いまさら家に男が一人増えたところで構いません!

師匠がもう一度右手を上げた

湊と黒岩の視線がぶつかる

「始め!」

師匠の声が響いた

同時に湊の姿が消えた

先ほどと同じ

相手の意識から外れ一瞬で間合いを消す

そう思った

だけど今度は黒岩の目が湊の姿を追っていた

湊が黒岩の懐へ入る

黒岩の右拳が動いた

まるで

湊がそこへ現れることを最初から知っていたみたいに

真っすぐ湊の胸へ向かって右の中段突きが放たれる

「っ!」

湊が慌てて両腕を交差した

その上へ黒岩の拳が突き刺さる

ドンッ!!

重い音が響いて湊の体が地面から浮いた

そのまま数メートル後ろへ吹き飛ばされる

砂利の上へ足をつく

だけど勢いを殺しきれない

ざざざざっ!

両足で砂利を削りながら後ろへ滑っていく

ようやく止まった時には

黒岩との間に大きな距離ができていた

湊は交差していた両腕を下ろす

わずかに体を丸め浅く咳き込んだ

「湊!」

陸の声が響いた

「大丈夫だ」

湊が手の甲で口元を拭う

その手にはわずかに血がついていた

それでも湊は笑っている

「一回見ただけで」
「もう追いついてくんのかよ」

湊が痛む両腕を軽く振る

「師範代ってのは伊達じゃねえな」

黒岩は構えを崩さなかった

「湊殿の歩法は」
「単なる速さによるものではない」

黒岩が静かに言う

「緩急」
「視線」
「呼吸」
「そして相手の意識が途切れる」
「ほんのわずかな隙間」

黒岩の目が湊の足元へ向けられる

「湊殿はそこを天才的にすり抜ける」
「私ですらあなたを認識から外され」
「一度は間合いを消された」

黒岩が湊を真っすぐに見る

「なんと素晴らしい才能か」
「この黒岩」
「これまで多くの門下を指導してきましたが」
「湊殿ほどの才を持つ者は他に記憶がない」

右拳をさらに強く握る

「あなたと立ち合えること」
「光栄に存じます」

「そりゃ」
「どうも」

湊が笑う

黒岩の姿勢がさらに低くなる

「ただし」

声が変わった

「いささか」
「若すぎましたな」

湊の笑みが止まる

「この黒岩」
「未熟な湊殿に後れを取るほど」
「日々の鍛錬を怠ってはおりません」

黒岩の右足が砂利を踏みしめる

「ご覚悟!」

黒岩が仕掛けた

速い!

大きな体が一気に湊へ迫る

右拳が湊の顔面へ突き出された

湊が頭を横へずらしてかわす

黒岩は突き出した右腕を折り畳み

そのまま肘を横へ振り抜いた

湊のこめかみを狙っている

湊は身を沈めた

太い肘が頭上を通り過ぎる

そこへ黒岩の左膝が跳ね上がった

狙いは低くなった湊の顔

湊が横へ跳んでかわす

黒岩は止まらない

折れた左手を使わず

全身を武器にして次々と攻撃を放っていく

湊はそのすべてをかわしていた

黒岩の攻撃が湊の服をかすめる

頬のすぐ横を通る

それでも一度も捉えられない

「すごい……」

陸が呟く

あれだけの攻撃を湊は全部かわしている

黒岩の右拳が湊の顔へ伸びる

湊が大きく身を沈めた

拳が髪をかすめる

そのまま地面へ片手をついて体をひねる

右脚が大きく跳ね上がった

「おらっ!」

バシッ!

湊の上段蹴りが黒岩の右側頭部に入った

そう思った

次の瞬間

黒岩の右腕が湊の脚を受け止めていた

「なっ!」

湊の目が見開かれる

黒岩が湊の右脚を脇へ抱え込む

右腕一本で逃げられないように締め上げた

「軽い」
「体はまだ子供ですな」

黒岩が湊の脚を持ち上げる

「やべっ――」

湊の体が簡単に宙へ浮いた

十三歳

どれだけ強くても

黒岩との体格差はあまりにも大きい

黒岩が腰を大きく回した

湊の体が振り回される

そして

「ふんっ!」

地面へ勢いよく叩きつけた

ドガンッ!!

