桐生玲奈は一人で右側の通路を歩いていた
手には千鶴から渡された一通の手紙
歩きながらもう一度
その文面へ目を落とす
達筆な文字で書かれているのは
食事への誘いと待っている部屋の場所
そして
最後に記された榊宗一郎の名前
「食事ねえ……」
玲奈が小さく呟く
どう考えても食事だけで済むとは思えない
それでも足を止めるつもりはなかった
手紙を折り畳み道着の懐へ入れる
長い通路には誰の姿もない
玲奈の靴音だけが静かな屋敷の中へ響いている
やがて通路の奥に一人の使用人が立っているのが見えた
玲奈の姿を確認すると深く頭を下げる
「桐生玲奈様ですね」
「そうだけど」
「宗一郎様がお待ちしております」
使用人がすぐ横の大きな扉へ手を添えた
「こちらへどうぞ」
扉が静かに開かれる
その向こうには広い食堂があった
玲奈は一度だけ大きく息を吐く
「本当に」
「ろくなデートにならなそうね」
そして案内された食堂へ入った
長い食卓の奥には宗一郎が一人で座っていた
目の前には豪華な懐石料理が並んでいる
向かいの席にもまったく同じ料理
宗一郎が静かに立ち上がる
「桐生玲奈殿」
「お待ちしておりました」
「それはどうも」
玲奈は勧められるまま向かいの席へ座った
食堂には使用人の姿もなく二人きり
「飲み物は何がお好みかな?」
「いいワインがありますよ」
「お酒は飲まないから」
「水をちょうだい」
宗一郎の眉がわずかに動いた
「水ですか」
「なによ」
「駄目なの?」
「いえ」
宗一郎が用意されていた呼び鈴を鳴らし使用人に指示をする
少しして使用人がグラスに水を入れて運んできた
玲奈はそれを受け取る
ごく、ごく、ごく
喉を鳴らして一気に飲み干した
「ふう」
グラスを食卓へ置く
「おかわりを持ってこさせましょう」
「いらないわ」
「一緒に飲んで欲しそうだったから」
「飲んであげただけ」
「それで……」
「私に何の用?」
「本当に一緒に食事をして飲みたかった……」
「なんて話じゃないでしょ」
「もちろん」
宗一郎が玲奈をまっすぐに見る
「桐生玲奈殿」
「私と立ち合っていただきたい」
玲奈が箸を取る
目の前の料理を一口食べた
「おいしいわね」
「それは光栄だ」
「光栄……ね……」
玲奈はもう一口、料理を口へ運んだ
ゆっくりと噛みしめ
味わってから飲み込む
それから宗一郎へ目を向けた
「回りくどい男って苦手なのよね」
「こっちもそのつもりで来たんだから」
「普通に挑んで来ればいいじゃない」
「わざわざ私を食事に誘うなんて」
「何かの趣向のつもり?」
「大変失礼しました」
「これは出陣の膳です」
「なに?」
「最後の晩餐というやつですよ」
「私は……」
宗一郎の目が静かに細くなる
「あなたとの殺し合いを望みます」
玲奈の箸が止まった
少しの間
宗一郎の顔を見つめる
「うわ~」
露骨に嫌そうな顔をした
「史上最悪の告白ね」
宗一郎が続ける
「あなたになら」
「殺されてもいいと思った」
「お断りします」
「私」
「刑務所なんか嫌よ」
「ご安心ください」
「君が私を殺した場合は自殺として処理するよう」
「準備してあります」
「そういう問題?」
「人生で一番ドン引きしてるんですけど」
宗一郎が自分の胸へ手を当てる
「逆に私が君を殺した場合は自首するつもりです」
玲奈が箸を食卓へ置く
「私の話聞こえてる?」
「お断りよ!」
宗一郎が静かに立ち上がった
「そうですか」
「それは残念です」
食卓の下で宗一郎の足が動いた
長い食卓が勢いよく蹴り上げられる
食卓の上にあったものが一斉に宙を舞った
「ちょっ!」
玲奈が椅子を蹴って後ろへ跳ぶ
熱い汁が足元へ降り注ぐ
次の瞬間
皿が玲奈目掛けて飛んできた
一枚目
玲奈が首を傾けてかわす
二枚目
避けた先へ飛んでくる
玲奈の指が走った
バキッ!
