千鶴さんの目が細くなる
「望むところです」
千鶴さんが構えようとした
「ちょっと待って」
「なんです?」
私は足元を見る
倒れた小さな卓
転がった湯呑みと崩れた和菓子
「外に出よう」
「外?」
「家の中で暴れるなんて駄目でしょ」
私はいつも口を酸っぱくして弟たちに言っている
家の中で走るな!
暴れるな!
喧嘩するなら外でやれ!
自分だけ破るわけにはいかない
「庭なら広いし」
「そこでやろう」
千鶴さんが少しだけ目を見開いた
そして口元に笑みを浮かべた
「いいですよ」
なんだろう
すごく嫌な笑い方をされた気がする
私たちは庭へ出た
広い日本庭園
綺麗に刈り込まれた木々
優雅に鯉が泳ぐ池
綺麗に筋目がつけられた白い砂利
こんなところで殴り合いをするの?
絶対怒られるでしょ
私は少し心配になってきた
しかし千鶴さんは違った
庭へ出た途端
明らかに表情が変わった
「本当に」
「馬鹿な人ですね」
「え?」
千鶴さんが足元の砂利を見た
「こんなに広い場所」
そして
小さな石を一つ拾う
「こんなにたくさん」
指先で石を弄ぶ
「武器が落ちている場所で」
千鶴さんが笑った
「私と立ち合うなんて」
「武器?」
千鶴さんがゆっくりこちらへ歩き出す
「榊家は代々」
「九条家に仕えてきた家です」
「昔は」
その姿がふっと低くなった
「忍びだったそうですよ」
次の瞬間
千鶴さんの姿が消えた
「え?」
違う
消えたんじゃない
速い!
右!
私が振り向くより早く
千鶴さんが懐へ入っていた
掌底!
私は腕で受ける
パンッ!
乾いた音が響く
すぐに拳を返す
だけど千鶴さんはそこにはもういない
「後ろ!?」
振り向く
いない
左!
千鶴さんが低い姿勢のまま
私の横を抜ける
次の瞬間
左手首をつかまれた
「なっ!」
千鶴さんの体が
私の左腕へ巻きつくように入ってくる
まるで蛇みたいに
抱えるように私の腕へ絡みついた
「くっ!」
肘が逆方向へ持っていかれる
まずい!
私は体ごと回した
それでも逃げきれない
ギリッ
「いっ!」
左肘に鋭い痛みが走った
私は無理やり腕を引き抜いて距離を取る
左腕が痺れている
曲げると痛い
やられた
この子
関節を狙ってる
「どうしました?」
千鶴さんはもう動いている
右へ左へ揺らめくようなのに速い
まるで距離がつかめない
その時
千鶴さんの右手が動いた
何かが飛んでくる
「っ!」
私は顔を逸らした
小さな石が頬の横を通り過ぎる
石!?
「ちょっと!」
「危ないでしょ!」
千鶴さんがもう次の石を拾っている
「立ち合いですよ」
「危ないに決まっています」
「タチが悪いわね」
また石が飛んできたのを顔を背けて避ける
次の瞬間にはもう千鶴さんが近くにいる
腕を取られそうになって私は慌てて振り払う
また石が顔に飛んできて避ける
その時
右足の付け根に小さな痛みが走る
反射的に視線が落ちた
石、投げられてた
その隙に千鶴さんが私の懐へ入る
「くっ!」
肩を取られかけて無理やり振りほどく
なんなのよ
この戦い方!?
まともに殴り合う気がない
ずっと動いて
石を投げて
こっちの視線をずらして
隙ができた瞬間に関節を壊しに来る
ものすごくやりにくい!
左腕も痛い
このままじゃまた捕まる
私は息を整えた
追いかけるのをやめる
足を開いて腰を深く落とした
右拳を腰へ置く
千鶴さんが動きを止めた
「なんのつもりです?」
私は答えない
千鶴さんの足元だけを見る
来る
絶対に来る
千鶴さんが小さな石を拾った
「そんなところで止まっていたら」
その指先が動く
「いい的ですよ!」
石が飛んできた
真っ直ぐ私の顔へ来る
避けない
目も閉じない
ゴッ!
