大柄な男が湊を見下ろした
低い声が道場に響く
「小僧」
「死にたいのか?」
「お前じゃねえよ」
湊は男を見てもいなかった
まっすぐ冬弥兄さんを見ている
「俺が言ってんのは」
「そっちの偉そうな兄ちゃんだ」
冬弥兄さんの眉がわずかに動いた
「黒岩」
「はっ」
大柄な男がすぐに前へ出る
黒岩玄馬(くろいわ・げんま)
冬弥兄さんの側近
九条家の剣術師範代を務める男
何度か稽古を見たことがある
大きな体から繰り出される剣は
速くて重い
稽古用の太い木を一撃で折っていた
冬弥兄さんが湊を見た
「この子供に」
「身の程というものを教えてやれ」
「承知しました」
「湊!」
「やめろ!」
師匠が強い声で止めた
湊が師匠を見る
「父ちゃん」
「これは俺の戦いだぜ」
「相手は刀を持ってる」
「遊びじゃ済まねえぞ」
「分かってるよ」
湊はまったく退かなかった
「父ちゃん」
「口出しするのは野暮ってもんだろ?」
「なに?」
「俺だって」
「父ちゃんが決めたことには口出ししない」
湊が冬弥兄さんたちを見る
「だから」
「俺が決めたことにも口出しすんな」
二人がしばらく見つめ合う
やがて師匠が小さく笑った
「そうだな」
師匠は僕を見る
「男が家族のために立つって言ってんだ」
「ここで止めたら野暮ってもんだ」
それから冬弥兄さんを見る
「おい」
「九条のガキ」
「……ガキ?」
冬弥兄さんの目が殺気を帯びる
師匠は気にした様子もなく
道場の奥にある扉を開いた
その先は
先ほど日向さんと千鶴が戦った
道場裏の庭へ続いている
「道場の中で刀を振り回されたら」
「床が傷む」
師匠が親指で庭を指した
「続きは外でやろう」
それから黒岩を見る
「そっちのでくのぼうは」
「うちの湊が相手する」
黒岩の額に青筋が浮かんだ
「でくのぼうだと……?」
「聞こえなかったか?」
師匠が笑う
「お前じゃ湊には勝てん」
「そう言ったんだ」
「貴様……!」
黒岩が刀の柄へ手をかける
冬弥兄さんが片手を上げて止めた
「構うな」
「ですが」
「黒岩」
冬弥兄さんが湊を見る
「相手をしてやれ」
黒岩も湊へ視線を向ける
「九条の剣術師範代である私が」
「このような子供を?」
「油断するな」
冬弥兄さんの目が鋭くなる
「その子供」
「足さばきだけは本物だ」
湊が笑った
「足だけかどうか」
「自分で確かめろよ」
黒岩の顔から表情が消えた
「承知しました」
冬弥兄さんが師匠を見る
「その子供が壊れても」
「恨まないでくださいよ」
「そいつは」
師匠の笑みが深くなる
「やってみてから言え」
僕たちは道場裏の庭へ出た
先ほどの戦いで砂利の一部が乱れている
その中央へ湊が立つ
向かい側には黒岩玄馬
黒岩が刀を抜いた
しゃりん
鈍い光を放つ刀身
刃を潰してあるとはいっても
まともに受ければ骨を砕かれる
僕は思わず呼びかけた
「湊」
湊が僕を振り返る
「なんだよ」
「無茶だ」
「心配すんな」
湊が笑って黒岩へ向き直る
「伊織」
「そこで見てろ」
「高梨がいかに強いか」
「兄弟子の俺が教えてやる」
黒岩が両手で刀を構えた
隙がない
ただ体が大きいだけじゃない
九条家の剣術師範代
長年、実戦を想定した稽古を積んできた男だ
向かい合う湊はまだ十三歳
体格など比べるまでもない
武器も持っていない
湊は構えなかった
両腕を下げたまま自然に立っている
ただ左右の足だけがわずかに前後へずれていた
どこへでも動ける無駄のない立ち方
黒岩も湊の足元を見ていた
「小僧」
「なんだ?」
「今なら」
「謝れば許してやる」
「誰に?」
「冬弥様と」
「この俺にだ」
「嫌だね」
湊が笑う
「謝るのは」
