「白狼神の力を吸うための楔なら、あやかしの力であれば砕けるかもしれぬ」
「やめろ。力の違いなど関係ない」
「試さずに森を見捨てることはできぬ」
「長老様、お待ちください。まずは――」
「お主は下がっていなさい」
長老が放った力は地面を伝い、御神木の根元から楔へ突き上がった。
衝撃も音も生じないまま、長老の力だけが黒い楔へ飲み込まれた。
力を放った長老の身体がわずかによろめき、雪を踏み直した。
「消えちゃった……」
「楔に吸収されています」
長老は力を失った自らの手を見下ろした。
「我の力まで糧にするのか」
「言ったはずだ」
「それでも、なにもせずにはいられなかった」
「長老様を責めることはできません。ですが、今は別の方法を探しましょう」
「そなたは楔へ近づくな」
「蔓を切るだけです。楔本体には触れません」
「同じことだ」
「力を放つのではなく、物理的に切断します。反応を見る価値はあります」
桜来は薬草入れから小刀を取り出し、楔から離れた位置に絡む蔓へ刃を当てた。
柄を握る手を布で覆い、桜来は楔へ触れないよう蔓だけを刃先ですくう。
蔓は見た目より硬く、刃を押す指先へ生木を断つような抵抗が返った。
切断面から黒い液がにじみ、焦げた薬草に似た匂いが立った。
「切れた!」
長老は切断された蔓を指した。
「いや、見ろ」
二つに分かれた切断面から細い筋が伸び、互いを探すように絡み合った。
「もう再生しています」
「無駄だ」
「蔓は再生しても、切断することはできます。少しの刻であれば楔の周囲を調べる時間は作れます」
長老の視線が、桜来の小刀から黒い楔へ移った。
「楔そのものはどうだ」
「刃を当ててみます」
桜来は小刀の柄を握ったまま、刃先だけを楔の表面に近づけた。
背後で雪を踏む音がし、ハクが距離を詰めた気配がした。
「待て」
制止が届くより早く、小刀の刃先が楔の表面を擦った。
金属同士を擦るような高い音だけが残る。
桜来は結果を確かめると、すぐに小刀を楔から離した。
「……傷ひとつつきません」
「当たり前だ。人の刃で砕けるものなら、とうに我が壊している」
「神力も、あやかしの力も、刃も通じない。では、これは力で壊すことを想定した術ではないのかもしれません」
桜来は小刀を収め、楔の周囲から御神木の根元に視線を移した。御神木の根元には、黒い蔓の下からわずかに古い刻印がのぞいている。
「御神木の根元に、なにかが刻まれています」
長老も桜来のそばから刻印をのぞき込んだ。
「これは我らの文字ではない」
「雪代家で使われている術式とも異なります」
「古い神代の文字だ」
「ハク様は、読めますか?」
「すべては読めぬ。穢れに削られている」
「残っている部分だけでも構いません」
「……『捧げる』」
長老が刻印へ目を凝らした。
「なにを捧げるのだ?」
「分からない。この前後は消えている」
桜来は残された刻印を目で追った。
「ほかには?」
「『意志』。そして、『解く』」
「捧げる意志があれば、楔を解けるってこと?」
「そう単純なものではないはずだ」
「ですが、三つの言葉は無関係ではないはずです」
桜来が文字を確かめようと身を寄せた瞬間、楔の表面が大きく膨らんだ。その振動が雪を通して桜来の足裏に伝わった。
「今、動いたよ」
「楔が白狼神に反応しておるのか?」
「いや、違う」
「もしかして、私が近づいたから……」
「下がれ」
「確かめてみます」
桜来が再び一歩踏み出すより先に、ハクが楔との間へ入った。
「必要ない」
「楔が私のなにかに反応したのであれば、それについて調べなければなりません」
「お前が調べる必要はない」
「ですが、ほかに反応を示した者はいません」
「だからこそだ」
「もしかしたら、血ではございませんか?」
「……血?」
「はい。以前、玄斎殿によって私の血が流されたとき、封印にはなんの変化も起きませんでした」