「っ!」
額に石が当たる
ものすごく痛い!
でも見えてる
石の向こう
私が怯むと思って
千鶴さんが一直線に飛び込んでくる
やっぱり!
左腕を狙っている
こんどこそ関節を壊すつもりだ
私は動かない
あと少し
まだ
まだ
今!
腰を回して右足で地面を踏みしめる
全身の力を右拳へ乗せる
そして真正面から千鶴さんの胸の中心へ
拳を打ち込んだ
「ちぇりゃあああああ!!」
庭に私の声が響いた
ドンッ!!
拳に重い感触が伝わる
千鶴さんの目が大きく見開かれた
体が浮く
そのまま後ろへ吹き飛んだ
ドサッ!
地面へ仰向けに倒れる
長い黒髪が地面いっぱいに広がった
私は構えたまま息を吐いた
「はぁ……」
額と左肘が痛い
でも終わった
私はゆっくり構えを解いた
千鶴さんへ向かって頭を下げる
「ありがとうございました」
千鶴さんは目を閉じたまま動かなかった
私の声が届いたのかは
分からない
* * *
………聞こえた
……声が
……確かに聞こえた
……あの美緒という女の声が
体が動かない
胸が痛い
息をするだけで苦しい
負けた
私が……負けた?
小さく目を開いた
ぼんやりとした視界の中で
庭の木々が揺れている
この庭……
そうだ
私はこの庭で初めて
伊織様に出会った
あれは
まだ幼かった頃
お正月だった
私は父に連れられて
この屋敷へ
新年の挨拶に来ていた
私たち榊家は
代々九条家に仕えてきた
屋敷とは別の家に住み
必要な時には
九条家のために働く
それが当たり前だった
父が大人たちと話している間
私は一人でこの庭にいた
その時だった
「君」
声をかけられた
振り向くとそこに
男の子が立っていた
黒い髪
白い肌
整った顔
子供だった私でも
とても綺麗な子だと思った
「君、誰?」
「榊千鶴」
「千鶴?」
「うん」
男の子が笑った
「僕は伊織」
知っていた
九条家の九条伊織
私なんかが
気軽に話していい相手ではない
そう父から何度も言われていた
だから頭を下げた
「初めまして」
すると男の子は
不思議そうな顔をした
「そんなにかしこまらなくていいよ」
「でも……」
「君はお友達からなんて呼ばれてるの?」
「え……」
「千鶴ちゃん……とか」
「じゃあ千鶴ちゃん」
男の子が嬉しそうに笑った
「僕のことも」
「伊織ちゃんって呼んでよ」
「伊織……ちゃん?」
「うん」
「僕と一緒に遊ぼう」
それが始まりだった
最初は毬
次はカルタ
庭を一緒に歩いたり
お互いが好きな本を見せ合ったりした
いつしか私たちは
大人に見つからないように
毎日こっそりと会うようになった
「千鶴ちゃん」
「今日はなにを持ってきたの?」
「これ」
私が持ってきた漫画を渡すと
伊織ちゃんは目を輝かせた
「漫画?」
「うん」
「面白いよ」
「読んでもいい?」
「もちろん」
伊織ちゃんは漫画を読むのが特に好きだった
笑ってくれた
面白いと言ってくれた
次も持ってきてほしいと言ってくれた
それが私は嬉しかった
いつの間にか
伊織ちゃんと遊ぶ時間が
私にとって
一番大切な時間になっていた
そんなある日
屋敷に伊織ちゃんのお祖父様が来た
大きな声が聞こえて
私は廊下へ向かった
そこでは父が頭を下げていた
「申し訳ございません!」
その前に伊織ちゃんのお祖父様が立っている
「身分を考えろ!」
杖が振り下ろされた
バシッ!
