4時半のラップと21時の報告

# 琥珀色の独占欲 番外編

## 番外編2 窓の外の目

 

十月の終わりの、月曜日の夜。

琥珀は、自分の部屋のベッドの上で、スマートフォンを耳に当てていた。

九時の報告のあと、珍しく瑠璃から電話がかかってきた。

アトリエからの帰り道らしかった。

電話の向こうで、夜の風の音がしていた。

「……それで、先輩がね」

琥珀は、今日一日のことを話していた。

報告に書ききれなかった分を。

先輩の赤ペンのこと。

社食で、また七味をかけすぎてむせたこと。

先輩が、それを見て、また少しだけ笑ったこと。

瑠璃は、ほとんど話さなかった。

うん、うん、と聞いていた。

高校のころから、ずっとそうだった。

「……琥珀」

話が一区切りついたところで、瑠璃が言った。

「その人、いい人だね」

琥珀は、瞬いた。

「会ったことないのに?」

「わかるよ」

瑠璃は、少しだけ笑った。

「琥珀が、その人の話するときの声。色が、あったかい」

「……声に色あるの」

「あるよ。琥珀の声、嬉しいときは黄色っぽくて、その人の話するときは、ちょっと橙色」

琥珀は、枕に顔を埋めた。

「瑠璃、それ、画家の人しか言わないやつ」

「画家の卵だもん」

電話の向こうで、瑠璃が小さく笑った。

琥珀も、笑った。

 

 

