その日の朝は、いつもと何も変わらなかった。
窓の外では蝉が鳴いていた。
夏休みが明けて、まだ数日しか経っていない。
教室には、休み明け特有の気だるさが残っていた。
「眠い……」
「昨日何時まで起きてたんだよ」
「二時」
「馬鹿じゃん」
そんなくだらない会話が、教室のあちこちで飛び交っている。
朝宮太陽も、その中にいた。
「太陽、これ見てみろよ」
前の席からスマートフォンを差し出される。
「何?」
「今度、流星群あるらしい」
「流星群?」
画面には、夜空の写真とニュース記事が表示されていた。
「今週だって。結構見えるらしいぞ」
「へえ」
「七日後くらい」
「そんな先?」
「すぐだろ」
「そうか?」
太陽は画面を眺めた。
星がいくつも流れている。
綺麗だとは思う。
でも、それだけだった。
「どこで見るんだよ」
「海の方とか?」
「じゃあ見に行こうぜ」
「夜に?」
「当たり前だろ」
「面倒くさ」
太陽が笑う。
友人も笑う。
それだけの話だった。
数分後には、別の話題に変わっていた。
太陽も、流星群のことなどすっかり忘れていた。
少なくとも、そのときは。
◇
一時間目。
先生の声が教室に響く。
黒板に書かれる文字。
窓から差し込む白い光。
太陽は頬杖をつきながら、ぼんやりと外を眺めていた。
雲の少ない空だった。
今日も暑くなりそうだ。
そんなことを考えているうちに、先生が黒板を叩いた。
「朝宮」
「はい?」
「聞いているか?」
「聞いてます」
「なら、この問題を」
「……」
教室から笑い声が漏れる。
太陽は苦笑しながら立ち上がった。
いつも通りの授業。
いつも通りの一日。
その中に、特別なことなんて何もなかった。
◇
放課後。
終礼が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
「太陽、駅まで行こうぜ」
「ごめん。今日は先帰る」
「珍し」
「なんとなく」
「じゃあまた明日」
「おう」
友人と別れ、太陽は一人で校門を出た。
夕方の空は、昼間よりも少しだけ柔らかい色をしていた。
家に帰るだけ。
いつもの道を歩いて。
いつもの一日を終える。
そのはずだった。
けれど。
途中で、太陽は足を止めた。
海へ続く坂道が見えた。
普段なら通らない道だった。
「……こっち、行ってみるか」
理由はない。
本当に、ただの気まぐれだった。
坂道を上る。
蝉の声が少しずつ遠くなっていく。
代わりに、潮の匂いが強くなる。
やがて、木々の向こうに海が見えた。
その先に、小さな展望台があった。
古びた階段。
錆びた手すり。
長い間、誰にも使われていないような場所だった。
「こんなところあったんだな……」
太陽は階段を上る。
一段。
また一段。
そして、最後の階段を上ったところで――
人がいた。
一人の少女。
海に背を向け、空を見上げている。
風に黒い髪が揺れていた。
太陽は思わず足を止める。
同じ制服。
けれど、誰なのかは分からない。
少女も、こちらには気づいていない。
太陽はしばらく、その場に立っていた。
帰ろうかとも思った。
でも、なぜか動けなかった。
やがて、少女が振り返った。
目が合う。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
先に口を開いたのは少女だった。
「……誰?」
「いや、それ俺の台詞なんだけど」
少女が少しだけ目を細める。
太陽は苦笑した。
「ごめん。俺、ここに人がいると思わなくて」
「私も」
「……え?」
「人が来ると思ってなかった」
淡々とした言葉。
けれど、嫌な感じはしなかった。
太陽は少し離れた場所に立った。
「ここ、よく来るの?」
「たまに」
「へえ」
会話が途切れる。
波の音だけが聞こえる。
夕暮れの海は、静かだった。
太陽は何となく空を見上げた。
「何見てたの?」
「空」
「……星?」
「まだ出てないけど」
「うん」
少女は頷いた。
「だから待ってる」
「星を?」
「うん」
太陽は少しだけ笑った。
「気が早くない?」
「そうかも」
少女の口元が、ほんの少しだけ緩む。
その表情を見て、太陽はなぜか言葉を失った。
笑うんだ。
そんなことを思った。
でも、理由は分からない。
「……そういえば」
太陽は彼女の制服を見る。
「同じ学校だよね?」
「うん」
「何年?」