父の肩を打つ
「お父さん」
その時
母に腕をつかまれた
「千鶴」
「ここにいなさい」
「でも」
「娘に色目を使わせて」
「なんのつもりだ!」
「めっそうもございません!」
父が何度も頭を下げる
「どうか」
「どうかお許しを!」
「こんなものまで読ませたそうだな!」
お祖父様の手に一冊の漫画があった
私が伊織ちゃんに貸した漫画
「あ……」
次の瞬間
ビリッ!
漫画が真っ二つに裂かれた
「二度と!」
破れた漫画が床へ落ちた
「娘を伊織に近づけるな!」
私は何も言えなかった
それから私は伊織ちゃんに会わなくなった
会ってはいけない
そう思った
父に迷惑をかける
家族にも迷惑をかける
そして伊織ちゃんにも迷惑をかける
そう思っていた
それでもある日
伊織ちゃんは屋敷を抜け出して私に会いに来た
「千鶴ちゃん!」
私は振り向いた
息を切らした伊織ちゃんが立っていた
「伊織ちゃん……」
私がそう呼んで見つめると
伊織ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた
胸がいっぱいになった
会いたかった
ずっと会いたかった
でも……
「千鶴ちゃんに」
「どうしても謝りたいことがあって」
「なに?」
「実は」
「借りてた漫画」
「なくしちゃって……」
「本当にごめん」
私は俯いた
「いいよ」
「別に」
「ほんとに?」
「うん」
胸が痛い
まるで針で刺されているよう
「その……」
伊織ちゃんが少しだけ視線を逸らした
「また」
「僕と遊んでくれる?」
遊びたい
また一緒に遊びたい
なんだっていい
また一緒にいたい
だけど
私は首を横に振った
「遊ばない」
「え?」
伊織ちゃんが私を見る
「私」
声が震えそうになる
でも
震えさせなかった
「伊織様と遊ぶの」
初めて
そう呼んだ
「飽きちゃった」
伊織ちゃんの表情が止まった
「楽しくない」
胸が痛い
苦しい
それでも
最後ぐらいはと
笑った
「だから」
「もう」
「来ないでね」
伊織ちゃんは泣きそうな目で
私を見つめていた
何かを言おうとして
でも
何も言わなかった
そして
ゆっくり背を向けた
私はその背中を
ただ……見送った
その日から
私は使用人として
分をわきまえるようになった
伊織様に近づかない
友達になろうとしない
特別な存在になろうとしない
私は九条家に仕える者
そんな私でいれば
あの人の傍にいられる
それでいい
それだけで
いいはずだった
……それで
……いい
* * *
「でも!!」
千鶴さんの声に私は驚いて目を向けた
ぎゅっ
倒れた千鶴さんの両手が
地面の砂利を掻き集めるようにして
強く握りしめた
指の隙間から小さな石がこぼれる
「千鶴さん?」
千鶴さんはゆっくりと目を開いた
何かを探すように視線をさまよわせ
私を見つけると目を見開いた
「私はまだ……」
「負けてない!」
千鶴さんはゆっくりと上体を起こす
「やめなよ」
「もう」
「勝負はついたでしょ」
千鶴さんは両手いっぱいに石を握ったまま
ふらつきながら立ち上がった
「まだよ……」
乱れた長い髪の隙間から
私を睨みつける
「まだよ!」
「美緒」
初めて
名前で呼ばれた
「あなた……」
千鶴さんの声が震える
「ズルいよ」
「え?」
「なんであなたは」
「伊織ちゃんの傍にいられるのよ」
伊織ちゃん――?
