僕は九条の家へ戻った
門をくぐって玄関へ向かう
何人もの使用人が僕の姿を見るなり頭を下げた
「お帰りなさいませ」
「伊織様」
懐かしい
いや
懐かしいというのもおかしいか
ここが僕の家なんだから
靴を脱ぐ
誰かがすぐに靴を揃える
廊下を歩く
誰も余計なことは言わない
誰も僕の前を歩かない
誰も僕の横にも並ばない
僕の視界に入ることすら避けている
まあ……当然か
僕がそうなるようにしてきたんだから
少し後ろを千鶴が付いてくる
昔からそうだった
彼女だけはいつも僕についてくる
「伊織様」
「何?」
「お部屋は以前のままにしてあります」
「そう」
「お着替えもご用意してあります」
「分かった」
それだけで会話は終わった
千鶴も高梨家にいたときとは違う
僕と一緒に戻ってくれたようだ
僕は襖を開けて自分の部屋へ入った
何も変わっていない
全部僕が出ていった時のまま
部屋に入ってすぐ横に着物が置いてある
僕は服を脱いでそれに着替えた
少しして扉が開いて千鶴が入ってくる
頭を下げて僕の着替えを取る
そのまま何も言わず出ていった
僕は閉まった襖を見る
いつものことだ
僕が脱いだ服は千鶴が片づける
そして誰かが洗濯して
誰かが綺麗に畳んで
また戻ってくる
関わった人間の顔など見えない
名と顔が合うのは千鶴だけ
僕は何もしなくていい
それが当たり前だった
なのになぜか襖を見たまま
少しだけ落ち着かなかった
美緒さんなら怒るだろうな
脱いだものくらい自分で片づけなさい
きっとそう言う
「くだらない」
小さく呟いた
元に戻っただけだ
これが僕の生活だ
夕食は長い食卓に料理が並ぶ
どれも綺麗だった
器も、盛り付けも
僕は箸を取って一口食べる
美味しい
当然だ九条家では最高の料理しか出ない
もう一口食べる
静かだった
聞こえるのは箸が器に触れる音
それだけ
誰も僕の料理を取らない
誰も大きいとか小さいとか文句を言わない
誰も横から手を伸ばしてこない
僕たちが食べる姿を嬉しそうに眺める彼女もいない
僕は箸を置いた
「伊織様」
少し離れた場所から千鶴の声
「何?」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや」
料理を見る
「美味しいよ」
「左様でございますか」
千鶴が頭を下げた
それだけ
僕はまた箸を取って料理を口へ運ぶ
美味しいのに……味がしない
頭の中に声が浮かぶ
それ俺の!
取るなよ!
まだあるでしょ!
伊織! お前取るの早すぎ!
なぜこんなことばかり思い出す
くだらない
食事なんて食べるだけだ
楽しい必要なんてない
食べ終えて箸を置く
すぐに千鶴が皿を下げて出て行った
一人になってから呟く
「ごちそうさま」
誰に言ったのか
自分でも分からなかった
夜、風呂へ入る
湯船は広くて足を伸ばしてもまだ余る
湯の温度もちょうどいい
僕が入る時間に合わせて全て整えられている
以前はこれが普通だった
僕は湯へ肩まで浸かる
静かだった
なぜか、妙に落ち着かない
高梨家の風呂はもっと狭かった
弟たちが入った後なんて
人の気配に溢れてた
脱衣所にも誰かの服が転がっていた
いつも美緒さんが何かを怒っていた
僕がタオルを間違えた時も怒られた
思い出して目を閉じる
なんなんだ
僕はここへ戻ってきたかったはずだ
いや違う
戻ってきたかったわけじゃない
戻るしかなかったんだ
目を開けて天井を見る
美緒さんは僕を見て泣いていた
湊と師匠が僕と美緒さんの間に立った
あれが答えだ
僕は湯から上がって脱衣所へ出る
着替え、タオル
全て綺麗に準備され置かれている
服を着た後に
使ったタオルを手に持った
使った後はきちんと干せ!
