4時半のラップと21時の報告

# 七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない

# 番外編2 交差点

十月の終わりの火曜日。

午後二時の空は高く澄んでいて、ビルの谷間を抜けてくる風には、もうはっきりと冬の手前の冷たさが混ざっていた。

「寒くない?」

亜美が訊くと、隣を歩く琥珀は首を振った。

「全然。ダンスの練習場のほうが寒いです」

「若いね」

「早瀬さんも若いです」

「……一言多いって言われない?」

「言われないです。本当のことしか言わないんで」

琥珀は、屈託なく笑った。

外回りだった。

来月の催しの、会場の下見。

湾岸の、市場の近くにある古い倉庫を改装したイベントスペース。

秋冬の催しで何度も使ってきた会場だけれど、インターン生を連れて歩くのは初めてだった。

琥珀は、図面と資料の入った紙袋を当然のように持っていた。

最初は亜美が持とうとした。

「俺が持ちます。インターンなんで」と、有無を言わせずに取られた。

高速道路の高架の下をくぐると、景色が少しずつ変わっていく。

オフィスビルが減って、倉庫と、冷凍車と、フォークリフトの音が増えていく。

潮の匂いと、魚の匂いが、風に乗って薄く流れてきた。

「早瀬さん、あの」

琥珀が、紙袋を持ち直しながら言った。

「昨日、瑠璃に早瀬さんの話したんです」

「……また報告?」

「はい。色の話、したら」

琥珀は、少しだけ得意げな顔をした。

「瑠璃、しばらく黙って、それから、その人、いい人だねって」

亜美は、足を止めかけた。

「……会ったこともないのに」

「瑠璃、そういうのわかるんです。色で」

琥珀は、何でもないことのように言った。

「俺が話す声の色で、どんな人かわかるって」

亜美は、何と返していいかわからなかった。

胸の奥が、少しだけくすぐったかった。

会ったこともない、二十一歳の女の子に。

いい人だね、と言われた。

「今、何描いてるの。瑠璃ちゃん」

「空です」

琥珀の声が、少しだけ柔らかくなった。

「夜明け前の。まだ全然できてないって言ってますけど。青がすごく深くて、下のほうだけ、細く」

「琥珀色?」

亜美が言うと、琥珀は目を丸くして。

それから、嬉しそうに笑った。

「……はい」

亜美も、笑った。

声を出して。

琥珀が、ちょっとだけ照れたように頭をかいた。

「早瀬さん、最近よく笑いますね」

「そう?」

「最初の頃、エレベーターでずっと遠い目してたから」

「……それ、また言う?」

「言います。心配だったんで」

琥珀は、真っ直ぐに前を向いたまま言った。

亜美は、少しだけうつむいた。

心配だった。

インターンの子に。

来てまだ一か月の子に。

家の中では、誰にも言われない言葉だった。

 

大きな交差点で、信号が赤になった。

片側三車線の、広い道路。

向かい側の歩道にも、信号待ちの人たちが並んでいる。

作業着の男たち。

台車を押す市場の人。

スーツ姿の、何人かの会社員。

亜美は、ぼんやりと向かい側を眺めていた。

そのとき。

向かいの人波の中に、一人の若い男が目に入った。

黒いスーツ。

少しだけ肩が余っている。

安い、量販店の。

ネクタイが、ほんの少しだけ曲がっている。

それから、黒髪の一か所が、ぴょんと跳ねていた。

亜美は、息を止めた。

「……え」

目を細める。

距離が遠い。

車が何台も、目の前を横切っていく。

そのたびに、向かい側の人影が見え隠れする。

跳ねた寝癖。

少しだけ猫背の立ち方。

「……海音くん?」

小さく、声に出していた。

まさか。

あの子が、スーツなんて。

今日も朝から「バイト」と言って出ていった。

何のバイトかは知らない。

でも、スーツを着るようなバイトじゃないはずだ。

あの子は、寝るのが仕事で。

チャーハンを焦がして。

踵を踏みつぶしたスニーカーで出かけていく子で。

大型トラックが、目の前を轟音と一緒に通り過ぎた。

一瞬、向かい側がすっかり見えなくなる。

トラックが過ぎたあと。

さっきの場所に、その男はもういなかった。

信号が、青に変わった。

人の波が、一斉に動き出す。

「早瀬さん?」

琥珀の声で、亜美は我に返った。

「どうかしました?」

「……ううん」

亜美は、首を振った。

横断歩道を渡りながら、向かい側の人波の中を目で探した。

どこにもいなかった。

「知り合いに似てる人がいて。でも、気のせい」

「……そうですか」

琥珀は、少しだけ振り返った。

交差点の、斜め向こうの角。

市場へ続く、細い路地の入口のほうを。

「さっき、あそこから誰かこっち見てましたよ」

「え?」

「スーツの人。じっと、こっち見てた気がして」

亜美は、琥珀の視線の先を見た。

細い路地の入口には、冷凍車が一台停まっているだけだった。

誰も、いなかった。

「……気のせいだよ」

亜美は、もう一度そう言った。

自分に言い聞かせるみたいに。

あの子が、スーツなんて着ているわけがない。

あの子が、こんなところにいるわけがない。

琥珀は、しばらく路地の入口を見ていた。

それから、紙袋を持ち直して、亜美の隣に戻ってきた。

「行きましょう。遅れます」

「うん」

亜美は、もう一度だけ振り返った。

冷凍車の白い荷台が、午後の光を跳ね返していた。

 