「なんで私は!」
千鶴さんが両手を強く握る
「少し離れたところから」
「見ていることすら」
「許されなくなるの!?」
声が震えている
怒っているのか
泣いているのか
もう、分からなかった
「伊織ちゃんと普通に話して」
「笑いかけてもらって」
「普通に……」
千鶴さんの顔が歪む
「普通に!!」
握った石が震える
「ズルいよ!!!」
胸の奥がぎゅっとなった
きっと……この子は
ずっと――
「私はあなたにだけは負けない!」
千鶴さんが構えた
「負けたくない!」
私はもう一度
腰を落として構えた
「いいよ」
左腕が痛い
でもまだ使える
足だって動く
まだ戦える
「受け止めてあげる」
「お互いにもう遠慮はいらないよね」
私は千鶴さんを真っ直ぐに見た
「千鶴!」
「かかってきなさい!」
「美緒!!」
千鶴が飛び出した
同時に
右手いっぱいに握っていた石を
一気に投げつける
私は避けないで前へ出る
小さな石が肩に当たり、腕を打ち、頬をかすめる
痛い
でも止まらない
千鶴も止まらない
距離が縮まる
左手が動いた
まだ
左手に石が残ってる
今度は真正面から顔へ飛んでくる
私は前へ出たまま
深く身を沈めた
石が頭の上を抜けていく
そのまま
足を大きく開いて腰を深く落とす
千鶴が飛び込んでくる
私は両手を胸の前で揃えた
「千鶴には見せてあげる」
千鶴の目つきがさらに鋭くなる
「お父さんから教わった」
「私のとっておき」
足で地面を踏みしめ
腰を入れる
背中から肩へ力を通し
全身の力を両手へ乗せる
これが高梨家の両手掌!
「ちぇりゃあああああ!!」
一気に突き出した
ドンッ!!
両の掌が千鶴の胸へ真っ直ぐに飛び込む
「っ――!」
千鶴の体が大きく浮いた
長い黒髪が宙を舞う
そのまま
背中から地面へ叩きつけられた
ザシャッ!!
白い砂利が千鶴の体の周りへ弾け飛ぶ
長い髪が遅れて地面へ広がった
動かない
私はゆっくりと息を吐く
「ふぅ――……」
突き出した両手を静かに下ろした
今度こそ
千鶴は動かなかった
「望むところです」
千鶴さんが構えようとした
「ちょっと待って」
「なんです?」
私は足元を見る
倒れた小さな卓
転がった湯呑みと崩れた和菓子
「外に出よう」
「外?」
「家の中で暴れるなんて駄目でしょ」
私はいつも口を酸っぱくして弟たちに言っている
家の中で走るな!
暴れるな!
喧嘩するなら外でやれ!
自分だけ破るわけにはいかない
「庭なら広いし」
「そこでやろう」
千鶴さんが少しだけ目を見開いた
そして口元に笑みを浮かべた
「いいですよ」
なんだろう
すごく嫌な笑い方をされた気がする
私たちは庭へ出た
広い日本庭園
綺麗に刈り込まれた木々
優雅に鯉が泳ぐ池
綺麗に筋目がつけられた白い砂利
こんなところで殴り合いをするの?
絶対怒られるでしょ
私は少し心配になってきた
しかし千鶴さんは違った
庭へ出た途端
明らかに表情が変わった
「本当に」
「馬鹿な人ですね」
「え?」
千鶴さんが足元の砂利を見た
「こんなに広い場所」
そして
小さな石を一つ拾う
「こんなにたくさん」
指先で石を弄ぶ
「武器が落ちている場所で」
千鶴さんが笑った
「私と立ち合うなんて」
「武器?」
千鶴さんがゆっくりこちらへ歩き出す
「榊家は代々」
「九条家に仕えてきた家です」
「昔は」
その姿がふっと低くなった
「忍びだったそうですよ」
次の瞬間
千鶴さんの姿が消えた
「え?」
違う
消えたんじゃない
速い!
右!
私が振り向くより早く
千鶴さんが懐へ入っていた
掌底!
私は腕で受ける
パンッ!
乾いた音が響く
すぐに拳を返す
だけど千鶴さんはそこにはもういない
「後ろ!?」
振り向く
いない
左!
