意識が浮かび上がるにつれ、木の葉が触れ合う音が耳に戻ってきた。
桜来は重い瞼を開いた。見慣れない木組みの天井が、ぼやけた視界に映る。
遠く感じられていた話し声が次第に輪郭を持ち、桜来は自分が横たわっていることに気づいた。
身体を起こそうとすると、視界が揺れ、力の入らない腕が寝具へと沈み込んだ。
掌には布が巻かれていた。わずかな鈍い痛みとともに、指先まで脈打つ感覚が残っている。
身体の奥に重い倦怠感が残っていた。
「桜来、大丈夫? どこか苦しいところはない?」
傍らにはムクが座り、桜来の顔を覗き込んでいた。
ムクの声を聞いた途端、砕けた楔と、崩れ落ちた守護獣の姿が蘇った。
白い花を見届けたところで、桜来の記憶は途切れている。
「守護獣は無事ですか? 長老様と森の皆さんは?」
桜来はムクの肩越しに室内を見回した。
ムクは桜来が起き上がろうとするのを見て、慌てて身を寄せた。
「守護獣は元の姿に戻ったよ。森も、少しずつ元気になってる」
安堵した途端、押し隠していた身体の重さが戻ってきた。
全身に残る倦怠感がいっそう明確になり、桜来は小さく息を吐いた。
「それは良かった」
「だから、桜来はまだ休んでいてね」
「いいえ、私はもう大丈夫です」
桜来はめまいを悟られまいと背筋を伸ばしたが、焦点が定まるまでに時間がかかった。
長老と話していたハクが立ち上がり、桜来の前まで歩み寄った。
「動くな」
ハクは桜来の顔色を確かめると、次いで淡い青の瞳を布の巻かれた掌へ向けた。
「ですが森の様子を……」
桜来はおそるおそる答えたが、ハクの眉間には、消えない皺が刻まれていた。
「その前にそなたに話がある」
ハクは桜来の傍らに腰を下ろし、胡座をかいた。
「なんでございましょうか?」
桜来は姿勢を正した。
「そなたは、なぜ結果も分からぬ力を使った?」
「あのままでは、守護獣も御神木も保ちませんでした。ほかに止める方法がなかったのです」
「他者を救うためなら、自分が死んでも構わぬというのか?」
「死んでも構わないなどとは思っておりません」
「救えたという結果で、自分の命を粗末にしたことまで正当化するな」
「命を粗末にしたつもりはございません。傷も最小限でした」
「最小限?」
「はい」
「その最小限の血を失ったことで、そなたの身体に影響が出た」
反論しようとしたところで、再び視界が揺れた。
巻かれた掌には痛みが残り、身体は座っているだけでも重い。
傷は最小限にとどめたつもりだった。だが、それでも血を失うことで自身の身体にこれほどの負担が残ることは知らなかった。
「……はい。おっしゃるとおりです」
桜来は包帯の巻かれた掌を膝の上にそっと置いた。
「二度とそなたの血を勝手に使うな。必要なら、先に我へ話せ」
「ハク様に話すのですか?」
「二度と使うなと我が言っても、そなたは聞かぬだろう? ならば決定権の半分を我が預かったほうが話は早い」
思いがけない言い方に、桜来の指が膝の上で止まった。
ハクの視線が、包帯の巻かれた桜来の掌に落ちる。
決められたことに従うのではなく、自分の判断を他者に伝えて共に考える。桜来には馴染みのない方法だった。
「ですが、私の血でございます」
「そなたは我に供えられた贄だ」
不意に突きつけられた現実に、桜来は呼吸が止まった。
ハクに贄として受け入れることを拒絶されたとはいえ、桜来がその目的で神殿へ送られたことに違いはない。
「違うか?」
ハクは冷淡な表情を崩さず、桜来の答えを待っていた。
「そのとおりでございます」
「そうであろう?」
「はい。今後は、私ひとりで判断いたしません。必要なときは、ハク様と危険を確認します」
桜来は顔を上げ、ハクの目を見て答えた。
「その言葉を忘れるなよ?」
ハクは桜来の返答を聞いても、厳しい表情を崩さなかった。
「はい」
「それから……」
「まだなにかあるのですか?」
まだ叱責が続くのかと、桜来の眉がわずかに寄った。
桜来はすでに自分の非を認め、約束もした。これ以上なにを言われるのだろう。自然と警戒心が高まった。
「これまで、そなたは我の捧げられた贄だった」
「はい」
「だがこれからは、もう贄を名乗るな」
「……えっ?」
予想していた叱責とは異なる言葉に、桜来は目を見開いた。
先ほど贄だと言ったばかりではなかったか。いや、生贄でなければ、自分がこの神の傍にいる理由はなんだろうか。
そもそも雪代家から与えられた役目を失えば、自分の立場を示す言葉がなくなってしまう。
「勝手な行動をしないと約束するなら、そなたを協力者だと認める」
「贄ではなく協力者……ですか?」
「そなたの薬草の知識は役に立つ」
桜来は自分の耳を疑うように、ハクを見つめた。
「薬草の知識が……」
雪代家では評価されなかったものを、ハクは役に立つと言った。
森を救った結果ではなく、自分が積み重ねてきた知識そのものを認められた気がした。
「どうするのだ?」
ハクはそれ以上説明せず、掌を上に向けて桜来の前に伸ばした。
桜来は差し出された手とハクの顔を交互に見た。
「どうする、とは……?」
「協力者として我に同行するか、雪代の屋敷に戻るか」
桜来に、雪代の屋敷へ戻るという選択肢はなかった。ならば、答えはひとつしかない。
「協力者としてハク様のお側に仕えさせてください」
桜来は差し出されたハクの手を握った。
彼の手は白く、熱を持っていないかのようだったが、実際に触れてみると桜来の手よりも熱かった。
