# 七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない
# 番外編2 交差点
十月の終わりの火曜日。
午後二時の空は高く澄んでいて、ビルの谷間を抜けてくる風には、もうはっきりと冬の手前の冷たさが混ざっていた。
「寒くない?」
亜美が訊くと、隣を歩く琥珀は首を振った。
「全然。ダンスの練習場のほうが寒いです」
「若いね」
「早瀬さんも若いです」
「……一言多いって言われない?」
「言われないです。本当のことしか言わないんで」
琥珀は、屈託なく笑った。
外回りだった。
来月の催しの、会場の下見。
湾岸の、市場の近くにある古い倉庫を改装したイベントスペース。
秋冬の催しで何度も使ってきた会場だけれど、インターン生を連れて歩くのは初めてだった。
琥珀は、図面と資料の入った紙袋を当然のように持っていた。
最初は亜美が持とうとした。
「俺が持ちます。インターンなんで」と、有無を言わせずに取られた。
高速道路の高架の下をくぐると、景色が少しずつ変わっていく。
オフィスビルが減って、倉庫と、冷凍車と、フォークリフトの音が増えていく。
潮の匂いと、魚の匂いが、風に乗って薄く流れてきた。
「早瀬さん、あの」
琥珀が、紙袋を持ち直しながら言った。
「昨日、瑠璃に早瀬さんの話したんです」
「……また報告?」
「はい。色の話、したら」
琥珀は、少しだけ得意げな顔をした。
「瑠璃、しばらく黙って、それから、その人、いい人だねって」
亜美は、足を止めかけた。
「……会ったこともないのに」
「瑠璃、そういうのわかるんです。色で」
琥珀は、何でもないことのように言った。
「俺が話す声の色で、どんな人かわかるって」
亜美は、何と返していいかわからなかった。
胸の奥が、少しだけくすぐったかった。
会ったこともない、二十一歳の女の子に。
いい人だね、と言われた。
「今、何描いてるの。瑠璃ちゃん」
「空です」
琥珀の声が、少しだけ柔らかくなった。
「夜明け前の。まだ全然できてないって言ってますけど。青がすごく深くて、下のほうだけ、細く」
「琥珀色?」
亜美が言うと、琥珀は目を丸くして。
それから、嬉しそうに笑った。
「……はい」
亜美も、笑った。
声を出して。
琥珀が、ちょっとだけ照れたように頭をかいた。
「早瀬さん、最近よく笑いますね」
「そう?」
「最初の頃、エレベーターでずっと遠い目してたから」
「……それ、また言う?」
「言います。心配だったんで」
琥珀は、真っ直ぐに前を向いたまま言った。
亜美は、少しだけうつむいた。
心配だった。
インターンの子に。
来てまだ一か月の子に。
家の中では、誰にも言われない言葉だった。
大きな交差点で、信号が赤になった。
片側三車線の、広い道路。
向かい側の歩道にも、信号待ちの人たちが並んでいる。
作業着の男たち。
台車を押す市場の人。
スーツ姿の、何人かの会社員。
亜美は、ぼんやりと向かい側を眺めていた。
そのとき。
向かいの人波の中に、一人の若い男が目に入った。
黒いスーツ。
少しだけ肩が余っている。
安い、量販店の。
ネクタイが、ほんの少しだけ曲がっている。
それから、黒髪の一か所が、ぴょんと跳ねていた。
亜美は、息を止めた。
「……え」
目を細める。
距離が遠い。
車が何台も、目の前を横切っていく。
そのたびに、向かい側の人影が見え隠れする。
跳ねた寝癖。
少しだけ猫背の立ち方。
「……海音くん?」
小さく、声に出していた。
まさか。
あの子が、スーツなんて。
今日も朝から「バイト」と言って出ていった。
何のバイトかは知らない。
でも、スーツを着るようなバイトじゃないはずだ。
あの子は、寝るのが仕事で。
チャーハンを焦がして。
踵を踏みつぶしたスニーカーで出かけていく子で。
大型トラックが、目の前を轟音と一緒に通り過ぎた。