庭全体が揺れたような音がした

砂利が周囲へ飛び散る

「湊!」

僕は思わず前へ出ようとした

その前へ剛志さんの太い腕が出る

「見てろ」

「でも!」

「まだ終わってねえ」

師匠は少しも動じていなかった

倒れている湊を真っすぐ見つめている

湊は砂利の上に倒れたまま動かなかった

冬弥兄さんが小さく鼻で笑う

「所詮は子供か」

黒岩はしばらく湊を見下ろしていた

やがて右拳を下ろす

そして冬弥兄さんの方へ歩き出そうとした

その時

かりっ

小さな音がした

黒岩の足が止まる

かりっ

もう一度

湊の指先が砂利を引っかいた

黒岩が振り返る

湊の右手が地面を掴んでいた

震える腕で支えながら

ゆっくりと上体を起こしていく

「湊……」

湊は片膝をついた

苦しそうに何度も息を吐く

それでも震える脚に力を込め

どうにか立ち上がった

背中から肩にかけて服が擦り切れていた

口元から血が一筋流れている

膝はまだ震えていた

それでも湊は黒岩を睨んでいた

「やめなさい」

黒岩が言った

「湊殿には素晴らしい才能がある」
「ここで無理をするべきではない」

湊が荒い息を吐く

「そうだよ」
「俺には才能がある」

黒岩がわずかに眉をひそめた

「何をやっても」
「誰より早くできた」

湊が震える足へ力を入れる

「相手がどこを見てるのか」
「何を考えてるのか」
「意識が外れる瞬間だって」
「なんとなく分かるんだよ」

湊が手の甲で口元の血を拭った

「そう」
「俺には才能がある」
「だから」

「なんです?」

湊が小さく笑った

「俺さ」
「姉ちゃんがいるんだよ」

「姉?」

「俺から見たらさ」

湊が黒岩を見たまま続ける

「全然」
「武術の才能なんかねえんだ」

僕は思わず湊を見る

美緒さんのことだ

「昔からそう思ってた」
「俺が一回でできることを」
「姉ちゃんは何度やってもできなかった」
「小さな足運びを馬鹿みたいに繰り返して」
「同じ技を馬鹿みたいに練習して」

湊の両足がゆっくり前後へ開く

「それしか」
「できねえくせに」

湊は誇らしそうな笑みを浮かべた

「これがまた強いんだよ」
「その一つで」
「俺に勝ったりするんだぜ」

黒岩が湊を見つめる

「何の話です?」

「だからさ」

湊の腰がゆっくりと落ちる

さっきまでとは構えが違う

僕はその立ち方を知っていた

美緒さんが師匠と戦った時の立ち方

「俺は姉ちゃんの弟だぜ」

湊の足がわずかに動く

小さな一歩

目立たない何の変哲もない足運び

「才能だけで」

さらに一歩

幅も速さもまったく同じ

何度も繰り返して

体へ染み込ませたと分かる

美緒さんと同じ足運び

「戦ってると思うなよ」

次の瞬間

湊の姿が消えた

「なっ!?」

黒岩も完全に湊を見失った

視線を右へ走らせる

いない

左

いない

「後だ!」

冬弥兄さんが叫ぶ

黒岩が振り返ろうとする

だが遅かった

湊はすでに黒岩の背後へ立っている

「使いたくねえんだよ」

腰を落として両足で砂利を強く踏みしめる

両手を胸元へ引く

「この技はな!」

足から腰へ

背中から肩へ

すべての力が両腕へと繋がった

「ちぇりゃああああ!!」

ドンッ!!

両手掌が黒岩の背中に近い左脇腹へ

深く突き刺さった

「ぐっ――!」

黒岩の大きな体が地面から浮く

前へ吹き飛ばされる

なんとか右足で踏みとどまった

それでも左膝が砂利の上へ落ちた

「なんだ……」

黒岩が左脇腹を押さえる

「今の技は……」

湊は両手掌を放った勢いのまま

黒岩の脇をすり抜ける

そのまま黒岩の前へ飛び出し

両手を地面へつく

砂利の上で一気に体を逆さまにした

黒岩が湊へ顔を向ける

湊の両脚が空中でぴたりと揃った

湊が逆さまのまま笑う

「こんなの見せたら」

両腕が深く沈み込む

「姉ちゃん」

腰が折り畳まれる

両膝が胸元へ引きつけられる

まるで美緒さんの両手掌を

上下反対にして足で……

「いじけちまうからな!」

湊の両腕が地面を押した

体が跳ね上がる

引きつけられていた両脚が同時に伸びた

ドガンッ!!

揃えられた両足の裏が

黒岩の胸へ突き刺さる

「がっ――!」

黒岩の巨体が大きく宙を舞った

そのまま地面へ落ちる

砂利の上を転がり庭の端で止まった

ぴくりとも動かない

湊は再び両手を地面へついた

逆立ちの状態から

ゆっくり両足を下ろす

だけど着地した途端に膝が崩れた

片手を地面へつく

「はぁ……はぁ……」

荒い息が静かな庭へ響く

師匠が右手を上げた

「そこまで!」

黒岩の胸はゆっくり上下している

気を失っているだけだ

師匠が湊を見る

「勝者」

その声が庭へ響いた

「高梨湊!」

陸たちが一斉に湊へ駆け寄る

「湊!」

「すげえ!」

「勝った!」

湊は地面へ座り込んだまま弟たちに囲まれる

そして得意そうに笑った

「当たり前だろ!」
「俺はお前たちの兄貴だぜ!」