千鶴さんが低い姿勢のまま
私の横を抜ける
次の瞬間
左手首をつかまれた
「なっ!」
千鶴さんの体が
私の左腕へ巻きつくように入ってくる
まるで蛇みたいに
抱えるように私の腕へ絡みついた
「くっ!」
肘が逆方向へ持っていかれる
まずい!
私は体ごと回した
それでも逃げきれない
ギリッ
「いっ!」
左肘に鋭い痛みが走った
私は無理やり腕を引き抜いて距離を取る
左腕が痺れている
曲げると痛い
やられた
この子
関節を狙ってる
「どうしました?」
千鶴さんはもう動いている
右へ左へ揺らめくようなのに速い
まるで距離がつかめない
その時
千鶴さんの右手が動いた
何かが飛んでくる
「っ!」
私は顔を逸らした
小さな石が頬の横を通り過ぎる
石!?
「ちょっと!」
「危ないでしょ!」
千鶴さんがもう次の石を拾っている
「立ち合いですよ」
「危ないに決まっています」
「タチが悪いわね」
また石が飛んできたのを顔を背けて避ける
次の瞬間にはもう千鶴さんが近くにいる
腕を取られそうになって私は慌てて振り払う
また石が顔に飛んできて避ける
その時
右足の付け根に小さな痛みが走る
反射的に視線が落ちた
石、投げられてた
その隙に千鶴さんが私の懐へ入る
「くっ!」
肩を取られかけて無理やり振りほどく
なんなのよ
この戦い方!?
まともに殴り合う気がない
ずっと動いて
石を投げて
こっちの視線をずらして
隙ができた瞬間に関節を壊しに来る
ものすごくやりにくい!
左腕も痛い
このままじゃまた捕まる
私は息を整えた
追いかけるのをやめる
足を開いて腰を深く落とした
右拳を腰へ置く
千鶴さんが動きを止めた
「なんのつもりです?」
私は答えない
千鶴さんの足元だけを見る
来る
絶対に来る
千鶴さんが小さな石を拾った
「そんなところで止まっていたら」
その指先が動く
「いい的ですよ!」
石が飛んできた
真っ直ぐ私の顔へ来る
避けない
目も閉じない
ゴッ!
「っ!」
額に石が当たる
ものすごく痛い!
でも見えてる
石の向こう
私が怯むと思って
千鶴さんが一直線に飛び込んでくる
やっぱり!
左腕を狙っている
こんどこそ関節を壊すつもりだ
私は動かない
あと少し
まだ
まだ
今!
腰を回して右足で地面を踏みしめる
全身の力を右拳へ乗せる
そして真正面から千鶴さんの胸の中心へ
拳を打ち込んだ
「ちぇりゃあああああ!!」
庭に私の声が響いた
ドンッ!!
拳に重い感触が伝わる
千鶴さんの目が大きく見開かれた
体が浮く
そのまま後ろへ吹き飛んだ
ドサッ!
地面へ仰向けに倒れる
長い黒髪が地面いっぱいに広がった
私は構えたまま息を吐いた
「はぁ……」
額と左肘が痛い
でも終わった
私はゆっくり構えを解いた
千鶴さんへ向かって頭を下げる
「ありがとうございました」
千鶴さんは目を閉じたまま動かなかった
私の声が届いたのかは
分からない
* * *
………聞こえた
……声が
……確かに聞こえた
……あの美緒という女の声が
体が動かない
胸が痛い
息をするだけで苦しい
負けた
私が……負けた?