一瞬、向かい側がすっかり見えなくなる。
トラックが過ぎたあと。
さっきの場所に、その男はもういなかった。
信号が、青に変わった。
人の波が、一斉に動き出す。
「早瀬さん?」
琥珀の声で、亜美は我に返った。
「どうかしました?」
「……ううん」
亜美は、首を振った。
横断歩道を渡りながら、向かい側の人波の中を目で探した。
どこにもいなかった。
「知り合いに似てる人がいて。でも、気のせい」
「……そうですか」
琥珀は、少しだけ振り返った。
交差点の、斜め向こうの角。
市場へ続く、細い路地の入口のほうを。
「さっき、あそこから誰かこっち見てましたよ」
「え?」
「スーツの人。じっと、こっち見てた気がして」
亜美は、琥珀の視線の先を見た。
細い路地の入口には、冷凍車が一台停まっているだけだった。
誰も、いなかった。
「……気のせいだよ」
亜美は、もう一度そう言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
あの子が、スーツなんて着ているわけがない。
あの子が、こんなところにいるわけがない。
琥珀は、しばらく路地の入口を見ていた。
それから、紙袋を持ち直して、亜美の隣に戻ってきた。
「行きましょう。遅れます」
「うん」
亜美は、もう一度だけ振り返った。
冷凍車の白い荷台が、午後の光を跳ね返していた。
海音は、冷凍車の陰に立っていた。
背中を、荷台の冷たい鉄に押しつけて。
心臓が、耳の奥でうるさく鳴っていた。
インターン先の先輩と、市場の取引先を回った帰りだった。
先輩は、途中の喫煙所に寄っていった。
一人で交差点の信号を待っていた。
そうしたら。
向かい側に、亜美さんがいた。
最初は、見間違いかと思った。
会社のある場所とは、まるで違う方向だった。
でも、あのコートは知っている。
去年の冬、何度も玄関で脱いでいたベージュのコート。
肩までの髪。
少しだけ首を傾けて、人の話を聞く癖。
亜美さんだった。
隣に、男がいた。
背が高かった。
海音と、同じくらい。
年も、たぶん同じくらい。
顔も。
遠目にも、整っているのがわかった。
たぶん、自分と同じ種類の顔。
黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。
でも。
そいつは、体にぴったり合ったスーツを着ていた。
肩も余っていない。
ネクタイも曲がっていない。
髪は、きちんと撫でつけられていて、一本も跳ねていない。
背筋が、真っ直ぐに伸びていた。
片手に、亜美さんの会社の紙袋を持って。
当たり前のように。
そいつが、何か言った。
亜美さんが、笑った。
声を出して。
少しだけ上を向いて。
目を細めて。
海音は、その場から動けなかった。
あんなふうに笑う亜美さんを。
いつから、見ていないだろう。
八月の、あの夜から。
家では、一度も。
世界一、と言うと、はいはいと返してくれる。
少しだけ口元を緩めてくれる。
吹き出してくれた夜も、一度だけあった。
でも、あんなふうには。
あんな顔では。
一度も。
トラックが、目の前を通り過ぎた。
轟音と一緒に、向かい側が見えなくなった。
その一瞬で、海音は踵を返していた。
人の波をかき分けて。
市場へ続く路地の入口へ。
冷凍車の陰へ。
声は、かけられなかった。
かけられるはずがなかった。
インターンのことは、まだ誰にも言っていない。
亜美さんには、バイトだと言っている。
そして。
この、肩の余った一番安いスーツで。
曲がったネクタイで。
跳ねた寝癖で。
あの隣に、並べるわけがなかった。
海音は、冷凍車の荷台の陰から、そっと交差点を覗いた。
信号が、青に変わっていた。
人の波の中を、亜美さんが歩いていく。
隣の男と、並んで。
途中で、亜美さんが一度だけ振り返った。
こちらを。
海音は、慌てて荷台の陰に身を引いた。
心臓が、止まりそうだった。