海音は、冷凍車の陰に立っていた。

背中を、荷台の冷たい鉄に押しつけて。

心臓が、耳の奥でうるさく鳴っていた。

インターン先の先輩と、市場の取引先を回った帰りだった。

先輩は、途中の喫煙所に寄っていった。

一人で交差点の信号を待っていた。

そうしたら。

向かい側に、亜美さんがいた。

最初は、見間違いかと思った。

会社のある場所とは、まるで違う方向だった。

でも、あのコートは知っている。

去年の冬、何度も玄関で脱いでいたベージュのコート。

肩までの髪。

少しだけ首を傾けて、人の話を聞く癖。

亜美さんだった。

隣に、男がいた。

背が高かった。

海音と、同じくらい。

年も、たぶん同じくらい。

顔も。

遠目にも、整っているのがわかった。

たぶん、自分と同じ種類の顔。

黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。

でも。

そいつは、体にぴったり合ったスーツを着ていた。

肩も余っていない。

ネクタイも曲がっていない。

髪は、きちんと撫でつけられていて、一本も跳ねていない。

背筋が、真っ直ぐに伸びていた。

片手に、亜美さんの会社の紙袋を持って。

当たり前のように。

そいつが、何か言った。

亜美さんが、笑った。

声を出して。

少しだけ上を向いて。

目を細めて。

海音は、その場から動けなかった。

あんなふうに笑う亜美さんを。

いつから、見ていないだろう。

八月の、あの夜から。

家では、一度も。

世界一、と言うと、はいはいと返してくれる。

少しだけ口元を緩めてくれる。

吹き出してくれた夜も、一度だけあった。

でも、あんなふうには。

あんな顔では。

一度も。

トラックが、目の前を通り過ぎた。

轟音と一緒に、向かい側が見えなくなった。

その一瞬で、海音は踵を返していた。

人の波をかき分けて。

市場へ続く路地の入口へ。

冷凍車の陰へ。

声は、かけられなかった。

かけられるはずがなかった。

インターンのことは、まだ誰にも言っていない。

亜美さんには、バイトだと言っている。

そして。

この、肩の余った一番安いスーツで。

曲がったネクタイで。

跳ねた寝癖で。

あの隣に、並べるわけがなかった。

海音は、冷凍車の荷台の陰から、そっと交差点を覗いた。

信号が、青に変わっていた。

人の波の中を、亜美さんが歩いていく。

隣の男と、並んで。

途中で、亜美さんが一度だけ振り返った。

こちらを。

海音は、慌てて荷台の陰に身を引いた。

心臓が、止まりそうだった。

しばらくして、もう一度覗いた。

二人の背中が、倉庫街の向こうへ小さくなっていく。

男のほうが、一度だけこちらを振り返った気がした。

真っ直ぐな目で。

海音は、荷台の鉄に背中を押しつけたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。

同い年くらいの。

同じくらいの背の。

同じ種類の顔の。

でも、何もかもが違う男。

ちゃんとしたスーツを着て。

ちゃんと背筋を伸ばして。

ちゃんと、亜美さんの隣を歩いて。

亜美さんを、笑わせていた。

たぶん、あれが。

自分が、なるはずだった男だ。

いや。

自分が、ならなきゃいけない男だ。

海音は、膝の上で拳を握りしめた。

悔しかった。

あの男に、じゃない。

自分に。

八月まで、何もしてこなかった自分に。

腹が減ったら飯を食うみたいに、どうでもいい夜を重ねてきた自分に。

亜美さんの部屋に、一線を越えさせた自分に。

あの人は、誰の隣でも笑える人なのに。

誰の隣でだって、幸せになれる人なのに。

それでも、あの部屋に、俺を置いてくれている。

早く。

海音は、奥歯を噛みしめた。

早く、一人前になりたい。

ちゃんとしたスーツを着て。

ちゃんと背筋を伸ばして。

ちゃんと、亜美さんの隣を歩ける男に。

それから。

海音は、自分の胸の中に浮かんだ言葉に、自分で驚いた。

今まで、一度も形にしたことのない言葉だった。

考えたことはあった。

でも、ちゃんとした言葉にしたことはなかった。

社会に出たら。

亜美さんと、結婚したい。

冷凍車のエンジンが、低く唸り始めた。

海音は、慌てて立ち上がった。

荷台の陰から出る。

路地の入口で、喫煙所から戻ってきた先輩が手を振っていた。

「高梨、どこ行ってた」

「……すみません」

海音は、曲がったネクタイを指で直した。

うまく直らなかった。

 