皿が中央から裂ける
二つに割れた破片が玲奈の両側を通過した
三枚目
玲奈が人差し指を皿の縁へ当てる
指先を滑らせるように動かす
皿の軌道が変わり壁へ当たって砕け散る
その陰に一本の箸が隠れていた
「っ!」
玲奈が顔を反らす
鋭く削られた箸の先端が左の頬をかすめた
細い傷が走る
血が一筋
頬を伝った
「抵抗しなければ」
宗一郎が一気に踏み込んでくる
「君は死ぬよ」
右手には寸鉄が握られていた
短い鉄の先端を拳から突き出すように構えている
寸鉄を握り込んだ右拳が玲奈の喉へ放たれた
玲奈がその右腕へ手を触れる
拳の勢いへ逆らわず
そのまま横へ流す
宗一郎の体が崩れて大きく泳いだ
「っ!」
寸鉄が玲奈の喉元を外れ空を切った
その瞬間
玲奈の右手が動いた
開かれた指が宗一郎の右腕へ振り下ろされる
ざくっ!
袖が裂け肩口から肘へ向かって
その下の皮膚まで大きく引き裂かれ血が飛んだ
「ぐっ……!」
宗一郎は崩れた体を無理やり立て直す
一歩
二歩
玲奈から離れた
その離れ際
左手が袖へ入る
小さな黒い玉を取り出し
玲奈の顔へ投げつける
「また――」
玲奈が反射的に指を伸ばす
黒い玉を裂こうとした
その直前玉が破裂した
パッ!
食堂が真っ白な光で満たされる
「っ!」
玲奈が両目を押さえた
視界が白く焼きついている
何も見えない
「目潰し……」
宗一郎は床に落ちた皿を拾い上げる
一枚
玲奈へ投げつけた
玲奈は目が見えない
皿が無防備な肩へ当たって砕けた
「ぐっ!」
二枚目
腹へ当たる
三枚目
太腿
四枚目
胸元
次々と皿が玲奈へ投げつけられる
玲奈は両腕で頭部を守る
まったく避けられない
皿が砕けるたびに破片が服と皮膚を切り裂く
最後の一枚が脇腹へ直撃した
「うっ……!」
玲奈が痛みに耐えきれず片膝をついた
その瞬間
急に静かになった
皿が飛んでこない
足音もない
衣擦れの音すら聞こえない
宗一郎は呼吸まで抑えていた
玲奈から完全に気配を消す
傷ついた右腕から落ちる血を左腕で受け止める
音を立てずに玲奈の背後へ回った
玲奈は片膝をついたまま両目を閉じている
宗一郎が寸鉄を握った右手を
ゆっくりと振り上げる
狙うのは首の後ろ
寸鉄の先端が玲奈の頸椎へ向けられた
宗一郎が小さな声で告げる
「残念だ」
玲奈がぴくりと反応する
「君に」
「殺されたかった」
右手が振り下ろされた
寸鉄が玲奈の首へ突き刺さる
ぶつっ!
「――っ!」
玲奈の体が揺れた
宗一郎の目が見開かれる
違う
狙った場所ではない
首の中央の頸椎を狙ったはずだった
しかし寸鉄が刺さったのは
そこから右へ外れた場所
宗一郎が振り下ろす直前
玲奈はほんのわずかに首を傾けていた
致命傷となる位置をずらされた
宗一郎の右手に玲奈の手が触れている
寸鉄を受けながら腕を捕らえていた
「なっ――」
玲奈の体が動いた
宗一郎の力を振り下ろされた方向へ流す
宗一郎の重心が大きく崩れた
上半身が玲奈の前へ投げ出される
玲奈の指が宗一郎へ迫る
宗一郎が小さく笑った
「ああ」
「よかった」
玲奈の指先が宗一郎の首へ向かう
宗一郎は目を閉じた
しかし指が入ったのは
首ではなかった
右腕の付け根
傷ついた肩の奥へ玲奈の指が深く沈む
ざくっ!
「ぐあっ!」
宗一郎が左手で玲奈を突き飛ばし距離を取った
右腕が力なく垂れ下がっている
指一本動かなくなった右手から寸鉄が床へ落ちた
玲奈はすぐに立ち上がった
両目はまだ閉じたまま
それでも宗一郎へ向かってくる
「なぜだ」
宗一郎が後ろへ下がる
「なぜ」
「首を狙わなかった?」
玲奈は答えない
宗一郎の声を頼りに一気に距離を詰める
宗一郎が左拳を振るう
玲奈の髪をかすめ
結ばれていた髪がほどけて広がった
玲奈はそのまま宗一郎の右側をすり抜ける
低い姿勢
指先が宗一郎の右足首をなぞる
ぶつっ!