しばらくして、もう一度覗いた。
二人の背中が、倉庫街の向こうへ小さくなっていく。
男のほうが、一度だけこちらを振り返った気がした。
真っ直ぐな目で。
海音は、荷台の鉄に背中を押しつけたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。
同い年くらいの。
同じくらいの背の。
同じ種類の顔の。
でも、何もかもが違う男。
ちゃんとしたスーツを着て。
ちゃんと背筋を伸ばして。
ちゃんと、亜美さんの隣を歩いて。
亜美さんを、笑わせていた。
たぶん、あれが。
自分が、なるはずだった男だ。
いや。
自分が、ならなきゃいけない男だ。
海音は、膝の上で拳を握りしめた。
悔しかった。
あの男に、じゃない。
自分に。
八月まで、何もしてこなかった自分に。
腹が減ったら飯を食うみたいに、どうでもいい夜を重ねてきた自分に。
亜美さんの部屋に、一線を越えさせた自分に。
あの人は、誰の隣でも笑える人なのに。
誰の隣でだって、幸せになれる人なのに。
それでも、あの部屋に、俺を置いてくれている。
早く。
海音は、奥歯を噛みしめた。
早く、一人前になりたい。
ちゃんとしたスーツを着て。
ちゃんと背筋を伸ばして。
ちゃんと、亜美さんの隣を歩ける男に。
それから。
海音は、自分の胸の中に浮かんだ言葉に、自分で驚いた。
今まで、一度も形にしたことのない言葉だった。
考えたことはあった。
でも、ちゃんとした言葉にしたことはなかった。
社会に出たら。
亜美さんと、結婚したい。
冷凍車のエンジンが、低く唸り始めた。
海音は、慌てて立ち上がった。
荷台の陰から出る。
路地の入口で、喫煙所から戻ってきた先輩が手を振っていた。
「高梨、どこ行ってた」
「……すみません」
海音は、曲がったネクタイを指で直した。
うまく直らなかった。
その夜。
海音が部屋に帰ったのは、八時過ぎだった。
「……ただいま」
「おかえり」
キッチンから、亜美の声が返ってきた。
リビングに入ると、テーブルの上に夕飯が並んでいた。
鯖の味噌煮。
ほうれん草のおひたし。
豆腐とわかめの味噌汁。
海音は、パーカーの袖を捲りながらテーブルについた。
スーツは、駅のトイレで着替えて、リュックに押し込んできた。
亜美さんが先に帰っている日は、いつもそうしている。
明日の朝、亜美さんが出かけたあとで、クローゼットの奥のコートの後ろに戻しておく。
「いただきます」
「いただきます」
二人で、箸を持った。
鯖の味噌煮は、甘辛くて、柔らかかった。
「……世界一」
「はいはい」
亜美が、少しだけ口元を緩めた。
それだけだった。
交差点の向こうで見た、あの笑い方じゃなかった。
「そういえば」
亜美が、味噌汁の椀を持ちながら言った。
「今日、外回りで市場のほう行ったんだけどね」
海音の箸が、止まった。
「海音くんに、すごく似てる人見た」
海音は、鯖の身をほぐすふりをしてうつむいた。
「……へえ」
「信号の向こう側でね。寝癖まで、そっくりだった」
亜美は、少しだけ笑った。
「でも、スーツ着てたから。違うなって」
海音の喉の奥で、何かが詰まった。
亜美は、味噌汁をすすって続けた。
「海音くんがスーツとか、ないもんね」
冗談めかした、軽い声だった。
海音は、顔を上げられなかった。
箸を持ったまま。
鯖の味噌煮を見つめたまま。
「……ないでしょ」
ようやく、声が出た。
いつもの、気だるげな声を作って。
「俺がスーツとか。ありえない」
「だよね」
亜美は、何も気づかずに箸を動かした。
海音は、味噌汁の椀を持ち上げた。
口をつける。
熱かった。
熱くて、少しだけしょっぱかった。
「隣にいた人は?」
気づいたら、訊いていた。
訊くつもりはなかった。
亜美が、きょとんとした顔で海音を見た。
「……え?」
「その、外回り。一人じゃないでしょ」
「ああ」