そう美緒さんに言われた
タオルは洗うのが大変だから
二日に一回の交換がルールだった
タオルには各々の家族の名前が縫い付けてあった
僕のタオルにはひらがなでいおりと
美緒さんが縫い付けてくれた
タオルを干す場所にも
ひらがなでいおりと書いてあった
でもここには干す場所なんてない
使ったタオルを籠に置いた
僕は何をしているんだろう
しばらく籠を見る
そして部屋へ戻った
次の日
朝の光に目を覚ます
当然のように人の気配がない
部屋を出る
静かな廊下、階段
静かな朝食
部屋へ戻り本を読む
昼に庭を見て食事をする
夕方に風呂へ入る
そして夜になる
誰も僕になにも言わない
誰にも何も言わせないようにしたのは僕だから
快適なはずだった
なのに何かがずっと足りない
その夜、ようやく分かった
ここは何も変わっていない
変わったのは僕だ
机に座って本を読んでも頭に入らない
椅子へ背を預ける
「千鶴」
扉の向こうからすぐに声が返った
「はい」
襖が開く
千鶴が静かに入ってくる
僕から少し離れた場所で止まり頭を下げる
「お呼びでしょうか」
「うん」
千鶴を見る
昔から変わらない
ずっとこの距離
僕が呼べば来る
呼ばなければ少し離れた場所にいる
僕がどんな人間なのか千鶴は知っている
後継者となるために
九条家でしてきたことも
僕が誰かを潰す時
どんな顔をするのかも知っている
時には力を振るって黙らせたことも知っている
それでも千鶴だけは昔から変わらない
そして……
伊織ちゃん
そう呼んでくれた
千鶴は変わっていない
あの時から僕の何をみても
ずっと……
「千鶴」
「はい」
「君は」
僕は言葉を探している
珍しい
僕が言葉を探すなんて
「僕がどういう人間か知っているよね」
千鶴が少しだけ目を上げる
「はい」
「昔から知っております」
「怖くない?」
「怖い時もございます」
即答だった
僕は少し驚く
「そうなんだ」
「はい」
真っすぐ僕を見る
「それでも」
「私は伊織様のお側におります」
やっぱりそうだ
僕は勘違いしていた
美緒さんなら僕を受け入れてくれる
そう勝手に思った
でも最初からそんな人は
一人しかいなかったんだ
僕は千鶴を見る
「千鶴」
「はい」
「これからも」
少しだけ息を吸う
「ずっと」
「僕の傍にいてくれないか」
千鶴の目がわずかに動いた
「僕には」
「君が必要なんだと思う」
千鶴は何も言わない
「だから」
僕ははっきり言った
「僕と」
「一緒になってくれないか」
静かだった
千鶴が僕を見ている
「もはや……」
「九条家で僕に異を唱えられる者はいない」
「榊の出自など気にする必要はない」
返事はすぐには来なかった
僕は待った
やがて千鶴がゆっくり口を開いた
「嫌です」
僕は瞬きをした
「え?」
聞き間違えたのかと思った
「今……なんて?」
「嫌です」
はっきりともう一度
同じ言葉を千鶴は言った
「千鶴?」
千鶴が僕を見る
そしてその時
「伊織ちゃん」
息が止まった
この呼び方
僕に仕える人間としてではなく
ずっと昔から僕を知っている千鶴として
僕に話しかけている
「それは」
「ずるいです」
「ずるい?」
「うん」
千鶴の声がいつものものとは違っていた
「私なら」
「伊織ちゃんを拒絶しないと思いましたか?」
「美緒に拒絶されたと思ったから」
「次は私」
「だから」
「私を選ぶんですよね?」
「違う」
すぐに答えた
「僕は――」
「違いません」
言葉を止められた
千鶴に僕の言葉を止められた
いつぶりだろう
いや
初めてかもしれない
「伊織ちゃんは」
「私よりも美緒が好き」
「僕は……」
「美緒が好きでしょ?」
「美緒が好きだよね?」
「違うなら言葉にしてください」
「美緒より千鶴が好きだって」
「言ってください」
僕は……何も言えなかった
千鶴は僕を見る
「私」
小さく息を吐いた
「伊織ちゃんが大好きだよ」
胸が少し動いた
「ずっと」
「ずっと好きです」
「だから……」
千鶴の目が真っすぐ僕を見る
「美緒さんの代わりなんて」
「ごめんです!」
「そんなんじゃ……」
「代わりです!」
「違うなら言ってください」
「美緒より千鶴を選ぶって」
そう言われて
また僕は何も言えなくなった
千鶴が少しだけ笑って僕を見つめる
寂しそうに
でもいつもの従者としての笑い方ではなかった
「ほら」
「言えない……」
「でも」
僕は千鶴を見る
「君だけだったんだ」
「何がですか」
「僕を……」
喉が少しだけ詰まる
「本当の僕を知っていて」
「それでも傍にいてくれるのは」
千鶴の目が少し揺れた
「私は知っています」
「伊織ちゃんが」
「どれだけ冷たい人なのか」