「ぐっ!」
右足のアキレス腱が裂けた
宗一郎の右膝が床へ落ちる
それでも宗一郎は止まらない
左手を袖へ入れる
取り出した苦無を玲奈へ投げつけた
空気を切り裂き苦無が玲奈へ迫る
玲奈の右目がほんの少しだけ開いた
まだぼやけている
それでも苦無の黒い影を捉えた
玲奈が右腕を前へ出す
その腕を苦無の動きに合わせて流す
最後に人差し指が苦無の側面へ触れた
カンッ!
苦無の軌道が変わる
玲奈の横を通過し
そのまま宗一郎へ返っていく
「なっ!」
宗一郎が慌てて左腕を上げた
苦無が左腕へ突き刺さる
「ぐっ!」
その一瞬
玲奈が踏み込み宗一郎の懐へ入る
玲奈の指が左腕の付け根へ振り下ろされた
ざくっ!
肩口が裂ける
宗一郎の左腕から力が失われた
苦無が刺さったまま
左腕もだらりと垂れ下がる
両腕の重さに耐えかねるように
宗一郎は床へ両膝をついた
玲奈がその前に立つ
両目の視力はまだ戻りきっていない
右目だけがわずかに開いている
その目で跪いた宗一郎を見下ろした
宗一郎が荒い息を吐く
「あなたの勝ちだ」
乞うように顔を上げた
「殺してくれ」
玲奈が自分の首の後ろへ手を回す
寸鉄で刺された傷を押さえると
指の間から血がにじんだ
「さっきも言ったでしょ」
「嫌よ」
「なぜだ」
宗一郎が玲奈を見る
「天心流の本質は我が榊と同じ」
「人を殺すための武だ」
「殺して初めて完成されるはず」
宗一郎が動かない両腕を見下ろす
「あなたとて……」
「違うわよ」
「なに?」
玲奈は宗一郎に悲しそうな目を向けた
「あなたってお父さんに少し似てるわね」
「確かに父が目指した天心流は」
「相手を殺すことを目指していた」
「でもね……」
玲奈が自分の指を見る
その指には宗一郎の血がついている
「父は優しいから」
「殺せなかったのよ」
「そんな父だから」
「お母さんも私も」
「父が大好きなままなの」
「あなたもさ」
「少しぐらい足を止めてもがいても」
「見捨てない人をみつけたら?」
「……なんだ……それは」
「あなたも気づいてないでしょ」
「……なにを……」
「首を刺す前に声を掛けて避けさせた」
「私に殺されると思ったら」
「安心した声だったわよ」
「それは……」
「それに私の天心流は」
「もう違うから」
「もう……違う?」
「あなたも知ってるでしょ」
玲奈が右目だけで宗一郎を見る
「私」
「先生やってるの」
「……それが?」
「最初は生活のためだったんだけどね」
玲奈が少しだけ笑った
「やってみると」
「案外やりがいがあってさ」
「面倒な生徒ばっかりだけど」
「見てると放っておけないし」
「少しずつ成長していくのを見るのも」
「悪くないのよ」
右目をゆっくりと瞬かせる
「このまま先生として」
「頑張っちゃおうかな~」
「なんて思ってるわけ」
宗一郎が玲奈を見つめる
その時襟元から細い紐が垂れた
宗一郎がその紐を口へくわえて強く引こうとする
玲奈の指が動いた
シュッ!