「お前らの方だ」
「そうか」
黒岩の重心がわずかに前へ移った
湊の目がその変化を捉える
空気が変わった
「双方」
師匠が二人の間に立つ
「前へ」
黒岩が砂利を踏みしめる
湊も静かに前へ出た
やっぱり足音がしない
師匠が二人を見る
「俺が止めたら」
「その時点で終わり」
「異存は?」
「ありません」
「いいぜ」
「礼!」
黒岩がわずかに頭を下げる
湊も相手から目を離さないまま小さく頭を下げた
二人が同時に顔を上げる
黒岩の刀が正眼に構えられる
湊は両手を下げたまま静かに立っている
風が止まった
誰も声を出さない
師匠が右手を上げる
そして勢いよく振り下ろした
「始め!」
その声が響いた瞬間
湊の姿が消えた
いや違う
僕の目が湊の動きを追えなかった
気づいた時には
湊は黒岩の目の前にいた
刀の間合いよりもさらに内側
刀身では狙えない
黒岩の手元まで一瞬で入り込んでいる
「なっ――」
黒岩の目が見開かれる
湊の拳が動いた
一発
二発
黒岩が刀の柄を握っている左手の小指と薬指へ
目にも止まらない速さで拳が打ち込まれた
ごきっ!
ごきっ!
鈍い音が重なった
黒岩の指が不自然な方向へ曲がる
「ぐっ!」
刀を握る左手が緩んだ
その瞬間
湊の右脚が跳ね上がる
「おらっ!」
鋭い前蹴り
足の裏が刀の鍔のすぐ下
柄へ叩き込まれた
がんっ!
残っていた黒岩の右手からも刀が離れる
刀は激しく回転しながら宙を飛び
少し離れた砂利の上へ落ちた
がしゃん!
金属音が庭に響く
本当に一瞬の出来事だった
黒岩は刀を一度も振っていない
湊は構えすら見せなかった
開始の声が響いて
僕たちが瞬きをする間に黒岩の指を折り
刀を奪っていた
誰も動けず声も出ない
みんなが呆然と湊を見ていた
僕も自分が見たものに驚いていた
ただ
師匠だけが小さく息を吐いた
まるでこうなることが分かっていたみたいに
湊が黒岩を見上げる
「おっさん」
折れ曲がった左手の指を指さす
「もう」
「刀は握れねえだろ」
湊が笑う
「降参するか?」
黒岩は答えなかった
自分の左手を驚いた顔で見つめている
小指と薬指がおかしな方向へ曲がっていた
黒岩が右手で折れた小指を掴む
「え?」
ごきっ!
無理やり元の位置へ戻した
続いて薬指を掴む
ごきん!
もう一度鈍い音が鳴った
「うわ……」
陸が顔を引きつらせる
黒岩は痛がる声どころか
表情すら変えなかった
左手の指は真っすぐに戻っている
でも治ったわけじゃない
まともに動かすこともできないはずだ
黒岩はゆっくりと顔を上げる
その表情を見て背中が冷たくなった
さっきまで浮かんでいた
怒りも侮りも全部消えている
邪念のない静かな顔
目の前にいる湊だけに意識のすべてを向けている
湊へ深く頭を下げた
「今までの無礼」
「お許しください」
湊が少しだけ目を丸くする
「お、おう」
黒岩は頭を上げた
「九条剣術師範代」
「黒岩玄馬」
負傷した左手を下げたまま
右拳を顔の前へ構える
腰を落として右足を半歩引いた
刀を持っていた時とはまったく違う構え
だけど感じる圧はさっきよりも強い
黒岩が真っすぐ湊を見る
「高梨湊殿に」
「改めて」
「素手での立ち合いをお願いしたい」
庭の空気が変わった
刀を失って黒岩はようやく
湊を一人の武術家として本気で認めたんだ
湊もそれを感じ取ったらしい
笑顔のまま
わずかに頬を引きつらせた
「うわー……」
頭を掻く
「一気に怖くなったな」
黒岩は何も答えない
折れた指を下げたまま
湊の動きだけを見ている
「大人げないぜ」
そう言いながら湊が大きく息を吸った
そして腰を低く落とす
今までとは違う
両手を上げて構えた
湊の顔から
