それから、毎日のように言われるようになった。
「相川さん、俺に髪いじらせてくれない?」
「お断りします」
「今日もダメかー!」
「はい」
「明日は?」
「明日もです」
そんなやり取りが、毎日続いた。
最初は何とも思っていなかった。
けれど、一ヶ月も続けば、さすがに少し面倒になってくる。
そして同時に、あることを思うようになった。
――たまには、友達を作ってもいいんじゃないか。
私は別に、人と関われないわけではない。
ただ、自分から積極的に関わろうとしないだけだ。
そう考えるようになった頃。
いつものように、彼が私のところへやってきた。
「相川さん、俺に髪いじらせてくれない?」
「……いいよ」
「…………え?」
横井くんの動きが止まった。
目を丸くして、私を見る。
「え、いいの?」
「うん」
「ほんとに?」
「本当」
「やったー!」
大げさなくらい喜ぶ。
「一ヶ月も言い続けるなんて……」
私は呆れながら彼を見る。
「あなたの神経の図太さに負けたよ」
「やった! やっとだ!」
彼は本当に嬉しそうだった。
そして、少しだけ緊張した顔で私を見る。
「……ねぇ、髪、触ってもいい?」
「いいよ」
私が答えると、彼は一度大きく深呼吸した。
……なぜ、そんなに緊張するのだろう。
恐る恐る伸ばされた手が、私の髪に触れる。
その瞬間。
彼の表情が変わった。
「……すごい」
「?」
「クセがほとんどない。染めてないナチュラルな黒で、髪も太すぎず細すぎず……傷んでるところもほとんどない」
小声でぶつぶつと呟いている。
まるで何かを研究しているみたいだ。
「何かヘアケアしてる?」
「何もしてないよ」
「……何も?」
「うん」
「すご……」
彼は本気で感心している。
「あと」
「ん?」
「言ってること、全部聞こえてるから」
「……あ」
「外から見たら、ただの変態だよ」
「うわぁ……」
彼は頭を抱えた。
「なんか嬉しくて、つい……色んな感情が湧き上がってきちゃって」
そこまでなのだろうか。
私は自分の髪を少しだけ触ってみる。
……よく分からない。
「それで、私はどうしたらいいの?」
「え?」
「髪、触っただけで終わり?」
「あ、そうだった!」
彼は少し慌てたあと、嬉しそうに笑った。
「たまにでいいから、練習台になってほしいんだ」
「練習台?」
「うん。俺、将来美容師になりたいから」
「……なるほど」
「ナズが嫌じゃなかったら、図書館で本読んでるときに、ちょっとだけ練習させてほしい」
「別にいいよ」
「ほんと?」
「私、本を読んでるときは周りが見えなくなるから」
「じゃあ決まり!」
その瞬間、教室のあちこちから視線を感じた。
……聞き耳を立てられている。
まあ、当然か。
今まで毎日のように彼を突き返していた私が、急に普通に話しているのだから。
私は小さな声で言った。
「続きは放課後、図書館で」
「うん!」
私は前を向いた。
すると、すぐに後ろから騒がしい声が聞こえてきた。
「横井、お前、相川さんとどういう関係?」
「とうとう彼女?」
「どこまで進んでるの?」
一気に人が集まったらしい。
……陽キャは大変だ。
私は聞くつもりもなかったのだけれど、自然と耳がそちらへ向いてしまう。
そして。
「第一、付き合ってないし」
アキの声が聞こえた。
「その予定もないよ」
その言葉に、なぜか少しだけ安心した。
……何を安心しているのだろう。
「俺、好きな人いるし」
「えっ、誰?」
「それ以上は聞かないで」
いつもの明るい声とは違う。
それだけ言うと、アキは集まっていた人たちを散らしていった。
私は再び本を開いた。
そして、ふと思う。
――私にも、秘密がある。
私は、恋愛感情を持たない。
誰かを見て「かっこいい」と思うこともある。
「かわいい」と思うことだってある。
でも、それが恋愛感情に変わることはない。
誰かと付き合いたいとも思わない。
周りが楽しそうに恋愛の話をしていても、私はそこにうまく入れない。
だから、いつからか諦めていた。
「淡白だね」
「寂しくないの?」
「そのうち好きな人ができるって」
そんな言葉を聞くたびに、説明するのも面倒になった。
人は、自分と違うものを見ると、どうしても少しだけ戸惑う。
私だって同じだ。
だから、理解してもらおうとも思わない。
そう考えながら、私は再び本の世界へ戻った。
◇
放課後。
気がつくと、隣の席でアキが勉強していた。
……いつからいたのだろう。
机の上には教科書と問題集。
そういえば、二週間後にはテストがある。