翌日の、火曜日。

午後二時の空は、高く澄んでいた。

ビルの谷間を抜けてくる風に、もうはっきりと冬の手前の冷たさが混ざっていた。

外回りだった。

来月の催しの、会場の下見。

湾岸の、市場の近くにある、古い倉庫を改装したイベントスペース。

先輩の会社が、秋冬の催しで何度も使ってきた場所だと聞いた。

インターンが始まって、もうすぐ一か月。

琥珀にも、この会社が何をしているのか、少しずつわかってきていた。

展示会。

季節の催し。

企業の記念式典。

たくさんの人が集まって、何かを見て、何かを持って帰る場所を作る仕事。

会場を探して、人を集めて、光や音を考えて、当日は裏で走り回る。

表には、ほとんど出ない。

でも、その日そこに来た人たちが笑って帰っていくのを、一番近くで見られる仕事。

踊りを誰かに届ける側。

高三のパンフレットに赤丸をつけた問いの答えが、少しだけ、ここにある気がしていた。

「寒くない?」

先輩が訊いた。

琥珀は、首を振った。

「全然。ダンスの練習場のほうが寒いです」

「若いね」

「早瀬さんも若いです」

「……一言多いって言われない?」

「言われないです。本当のことしか言わないんで」

琥珀は、笑った。

先輩が、呆れたように眉を上げた。

琥珀の手には、図面と資料の入った紙袋があった。

会社を出るとき、先輩が持とうとした。

琥珀は、有無を言わせずに取った。

「俺が持ちます。インターンなんで」

先輩は、少しだけ不服そうな顔をして、それから、ありがと、と小さく言った。

高架の下をくぐると、景色が少しずつ変わっていった。

オフィスビルが減って、倉庫と、冷凍車と、フォークリフトの音が増えていく。

潮の匂いと、魚の匂いが、風に乗って薄く流れてきた。

琥珀は、紙袋を持ち直した。

「早瀬さん、あの」

「うん」

「昨日、瑠璃に早瀬さんの話したんです」

先輩が、ちらりとこちらを見た。

「……また報告?」

「はい。色の話、したら」

琥珀は、少しだけ得意になって言った。

本当は、昨日の電話は、七味の話がほとんどだった。

でも、そこは言わなかった。

「瑠璃、しばらく黙って、それから、その人、いい人だねって」

先輩の足が、止まりかけた。

「……会ったこともないのに」

「瑠璃、そういうのわかるんです。色で」

「色?」

「俺が話す声の色で、どんな人かわかるって」

先輩は、何も言わなかった。

前を向いたまま、少しだけうつむいていた。

コートの襟に埋もれた頬が、ほんの少しだけ赤かった。

寒さのせいではない気がした。

「今、何描いてるの。瑠璃ちゃん」

先輩が、話を変えるように訊いた。

琥珀の声が、勝手に柔らかくなった。

「空です」

瑠璃のアトリエの、イーゼルの上。

十二月の犬吠埼の朝から、少しずつ描き続けている絵。

「夜明け前の。まだ全然できてないって言ってますけど。青がすごく深くて、下のほうだけ、細く」

「琥珀色?」

先輩が言った。

琥珀は、目を丸くした。

まだ、そこまで言っていなかった。

先輩は、当たり前のような顔で、琥珀を見上げていた。

名前を二つ聞いただけで、夜明け前の空を見つけた人。

この人には、もう、見えているのだ。

瑠璃の絵の、一番下の、細い線が。

「……はい」

琥珀は、嬉しくて、笑った。

先輩も、笑った。

声を出して。

少しだけ上を向いて。

目を細めて。

琥珀は、その顔を見て、少しだけ照れくさくなって、頭をかいた。

「早瀬さん、最近よく笑いますね」

「そう?」

「最初の頃、エレベーターでずっと遠い目してたから」

「……それ、また言う?」

「言います。心配だったんで」

琥珀は、真っ直ぐに前を向いたまま言った。

隣で、先輩が、少しだけうつむいた。

何も、言わなかった。

でも、その沈黙は、嫌な沈黙ではなかった。

 

 