亜美は、少しだけ笑った。
「インターンの子。今、指導係やってるの。大学三年生」
大学三年。
同い年。
「彼女に毎晩報告してるんだって。今日こういうことがあったって、全部。連絡先訊かれて断ったことまで」
亜美は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「すごいよね。同い年なのに」
同い年なのに。
その言葉が、海音の胸の真ん中に、音もなく落ちた。
亜美は、それ以上何も言わなかった。
ほうれん草のおひたしに、箸を伸ばしていた。
海音は、何も言い返せなかった。
言い返す言葉を、何一つ持っていなかった。
夜中。
亜美が寝室に入ったあと、海音はソファの上で起き上がった。
眠れなかった。
リュックの中から、一枚の紙を取り出した。
インターン先で配られた、エントリーシートの練習用の用紙。
来年の本選考に向けて、書いておくようにと言われていた。
氏名。
学部。
自己PR。
そこまでは、先週書いた。
志望動機の欄だけが、真っ白だった。
海音は、鉛筆を持った。
ローテーブルの上に用紙を置いて。
しばらく、その白い欄を見つめていた。
ちゃんとしたスーツ。
真っ直ぐな背筋。
亜美さんの会社の紙袋。
交差点の向こうで、声を出して笑っていた顔。
同い年なのに。
海音は、鉛筆を置いた。
まだ、書けなかった。
一番の理由は、まだ、紙の上に書けるほどの形になっていなかった。
でも。
胸の中には、もうはっきりとあった。
交差点の冷凍車の陰で、初めて言葉になったもの。
海音は、用紙を丁寧に畳んで、リュックの内ポケットにしまった。
それから、寝室の扉のほうを見た。
ぴったりと、閉まっている。
八月から、ずっと。
海音は、ソファに横になった。
毛布を、頭まで被る。
目を閉じる。
瞼の裏に、交差点の向こうの笑顔が浮かんだ。
いつか。
あの顔を、自分の隣で。
海音は、毛布の中で拳を握りしめた。
寝るのが仕事。
そう言い張ってきた。
でも、今夜は、少しも眠れそうになかった。
# 番外編2 交差点
十月の終わりの火曜日。
午後二時の空は高く澄んでいて、ビルの谷間を抜けてくる風には、もうはっきりと冬の手前の冷たさが混ざっていた。
「寒くない?」
亜美が訊くと、隣を歩く琥珀は首を振った。
「全然。ダンスの練習場のほうが寒いです」
「若いね」
「早瀬さんも若いです」
「……一言多いって言われない?」
「言われないです。本当のことしか言わないんで」
琥珀は、屈託なく笑った。
外回りだった。
来月の催しの、会場の下見。
湾岸の、市場の近くにある古い倉庫を改装したイベントスペース。
秋冬の催しで何度も使ってきた会場だけれど、インターン生を連れて歩くのは初めてだった。
琥珀は、図面と資料の入った紙袋を当然のように持っていた。
最初は亜美が持とうとした。
「俺が持ちます。インターンなんで」と、有無を言わせずに取られた。
高速道路の高架の下をくぐると、景色が少しずつ変わっていく。
オフィスビルが減って、倉庫と、冷凍車と、フォークリフトの音が増えていく。
潮の匂いと、魚の匂いが、風に乗って薄く流れてきた。
「早瀬さん、あの」
琥珀が、紙袋を持ち直しながら言った。
「昨日、瑠璃に早瀬さんの話したんです」
「……また報告?」
「はい。色の話、したら」
琥珀は、少しだけ得意げな顔をした。
「瑠璃、しばらく黙って、それから、その人、いい人だねって」
亜美は、足を止めかけた。
「……会ったこともないのに」
「瑠璃、そういうのわかるんです。色で」
琥珀は、何でもないことのように言った。
「俺が話す声の色で、どんな人かわかるって」
亜美は、何と返していいかわからなかった。
胸の奥が、少しだけくすぐったかった。
会ったこともない、二十一歳の女の子に。
いい人だね、と言われた。
「今、何描いてるの。瑠璃ちゃん」
「空です」