桜来は重い瞼を開いた。見慣れない木組みの天井が、ぼやけた視界に映る。
遠く感じられていた話し声が次第に輪郭を持ち、桜来は自分が横たわっていることに気づいた。
身体を起こそうとすると、視界が揺れ、力の入らない腕が寝具へと沈み込んだ。
掌には布が巻かれていた。わずかな鈍い痛みとともに、指先まで脈打つ感覚が残っている。
身体の奥に重い倦怠感が残っていた。
「桜来、大丈夫? どこか苦しいところはない?」
傍らにはムクが座り、桜来の顔を覗き込んでいた。
ムクの声を聞いた途端、砕けた楔と、崩れ落ちた守護獣の姿が蘇った。
白い花を見届けたところで、桜来の記憶は途切れている。
「守護獣は無事ですか? 長老様と森の皆さんは?」
桜来はムクの肩越しに室内を見回した。
ムクは桜来が起き上がろうとするのを見て、慌てて身を寄せた。
「守護獣は元の姿に戻ったよ。森も、少しずつ元気になってる」
安堵した途端、押し隠していた身体の重さが戻ってきた。
全身に残る倦怠感がいっそう明確になり、桜来は小さく息を吐いた。
「それは良かった」
「だから、桜来はまだ休んでいてね」
「いいえ、私はもう大丈夫です」
桜来はめまいを悟られまいと背筋を伸ばしたが、焦点が定まるまでに時間がかかった。
長老と話していたハクが立ち上がり、桜来の前まで歩み寄った。
「動くな」
ハクは桜来の顔色を確かめると、次いで淡い青の瞳を布の巻かれた掌へ向けた。
「ですが森の様子を……」
桜来はおそるおそる答えたが、ハクの眉間には、消えない皺が刻まれていた。
「その前にそなたに話がある」
ハクは桜来の傍らに腰を下ろし、胡座をかいた。
「なんでございましょうか?」
桜来は姿勢を正した。
「そなたは、なぜ結果も分からぬ力を使った?」
「あのままでは、守護獣も御神木も保ちませんでした。ほかに止める方法がなかったのです」
「他者を救うためなら、自分が死んでも構わぬというのか?」
「死んでも構わないなどとは思っておりません」
「救えたという結果で、自分の命を粗末にしたことまで正当化するな」
「命を粗末にしたつもりはございません。傷も最小限でした」
「最小限?」
「はい」
「その最小限の血を失ったことで、そなたの身体に影響が出た」
反論しようとしたところで、再び視界が揺れた。
巻かれた掌には痛みが残り、身体は座っているだけでも重い。
傷は最小限にとどめたつもりだった。だが、それでも血を失うことで自身の身体にこれほどの負担が残ることは知らなかった。
「……はい。おっしゃるとおりです」
桜来は包帯の巻かれた掌を膝の上にそっと置いた。
「二度とそなたの血を勝手に使うな。必要なら、先に我へ話せ」
「ハク様に話すのですか?」
「二度と使うなと我が言っても、そなたは聞かぬだろう? ならば決定権の半分を我が預かったほうが話は早い」
思いがけない言い方に、桜来の指が膝の上で止まった。
ハクの視線が、包帯の巻かれた桜来の掌に落ちる。
決められたことに従うのではなく、自分の判断を他者に伝えて共に考える。桜来には馴染みのない方法だった。
「ですが、私の血でございます」
「そなたは我に供えられた贄だ」
不意に突きつけられた現実に、桜来は呼吸が止まった。
ハクに贄として受け入れることを拒絶されたとはいえ、桜来がその目的で神殿へ送られたことに違いはない。
「違うか?」
ハクは冷淡な表情を崩さず、桜来の答えを待っていた。
「そのとおりでございます」
「そうであろう?」
「はい。今後は、私ひとりで判断いたしません。必要なときは、ハク様と危険を確認します」
桜来は顔を上げ、ハクの目を見て答えた。
「その言葉を忘れるなよ?」
ハクは桜来の返答を聞いても、厳しい表情を崩さなかった。
「はい」
「それから……」
「まだなにかあるのですか?」
まだ叱責が続くのかと、桜来の眉がわずかに寄った。
桜来はすでに自分の非を認め、約束もした。これ以上なにを言われるのだろう。自然と警戒心が高まった。
「これまで、そなたは我の捧げられた贄だった」
「はい」
「だがこれからは、もう贄を名乗るな」
「……えっ?」
予想していた叱責とは異なる言葉に、桜来は目を見開いた。
先ほど贄だと言ったばかりではなかったか。いや、生贄でなければ、自分がこの神の傍にいる理由はなんだろうか。
そもそも雪代家から与えられた役目を失えば、自分の立場を示す言葉がなくなってしまう。
「勝手な行動をしないと約束するなら、そなたを協力者だと認める」
「贄ではなく協力者……ですか?」
「そなたの薬草の知識は役に立つ」
桜来は自分の耳を疑うように、ハクを見つめた。
「薬草の知識が……」
雪代家では評価されなかったものを、ハクは役に立つと言った。
森を救った結果ではなく、自分が積み重ねてきた知識そのものを認められた気がした。
「どうするのだ?」
ハクはそれ以上説明せず、掌を上に向けて桜来の前に伸ばした。
桜来は差し出された手とハクの顔を交互に見た。
「どうする、とは……?」
「協力者として我に同行するか、雪代の屋敷に戻るか」
桜来に、雪代の屋敷へ戻るという選択肢はなかった。ならば、答えはひとつしかない。
「協力者としてハク様のお側に仕えさせてください」
桜来は差し出されたハクの手を握った。
彼の手は白く、熱を持っていないかのようだったが、実際に触れてみると桜来の手よりも熱かった。