紐が途中から切断された
切れた先端が宗一郎の口元から落ちる
「なっ……」
宗一郎の懐の隙間に小さな黒い筒が見えていた
紐を引けば中に仕込んだ火薬へ火が入る仕掛け
玲奈が大きなため息をついた
「本当はお仕事以外で指導はしないんだけど」
「あなたのお父さんには恩があるのよね……」
宗一郎の前で改めて背筋を伸ばした
まるで教室で生徒を叱る時のように
人差し指を立てた
「今日は特別に」
「時間外労働してあげるわ」
そして宗一郎をまっすぐ指さした
「宗一郎君」
「人を殺してはいけません!」
宗一郎が目を丸くする
「自分を殺してもいけません!」
玲奈がさらに声を強める
「自爆なんて」
「先生が絶対に許しませんよ!」
宗一郎は呆然と玲奈を見上げていた
「せん……せい?」
玲奈が満足そうに頷いた
「親や先祖がそうだからって」
「自分までそうである必要とかなくない?」
「私たちってもっと自由でいいのよ」
玲奈が宗一郎へ背を向ける
「じゃあ」
「そういうことで」
「私の指導に従って」
「これからは令和の時代に生きていることを自覚し」
「家族を愛する普通の人として」
「清く正しく生きるように」
食堂の出口へ向かって歩き出した
その背中へ宗一郎が声をかける
「玲奈さん」
「え?」
玲奈が振り返る
宗一郎は両腕を垂らし両膝を床についたまま
少しも動けない
それでも顔だけを上げて
玲奈をまっすぐ見ていた
「父は病に伏せており」
「現在、榊の家は私が取り仕切っています」
「は?」
「いずれ正式に」
「榊の当主となる身です」
「……それが?」
「榊家は九条家ほどではありませんが」
「都内に広大な土地を所有しております」
「働かずとも」
「生活に困ることはありません」
「それなりの贅沢もできます」
玲奈の眉が寄る
「ちょっと待って」
「さっきから何の話?」
「こう見えて」
「私は綺麗好きです」
「掃除は苦にしません」
「知らないわよ」
「日本料理であれば」
「一通り心得があります」
「タバコは吸いません」
「酒は嗜みますが深酒はしない」
「からかってんの?」
「どのようなことでも」
「無理強いをすることはいたしません」
宗一郎は真剣な顔のまま続ける
「次」
「いつ会ってもらえますか?」
沈黙
玲奈は何も言わない
宗一郎は真剣な表情で答えを待っている
長い
長い
沈黙のあと
なにかに気づいて玲奈の頬が引きつった
「もう会えません!」
「私は生徒の指導と父の更生だけで手いっぱいです!」
そう言い放ち
玲奈は逃げるように食堂を飛び出した
扉が勢いよく閉まる
一人残された宗一郎は跪いたまま
閉じられた扉を見る
そして
声を上げて笑い始めた
手には千鶴から渡された一通の手紙
歩きながらもう一度
その文面へ目を落とす
達筆な文字で書かれているのは
食事への誘いと待っている部屋の場所
そして
最後に記された榊宗一郎の名前
「食事ねえ……」
玲奈が小さく呟く
どう考えても食事だけで済むとは思えない
それでも足を止めるつもりはなかった
手紙を折り畳み道着の懐へ入れる
長い通路には誰の姿もない
玲奈の靴音だけが静かな屋敷の中へ響いている
やがて通路の奥に一人の使用人が立っているのが見えた
玲奈の姿を確認すると深く頭を下げる
「桐生玲奈様ですね」
「そうだけど」
「宗一郎様がお待ちしております」
使用人がすぐ横の大きな扉へ手を添えた
「こちらへどうぞ」
扉が静かに開かれる
その向こうには広い食堂があった
玲奈は一度だけ大きく息を吐く
「本当に」
「ろくなデートにならなそうね」
そして案内された食堂へ入った
長い食卓の奥には宗一郎が一人で座っていた
目の前には豪華な懐石料理が並んでいる
向かいの席にもまったく同じ料理
宗一郎が静かに立ち上がる
「桐生玲奈殿」
「お待ちしておりました」
「それはどうも」
玲奈は勧められるまま向かいの席へ座った
食堂には使用人の姿もなく二人きり
「飲み物は何がお好みかな?」
「いいワインがありますよ」
「お酒は飲まないから」
「水をちょうだい」
宗一郎の眉がわずかに動いた
「水ですか」
「なによ」
「駄目なの?」
「いえ」
宗一郎が用意されていた呼び鈴を鳴らし使用人に指示をする
少しして使用人がグラスに水を入れて運んできた
玲奈はそれを受け取る
ごく、ごく、ごく
喉を鳴らして一気に飲み干した
「ふう」
グラスを食卓へ置く
「おかわりを持ってこさせましょう」