大きな交差点で、信号が赤になった。

片側三車線の、広い道路。

向かい側の歩道にも、信号待ちの人たちが並んでいた。

作業着の男たち。

台車を押す市場の人。

スーツ姿の、何人かの会社員。

琥珀は、紙袋を持ったまま、ぼんやりと信号を見上げていた。

隣で、先輩の気配が、ふっと変わった。

琥珀は、横を見た。

先輩が、向かい側の歩道を見ていた。

じっと。

目を細めて。

息を、止めていた。

その横顔を、琥珀は知っていた。

エレベーターの中の、遠い目。

でも、少しだけ違った。

遠くを見ているのではなかった。

向かい側の、たった一点を見ていた。

琥珀も、先輩の視線の先を追った。

向かいの人波の中に、若い男が一人いた。

黒いスーツ。

少しだけ肩が余っている。

ネクタイが、ほんの少しだけ曲がっている。

黒髪の一か所が、ぴょんと跳ねていた。

背が高かった。

たぶん、自分と同じくらい。

年も、たぶん、同じくらい。

それから、顔。

遠目にも、整っているのがわかった。

黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。

自分と、同じ種類の顔。

琥珀は、少しだけ眉を寄せた。

「……かいと、くん?」

隣で、先輩が、小さく声に出した。

本当に、小さな声だった。

独り言みたいな。

琥珀に聞かせるつもりのない声。

でも、聞こえてしまった。

かいと。

知らない名前だった。

目の前を、大型トラックが轟音と一緒に通り過ぎた。

一瞬、向かい側がすっかり見えなくなった。

トラックが過ぎたあと。

さっきの場所に、その男は、もういなかった。

琥珀は、目を走らせた。

人波の中。

いない。

歩道の端。

いない。

それから、交差点の斜め向こうの角。

市場へ続く、細い路地の入口。

白い冷凍車が一台、停まっていた。

その荷台の陰に。

スーツの肩が、ほんの少しだけ見えていた。

跳ねた寝癖が、ほんの少しだけ。

琥珀の視線の先で、その男が、荷台の陰から、そっとこちらを覗いた。

目が、見えた。

先輩を、見ていた。

じっと。

息を止めるように。

琥珀は、その目を、知っていた。

去年の六月。

雨上がりの表参道。

イタリアンレストランのオレンジ色の窓。

その向こうで、瑠璃が、知らない男と向かい合って笑っていた。

自分は、窓の外に立っていた。

扉を開けることもできずに。

声をかけることもできずに。

自分には、あの場所に入る資格がない気がして。

あのとき、窓ガラスに映った自分の目。

ちょうど、あんな目をしていた。

悔しくて。

情けなくて。

それでも、どうしても、目を逸らせない目。

信号が、青に変わった。

人の波が、一斉に動き出した。

「早瀬さん?」

琥珀は、声をかけた。

先輩が、はっとしたように瞬きをした。

「どうかしました?」

「……ううん」

先輩は、首を振った。

横断歩道を渡りながら、向かい側の人波の中を、まだ目で探していた。

「知り合いに似てる人がいて。でも、気のせい」

「……そうですか」

琥珀は、少しだけ振り返った。

冷凍車の陰。

荷台の端から、また、スーツの肩が見えていた。

琥珀は、少しだけ迷った。

言うべきか。

言わないべきか。

先輩の、知り合いに似てる人。

その人は、今、あそこにいる。

でも、隠れている。

先輩に、見つからないように。

琥珀は、それだけを、そっと口にした。

「さっき、あそこから誰かこっち見てましたよ」

「え?」

「スーツの人。じっと、こっち見てた気がして」

先輩が、琥珀の視線の先を見た。

その一瞬前に、スーツの肩は、荷台の陰にすっと消えていた。

冷凍車の白い荷台だけが、午後の光を跳ね返していた。

「……気のせいだよ」

先輩は、もう一度そう言った。

自分に言い聞かせるみたいに。

琥珀は、何も言わなかった。

それ以上は、言ってはいけない気がした。

あの人は、隠れていた。

見つかりたくなくて。

窓の外の自分が、そうだったように。

あのとき、もし誰かが、瑠璃に「窓の外に彼氏さんがいますよ」と言っていたら。

自分は、たぶん、もっと惨めだった。

琥珀は、しばらく路地の入口を見ていた。

それから、紙袋を持ち直して、先輩の隣に戻った。

「行きましょう。遅れます」

「うん」

先輩が、もう一度だけ振り返った。

琥珀は、振り返らなかった。

先輩が振り返っているあいだは。

先輩が前を向いて、歩き出してから。

琥珀は、一度だけ、振り返った。

冷凍車の荷台の陰。

さっきの男が、また、こちらを覗いていた。

目が合った。

ほんの一瞬。

男の目が、大きく見開かれた。

琥珀は、目を逸らさなかった。

睨んだわけではなかった。

ただ、まっすぐに見た。

大丈夫だよ、と。

この人は、あなたのことを、今、探してたよ、と。

伝わるはずもないことを、心の中でだけ言った。

男が、荷台の陰に身を引いた。

琥珀は、前を向いた。

先輩の隣を、歩いた。

 

 