「どれだけ怖いかも」
「自分より弱い人を平気で見下すことも」
「相手が二度と逆らえなくなるまで追い詰めることも」
「聞き分けが悪いと」
「後悔するまで相手を刀で殴ることも」
「美緒以外の人間に……興味が薄いことも」
「全部知ってる」
千鶴はそれでも僕を見る
「私は全部知っています」
「それでも好きです」
「だったら――」
「だから嫌です」
また止められた
「好きだから」
千鶴が言う
「美緒の代わりにはなりたくない」
「伊織ちゃんが私を見て」
「私だから選んでくれるなら」
「私だから寄り添えるなら」
一度言葉を止める
「私は」
「地獄にだって一緒に行く」
「でも」
「今の伊織ちゃんは」
「私を見ていません」
千鶴は少しだけ僕から離れた
一歩
二歩
そして姿勢を正す
さっきまでの千鶴が消える
いつもの距離、姿勢、顔で深く頭を下げた
「伊織様」
「私はこれまで通り伊織様にお仕えいたします」
千鶴は頭を下げたまま続ける
「そしていつか」
「伊織様に伴侶が必要となり」
「九条の家を継ぐお子を望まれるのでしたら」
少しだけ間を置いた
「そのお相手として」
「私をお選びになることは」
「決してお断りいたしません」
「それは……」
「美緒の代わりでは……ありませんから」
静かな声だった
「伊織様が九条の家のために」
「必要な相手として私をお選びになるのであれば」
「私はその役目を」
「喜んでお受けいたします」
千鶴は深く頭を下げた
もう伊織ちゃんとは呼んでくれなかった
いつもの千鶴だった
分からない
僕を好きだと言った
それなのに僕が選ぼうとしたら拒絶した
「僕は……」
言葉が続かなかった
千鶴は静かに頭を下げた
「失礼いたします」
扉が閉まる
僕だけが部屋に残った
静かだった
九条家はこんなにも静かだったんだ
僕は机を見る
美緒さんの顔が浮かんだ
答えは分かったはずだった
僕には千鶴しかいない
なのにその千鶴が僕を拒絶した
僕は目を閉じる
美緒さんは今
何をしているんだろう
考えてすぐにやめた
もう僕には関係ない
僕は美緒さんの傍にはいられない
夢は終わったんだ
そのはずだ
なのに
胸の奥にあるこの感情だけが
いつまで経っても
消えてくれなかった
門をくぐって玄関へ向かう
何人もの使用人が僕の姿を見るなり頭を下げた
「お帰りなさいませ」
「伊織様」
懐かしい
いや
懐かしいというのもおかしいか
ここが僕の家なんだから
靴を脱ぐ
誰かがすぐに靴を揃える
廊下を歩く
誰も余計なことは言わない
誰も僕の前を歩かない
誰も僕の横にも並ばない
僕の視界に入ることすら避けている
まあ……当然か
僕がそうなるようにしてきたんだから
少し後ろを千鶴が付いてくる
昔からそうだった
彼女だけはいつも僕についてくる
「伊織様」
「何?」
「お部屋は以前のままにしてあります」
「そう」
「お着替えもご用意してあります」
「分かった」
それだけで会話は終わった
千鶴も高梨家にいたときとは違う
僕と一緒に戻ってくれたようだ
僕は襖を開けて自分の部屋へ入った
何も変わっていない
全部僕が出ていった時のまま
部屋に入ってすぐ横に着物が置いてある
僕は服を脱いでそれに着替えた
少しして扉が開いて千鶴が入ってくる
頭を下げて僕の着替えを取る
そのまま何も言わず出ていった
僕は閉まった襖を見る
いつものことだ
僕が脱いだ服は千鶴が片づける
そして誰かが洗濯して
誰かが綺麗に畳んで
また戻ってくる
関わった人間の顔など見えない
名と顔が合うのは千鶴だけ
僕は何もしなくていい
それが当たり前だった
なのになぜか襖を見たまま
少しだけ落ち着かなかった
美緒さんなら怒るだろうな
脱いだものくらい自分で片づけなさい
きっとそう言う
「くだらない」
小さく呟いた
元に戻っただけだ
これが僕の生活だ
夕食は長い食卓に料理が並ぶ
どれも綺麗だった
器も、盛り付けも
僕は箸を取って一口食べる
美味しい
当然だ九条家では最高の料理しか出ない
もう一口食べる
静かだった
聞こえるのは箸が器に触れる音
それだけ
誰も僕の料理を取らない
誰も大きいとか小さいとか文句を言わない
誰も横から手を伸ばしてこない
僕たちが食べる姿を嬉しそうに眺める彼女もいない
僕は箸を置いた
「伊織様」
少し離れた場所から千鶴の声
「何?」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや」
料理を見る
「美味しいよ」
「左様でございますか」
千鶴が頭を下げた
それだけ
僕はまた箸を取って料理を口へ運ぶ
美味しいのに……味がしない
頭の中に声が浮かぶ
それ俺の!