「いらないわ」
「一緒に飲んで欲しそうだったから」
「飲んであげただけ」
「それで……」
「私に何の用?」
「本当に一緒に食事をして飲みたかった……」
「なんて話じゃないでしょ」
「もちろん」
宗一郎が玲奈をまっすぐに見る
「桐生玲奈殿」
「私と立ち合っていただきたい」
玲奈が箸を取る
目の前の料理を一口食べた
「おいしいわね」
「それは光栄だ」
「光栄……ね……」
玲奈はもう一口、料理を口へ運んだ
ゆっくりと噛みしめ
味わってから飲み込む
それから宗一郎へ目を向けた
「回りくどい男って苦手なのよね」
「こっちもそのつもりで来たんだから」
「普通に挑んで来ればいいじゃない」
「わざわざ私を食事に誘うなんて」
「何かの趣向のつもり?」
「大変失礼しました」
「これは出陣の膳です」
「なに?」
「最後の晩餐というやつですよ」
「私は……」
宗一郎の目が静かに細くなる
「あなたとの殺し合いを望みます」
玲奈の箸が止まった
少しの間
宗一郎の顔を見つめる
「うわ~」
露骨に嫌そうな顔をした
「史上最悪の告白ね」
宗一郎が続ける
「あなたになら」
「殺されてもいいと思った」
「お断りします」
「私」
「刑務所なんか嫌よ」
「ご安心ください」
「君が私を殺した場合は自殺として処理するよう」
「準備してあります」
「そういう問題?」
「人生で一番ドン引きしてるんですけど」
宗一郎が自分の胸へ手を当てる
「逆に私が君を殺した場合は自首するつもりです」
玲奈が箸を食卓へ置く
「私の話聞こえてる?」
「お断りよ!」
宗一郎が静かに立ち上がった
「そうですか」
「それは残念です」
食卓の下で宗一郎の足が動いた
長い食卓が勢いよく蹴り上げられる
食卓の上にあったものが一斉に宙を舞った
「ちょっ!」
玲奈が椅子を蹴って後ろへ跳ぶ
熱い汁が足元へ降り注ぐ
次の瞬間
皿が玲奈目掛けて飛んできた
一枚目
玲奈が首を傾けてかわす
二枚目
避けた先へ飛んでくる
玲奈の指が走った
バキッ!
皿が中央から裂ける
二つに割れた破片が玲奈の両側を通過した
三枚目
玲奈が人差し指を皿の縁へ当てる
指先を滑らせるように動かす
皿の軌道が変わり壁へ当たって砕け散る
その陰に一本の箸が隠れていた
「っ!」
玲奈が顔を反らす
鋭く削られた箸の先端が左の頬をかすめた
細い傷が走る
血が一筋
頬を伝った
「抵抗しなければ」
宗一郎が一気に踏み込んでくる
「君は死ぬよ」
右手には寸鉄が握られていた
短い鉄の先端を拳から突き出すように構えている
寸鉄を握り込んだ右拳が玲奈の喉へ放たれた
玲奈がその右腕へ手を触れる
拳の勢いへ逆らわず
そのまま横へ流す
宗一郎の体が崩れて大きく泳いだ
「っ!」
寸鉄が玲奈の喉元を外れ空を切った
その瞬間
玲奈の右手が動いた
開かれた指が宗一郎の右腕へ振り下ろされる
ざくっ!
袖が裂け肩口から肘へ向かって
その下の皮膚まで大きく引き裂かれ血が飛んだ
「ぐっ……!」
宗一郎は崩れた体を無理やり立て直す
一歩
二歩
玲奈から離れた
その離れ際
左手が袖へ入る
小さな黒い玉を取り出し
玲奈の顔へ投げつける
「また――」
玲奈が反射的に指を伸ばす
黒い玉を裂こうとした
その直前玉が破裂した
パッ!
食堂が真っ白な光で満たされる
「っ!」
玲奈が両目を押さえた
視界が白く焼きついている
何も見えない
「目潰し……」
宗一郎は床に落ちた皿を拾い上げる
一枚
玲奈へ投げつけた
玲奈は目が見えない
皿が無防備な肩へ当たって砕けた
「ぐっ!」
二枚目
腹へ当たる
三枚目
太腿
四枚目
胸元
次々と皿が玲奈へ投げつけられる
玲奈は両腕で頭部を守る
まったく避けられない
皿が砕けるたびに破片が服と皮膚を切り裂く
最後の一枚が脇腹へ直撃した
「うっ……!」
玲奈が痛みに耐えきれず片膝をついた
その瞬間
急に静かになった
皿が飛んでこない
足音もない
衣擦れの音すら聞こえない
宗一郎は呼吸まで抑えていた
玲奈から完全に気配を消す
傷ついた右腕から落ちる血を左腕で受け止める
音を立てずに玲奈の背後へ回った
玲奈は片膝をついたまま両目を閉じている
宗一郎が寸鉄を握った右手を
ゆっくりと振り上げる
狙うのは首の後ろ
寸鉄の先端が玲奈の頸椎へ向けられた
宗一郎が小さな声で告げる
「残念だ」
玲奈がぴくりと反応する
「君に」
「殺されたかった」
右手が振り下ろされた
寸鉄が玲奈の首へ突き刺さる
ぶつっ!