いつもの生意気な笑みが消える
黒岩を真っすぐ見据える
「高梨剛志が長男! 湊!」
「この立ち合い」
「受けた!!」
低い声が道場に響く
「小僧」
「死にたいのか?」
「お前じゃねえよ」
湊は男を見てもいなかった
まっすぐ冬弥兄さんを見ている
「俺が言ってんのは」
「そっちの偉そうな兄ちゃんだ」
冬弥兄さんの眉がわずかに動いた
「黒岩」
「はっ」
大柄な男がすぐに前へ出る
黒岩玄馬(くろいわ・げんま)
冬弥兄さんの側近
九条家の剣術師範代を務める男
何度か稽古を見たことがある
大きな体から繰り出される剣は
速くて重い
稽古用の太い木を一撃で折っていた
冬弥兄さんが湊を見た
「この子供に」
「身の程というものを教えてやれ」
「承知しました」
「湊!」
「やめろ!」
師匠が強い声で止めた
湊が師匠を見る
「父ちゃん」
「これは俺の戦いだぜ」
「相手は刀を持ってる」
「遊びじゃ済まねえぞ」
「分かってるよ」
湊はまったく退かなかった
「父ちゃん」
「口出しするのは野暮ってもんだろ?」
「なに?」
「俺だって」
「父ちゃんが決めたことには口出ししない」
湊が冬弥兄さんたちを見る
「だから」
「俺が決めたことにも口出しすんな」
二人がしばらく見つめ合う
やがて師匠が小さく笑った
「そうだな」
師匠は僕を見る
「男が家族のために立つって言ってんだ」
「ここで止めたら野暮ってもんだ」
それから冬弥兄さんを見る
「おい」
「九条のガキ」
「……ガキ?」
冬弥兄さんの目が殺気を帯びる
師匠は気にした様子もなく
道場の奥にある扉を開いた
その先は
先ほど日向さんと千鶴が戦った
道場裏の庭へ続いている
「道場の中で刀を振り回されたら」
「床が傷む」
師匠が親指で庭を指した
「続きは外でやろう」
それから黒岩を見る
「そっちのでくのぼうは」
「うちの湊が相手する」
黒岩の額に青筋が浮かんだ
「でくのぼうだと……?」
「聞こえなかったか?」
師匠が笑う
「お前じゃ湊には勝てん」
「そう言ったんだ」
「貴様……!」
黒岩が刀の柄へ手をかける
冬弥兄さんが片手を上げて止めた
「構うな」
「ですが」
「黒岩」
冬弥兄さんが湊を見る
「相手をしてやれ」
黒岩も湊へ視線を向ける
「九条の剣術師範代である私が」
「このような子供を?」
「油断するな」
冬弥兄さんの目が鋭くなる
「その子供」
「足さばきだけは本物だ」
湊が笑った
「足だけかどうか」
「自分で確かめろよ」
黒岩の顔から表情が消えた
「承知しました」
冬弥兄さんが師匠を見る
「その子供が壊れても」
「恨まないでくださいよ」
「そいつは」
師匠の笑みが深くなる
「やってみてから言え」
僕たちは道場裏の庭へ出た
先ほどの戦いで砂利の一部が乱れている
その中央へ湊が立つ
向かい側には黒岩玄馬
黒岩が刀を抜いた
しゃりん
鈍い光を放つ刀身
刃を潰してあるとはいっても
まともに受ければ骨を砕かれる
僕は思わず呼びかけた
「湊」
湊が僕を振り返る
「なんだよ」
「無茶だ」
「心配すんな」
湊が笑って黒岩へ向き直る
「伊織」
「そこで見てろ」
「高梨がいかに強いか」
「兄弟子の俺が教えてやる」
黒岩が両手で刀を構えた
隙がない
ただ体が大きいだけじゃない
九条家の剣術師範代
長年、実戦を想定した稽古を積んできた男だ
向かい合う湊はまだ十三歳
体格など比べるまでもない
武器も持っていない
湊は構えなかった
両腕を下げたまま自然に立っている
ただ左右の足だけがわずかに前後へずれていた
どこへでも動ける無駄のない立ち方
黒岩も湊の足元を見ていた
「小僧」
「なんだ?」
「今なら」
「謝れば許してやる」