倉庫を改装したイベントスペースは、天井が高かった。

鉄骨の梁がむき出しで、壁には、古いレンガがそのまま残っていた。

高い窓から、午後の光が斜めに差しこんで、コンクリートの床に長い四角を描いていた。

先輩は、会場の担当者と一緒に、図面を見ながら歩き回っていた。

ここにステージ。

ここに受付。

来場者の動線は、こう。

照明は、窓からの光を活かして、夕方からはこっちを。

琥珀は、メモを取りながら、その後ろをついて歩いた。

先輩は、仕事の顔をしていた。

交差点での、息を止めた顔は、どこにもなかった。

てきぱきと、明るく、担当者と冗談を交わしながら。

でも、ときどき。

窓の外を見るときだけ。

ほんの一瞬、手が止まるのを、琥珀は見ていた。

「琥珀くん」

会場の真ん中で、先輩が振り返った。

「ここ、立ってみて」

「ここですか」

「ステージの位置。来場者から、一番よく見えるところ」

琥珀は、言われた場所に立った。

高い窓から差しこむ光が、ちょうど、足元に落ちていた。

「……明るいですね」

「でしょ。午後の三時から四時くらい、ここに一番光が来るの」

先輩は、少しだけ離れたところから、琥珀を見ていた。

図面を胸に抱えて。

「ここに立った人を、会場の一番後ろからでも、ちゃんと見つけられるように」

琥珀は、息を止めた。

一番後ろからでも、見つけられる。

「光の当て方とか、ステージの高さとか。そういうのを考えるのが、うちの仕事」

先輩は、少しだけ笑った。

「踊ってる人がいたら、一番後ろの人にも、その人が見えるように」

琥珀は、何も言えなかった。

光の中に立ったまま。

「……早瀬さん」

「なに」

「俺、この会社、来てよかったです」

先輩が、瞬いた。

それから、図面で顔を半分隠した。

「……急に何」

「本当のことしか言わないんで」

先輩は、図面の陰で、少しだけ笑った。

 

 

帰り道。

同じ交差点を通った。

信号は、青だった。

冷凍車は、もういなかった。

路地の入口には、誰もいなかった。

先輩は、その角を、一度も見なかった。

見ないように、しているように見えた。

琥珀も、見なかった。

 

 

その夜。

九時を少し過ぎたころ。

琥珀は、自分の部屋のベッドの上で、報告を打った。

指が、何度か止まった。

「今日、告白されなかった。

外回り。湾岸の、倉庫を改装した会場の下見。

ステージの位置に立たせてもらった。

一番後ろからでも、ちゃんと見つけられるように光を考えるのが仕事だって。

この会社、来てよかった」

そこまで打って、少しだけ考えた。

それから、続けた。

「それと、報告。

交差点で、先輩が、向こう側の誰かを見て、小さく名前を呼んだ。

かいと、くん、って。

その人、たぶん、俺と同じくらいの年。

肩の少し余ったスーツで、寝癖がついてた。

信号が変わる前に隠れちゃった。

市場の路地の、冷凍車の陰に。

そこから、ずっと先輩のこと見てた。

去年の六月、レストランの窓の外に立ってたときの、俺と同じ目で。

先輩には、隠れてたことは言ってない。

誰か見てたかも、とだけ言った。

たぶん、その人が、先輩の遠い目の理由の人。

中身は、何も知らない。

でも、見たことは、報告する。

報告おわり」

送信する。

少しだけ間があった。

既読がついて、しばらく、何も来なかった。

それから、スマートフォンが震えた。

「報告ありがとう」

いつもの、最初の一行。

それから。

「窓の外の琥珀と同じ目なら。

その人、きっと、先輩のことがすごく大事なんだね」

琥珀は、画面を見つめた。

もう一通、届いた。

「窓の外の琥珀、ほんとは、すごく入ってきてほしかった。

あのときの私。

だから、その人も。

いつか、ちゃんと扉を開けられるといいね。

先輩に、言わなかったの、琥珀らしいと思う。

報告おわり」

琥珀は、スマートフォンを胸に抱えた。

壁の上の、二枚の絵を見上げた。

『瑠璃色』の中の、窓ガラスに映った小さな男の子。

扉のところで、立ち尽くしている。

あの日の自分。

去年の六月の、窓の外の自分。

今日の、冷凍車の陰の、知らない誰か。

琥珀は、指を動かした。

「うん。

もし先輩が話したくなったら、聞く。

それまでは、訊かない。

報告」

既読がついた。

「うん。それがいい」

琥珀は、スマートフォンを枕元に置いて、目を閉じた。

瞼の裏に、交差点の向こうの、跳ねた寝癖が浮かんだ。

曲がったネクタイ。

少しだけ肩の余ったスーツ。

冷凍車の荷台の陰から、じっと先輩を見ていた目。

かいと、くん。

知らない名前。

でも、あの目だけは、よく知っていた。

琥珀は、暗闇の中で、小さく呟いた。

「……がんばれ」

誰に言ったのか、自分でもよくわからなかった。

窓の外で、十月の終わりの夜風が、カーテンを揺らしていた。