「ねぇ」
声をかけると、アキがびくっと肩を震わせた。
「うわっ!」
「……ごめん」
「ナズ、急に話しかけないでよ。びっくりするじゃん」
「ごめんって」
少しだけ笑ってしまった。
「あなた、案外ちゃんと勉強するのね」
「案外って何?」
「教室では騒いでるから」
「ひどいなぁ」
アキは笑った。
「勉強は嫌いじゃないよ。教室でバカやってるかもしれないけど、学生の本分は勉強ですから」
「……意外」
「ナズまで!?」
少しだけ、アキに対するイメージが変わった。
しばらくすると、アキは問題集を閉じた。
そして私を見る。
「ナズ」
「何?」
「髪、いじってもいい?」
「うん」
私は後ろを向いて髪を差し出した。
「あ」
思いついたように、私は言った。
「相川じゃなくて、ナズナでいいよ」
アキの手が止まった。
「……いいの?」
「うん」
「じゃあ……ナズ!」
「……うん」
「俺もアキでいいから!」
「分かった。アキ」
そう呼ぶと、彼は嬉しそうに笑った。
私の呼び方は、今日から「ナズ」。
彼の呼び方は、「アキ」。
たったそれだけのことなのに。
少しだけ、距離が近くなった気がした。
「ねぇ、ナズ」
「何?」
「本って好きなの?」
「うーん……」
私は少し考える。
「本が好きというより、活字が好きかな」
「活字?」
「うん。書かれている文字の裏側にある意味を探すのが好きなの」
「へぇー……なんか難しいことするね」
アキは私の髪を器用にまとめながら続けた。
「じゃあ、将来は作家?」
「作家というより、雑誌のライターか編集者になりたい」
「へぇ!」
「私、想像力がないから。作品を作る側には向いてないと思う」
すると、アキが意外そうな顔をした。
「ナズって、ちゃんと将来のこと考えてるんだね」
「失礼だね」
「ごめんごめん」
彼は笑った。
「なんか、ナズって澄ましてるからさ。卒業したら就職して、淡々と働いて……みたいな感じかと思ってた」
「本当に失礼」
「ごめんって!」
それから少し間を置いて、アキが言った。
「でも、将来が見えてる同志だね」
「同志?」
「俺も美容師になりたいから」
「どうして美容師に?」
聞くと、アキは少しだけ考えてから話し始めた。
「俺、幼なじみがいるんだ」
「うん」
「その子、昔、髪が長いって理由でよくいじめられてたんだよ」
アキの声が少しだけ落ち着いた。
「女の子みたいってからかわれたり、髪を引っ張られたりしてさ」
私は黙って聞いた。
「その子が泣いてるのを見て、笑わせてあげたくなったんだ」
そして、少しだけ笑う。
「それで、前髪を結んであげた」
「それが始まり?」
「うん。それから、その子が一番可愛く見える髪型を研究するようになってさ」
意外だった。
もっと軽い理由だと思っていた。
「今も髪は長いの?」
「今はショートかな」
「じゃあ、もう髪をいじらなくていいんじゃない?」
「いやいや」
アキは笑った。
「長い髪の人の髪もいじってみたくなったんだよ。それでナズを見つけて……」
「私を追いかけてたわけ?」
「そういうこと!」
やっぱり変な人だ。
でも。
最初に会ったときより、少しだけアキという人間が分かった気がする。
「その子、この学校にいるの?」
「いや、いないよ。近くの女子校」
「そうなんだ」
「昔のことが原因で、男の人がちょっと苦手になっちゃってね」
「……」
「でも、俺は大丈夫みたい。今でも普通に連絡取ってるよ」
アキはどこか嬉しそうに言った。
私は少し考えてから答えた。
「そっか」
そして、本に視線を戻す。
「嫌なことから避けて通るのも、一つの道だと思うよ」
「うん」
「私は……全部諦めるタイプだから」
その言葉に、アキが黙った。
しばらくして。
「……ナズはさ」
「何?」
「諦めてるんじゃないと思う」
私は顔を上げた。
アキは、いつものように笑っていた。
けれど、その目はいつもより真剣だった。
「理解してくれる人を探してるだけでしょ?」
「……」
言葉が出なかった。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「だってナズ」
アキは、私の髪をゆっくり整えながら言った。
「たまに、寂しそうな目するから」
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
私はそんな顔をしていたのだろうか。
誰にも見せていないつもりだったのに。
――この人は、一体どこまで私を見ているんだろう。