琥珀の声が、少しだけ柔らかくなった。
「夜明け前の。まだ全然できてないって言ってますけど。青がすごく深くて、下のほうだけ、細く」
「琥珀色?」
亜美が言うと、琥珀は目を丸くして。
それから、嬉しそうに笑った。
「……はい」
亜美も、笑った。
声を出して。
琥珀が、ちょっとだけ照れたように頭をかいた。
「早瀬さん、最近よく笑いますね」
「そう?」
「最初の頃、エレベーターでずっと遠い目してたから」
「……それ、また言う?」
「言います。心配だったんで」
琥珀は、真っ直ぐに前を向いたまま言った。
亜美は、少しだけうつむいた。
心配だった。
インターンの子に。
来てまだ一か月の子に。
家の中では、誰にも言われない言葉だった。
大きな交差点で、信号が赤になった。
片側三車線の、広い道路。
向かい側の歩道にも、信号待ちの人たちが並んでいる。
作業着の男たち。
台車を押す市場の人。
スーツ姿の、何人かの会社員。
亜美は、ぼんやりと向かい側を眺めていた。
そのとき。
向かいの人波の中に、一人の若い男が目に入った。
黒いスーツ。
少しだけ肩が余っている。
安い、量販店の。
ネクタイが、ほんの少しだけ曲がっている。
それから、黒髪の一か所が、ぴょんと跳ねていた。
亜美は、息を止めた。
「……え」
目を細める。
距離が遠い。
車が何台も、目の前を横切っていく。
そのたびに、向かい側の人影が見え隠れする。
跳ねた寝癖。
少しだけ猫背の立ち方。
「……海音くん?」
小さく、声に出していた。
まさか。
あの子が、スーツなんて。
今日も朝から「バイト」と言って出ていった。
何のバイトかは知らない。
でも、スーツを着るようなバイトじゃないはずだ。
あの子は、寝るのが仕事で。
チャーハンを焦がして。
踵を踏みつぶしたスニーカーで出かけていく子で。
大型トラックが、目の前を轟音と一緒に通り過ぎた。
一瞬、向かい側がすっかり見えなくなる。
トラックが過ぎたあと。
さっきの場所に、その男はもういなかった。
信号が、青に変わった。
人の波が、一斉に動き出す。
「早瀬さん?」
琥珀の声で、亜美は我に返った。
「どうかしました?」
「……ううん」
亜美は、首を振った。
横断歩道を渡りながら、向かい側の人波の中を目で探した。
どこにもいなかった。
「知り合いに似てる人がいて。でも、気のせい」
「……そうですか」
琥珀は、少しだけ振り返った。
交差点の、斜め向こうの角。
市場へ続く、細い路地の入口のほうを。
「さっき、あそこから誰かこっち見てましたよ」
「え?」
「スーツの人。じっと、こっち見てた気がして」
亜美は、琥珀の視線の先を見た。
細い路地の入口には、冷凍車が一台停まっているだけだった。
誰も、いなかった。
「……気のせいだよ」
亜美は、もう一度そう言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
あの子が、スーツなんて着ているわけがない。
あの子が、こんなところにいるわけがない。
琥珀は、しばらく路地の入口を見ていた。
それから、紙袋を持ち直して、亜美の隣に戻ってきた。
「行きましょう。遅れます」
「うん」
亜美は、もう一度だけ振り返った。
冷凍車の白い荷台が、午後の光を跳ね返していた。
海音は、冷凍車の陰に立っていた。
背中を、荷台の冷たい鉄に押しつけて。
心臓が、耳の奥でうるさく鳴っていた。
インターン先の先輩と、市場の取引先を回った帰りだった。
先輩は、途中の喫煙所に寄っていった。
一人で交差点の信号を待っていた。
そうしたら。
向かい側に、亜美さんがいた。
最初は、見間違いかと思った。
会社のある場所とは、まるで違う方向だった。
でも、あのコートは知っている。
去年の冬、何度も玄関で脱いでいたベージュのコート。
肩までの髪。
少しだけ首を傾けて、人の話を聞く癖。
亜美さんだった。