「ああ」
「ですが、ムクを助けようとしたときには、私の血が穢れに作用しました」
傷の痛みよりも、ムクを助けなければならないという思いの方が強かったことを覚えている。
血が流れたという事実だけなら、玄斎に傷つけられたときと変わらない。異なっていたのは、桜来自身がなにを望んでいたかだ。二つの出来事を分けるものが、古い文字の示す「意志」である可能性が胸の内に形を持ち始めた。
「あのとき、黒いのが桜来の血から逃げたよ」
長老は確かめるように桜来へ顔を向けた。
「同じ血でありながら、働くときと働かぬときがあるのか」
「違いがあるとすれば、血が流れた理由です」
淡い青の目が細まり、桜来の次の言葉を拒むように留まった。
「……それ以上は……」
「玄斎殿に傷つけられたとき、私に血を捧げる意思はありませんでした」
桜来の推測を引き継ぐように、長老が口を開いた。
「ムクを救ったときには、そなた自身が望んでいたと言いたいのだな」
「はい。古い文字が示す『意志』とは、そのことではないでしょうか」
「それはあくまでも推測にすぎぬ」
「確かにそのとおりでございます。ですが確かめる価値はあります」
「必要ない」
「ハク様」
ハクは桜来と楔の間から動かなかった。
桜来はハクを見上げた。
「楔へ触れることは許さぬ」
「まだ、触れるとは申しておりません」
「だがお前はそれを考えている」
「……否定はいたしません」
「自らを傷つけることも許さぬ」
「楔を解かなければ、森は失われます」
「だから、お前が血を流すのか?」
「私の血で救える可能性があるのなら――」
「可能性だけで命を差し出すな」
予想していなかった言葉が、桜来の胸の内へ強く触れた。
生贄として差し出された自分へ、命を差し出すなと言う者がいる。その事実を、桜来はすぐには受け止めきれなかった。
「命を簡単に差し出すつもりはありません」
「お前はそう言って、限界まで退かぬ」
「ですがなにも試さずに諦めることはできません」
「ならば、別の方法を探せ。楔には触れるな」
「……分かりました。まずは他の方法を探します」
桜来は可能性を胸の内へ残し、今は別の道を探すことを選んだ。
桜来が一歩退いたのを確かめても、ハクはすぐには楔との間を空けなかった。
その直後、楔が御神木の幹を揺らすほど激しく脈打った。低い振動が地中へ走り、周囲に広がっていた黒い根が一斉に動きを変える。
「待って。地面の下から、なにか来るよ」
地鳴りが足元を揺らし、枝に積もっていた雪が一斉に落ちた。
「全員、御神木から離れろ!」
長老が御神木から飛び退き、ムクを連れて黒い根の届かない側へと移った。
「我の後ろへ」
桜来が後退するより先に、ハクが楔との間へ身体を入れた。
「黒い根が集まっています」
地中から集まった根が絡み合い、四本の太い脚を形作っていった。
さらに無数の根が幾重にも束となり、巨大な胴と首、鋭い爪を備えた獣の輪郭を作り上げていく。
黒い塊から放たれる穢れが冷気を押し返し、肌を刺す圧力となって届いた。
「獣みたいになってる……」
守護獣が巨体を起こすと、黒い根に覆われた胸元があらわになった。その中央には、雪の結晶に似た白い紋章だけが、穢れに染まらず残っている。
長老はその印を見た瞬間、息を呑んだ。
「まさか、その胸の印は……」
「ご存じなのですか?」
「森の守り手だ……」
「あれが?」
「間違いない。あれは森の守護獣だ。楔は、我らの守り手まで奪ったのか」
「では、あの守護獣も楔の被害者なのですね」
ハクは守護獣の動きを見据えたまま答えた。
「ああ。だが、こちらを敵と認識している」
「倒すのではなく、楔の支配から解く方法を――」
守護獣の顔に二つの濁った光が灯り、ハクの背後にいる桜来を捉えた。
「考えるのは後だ。来るぞ」
ハクが桜来を完全に背へ隠すように立ち位置を変えた。