「二年」
「俺も」
そこで初めて、太陽は気づいた。
見覚えがある。
教室の中で、何度か見たことがある。
けれど、それだけだった。
「……もしかして、同じクラス?」
「そうだと思う」
「思うって」
「まだちゃんと覚えてないから」
「俺も覚えてない」
二人とも、少しだけ笑った。
それが、初めてだった。
同じ教室にいたのに。
同じ授業を受けていたのに。
今日まで、一度も話したことがなかった。
「名前は?」
「宵月雫」
「宵月……」
「うん」
「俺は朝宮太陽」
「聞いたことある」
「知ってたの?」
「先生が呼んでたから」
「ああ……」
それだけだった。
それ以上、特別なことは話さなかった。
好きな物も。
嫌いな物も。
家族のことも。
何も知らない。
ただ、初めて名前を知った。
それだけ。
◇
帰る時間になった。
太陽は階段へ向かいながら、ふと思い出した。
「そういえば」
「何?」
「今日、学校で流星群の話してた」
雫の動きが、ほんの少し止まった。
「……流星群?」
「うん。七日後くらいに見えるらしい」
「そうなんだ」
雫は空を見上げる。
太陽もつられて見上げた。
夕暮れの色が、もうほとんど消えかけている。
「見に来る?」
何気なく聞いた。
雫は少し考えた。
「……分からない」
「そっか」
「でも」
雫が言葉を続ける。
「多分、来ると思う」
「じゃあ、俺も来ようかな」
「朝宮くんも?」
「うん」
「どうして?」
「なんとなく」
雫は少しだけ笑った。
「……そっか」
二人は展望台を後にした。
途中で別れた。
「じゃあ、また」
「うん。また」
それだけ。
太陽は坂道を下りていく。
しばらく歩いてから、一度だけ振り返った。
展望台は、木々の向こうに隠れて見えなくなっていた。
太陽はそのまま前を向いた。
まだ、何も始まっていない。
今日初めて話した。
名前を知った。
少しだけ言葉を交わした。
それだけだった。
けれど――
◇
夜。
雫は一人、展望台に残っていた。
空には、星がいくつか浮かんでいる。
海から吹く風に髪を揺らしながら、雫は静かに空を見上げた。
そして、小さく呟く。
「……あと七日」
誰に聞かせるでもなく。
その言葉だけが、夜の海へ溶けていった。
窓の外では蝉が鳴いていた。
夏休みが明けて、まだ数日しか経っていない。
教室には、休み明け特有の気だるさが残っていた。
「眠い……」
「昨日何時まで起きてたんだよ」
「二時」
「馬鹿じゃん」
そんなくだらない会話が、教室のあちこちで飛び交っている。
朝宮太陽も、その中にいた。
「太陽、これ見てみろよ」
前の席からスマートフォンを差し出される。
「何?」
「今度、流星群あるらしい」
「流星群?」
画面には、夜空の写真とニュース記事が表示されていた。
「今週だって。結構見えるらしいぞ」
「へえ」
「七日後くらい」
「そんな先?」
「すぐだろ」
「そうか?」
太陽は画面を眺めた。
星がいくつも流れている。
綺麗だとは思う。
でも、それだけだった。
「どこで見るんだよ」
「海の方とか?」
「じゃあ見に行こうぜ」
「夜に?」
「当たり前だろ」
「面倒くさ」
太陽が笑う。
友人も笑う。
それだけの話だった。
数分後には、別の話題に変わっていた。
太陽も、流星群のことなどすっかり忘れていた。
少なくとも、そのときは。
◇
一時間目。
先生の声が教室に響く。
黒板に書かれる文字。
窓から差し込む白い光。
太陽は頬杖をつきながら、ぼんやりと外を眺めていた。
雲の少ない空だった。
今日も暑くなりそうだ。
そんなことを考えているうちに、先生が黒板を叩いた。
「朝宮」
「はい?」
「聞いているか?」
「聞いてます」
「なら、この問題を」
「……」
教室から笑い声が漏れる。
太陽は苦笑しながら立ち上がった。
いつも通りの授業。
いつも通りの一日。
その中に、特別なことなんて何もなかった。
◇
放課後。
終礼が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
「太陽、駅まで行こうぜ」
「ごめん。今日は先帰る」
「珍し」
「なんとなく」
「じゃあまた明日」
「おう」
友人と別れ、太陽は一人で校門を出た。
夕方の空は、昼間よりも少しだけ柔らかい色をしていた。
家に帰るだけ。
いつもの道を歩いて。
いつもの一日を終える。