その夜。

海音が部屋に帰ったのは、八時過ぎだった。

「……ただいま」

「おかえり」

キッチンから、亜美の声が返ってきた。

リビングに入ると、テーブルの上に夕飯が並んでいた。

鯖の味噌煮。

ほうれん草のおひたし。

豆腐とわかめの味噌汁。

海音は、パーカーの袖を捲りながらテーブルについた。

スーツは、駅のトイレで着替えて、リュックに押し込んできた。

亜美さんが先に帰っている日は、いつもそうしている。

明日の朝、亜美さんが出かけたあとで、クローゼットの奥のコートの後ろに戻しておく。

「いただきます」

「いただきます」

二人で、箸を持った。

鯖の味噌煮は、甘辛くて、柔らかかった。

「……世界一」

「はいはい」

亜美が、少しだけ口元を緩めた。

それだけだった。

交差点の向こうで見た、あの笑い方じゃなかった。

「そういえば」

亜美が、味噌汁の椀を持ちながら言った。

「今日、外回りで市場のほう行ったんだけどね」

海音の箸が、止まった。

「海音くんに、すごく似てる人見た」

海音は、鯖の身をほぐすふりをしてうつむいた。

「……へえ」

「信号の向こう側でね。寝癖まで、そっくりだった」

亜美は、少しだけ笑った。

「でも、スーツ着てたから。違うなって」

海音の喉の奥で、何かが詰まった。

亜美は、味噌汁をすすって続けた。

「海音くんがスーツとか、ないもんね」

冗談めかした、軽い声だった。

海音は、顔を上げられなかった。

箸を持ったまま。

鯖の味噌煮を見つめたまま。

「……ないでしょ」

ようやく、声が出た。

いつもの、気だるげな声を作って。

「俺がスーツとか。ありえない」

「だよね」

亜美は、何も気づかずに箸を動かした。

海音は、味噌汁の椀を持ち上げた。

口をつける。

熱かった。

熱くて、少しだけしょっぱかった。

「隣にいた人は?」

気づいたら、訊いていた。

訊くつもりはなかった。

亜美が、きょとんとした顔で海音を見た。

「……え?」

「その、外回り。一人じゃないでしょ」

「ああ」

亜美は、少しだけ笑った。

「インターンの子。今、指導係やってるの。大学三年生」

大学三年。

同い年。

「彼女に毎晩報告してるんだって。今日こういうことがあったって、全部。連絡先訊かれて断ったことまで」

亜美は、少しだけ遠くを見るような目をした。

「すごいよね。同い年なのに」

同い年なのに。

その言葉が、海音の胸の真ん中に、音もなく落ちた。

亜美は、それ以上何も言わなかった。

ほうれん草のおひたしに、箸を伸ばしていた。

海音は、何も言い返せなかった。

言い返す言葉を、何一つ持っていなかった。

 

夜中。

亜美が寝室に入ったあと、海音はソファの上で起き上がった。

眠れなかった。

リュックの中から、一枚の紙を取り出した。

インターン先で配られた、エントリーシートの練習用の用紙。

来年の本選考に向けて、書いておくようにと言われていた。

氏名。

学部。

自己PR。

そこまでは、先週書いた。

志望動機の欄だけが、真っ白だった。

海音は、鉛筆を持った。

ローテーブルの上に用紙を置いて。

しばらく、その白い欄を見つめていた。

ちゃんとしたスーツ。

真っ直ぐな背筋。

亜美さんの会社の紙袋。

交差点の向こうで、声を出して笑っていた顔。

同い年なのに。

海音は、鉛筆を置いた。

まだ、書けなかった。

一番の理由は、まだ、紙の上に書けるほどの形になっていなかった。

でも。

胸の中には、もうはっきりとあった。

交差点の冷凍車の陰で、初めて言葉になったもの。

海音は、用紙を丁寧に畳んで、リュックの内ポケットにしまった。

それから、寝室の扉のほうを見た。

ぴったりと、閉まっている。

八月から、ずっと。

海音は、ソファに横になった。

毛布を、頭まで被る。

目を閉じる。

瞼の裏に、交差点の向こうの笑顔が浮かんだ。

いつか。

あの顔を、自分の隣で。

海音は、毛布の中で拳を握りしめた。

寝るのが仕事。

そう言い張ってきた。

でも、今夜は、少しも眠れそうになかった。