森の空気を押し潰す咆哮が放たれ、桜来の衣と髪を激しく揺らした。
「やめろ。力の違いなど関係ない」
「試さずに森を見捨てることはできぬ」
「長老様、お待ちください。まずは――」
「お主は下がっていなさい」
長老が放った力は地面を伝い、御神木の根元から楔へ突き上がった。
衝撃も音も生じないまま、長老の力だけが黒い楔へ飲み込まれた。
力を放った長老の身体がわずかによろめき、雪を踏み直した。
「消えちゃった……」
「楔に吸収されています」
長老は力を失った自らの手を見下ろした。
「我の力まで糧にするのか」
「言ったはずだ」
「それでも、なにもせずにはいられなかった」
「長老様を責めることはできません。ですが、今は別の方法を探しましょう」
「そなたは楔へ近づくな」
「蔓を切るだけです。楔本体には触れません」
「同じことだ」
「力を放つのではなく、物理的に切断します。反応を見る価値はあります」
桜来は薬草入れから小刀を取り出し、楔から離れた位置に絡む蔓へ刃を当てた。
柄を握る手を布で覆い、桜来は楔へ触れないよう蔓だけを刃先ですくう。
蔓は見た目より硬く、刃を押す指先へ生木を断つような抵抗が返った。
切断面から黒い液がにじみ、焦げた薬草に似た匂いが立った。
「切れた!」
長老は切断された蔓を指した。
「いや、見ろ」
二つに分かれた切断面から細い筋が伸び、互いを探すように絡み合った。
「もう再生しています」
「無駄だ」
「蔓は再生しても、切断することはできます。少しの刻であれば楔の周囲を調べる時間は作れます」
長老の視線が、桜来の小刀から黒い楔へ移った。
「楔そのものはどうだ」
「刃を当ててみます」
桜来は小刀の柄を握ったまま、刃先だけを楔の表面に近づけた。
背後で雪を踏む音がし、ハクが距離を詰めた気配がした。
「待て」
制止が届くより早く、小刀の刃先が楔の表面を擦った。
金属同士を擦るような高い音だけが残る。
桜来は結果を確かめると、すぐに小刀を楔から離した。
「……傷ひとつつきません」
「当たり前だ。人の刃で砕けるものなら、とうに我が壊している」
「神力も、あやかしの力も、刃も通じない。では、これは力で壊すことを想定した術ではないのかもしれません」
桜来は小刀を収め、楔の周囲から御神木の根元に視線を移した。御神木の根元には、黒い蔓の下からわずかに古い刻印がのぞいている。
「御神木の根元に、なにかが刻まれています」
長老も桜来のそばから刻印をのぞき込んだ。
「これは我らの文字ではない」
「雪代家で使われている術式とも異なります」
「古い神代の文字だ」
「ハク様は、読めますか?」
「すべては読めぬ。穢れに削られている」
「残っている部分だけでも構いません」
「……『捧げる』」
長老が刻印へ目を凝らした。
「なにを捧げるのだ?」
「分からない。この前後は消えている」
桜来は残された刻印を目で追った。
「ほかには?」
「『意志』。そして、『解く』」
「捧げる意志があれば、楔を解けるってこと?」
「そう単純なものではないはずだ」
「ですが、三つの言葉は無関係ではないはずです」
桜来が文字を確かめようと身を寄せた瞬間、楔の表面が大きく膨らんだ。その振動が雪を通して桜来の足裏に伝わった。
「今、動いたよ」
「楔が白狼神に反応しておるのか?」
「いや、違う」
「もしかして、私が近づいたから……」
「下がれ」
「確かめてみます」
桜来が再び一歩踏み出すより先に、ハクが楔との間へ入った。
「必要ない」
「楔が私のなにかに反応したのであれば、それについて調べなければなりません」
「お前が調べる必要はない」
「ですが、ほかに反応を示した者はいません」
「だからこそだ」
「もしかしたら、血ではございませんか?」
「……血?」
「はい。以前、玄斎殿によって私の血が流されたとき、封印にはなんの変化も起きませんでした」
「ああ」