「――っ!」
玲奈の体が揺れた
宗一郎の目が見開かれる
違う
狙った場所ではない
首の中央の頸椎を狙ったはずだった
しかし寸鉄が刺さったのは
そこから右へ外れた場所
宗一郎が振り下ろす直前
玲奈はほんのわずかに首を傾けていた
致命傷となる位置をずらされた
宗一郎の右手に玲奈の手が触れている
寸鉄を受けながら腕を捕らえていた
「なっ――」
玲奈の体が動いた
宗一郎の力を振り下ろされた方向へ流す
宗一郎の重心が大きく崩れた
上半身が玲奈の前へ投げ出される
玲奈の指が宗一郎へ迫る
宗一郎が小さく笑った
「ああ」
「よかった」
玲奈の指先が宗一郎の首へ向かう
宗一郎は目を閉じた
しかし指が入ったのは
首ではなかった
右腕の付け根
傷ついた肩の奥へ玲奈の指が深く沈む
ざくっ!
「ぐあっ!」
宗一郎が左手で玲奈を突き飛ばし距離を取った
右腕が力なく垂れ下がっている
指一本動かなくなった右手から寸鉄が床へ落ちた
玲奈はすぐに立ち上がった
両目はまだ閉じたまま
それでも宗一郎へ向かってくる
「なぜだ」
宗一郎が後ろへ下がる
「なぜ」
「首を狙わなかった?」
玲奈は答えない
宗一郎の声を頼りに一気に距離を詰める
宗一郎が左拳を振るう
玲奈の髪をかすめ
結ばれていた髪がほどけて広がった
玲奈はそのまま宗一郎の右側をすり抜ける
低い姿勢
指先が宗一郎の右足首をなぞる
ぶつっ!
「ぐっ!」
右足のアキレス腱が裂けた
宗一郎の右膝が床へ落ちる
それでも宗一郎は止まらない
左手を袖へ入れる
取り出した苦無を玲奈へ投げつけた
空気を切り裂き苦無が玲奈へ迫る
玲奈の右目がほんの少しだけ開いた
まだぼやけている
それでも苦無の黒い影を捉えた
玲奈が右腕を前へ出す
その腕を苦無の動きに合わせて流す
最後に人差し指が苦無の側面へ触れた
カンッ!
苦無の軌道が変わる
玲奈の横を通過し
そのまま宗一郎へ返っていく
「なっ!」
宗一郎が慌てて左腕を上げた
苦無が左腕へ突き刺さる
「ぐっ!」
その一瞬
玲奈が踏み込み宗一郎の懐へ入る
玲奈の指が左腕の付け根へ振り下ろされた
ざくっ!