小さく目を開いた
ぼんやりとした視界の中で
庭の木々が揺れている
この庭……
そうだ
私はこの庭で初めて
伊織様に出会った
あれは
まだ幼かった頃
お正月だった
私は父に連れられて
この屋敷へ
新年の挨拶に来ていた
私たち榊家は
代々九条家に仕えてきた
屋敷とは別の家に住み
必要な時には
九条家のために働く
それが当たり前だった
父が大人たちと話している間
私は一人でこの庭にいた
その時だった
「君」
声をかけられた
振り向くとそこに
男の子が立っていた
黒い髪
白い肌
整った顔
子供だった私でも
とても綺麗な子だと思った
「君、誰?」
「榊千鶴」
「千鶴?」
「うん」
男の子が笑った
「僕は伊織」
知っていた
九条家の九条伊織
私なんかが
気軽に話していい相手ではない
そう父から何度も言われていた
だから頭を下げた
「初めまして」
すると男の子は
不思議そうな顔をした
「そんなにかしこまらなくていいよ」
「でも……」
「君はお友達からなんて呼ばれてるの?」
「え……」
「千鶴ちゃん……とか」
「じゃあ千鶴ちゃん」
男の子が嬉しそうに笑った
「僕のことも」
「伊織ちゃんって呼んでよ」
「伊織……ちゃん?」
「うん」
「僕と一緒に遊ぼう」
それが始まりだった
最初は毬
次はカルタ
庭を一緒に歩いたり
お互いが好きな本を見せ合ったりした
いつしか私たちは
大人に見つからないように
毎日こっそりと会うようになった
「千鶴ちゃん」
「今日はなにを持ってきたの?」
「これ」
私が持ってきた漫画を渡すと
伊織ちゃんは目を輝かせた
「漫画?」
「うん」
「面白いよ」
「読んでもいい?」
「もちろん」
伊織ちゃんは漫画を読むのが特に好きだった
笑ってくれた
面白いと言ってくれた
次も持ってきてほしいと言ってくれた
それが私は嬉しかった
いつの間にか
伊織ちゃんと遊ぶ時間が
私にとって
一番大切な時間になっていた
そんなある日
屋敷に伊織ちゃんのお祖父様が来た
大きな声が聞こえて
私は廊下へ向かった
そこでは父が頭を下げていた
「申し訳ございません!」
その前に伊織ちゃんのお祖父様が立っている
「身分を考えろ!」
杖が振り下ろされた
バシッ!
父の肩を打つ
「お父さん」
その時
母に腕をつかまれた
「千鶴」
「ここにいなさい」
「でも」
「娘に色目を使わせて」
「なんのつもりだ!」
「めっそうもございません!」
父が何度も頭を下げる
「どうか」
「どうかお許しを!」
「こんなものまで読ませたそうだな!」
お祖父様の手に一冊の漫画があった
私が伊織ちゃんに貸した漫画
「あ……」
次の瞬間
ビリッ!
漫画が真っ二つに裂かれた
「二度と!」
破れた漫画が床へ落ちた
「娘を伊織に近づけるな!」
私は何も言えなかった
それから私は伊織ちゃんに会わなくなった
会ってはいけない
そう思った
父に迷惑をかける
家族にも迷惑をかける
そして伊織ちゃんにも迷惑をかける
そう思っていた
それでもある日
伊織ちゃんは屋敷を抜け出して私に会いに来た
「千鶴ちゃん!」
私は振り向いた
息を切らした伊織ちゃんが立っていた
「伊織ちゃん……」
私がそう呼んで見つめると
伊織ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた
胸がいっぱいになった
会いたかった
ずっと会いたかった
でも……
「千鶴ちゃんに」
「どうしても謝りたいことがあって」
「なに?」
「実は」
「借りてた漫画」
「なくしちゃって……」
「本当にごめん」
私は俯いた
「いいよ」
「別に」
「ほんとに?」
「うん」
胸が痛い
まるで針で刺されているよう
「その……」
伊織ちゃんが少しだけ視線を逸らした
「また」
「僕と遊んでくれる?」
遊びたい
また一緒に遊びたい