「ですが、ムクを助けようとしたときには、私の血が穢れに作用しました」
傷の痛みよりも、ムクを助けなければならないという思いの方が強かったことを覚えている。
血が流れたという事実だけなら、玄斎に傷つけられたときと変わらない。異なっていたのは、桜来自身がなにを望んでいたかだ。二つの出来事を分けるものが、古い文字の示す「意志」である可能性が胸の内に形を持ち始めた。
「あのとき、黒いのが桜来の血から逃げたよ」
長老は確かめるように桜来へ顔を向けた。
「同じ血でありながら、働くときと働かぬときがあるのか」
「違いがあるとすれば、血が流れた理由です」
淡い青の目が細まり、桜来の次の言葉を拒むように留まった。
「……それ以上は……」
「玄斎殿に傷つけられたとき、私に血を捧げる意思はありませんでした」
桜来の推測を引き継ぐように、長老が口を開いた。
「ムクを救ったときには、そなた自身が望んでいたと言いたいのだな」
「はい。古い文字が示す『意志』とは、そのことではないでしょうか」
「それはあくまでも推測にすぎぬ」
「確かにそのとおりでございます。ですが確かめる価値はあります」
「必要ない」
「ハク様」
ハクは桜来と楔の間から動かなかった。
桜来はハクを見上げた。
「楔へ触れることは許さぬ」
「まだ、触れるとは申しておりません」
「だがお前はそれを考えている」
「……否定はいたしません」
「自らを傷つけることも許さぬ」
「楔を解かなければ、森は失われます」
「だから、お前が血を流すのか?」
「私の血で救える可能性があるのなら――」
「可能性だけで命を差し出すな」
予想していなかった言葉が、桜来の胸の内へ強く触れた。
生贄として差し出された自分へ、命を差し出すなと言う者がいる。その事実を、桜来はすぐには受け止めきれなかった。
「命を簡単に差し出すつもりはありません」
「お前はそう言って、限界まで退かぬ」
「ですがなにも試さずに諦めることはできません」
「ならば、別の方法を探せ。楔には触れるな」
「……分かりました。まずは他の方法を探します」
桜来は可能性を胸の内へ残し、今は別の道を探すことを選んだ。
桜来が一歩退いたのを確かめても、ハクはすぐには楔との間を空けなかった。
その直後、楔が御神木の幹を揺らすほど激しく脈打った。低い振動が地中へ走り、周囲に広がっていた黒い根が一斉に動きを変える。
「待って。地面の下から、なにか来るよ」
地鳴りが足元を揺らし、枝に積もっていた雪が一斉に落ちた。
「全員、御神木から離れろ!」
長老が御神木から飛び退き、ムクを連れて黒い根の届かない側へと移った。
「我の後ろへ」
桜来が後退するより先に、ハクが楔との間へ身体を入れた。
「黒い根が集まっています」
地中から集まった根が絡み合い、四本の太い脚を形作っていった。
さらに無数の根が幾重にも束となり、巨大な胴と首、鋭い爪を備えた獣の輪郭を作り上げていく。
黒い塊から放たれる穢れが冷気を押し返し、肌を刺す圧力となって届いた。
「獣みたいになってる……」
守護獣が巨体を起こすと、黒い根に覆われた胸元があらわになった。その中央には、雪の結晶に似た白い紋章だけが、穢れに染まらず残っている。
長老はその印を見た瞬間、息を呑んだ。
「まさか、その胸の印は……」
「ご存じなのですか?」
「森の守り手だ……」
「あれが?」
「間違いない。あれは森の守護獣だ。楔は、我らの守り手まで奪ったのか」
「では、あの守護獣も楔の被害者なのですね」
ハクは守護獣の動きを見据えたまま答えた。
「ああ。だが、こちらを敵と認識している」
「倒すのではなく、楔の支配から解く方法を――」
守護獣の顔に二つの濁った光が灯り、ハクの背後にいる桜来を捉えた。
「考えるのは後だ。来るぞ」
ハクが桜来を完全に背へ隠すように立ち位置を変えた。
森の空気を押し潰す咆哮が放たれ、桜来の衣と髪を激しく揺らした。
