を下ろすと、彼女も姿勢を正した。
「王家の一員となった者にだけ明かされる秘密がある。正式に家族となった君にも、伝えたい。」
「……はい。」
「僕には、目を合わせた相手の心の声が聞こえる。」
彼女は動かなかった。
瞬きさえせず、僕を見つめている。
「そのとき、相手が心に浮かべていることが、声のように聞こえるんだ。王家に代々受け継がれてきた力で、もし僕たちに子どもが生まれれば、その子にも引き継がれる。」
「……心の、声。」
「うん。」
「目を、合わせた相手の……。」
「そう。」
彼女の瞳が、少しずつ大きくなった。
(目を合わせた。私、殿下と。何度も。練習のときも、お茶のときも、あの舞踏会でも。今日も。……今日?)
白い頬が、一気に赤く染まる。
「い、いつからですか。」
「幼い頃からだよ。」
「では、婚約したときも。」
「うん。」
「ダンスの練習をしていたときも。」
「……うん。」
彼女は両手で顔を覆った。
「全部……。」
「目を合わせている間だけだよ。全部というわけでは――。」
「十分すぎます……!」
耳まで真っ赤だった。
僕はそっと、彼女の手に触れた。
「黙っていて、ごめん。王家の外には明かせなかったとはいえ、君の気持ちを知りながら、知らないふりをしていた。」
指の隙間から、潤んだ目がこちらを見る。
「……私が、殿下をお慕いしていることも。」
「知っていた。」
「それなのに、何度も目を合わせて……。」
返す言葉に詰まった。
彼女の眉が、きゅっと寄る。
「面白がっていらしたのですね。」
「可愛くて、つい。でも、それを言い訳にはできないね。ごめん。」
しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「……怒っております。」
「うん。」
「とても、恥ずかしいのです。」
「うん。」
「ですから、しばらくこちらをご覧にならないでください。」
僕は素直に顔を背けた。
そのまま隣に座っていると、袖が小さく引かれた。
「……離れてほしいとは、申し上げておりません。」
「ここにいるよ。」
顔を向けずに答える。
やがて、僕の肩に、そっと彼女の額が触れた。
「本当に……お嫌になりませんでしたか。」
「ならないよ。」
「淑女らしくないことも、たくさん考えていたと思います。」
僕は、まつ毛の一本まで褒められた日のことを思い出した。
「何度も、幸せな気持ちになった。」
「それ以上はおっしゃらないでください……。」
肩に押しつけられる額に、少し力がこもる。
僕は笑いを堪えながら、その手を握った。
しばらくして、彼女が顔を上げた。
「子どもにも、聞こえるのですね。」
「うん。その子にも、力との付き合い方を一緒に教えていきたい。僕も幼い頃は、聞こえる声に戸惑うことがあったから。」
彼女は真剣な顔で頷いた。
そして、僕と目を合わせたまま、考え込んだ。
(では、この方に見惚れているときに、子どもと目が合ったら……?お父様が今日も格好いいとか、笑顔が素敵だとか、早く二人きりになりたいとか……全部、聞こえてしまうの?)
僕は唇を引き結んだ。
けれど、笑みを隠すには遅かった。
「……今も、聞こえておりますね。」
「ごめん。」
「謝りながら、お笑いにならないでください。」
彼女は恨めしそうに僕を睨んだ。
それから困り果てたように俯き、やがて、小さく笑った。
「隠し事が、できませんね。」
「僕も、もっと言葉にするよ。君だけ気持ちを知られているのは、不公平だから。」
彼女の手を持ち上げ、指輪のすぐそばに口づける。
顔を上げ、彼女の目を見つめた。
「愛している。」
彼女の唇が、かすかに開いた。
(ああ、好き。この方が、私の夫なのね。)
今度は、その声を聞いて笑わなかった。
ただ、彼女が続きを口にしてくれるのを待った。
「……私も、愛しております。」
僕を見つめて、彼女が言う。
心の中でも、同じ声が重なった。
僕はその両方を受け取り、彼女を抱き寄せた。
悪役令嬢と呼ばれた僕の妻は、強く、美しく、少し言葉が不器用だ。
そして今日も、どうしようもなく可愛い。
その心に負けないくらいの愛を、これからは僕が、一生かけて伝えていこう。