「相川さん、俺に髪いじらせてくれない?」
「お断りします」
「今日もダメかー!」
「はい」
「明日は?」
「明日もです」
そんなやり取りが、毎日続いた。
最初は何とも思っていなかった。
けれど、一ヶ月も続けば、さすがに少し面倒になってくる。
そして同時に、あることを思うようになった。
――たまには、友達を作ってもいいんじゃないか。
私は別に、人と関われないわけではない。
ただ、自分から積極的に関わろうとしないだけだ。
そう考えるようになった頃。
いつものように、彼が私のところへやってきた。
「相川さん、俺に髪いじらせてくれない?」
「……いいよ」
「…………え?」
横井くんの動きが止まった。
目を丸くして、私を見る。
「え、いいの?」
「うん」
「ほんとに?」
「本当」
「やったー!」
大げさなくらい喜ぶ。
「一ヶ月も言い続けるなんて……」
私は呆れながら彼を見る。
「あなたの神経の図太さに負けたよ」
「やった! やっとだ!」
彼は本当に嬉しそうだった。
そして、少しだけ緊張した顔で私を見る。
「……ねぇ、髪、触ってもいい?」
「いいよ」
私が答えると、彼は一度大きく深呼吸した。
……なぜ、そんなに緊張するのだろう。
恐る恐る伸ばされた手が、私の髪に触れる。
その瞬間。
彼の表情が変わった。
「……すごい」
「?」
「クセがほとんどない。染めてないナチュラルな黒で、髪も太すぎず細すぎず……傷んでるところもほとんどない」
小声でぶつぶつと呟いている。
まるで何かを研究しているみたいだ。
「何かヘアケアしてる?」
「何もしてないよ」
「……何も?」
「うん」
「すご……」
彼は本気で感心している。
「あと」
「ん?」
「言ってること、全部聞こえてるから」
「……あ」
「外から見たら、ただの変態だよ」
「うわぁ……」
彼は頭を抱えた。
「なんか嬉しくて、つい……色んな感情が湧き上がってきちゃって」
そこまでなのだろうか。
私は自分の髪を少しだけ触ってみる。
……よく分からない。
「それで、私はどうしたらいいの?」
「え?」
「髪、触っただけで終わり?」
「あ、そうだった!」
彼は少し慌てたあと、嬉しそうに笑った。
「たまにでいいから、練習台になってほしいんだ」
「練習台?」
「うん。俺、将来美容師になりたいから」
「……なるほど」
「ナズが嫌じゃなかったら、図書館で本読んでるときに、ちょっとだけ練習させてほしい」
「別にいいよ」
「ほんと?」
「私、本を読んでるときは周りが見えなくなるから」
「じゃあ決まり!」
その瞬間、教室のあちこちから視線を感じた。
……聞き耳を立てられている。
まあ、当然か。
今まで毎日のように彼を突き返していた私が、急に普通に話しているのだから。
私は小さな声で言った。
「続きは放課後、図書館で」
「うん!」
私は前を向いた。
すると、すぐに後ろから騒がしい声が聞こえてきた。
「横井、お前、相川さんとどういう関係?」
「とうとう彼女?」
「どこまで進んでるの?」
一気に人が集まったらしい。
……陽キャは大変だ。
私は聞くつもりもなかったのだけれど、自然と耳がそちらへ向いてしまう。
そして。
「第一、付き合ってないし」
アキの声が聞こえた。
「その予定もないよ」
その言葉に、なぜか少しだけ安心した。
……何を安心しているのだろう。
「俺、好きな人いるし」
「えっ、誰?」
「それ以上は聞かないで」
いつもの明るい声とは違う。
それだけ言うと、アキは集まっていた人たちを散らしていった。
私は再び本を開いた。
そして、ふと思う。
――私にも、秘密がある。
私は、恋愛感情を持たない。
誰かを見て「かっこいい」と思うこともある。
「かわいい」と思うことだってある。
でも、それが恋愛感情に変わることはない。
誰かと付き合いたいとも思わない。
周りが楽しそうに恋愛の話をしていても、私はそこにうまく入れない。
だから、いつからか諦めていた。
「淡白だね」
「寂しくないの?」
「そのうち好きな人ができるって」
そんな言葉を聞くたびに、説明するのも面倒になった。
人は、自分と違うものを見ると、どうしても少しだけ戸惑う。
私だって同じだ。
だから、理解してもらおうとも思わない。
そう考えながら、私は再び本の世界へ戻った。
◇
放課後。
気がつくと、隣の席でアキが勉強していた。
……いつからいたのだろう。
机の上には教科書と問題集。
そういえば、二週間後にはテストがある。
「ねぇ」