取るなよ!
まだあるでしょ!
伊織! お前取るの早すぎ!
なぜこんなことばかり思い出す
くだらない
食事なんて食べるだけだ
楽しい必要なんてない
食べ終えて箸を置く
すぐに千鶴が皿を下げて出て行った
一人になってから呟く
「ごちそうさま」
誰に言ったのか
自分でも分からなかった
夜、風呂へ入る
湯船は広くて足を伸ばしてもまだ余る
湯の温度もちょうどいい
僕が入る時間に合わせて全て整えられている
以前はこれが普通だった
僕は湯へ肩まで浸かる
静かだった
なぜか、妙に落ち着かない
高梨家の風呂はもっと狭かった
弟たちが入った後なんて
人の気配に溢れてた
脱衣所にも誰かの服が転がっていた
いつも美緒さんが何かを怒っていた
僕がタオルを間違えた時も怒られた
思い出して目を閉じる
なんなんだ
僕はここへ戻ってきたかったはずだ
いや違う
戻ってきたかったわけじゃない
戻るしかなかったんだ
目を開けて天井を見る
美緒さんは僕を見て泣いていた
湊と師匠が僕と美緒さんの間に立った
あれが答えだ
僕は湯から上がって脱衣所へ出る
着替え、タオル
全て綺麗に準備され置かれている
服を着た後に
使ったタオルを手に持った
使った後はきちんと干せ!
そう美緒さんに言われた
タオルは洗うのが大変だから
二日に一回の交換がルールだった
タオルには各々の家族の名前が縫い付けてあった
僕のタオルにはひらがなでいおりと
美緒さんが縫い付けてくれた
タオルを干す場所にも
ひらがなでいおりと書いてあった
でもここには干す場所なんてない
使ったタオルを籠に置いた
僕は何をしているんだろう
しばらく籠を見る
そして部屋へ戻った
次の日
朝の光に目を覚ます
当然のように人の気配がない
部屋を出る
静かな廊下、階段
静かな朝食
部屋へ戻り本を読む
昼に庭を見て食事をする
夕方に風呂へ入る
そして夜になる
誰も僕になにも言わない
誰にも何も言わせないようにしたのは僕だから
快適なはずだった
なのに何かがずっと足りない
その夜、ようやく分かった
ここは何も変わっていない
変わったのは僕だ
机に座って本を読んでも頭に入らない
椅子へ背を預ける
「千鶴」
扉の向こうからすぐに声が返った
「はい」
襖が開く
千鶴が静かに入ってくる
僕から少し離れた場所で止まり頭を下げる
「お呼びでしょうか」
「うん」
千鶴を見る
昔から変わらない
ずっとこの距離
僕が呼べば来る
呼ばなければ少し離れた場所にいる
僕がどんな人間なのか千鶴は知っている
後継者となるために
九条家でしてきたことも
僕が誰かを潰す時
どんな顔をするのかも知っている
時には力を振るって黙らせたことも知っている
それでも千鶴だけは昔から変わらない
そして……
伊織ちゃん
そう呼んでくれた
千鶴は変わっていない
あの時から僕の何をみても
ずっと……
「千鶴」
「はい」
「君は」
僕は言葉を探している
珍しい
僕が言葉を探すなんて
「僕がどういう人間か知っているよね」
千鶴が少しだけ目を上げる
「はい」
「昔から知っております」
「怖くない?」
「怖い時もございます」
即答だった
僕は少し驚く
「そうなんだ」
「はい」
真っすぐ僕を見る
「それでも」
「私は伊織様のお側におります」
やっぱりそうだ
僕は勘違いしていた
美緒さんなら僕を受け入れてくれる
そう勝手に思った
でも最初からそんな人は
一人しかいなかったんだ
僕は千鶴を見る
「千鶴」
「はい」
「これからも」
少しだけ息を吸う
「ずっと」
「僕の傍にいてくれないか」
千鶴の目がわずかに動いた
「僕には」
「君が必要なんだと思う」
千鶴は何も言わない
「だから」
僕ははっきり言った
「僕と」
「一緒になってくれないか」
静かだった
千鶴が僕を見ている
「もはや……」
「九条家で僕に異を唱えられる者はいない」
「榊の出自など気にする必要はない」
返事はすぐには来なかった
僕は待った
やがて千鶴がゆっくり口を開いた
「嫌です」
僕は瞬きをした
「え?」
聞き間違えたのかと思った
「今……なんて?」
