いまさら家に男が一人増えたところで構いません!

伊織が刀をすっと持ち上げる

切っ先が湊の胸へ向けられ

伊織の腰が静かに沈んだ

次の瞬間

切っ先が消えた

一突き目

胸

湊が上半身を右へずらす

刀身が胸元すれすれを通過した

二突き目

喉

顎を引き、首を横へ倒す

切っ先が頬のすぐ横を抜けた

三突き目

右の脇腹

湊は左足を半歩引き

体を捻ってぎりぎりでかわす

四突き目

左肩

もう来ている

膝を折ると、刀身が髪のすぐ上を走った

一つをかわした時には

次の切っ先がもう目の前にある

そして

五突き目

右の太腿

「ぐっ!」

今度は間に合わない

刀の先端が湊の右の太腿へ叩き込まれた

貫くような衝撃が走る

右脚から力が抜け、膝が折れかけた

湊は左脚で体を支え

どうにか踏み止まった

「はっ……」

右の太腿を押さえる

痺れて力が上手く入らない

「速え……」

湊が伊織を見る

「しかも」
「遠すぎんだろ」

自分の拳が届くより

遥かに遠い場所から伊織の刀だけが届く

近づこうとすれば

その前に切っ先が飛んでくる

「まともにやったら」
「勝負にならねえな」

「もう分かっただろう?」

伊織が刀を正眼に構える

「君では」
「僕に勝てない」

「そうだな」

湊が右の太腿から手を離す

「まともにやったらな」

両腕を胸の前へ持ち上げる

左右の掌を開いた

その構えを見て伊織の目が細くなる

高梨の両手掌

湊が笑う

「だったら」
「これでいく」

「やめた方がいい」

伊織の声が僅かに低くなった

「どうしてだよ」

「その構えも」
「その技も」

伊織が湊の両手を見る

「僕は」
「目に焼きつけている」
「僕には通用しない」

「目に焼きつけてる?」

湊がにやりと笑った

「姉ちゃんの技だからか?」

伊織の眉が僅かに動く

湊は構えたまま続ける

「伊織さ」
「姉ちゃん狙いで」
「うちへ来たんだろ?」

伊織は答えない

「弟の俺から見ても」
「伊織だったら別にいいかなと思ってたのによ」
「なんで自分から手を引いたんだよ」

湊の目が真っすぐ伊織を見る

「君には……」
「関係ないよ」

伊織の切っ先が僅かに下がる

「そうかよ……」
「弟の許可なんかいらねえって奴は」
「認められねえな!」

湊が畳を蹴った

右脚の痛みを無視して一気に前へ出る

伊織の刀が動いた

一突き目

顔

湊は首だけを傾けてかわす

二突き目

胸

肩を引く

刀身が道着の表面をかすめた

三突き目

腹

腰を僅かにずらす

大きく動かない

足を滑らせるようにして

最小限の動きで切っ先をかわす

そのたびに

半歩

また半歩

伊織との距離を詰めていく

四突き目

喉

湊が頭を沈める

刀身が頬をかすめた

それでも止まらない

そして

五突き目

脇腹

完全にはかわせない

「ぐっ!」

鈍い先端が横腹へ食い込んだ

衝撃で湊の体が折れる

それでも湊は後ろへ下がらなかった

体を捻って刀身の横をすり抜け

痛みを無視して伊織の懐へ踏み込んだ

「もらった!」

湊が両手を伊織の腹へ添える

足の裏で畳を強く踏みしめた

膝から腰、背中、肩、腕

全身の動きが一つにつながる

そして

すべての力が二つの掌へ集まった

高梨の両手掌

その瞬間

伊織の右足が僅かに後ろへ動いた

足の裏が畳を捉える

膝が沈んで腰が回る

背骨が下から順番に波打つように動いた

伊織が短く息を吐く

「ふっ」

どんっ!!

湊の両手掌がまともに伊織の腹へ入った

その瞬間

湊の両掌へ、押し返すような力が伝わった

二人の衣服が大きく揺れた

伊織の足元で畳がぎしりと沈む

「なっ……!」

湊が目を見開いた

両手掌は確かに入った

伊織の顔も僅かに歪んでいる

それなのに、一歩も後ろへ下がっていなかった

「両手掌というのは」
「足元で生み出した力を」
「全身を通して二つの掌へ集める」

伊織が湊を見る

「発勁だ」

「発勁……?」

「そう」

伊織が僅かに沈めていた腰を戻す

「その技がどの瞬間に力を放つのか」
「僕は全部知っている」

湊が伊織の腹へ当てたままの自分の両手を見る

「だから」

伊織が続ける

「君が力を放つ瞬間に合わせて」
「僕も自分の体の中に同じ流れを作った」
「入ってきた力へ」
「自分の力を当てて外へ逃がしたんだ」

伊織が自分の腹へ手を当てる

「完全に消すことはできない」
「多少の衝撃は残る」

それでも

涼しい顔で湊を見る

「これくらいなら」
「十分に耐えられる」

湊は何も言えない

「言っただろう?」

伊織の目が冷たく細められた

「その技については」
「目に焼きつけている」
「僕に両手掌は効かないよ」

次の瞬間

伊織の姿が湊の正面から消えた

「え――」

背後!?

気づいた時にはもう遅かった

伊織が刀を反転させる

柄頭を湊の背中へ叩き込んだ

ごっ!!

「があっ!」

背骨の横へ鈍い衝撃が突き刺さる

湊の体が前へ折れた

そのまま両膝をつく

「君の」

伊織が倒れかけた湊を見下ろす

「粘り強さも知っている」

湊が畳へ手をつく

歯を食いしばり、もう一度立ち上がろうとする

伊織が刀を構え直した

「悪いけど」
「手加減はしないよ」

切っ先が湊へ向く

「来いよ……」

湊が震える脚へ力を入れ

どうにか立ち上がった

「まだ……」
「終わってねえぞ!」

伊織が踏み込んだ

一突き目

右腕

ごっ!