なんだっていい
また一緒にいたい
だけど
私は首を横に振った
「遊ばない」
「え?」
伊織ちゃんが私を見る
「私」
声が震えそうになる
でも
震えさせなかった
「伊織様と遊ぶの」
初めて
そう呼んだ
「飽きちゃった」
伊織ちゃんの表情が止まった
「楽しくない」
胸が痛い
苦しい
それでも
最後ぐらいはと
笑った
「だから」
「もう」
「来ないでね」
伊織ちゃんは泣きそうな目で
私を見つめていた
何かを言おうとして
でも
何も言わなかった
そして
ゆっくり背を向けた
私はその背中を
ただ……見送った
その日から
私は使用人として
分をわきまえるようになった
伊織様に近づかない
友達になろうとしない
特別な存在になろうとしない
私は九条家に仕える者
そんな私でいれば
あの人の傍にいられる
それでいい
それだけで
いいはずだった
……それで
……いい
* * *
「でも!!」
千鶴さんの声に私は驚いて目を向けた
ぎゅっ
倒れた千鶴さんの両手が
地面の砂利を掻き集めるようにして
強く握りしめた
指の隙間から小さな石がこぼれる
「千鶴さん?」
千鶴さんはゆっくりと目を開いた
何かを探すように視線をさまよわせ
私を見つけると目を見開いた
「私はまだ……」
「負けてない!」
千鶴さんはゆっくりと上体を起こす
「やめなよ」
「もう」
「勝負はついたでしょ」
千鶴さんは両手いっぱいに石を握ったまま
ふらつきながら立ち上がった
「まだよ……」
乱れた長い髪の隙間から
私を睨みつける
「まだよ!」
「美緒」
初めて
名前で呼ばれた
「あなた……」
千鶴さんの声が震える
「ズルいよ」
「え?」
「なんであなたは」
「伊織ちゃんの傍にいられるのよ」
伊織ちゃん――?
「なんで私は!」
千鶴さんが両手を強く握る
「少し離れたところから」
「見ていることすら」
「許されなくなるの!?」
声が震えている
怒っているのか
泣いているのか
もう、分からなかった
「伊織ちゃんと普通に話して」
「笑いかけてもらって」
「普通に……」
千鶴さんの顔が歪む
「普通に!!」
握った石が震える
「ズルいよ!!!」
胸の奥がぎゅっとなった
きっと……この子は
ずっと――
「私はあなたにだけは負けない!」
千鶴さんが構えた
「負けたくない!」
私はもう一度
腰を落として構えた
「いいよ」
左腕が痛い
でもまだ使える
足だって動く
まだ戦える
「受け止めてあげる」
「お互いにもう遠慮はいらないよね」
私は千鶴さんを真っ直ぐに見た
「千鶴!」
「かかってきなさい!」
「美緒!!」
千鶴が飛び出した
同時に
右手いっぱいに握っていた石を
一気に投げつける
私は避けないで前へ出る
小さな石が肩に当たり、腕を打ち、頬をかすめる
痛い
でも止まらない
千鶴も止まらない
距離が縮まる
左手が動いた
まだ
左手に石が残ってる
今度は真正面から顔へ飛んでくる
私は前へ出たまま
深く身を沈めた
石が頭の上を抜けていく
そのまま
足を大きく開いて腰を深く落とす
千鶴が飛び込んでくる
私は両手を胸の前で揃えた
「千鶴には見せてあげる」
千鶴の目つきがさらに鋭くなる
「お父さんから教わった」
「私のとっておき」
足で地面を踏みしめ
腰を入れる
背中から肩へ力を通し
全身の力を両手へ乗せる
これが高梨家の両手掌!
「ちぇりゃあああああ!!」
一気に突き出した
ドンッ!!
両の掌が千鶴の胸へ真っ直ぐに飛び込む
「っ――!」
千鶴の体が大きく浮いた
長い黒髪が宙を舞う
そのまま
背中から地面へ叩きつけられた
ザシャッ!!
白い砂利が千鶴の体の周りへ弾け飛ぶ
長い髪が遅れて地面へ広がった
動かない
私はゆっくりと息を吐く
「ふぅ――……」
突き出した両手を静かに下ろした
今度こそ
千鶴は動かなかった