隣に、男がいた。
背が高かった。
海音と、同じくらい。
年も、たぶん同じくらい。
顔も。
遠目にも、整っているのがわかった。
たぶん、自分と同じ種類の顔。
黙って立っているだけで、女の子が寄ってくる顔。
でも。
そいつは、体にぴったり合ったスーツを着ていた。
肩も余っていない。
ネクタイも曲がっていない。
髪は、きちんと撫でつけられていて、一本も跳ねていない。
背筋が、真っ直ぐに伸びていた。
片手に、亜美さんの会社の紙袋を持って。
当たり前のように。
そいつが、何か言った。
亜美さんが、笑った。
声を出して。
少しだけ上を向いて。
目を細めて。
海音は、その場から動けなかった。
あんなふうに笑う亜美さんを。
いつから、見ていないだろう。
八月の、あの夜から。
家では、一度も。
世界一、と言うと、はいはいと返してくれる。
少しだけ口元を緩めてくれる。
吹き出してくれた夜も、一度だけあった。
でも、あんなふうには。
あんな顔では。
一度も。
トラックが、目の前を通り過ぎた。
轟音と一緒に、向かい側が見えなくなった。
その一瞬で、海音は踵を返していた。
人の波をかき分けて。
市場へ続く路地の入口へ。
冷凍車の陰へ。
声は、かけられなかった。
かけられるはずがなかった。
インターンのことは、まだ誰にも言っていない。
亜美さんには、バイトだと言っている。
そして。
この、肩の余った一番安いスーツで。
曲がったネクタイで。
跳ねた寝癖で。
あの隣に、並べるわけがなかった。
海音は、冷凍車の荷台の陰から、そっと交差点を覗いた。
信号が、青に変わっていた。
人の波の中を、亜美さんが歩いていく。
隣の男と、並んで。
途中で、亜美さんが一度だけ振り返った。
こちらを。
海音は、慌てて荷台の陰に身を引いた。
心臓が、止まりそうだった。
しばらくして、もう一度覗いた。
二人の背中が、倉庫街の向こうへ小さくなっていく。
男のほうが、一度だけこちらを振り返った気がした。
真っ直ぐな目で。
海音は、荷台の鉄に背中を押しつけたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。
同い年くらいの。
同じくらいの背の。
同じ種類の顔の。
でも、何もかもが違う男。
ちゃんとしたスーツを着て。
ちゃんと背筋を伸ばして。
ちゃんと、亜美さんの隣を歩いて。
亜美さんを、笑わせていた。
たぶん、あれが。
自分が、なるはずだった男だ。
いや。
自分が、ならなきゃいけない男だ。
海音は、膝の上で拳を握りしめた。
悔しかった。
あの男に、じゃない。
自分に。
八月まで、何もしてこなかった自分に。
腹が減ったら飯を食うみたいに、どうでもいい夜を重ねてきた自分に。
亜美さんの部屋に、一線を越えさせた自分に。
あの人は、誰の隣でも笑える人なのに。
誰の隣でだって、幸せになれる人なのに。
それでも、あの部屋に、俺を置いてくれている。
早く。
海音は、奥歯を噛みしめた。
早く、一人前になりたい。
ちゃんとしたスーツを着て。
ちゃんと背筋を伸ばして。
ちゃんと、亜美さんの隣を歩ける男に。
それから。
海音は、自分の胸の中に浮かんだ言葉に、自分で驚いた。
今まで、一度も形にしたことのない言葉だった。
考えたことはあった。
でも、ちゃんとした言葉にしたことはなかった。
社会に出たら。
亜美さんと、結婚したい。
冷凍車のエンジンが、低く唸り始めた。
海音は、慌てて立ち上がった。
荷台の陰から出る。
路地の入口で、喫煙所から戻ってきた先輩が手を振っていた。
「高梨、どこ行ってた」
「……すみません」
海音は、曲がったネクタイを指で直した。
うまく直らなかった。
その夜。
海音が部屋に帰ったのは、八時過ぎだった。
「……ただいま」
「おかえり」
キッチンから、亜美の声が返ってきた。
リビングに入ると、テーブルの上に夕飯が並んでいた。