声をかけると、アキがびくっと肩を震わせた。
「うわっ!」
「……ごめん」
「ナズ、急に話しかけないでよ。びっくりするじゃん」
「ごめんって」
少しだけ笑ってしまった。
「あなた、案外ちゃんと勉強するのね」
「案外って何?」
「教室では騒いでるから」
「ひどいなぁ」
アキは笑った。
「勉強は嫌いじゃないよ。教室でバカやってるかもしれないけど、学生の本分は勉強ですから」
「……意外」
「ナズまで!?」
少しだけ、アキに対するイメージが変わった。
しばらくすると、アキは問題集を閉じた。
そして私を見る。
「ナズ」
「何?」
「髪、いじってもいい?」
「うん」
私は後ろを向いて髪を差し出した。
「あ」
思いついたように、私は言った。
「相川じゃなくて、ナズナでいいよ」
アキの手が止まった。
「……いいの?」
「うん」
「じゃあ……ナズ!」
「……うん」
「俺もアキでいいから!」
「分かった。アキ」
そう呼ぶと、彼は嬉しそうに笑った。
私の呼び方は、今日から「ナズ」。
彼の呼び方は、「アキ」。
たったそれだけのことなのに。
少しだけ、距離が近くなった気がした。
「ねぇ、ナズ」
「何?」
「本って好きなの?」
「うーん……」
私は少し考える。
「本が好きというより、活字が好きかな」
「活字?」
「うん。書かれている文字の裏側にある意味を探すのが好きなの」
「へぇー……なんか難しいことするね」
アキは私の髪を器用にまとめながら続けた。
「じゃあ、将来は作家?」
「作家というより、雑誌のライターか編集者になりたい」
「へぇ!」
「私、想像力がないから。作品を作る側には向いてないと思う」
すると、アキが意外そうな顔をした。
「ナズって、ちゃんと将来のこと考えてるんだね」
「失礼だね」
「ごめんごめん」
彼は笑った。
「なんか、ナズって澄ましてるからさ。卒業したら就職して、淡々と働いて……みたいな感じかと思ってた」
「本当に失礼」
「ごめんって!」
それから少し間を置いて、アキが言った。
「でも、将来が見えてる同志だね」
「同志?」
「俺も美容師になりたいから」
「どうして美容師に?」
聞くと、アキは少しだけ考えてから話し始めた。
「俺、幼なじみがいるんだ」
「うん」
「その子、昔、髪が長いって理由でよくいじめられてたんだよ」
アキの声が少しだけ落ち着いた。
「女の子みたいってからかわれたり、髪を引っ張られたりしてさ」
私は黙って聞いた。
「その子が泣いてるのを見て、笑わせてあげたくなったんだ」
そして、少しだけ笑う。
「それで、前髪を結んであげた」
「それが始まり?」
「うん。それから、その子が一番可愛く見える髪型を研究するようになってさ」
意外だった。
もっと軽い理由だと思っていた。
「今も髪は長いの?」
「今はショートかな」
「じゃあ、もう髪をいじらなくていいんじゃない?」
「いやいや」
アキは笑った。
「長い髪の人の髪もいじってみたくなったんだよ。それでナズを見つけて……」
「私を追いかけてたわけ?」
「そういうこと!」
やっぱり変な人だ。
でも。
最初に会ったときより、少しだけアキという人間が分かった気がする。
「その子、この学校にいるの?」
「いや、いないよ。近くの女子校」
「そうなんだ」
「昔のことが原因で、男の人がちょっと苦手になっちゃってね」
「……」
「でも、俺は大丈夫みたい。今でも普通に連絡取ってるよ」
アキはどこか嬉しそうに言った。
私は少し考えてから答えた。
「そっか」
そして、本に視線を戻す。
「嫌なことから避けて通るのも、一つの道だと思うよ」
「うん」
「私は……全部諦めるタイプだから」
その言葉に、アキが黙った。
しばらくして。
「……ナズはさ」
「何?」
「諦めてるんじゃないと思う」
私は顔を上げた。
アキは、いつものように笑っていた。
けれど、その目はいつもより真剣だった。
「理解してくれる人を探してるだけでしょ?」
「……」
言葉が出なかった。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
「だってナズ」
アキは、私の髪をゆっくり整えながら言った。
「たまに、寂しそうな目するから」
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
私はそんな顔をしていたのだろうか。
誰にも見せていないつもりだったのに。
――この人は、一体どこまで私を見ているんだろう。