そのはずだった。
けれど。
途中で、太陽は足を止めた。
海へ続く坂道が見えた。
普段なら通らない道だった。
「……こっち、行ってみるか」
理由はない。
本当に、ただの気まぐれだった。
坂道を上る。
蝉の声が少しずつ遠くなっていく。
代わりに、潮の匂いが強くなる。
やがて、木々の向こうに海が見えた。
その先に、小さな展望台があった。
古びた階段。
錆びた手すり。
長い間、誰にも使われていないような場所だった。
「こんなところあったんだな……」
太陽は階段を上る。
一段。
また一段。
そして、最後の階段を上ったところで――
人がいた。
一人の少女。
海に背を向け、空を見上げている。
風に黒い髪が揺れていた。
太陽は思わず足を止める。
同じ制服。
けれど、誰なのかは分からない。
少女も、こちらには気づいていない。
太陽はしばらく、その場に立っていた。
帰ろうかとも思った。
でも、なぜか動けなかった。
やがて、少女が振り返った。
目が合う。
「……」
「……」
二人とも何も言わない。
先に口を開いたのは少女だった。
「……誰?」
「いや、それ俺の台詞なんだけど」
少女が少しだけ目を細める。
太陽は苦笑した。
「ごめん。俺、ここに人がいると思わなくて」
「私も」
「……え?」
「人が来ると思ってなかった」
淡々とした言葉。
けれど、嫌な感じはしなかった。
太陽は少し離れた場所に立った。
「ここ、よく来るの?」
「たまに」
「へえ」
会話が途切れる。
波の音だけが聞こえる。
夕暮れの海は、静かだった。
太陽は何となく空を見上げた。
「何見てたの?」
「空」
「……星?」
「まだ出てないけど」
「うん」
少女は頷いた。
「だから待ってる」
「星を?」
「うん」
太陽は少しだけ笑った。
「気が早くない?」
「そうかも」
少女の口元が、ほんの少しだけ緩む。
その表情を見て、太陽はなぜか言葉を失った。
笑うんだ。
そんなことを思った。
でも、理由は分からない。
「……そういえば」
太陽は彼女の制服を見る。
「同じ学校だよね?」
「うん」
「何年?」
「二年」
「俺も」
そこで初めて、太陽は気づいた。
見覚えがある。
教室の中で、何度か見たことがある。
けれど、それだけだった。
「……もしかして、同じクラス?」
「そうだと思う」
「思うって」
「まだちゃんと覚えてないから」
「俺も覚えてない」
二人とも、少しだけ笑った。
それが、初めてだった。
同じ教室にいたのに。
同じ授業を受けていたのに。
今日まで、一度も話したことがなかった。
「名前は?」
「宵月雫」
「宵月……」
「うん」
「俺は朝宮太陽」
「聞いたことある」
「知ってたの?」
「先生が呼んでたから」
「ああ……」
それだけだった。
それ以上、特別なことは話さなかった。
好きな物も。
嫌いな物も。
家族のことも。
何も知らない。
ただ、初めて名前を知った。
それだけ。
◇
帰る時間になった。
太陽は階段へ向かいながら、ふと思い出した。
「そういえば」
「何?」
「今日、学校で流星群の話してた」
雫の動きが、ほんの少し止まった。
「……流星群?」
「うん。七日後くらいに見えるらしい」
「そうなんだ」
雫は空を見上げる。
太陽もつられて見上げた。
夕暮れの色が、もうほとんど消えかけている。
「見に来る?」
何気なく聞いた。
雫は少し考えた。
「……分からない」
「そっか」
「でも」
雫が言葉を続ける。
「多分、来ると思う」
「じゃあ、俺も来ようかな」
「朝宮くんも?」
「うん」
「どうして?」
「なんとなく」
雫は少しだけ笑った。
「……そっか」
二人は展望台を後にした。
途中で別れた。
「じゃあ、また」
「うん。また」
それだけ。
太陽は坂道を下りていく。
しばらく歩いてから、一度だけ振り返った。
展望台は、木々の向こうに隠れて見えなくなっていた。
太陽はそのまま前を向いた。
まだ、何も始まっていない。
今日初めて話した。
名前を知った。
少しだけ言葉を交わした。
それだけだった。
けれど――
◇
夜。
雫は一人、展望台に残っていた。
空には、星がいくつか浮かんでいる。
海から吹く風に髪を揺らしながら、雫は静かに空を見上げた。
そして、小さく呟く。
「……あと七日」
誰に聞かせるでもなく。
その言葉だけが、夜の海へ溶けていった。