「嫌です」
はっきりともう一度
同じ言葉を千鶴は言った
「千鶴?」
千鶴が僕を見る
そしてその時
「伊織ちゃん」
息が止まった
この呼び方
僕に仕える人間としてではなく
ずっと昔から僕を知っている千鶴として
僕に話しかけている
「それは」
「ずるいです」
「ずるい?」
「うん」
千鶴の声がいつものものとは違っていた
「私なら」
「伊織ちゃんを拒絶しないと思いましたか?」
「美緒に拒絶されたと思ったから」
「次は私」
「だから」
「私を選ぶんですよね?」
「違う」
すぐに答えた
「僕は――」
「違いません」
言葉を止められた
千鶴に僕の言葉を止められた
いつぶりだろう
いや
初めてかもしれない
「伊織ちゃんは」
「私よりも美緒が好き」
「僕は……」
「美緒が好きでしょ?」
「美緒が好きだよね?」
「違うなら言葉にしてください」
「美緒より千鶴が好きだって」
「言ってください」
僕は……何も言えなかった
千鶴は僕を見る
「私」
小さく息を吐いた
「伊織ちゃんが大好きだよ」
胸が少し動いた
「ずっと」
「ずっと好きです」
「だから……」
千鶴の目が真っすぐ僕を見る
「美緒さんの代わりなんて」
「ごめんです!」
「そんなんじゃ……」
「代わりです!」
「違うなら言ってください」
「美緒より千鶴を選ぶって」
そう言われて
また僕は何も言えなくなった
千鶴が少しだけ笑って僕を見つめる
寂しそうに
でもいつもの従者としての笑い方ではなかった
「ほら」
「言えない……」
「でも」
僕は千鶴を見る
「君だけだったんだ」
「何がですか」
「僕を……」
喉が少しだけ詰まる
「本当の僕を知っていて」
「それでも傍にいてくれるのは」
千鶴の目が少し揺れた
「私は知っています」
「伊織ちゃんが」
「どれだけ冷たい人なのか」
「どれだけ怖いかも」
「自分より弱い人を平気で見下すことも」
「相手が二度と逆らえなくなるまで追い詰めることも」
「聞き分けが悪いと」
「後悔するまで相手を刀で殴ることも」
「美緒以外の人間に……興味が薄いことも」
「全部知ってる」
千鶴はそれでも僕を見る
「私は全部知っています」
「それでも好きです」
「だったら――」
「だから嫌です」
また止められた
「好きだから」
千鶴が言う
「美緒の代わりにはなりたくない」
「伊織ちゃんが私を見て」
「私だから選んでくれるなら」
「私だから寄り添えるなら」
一度言葉を止める
「私は」
「地獄にだって一緒に行く」
「でも」
「今の伊織ちゃんは」
「私を見ていません」
千鶴は少しだけ僕から離れた
一歩
二歩
そして姿勢を正す
さっきまでの千鶴が消える
いつもの距離、姿勢、顔で深く頭を下げた
「伊織様」
「私はこれまで通り伊織様にお仕えいたします」
千鶴は頭を下げたまま続ける
「そしていつか」
「伊織様に伴侶が必要となり」
「九条の家を継ぐお子を望まれるのでしたら」
少しだけ間を置いた
「そのお相手として」
「私をお選びになることは」
「決してお断りいたしません」
「それは……」
「美緒の代わりでは……ありませんから」
静かな声だった
「伊織様が九条の家のために」
「必要な相手として私をお選びになるのであれば」
「私はその役目を」
「喜んでお受けいたします」
千鶴は深く頭を下げた
もう伊織ちゃんとは呼んでくれなかった
いつもの千鶴だった
分からない
僕を好きだと言った
それなのに僕が選ぼうとしたら拒絶した
「僕は……」
言葉が続かなかった
千鶴は静かに頭を下げた
「失礼いたします」
扉が閉まる
僕だけが部屋に残った
静かだった
九条家はこんなにも静かだったんだ
僕は机を見る
美緒さんの顔が浮かんだ
答えは分かったはずだった
僕には千鶴しかいない
なのにその千鶴が僕を拒絶した
僕は目を閉じる
美緒さんは今
何をしているんだろう
考えてすぐにやめた
もう僕には関係ない
僕は美緒さんの傍にはいられない
夢は終わったんだ
そのはずだ
なのに
胸の奥にあるこの感情だけが
いつまで経っても
消えてくれなかった