鯖の味噌煮。
ほうれん草のおひたし。
豆腐とわかめの味噌汁。
海音は、パーカーの袖を捲りながらテーブルについた。
スーツは、駅のトイレで着替えて、リュックに押し込んできた。
亜美さんが先に帰っている日は、いつもそうしている。
明日の朝、亜美さんが出かけたあとで、クローゼットの奥のコートの後ろに戻しておく。
「いただきます」
「いただきます」
二人で、箸を持った。
鯖の味噌煮は、甘辛くて、柔らかかった。
「……世界一」
「はいはい」
亜美が、少しだけ口元を緩めた。
それだけだった。
交差点の向こうで見た、あの笑い方じゃなかった。
「そういえば」
亜美が、味噌汁の椀を持ちながら言った。
「今日、外回りで市場のほう行ったんだけどね」
海音の箸が、止まった。
「海音くんに、すごく似てる人見た」
海音は、鯖の身をほぐすふりをしてうつむいた。
「……へえ」
「信号の向こう側でね。寝癖まで、そっくりだった」
亜美は、少しだけ笑った。
「でも、スーツ着てたから。違うなって」
海音の喉の奥で、何かが詰まった。
亜美は、味噌汁をすすって続けた。
「海音くんがスーツとか、ないもんね」
冗談めかした、軽い声だった。
海音は、顔を上げられなかった。
箸を持ったまま。
鯖の味噌煮を見つめたまま。
「……ないでしょ」
ようやく、声が出た。
いつもの、気だるげな声を作って。
「俺がスーツとか。ありえない」
「だよね」
亜美は、何も気づかずに箸を動かした。
海音は、味噌汁の椀を持ち上げた。
口をつける。
熱かった。
熱くて、少しだけしょっぱかった。
「隣にいた人は?」
気づいたら、訊いていた。
訊くつもりはなかった。
亜美が、きょとんとした顔で海音を見た。
「……え?」
「その、外回り。一人じゃないでしょ」
「ああ」
亜美は、少しだけ笑った。
「インターンの子。今、指導係やってるの。大学三年生」
大学三年。
同い年。
「彼女に毎晩報告してるんだって。今日こういうことがあったって、全部。連絡先訊かれて断ったことまで」
亜美は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「すごいよね。同い年なのに」
同い年なのに。
その言葉が、海音の胸の真ん中に、音もなく落ちた。
亜美は、それ以上何も言わなかった。
ほうれん草のおひたしに、箸を伸ばしていた。
海音は、何も言い返せなかった。
言い返す言葉を、何一つ持っていなかった。
夜中。
亜美が寝室に入ったあと、海音はソファの上で起き上がった。
眠れなかった。
リュックの中から、一枚の紙を取り出した。
インターン先で配られた、エントリーシートの練習用の用紙。
来年の本選考に向けて、書いておくようにと言われていた。
氏名。
学部。
自己PR。
そこまでは、先週書いた。
志望動機の欄だけが、真っ白だった。
海音は、鉛筆を持った。
ローテーブルの上に用紙を置いて。
しばらく、その白い欄を見つめていた。
ちゃんとしたスーツ。
真っ直ぐな背筋。
亜美さんの会社の紙袋。
交差点の向こうで、声を出して笑っていた顔。
同い年なのに。
海音は、鉛筆を置いた。
まだ、書けなかった。
一番の理由は、まだ、紙の上に書けるほどの形になっていなかった。
でも。
胸の中には、もうはっきりとあった。
交差点の冷凍車の陰で、初めて言葉になったもの。
海音は、用紙を丁寧に畳んで、リュックの内ポケットにしまった。
それから、寝室の扉のほうを見た。
ぴったりと、閉まっている。
八月から、ずっと。
海音は、ソファに横になった。
毛布を、頭まで被る。
目を閉じる。
瞼の裏に、交差点の向こうの笑顔が浮かんだ。
いつか。
あの顔を、自分の隣で。
海音は、毛布の中で拳を握りしめた。
寝るのが仕事。
そう言い張ってきた。
でも、今夜は、少しも眠れそうになかった。