肩口が裂ける
宗一郎の左腕から力が失われた
苦無が刺さったまま
左腕もだらりと垂れ下がる
両腕の重さに耐えかねるように
宗一郎は床へ両膝をついた
玲奈がその前に立つ
両目の視力はまだ戻りきっていない
右目だけがわずかに開いている
その目で跪いた宗一郎を見下ろした
宗一郎が荒い息を吐く
「あなたの勝ちだ」
乞うように顔を上げた
「殺してくれ」
玲奈が自分の首の後ろへ手を回す
寸鉄で刺された傷を押さえると
指の間から血がにじんだ
「さっきも言ったでしょ」
「嫌よ」
「なぜだ」
宗一郎が玲奈を見る
「天心流の本質は我が榊と同じ」
「人を殺すための武だ」
「殺して初めて完成されるはず」
宗一郎が動かない両腕を見下ろす
「あなたとて……」
「違うわよ」
「なに?」
玲奈は宗一郎に悲しそうな目を向けた
「あなたってお父さんに少し似てるわね」
「確かに父が目指した天心流は」
「相手を殺すことを目指していた」
「でもね……」
玲奈が自分の指を見る
その指には宗一郎の血がついている
「父は優しいから」
「殺せなかったのよ」
「そんな父だから」
「お母さんも私も」
「父が大好きなままなの」
「あなたもさ」
「少しぐらい足を止めてもがいても」
「見捨てない人をみつけたら?」
「……なんだ……それは」
「あなたも気づいてないでしょ」
「……なにを……」
「首を刺す前に声を掛けて避けさせた」
「私に殺されると思ったら」
「安心した声だったわよ」
「それは……」
「それに私の天心流は」
「もう違うから」
「もう……違う?」
「あなたも知ってるでしょ」
玲奈が右目だけで宗一郎を見る
「私」
「先生やってるの」
「……それが?」
「最初は生活のためだったんだけどね」
玲奈が少しだけ笑った
「やってみると」
「案外やりがいがあってさ」
「面倒な生徒ばっかりだけど」
「見てると放っておけないし」
「少しずつ成長していくのを見るのも」
「悪くないのよ」
右目をゆっくりと瞬かせる
「このまま先生として」
「頑張っちゃおうかな~」
「なんて思ってるわけ」
宗一郎が玲奈を見つめる
その時襟元から細い紐が垂れた
宗一郎がその紐を口へくわえて強く引こうとする
玲奈の指が動いた
シュッ!
紐が途中から切断された
切れた先端が宗一郎の口元から落ちる
「なっ……」
宗一郎の懐の隙間に小さな黒い筒が見えていた
紐を引けば中に仕込んだ火薬へ火が入る仕掛け
玲奈が大きなため息をついた
「本当はお仕事以外で指導はしないんだけど」
「あなたのお父さんには恩があるのよね……」
宗一郎の前で改めて背筋を伸ばした
まるで教室で生徒を叱る時のように
人差し指を立てた
「今日は特別に」
「時間外労働してあげるわ」
そして宗一郎をまっすぐ指さした
「宗一郎君」
「人を殺してはいけません!」
宗一郎が目を丸くする
「自分を殺してもいけません!」
玲奈がさらに声を強める
「自爆なんて」
「先生が絶対に許しませんよ!」
宗一郎は呆然と玲奈を見上げていた
「せん……せい?」
玲奈が満足そうに頷いた
「親や先祖がそうだからって」
「自分までそうである必要とかなくない?」
「私たちってもっと自由でいいのよ」
玲奈が宗一郎へ背を向ける
「じゃあ」
「そういうことで」
「私の指導に従って」
「これからは令和の時代に生きていることを自覚し」
「家族を愛する普通の人として」
「清く正しく生きるように」
食堂の出口へ向かって歩き出した
その背中へ宗一郎が声をかける
「玲奈さん」
「え?」
玲奈が振り返る
宗一郎は両腕を垂らし両膝を床についたまま
少しも動けない
それでも顔だけを上げて
玲奈をまっすぐ見ていた
「父は病に伏せており」
「現在、榊の家は私が取り仕切っています」
「は?」
「いずれ正式に」
「榊の当主となる身です」
「……それが?」
「榊家は九条家ほどではありませんが」
「都内に広大な土地を所有しております」
「働かずとも」
「生活に困ることはありません」
「それなりの贅沢もできます」
玲奈の眉が寄る
「ちょっと待って」
「さっきから何の話?」
「こう見えて」
「私は綺麗好きです」
「掃除は苦にしません」
「知らないわよ」
「日本料理であれば」
「一通り心得があります」
「タバコは吸いません」
「酒は嗜みますが深酒はしない」
「からかってんの?」
「どのようなことでも」
「無理強いをすることはいたしません」
宗一郎は真剣な顔のまま続ける
「次」
「いつ会ってもらえますか?」
沈黙
玲奈は何も言わない
宗一郎は真剣な表情で答えを待っている
長い
長い
沈黙のあと
なにかに気づいて玲奈の頬が引きつった
「もう会えません!」
「私は生徒の指導と父の更生だけで手いっぱいです!」
そう言い放ち
玲奈は逃げるように食堂を飛び出した
扉が勢いよく閉まる
一人残された宗一郎は跪いたまま
閉じられた扉を見る
そして
声を上げて笑い始めた