刀の先端が上腕へ入る

「ぐっ!」

肩から指先まで強い痺れが走った

右腕が力なく落ちる

二突き目

左腕

ごっ!

「がっ……!」

肘の近くを打ち抜かれ

左手からも力が消える

両腕がだらりと垂れ下がった

それでも

湊は立っている

「まだだ……!」

一歩

前へ出ようとする

三突き目

右の太腿

どんっ!

先ほど打たれた場所へ

もう一度切っ先が叩き込まれる

「ぐあっ!」

右膝が畳へ落ちた

それでも湊は、左脚だけで無理やり立ち上がろうとする

四突き目

左の太腿

ごっ!

最後に残っていた左脚からも力が抜けた

もう体を支えられない

湊がその場へ崩れ始める

それでも伊織の刀は止まらない

五突き目

胸

切っ先が一直線に湊へ向かう

湊はもう避けられない

両腕も

両脚も動かない

刀が胸の直前で止まった

「……終わりだ」

伊織が静かに告げる

最後の一突きを当てる必要はなかった

伊織が刀を引く

湊の体が前へ倒れた

受け身を取る腕すら動かない

そのまま畳へ崩れ落ちた

どさっ

鈍い音が広い座敷へ響く

もう立ち上がる力は残っていなかった

伊織が刀を振る

そして

ゆっくりと鞘へ納めた

カチン

小さな音が静まり返った部屋へ響いた

「君は強いよ」

伊織が倒れた湊を見下ろす

「それでも」
「僕を倒すことはできない」

「伊織……」

湊が掠れた声を絞り出した

「姉ちゃんを……」

体が上手く動かない

それでも湊は顔を上げて伊織を睨む

「泣かせたら……」
「絶対……」
「許さねえからな」

伊織は何も答えなかった

その時

廊下から足音が聞こえた

湊が僅かに顔を動かす

開け放たれた襖の向こうに剛志が立っていた

腕を組み、静かな目で倒れた湊を見ている

「父ちゃん……」

伊織は驚かなかった

剛志の方へゆっくり顔を向ける

「剛志さん」
「少し前から見学していましたね」

剛志の口元が僅かに上がった

「ああ」

「どこからです?」

「お前が刀を抜いた辺りからだ」

伊織が剛志を見て腰の刀へ手を添える

「僕が湊へ集中している間に」
「剛志さんが仕掛けていれば」
「僕を倒すこともできたはず」

剛志は何も言わない

「どうして」
「手を出さなかったんです?」

剛志が倒れた湊を見る

「これは湊の戦いだ」

「父ちゃん……」

剛志が靴と靴下を脱ぎ

廊下へ揃えて置いた

倒れた湊のそばへ歩み寄る

その前にゆっくりとしゃがんだ

「こいつは」
「家族のために自分で立った」

大きな手を湊の頭へ置く

「だったら親の俺が」
「横から手を出すわけにはいかん」

湊が悔しそうに歯を食いしばる

「俺……」
「負けたんだぞ……」

「ああ」

剛志が答える

「見てた」

湊の声が震える

「刀を抜かせただけで……」
「その後は」
「何もできなかった……」

剛志の手が湊の髪を乱暴に撫でる

「何もしてねえ奴は」
「そんな姿にはならねえよ」
「よくやった」

湊は何も言えなかった

剛志は伊織へ目を向けたまま続ける

「全部見せてもらった」
「後は」

ゆっくりと立ち上がる

「俺に任せろ」

「父ちゃん……」

湊が悔しそうに顔を歪めた

剛志が湊を庇うように伊織の前へ歩み出る

「待たせたな」

剛志が首を左右へ傾ける

ごきっ

太い音が鳴った

伊織が鞘に納めたばかりの刀へ右手を添える

「あなたを相手に手加減はできない」

一息に刀を抜き放った

しゃりん!

鈍い光を放つ刀身が、再び広い座敷へ現れる

伊織が刀を正眼に構えた

切っ先が剛志の喉元へ向けられる

剛志は両腕を下ろしたまま自然に立っている

まだ構えてすらいない

それなのに先ほどまでとは部屋の空気が違った

伊織の目が鋭く細められる

刀を握る両手に力を込めた

「九条家が次期当主 伊織」
「高梨剛志殿との立ち合い」
「お受けします」

剛志の口元が僅かに上がる

ゆっくりと腰を落とした

右足を前へ

左足を後ろへ

両手を体の中心へ置く

湊と同じ高梨の正眼の構え

だけど同じ構えとは思えないほど大きく深い

目の前に巨大な山が現れたような

圧倒的な存在感に伊織が息を飲んだ

剛志が大きく息を吸って伊織を真っすぐ見据える

その太い声が広い座敷を震わせた

「高梨家当主! 剛志!」
「この立ち合い!」
「お受けする!」

伊織の刀身が僅かに揺れた

剛志がさらに続ける

「それから」

その目がほんの少しだけ優しくなる

「馬鹿弟子を迎えに来た」

伊織の目が僅かに揺れた

それでも刀は下ろさない

「僕はもう」
「あなたの弟子ではありません」

剛志が小さく笑う

「弟子は家族のようなものだ」

正眼の構えをさらに深くする

「家族はずっと家族!」
「後からは変えられん!」

二人の視線が正面からぶつかった

湊が痛む体を引きずり壁際まで移動する

そのまま壁へ背中を預けた

痛みで息が詰まりながら

二人の立ち合いを見守る

「父ちゃん」
「負けんなよ」