「誰に?」
「冬弥様と」
「この俺にだ」
「嫌だね」
湊が笑う
「謝るのは」
「お前らの方だ」
「そうか」
黒岩の重心がわずかに前へ移った
湊の目がその変化を捉える
空気が変わった
「双方」
師匠が二人の間に立つ
「前へ」
黒岩が砂利を踏みしめる
湊も静かに前へ出た
やっぱり足音がしない
師匠が二人を見る
「俺が止めたら」
「その時点で終わり」
「異存は?」
「ありません」
「いいぜ」
「礼!」
黒岩がわずかに頭を下げる
湊も相手から目を離さないまま小さく頭を下げた
二人が同時に顔を上げる
黒岩の刀が正眼に構えられる
湊は両手を下げたまま静かに立っている
風が止まった
誰も声を出さない
師匠が右手を上げる
そして勢いよく振り下ろした
「始め!」
その声が響いた瞬間
湊の姿が消えた
いや違う
僕の目が湊の動きを追えなかった
気づいた時には
湊は黒岩の目の前にいた
刀の間合いよりもさらに内側
刀身では狙えない
黒岩の手元まで一瞬で入り込んでいる
「なっ――」
黒岩の目が見開かれる
湊の拳が動いた
一発
二発
黒岩が刀の柄を握っている左手の小指と薬指へ
目にも止まらない速さで拳が打ち込まれた
ごきっ!
ごきっ!
鈍い音が重なった
黒岩の指が不自然な方向へ曲がる
「ぐっ!」
刀を握る左手が緩んだ
その瞬間
湊の右脚が跳ね上がる
「おらっ!」
鋭い前蹴り
足の裏が刀の鍔のすぐ下
柄へ叩き込まれた
がんっ!
残っていた黒岩の右手からも刀が離れる
刀は激しく回転しながら宙を飛び
少し離れた砂利の上へ落ちた
がしゃん!
金属音が庭に響く
本当に一瞬の出来事だった
黒岩は刀を一度も振っていない
湊は構えすら見せなかった
開始の声が響いて
僕たちが瞬きをする間に黒岩の指を折り
刀を奪っていた
誰も動けず声も出ない
みんなが呆然と湊を見ていた
僕も自分が見たものに驚いていた
ただ
師匠だけが小さく息を吐いた
まるでこうなることが分かっていたみたいに
湊が黒岩を見上げる
「おっさん」
折れ曲がった左手の指を指さす
「もう」
「刀は握れねえだろ」
湊が笑う
「降参するか?」
黒岩は答えなかった
自分の左手を驚いた顔で見つめている
小指と薬指がおかしな方向へ曲がっていた
黒岩が右手で折れた小指を掴む
「え?」
ごきっ!
無理やり元の位置へ戻した
続いて薬指を掴む
ごきん!
もう一度鈍い音が鳴った
「うわ……」
陸が顔を引きつらせる
黒岩は痛がる声どころか
表情すら変えなかった
左手の指は真っすぐに戻っている
でも治ったわけじゃない
まともに動かすこともできないはずだ
黒岩はゆっくりと顔を上げる
その表情を見て背中が冷たくなった
さっきまで浮かんでいた
怒りも侮りも全部消えている
邪念のない静かな顔
目の前にいる湊だけに意識のすべてを向けている
湊へ深く頭を下げた
「今までの無礼」
「お許しください」
湊が少しだけ目を丸くする
「お、おう」
黒岩は頭を上げた
「九条剣術師範代」
「黒岩玄馬」
負傷した左手を下げたまま
右拳を顔の前へ構える
腰を落として右足を半歩引いた
刀を持っていた時とはまったく違う構え
だけど感じる圧はさっきよりも強い
黒岩が真っすぐ湊を見る
「高梨湊殿に」
「改めて」
「素手での立ち合いをお願いしたい」
庭の空気が変わった
刀を失って黒岩はようやく
湊を一人の武術家として本気で認めたんだ
湊もそれを感じ取ったらしい
笑顔のまま
わずかに頬を引きつらせた
「うわー……」
頭を掻く
「一気に怖くなったな」
黒岩は何も答えない
折れた指を下げたまま
湊の動きだけを見ている
「大人げないぜ」
そう言いながら湊が大きく息を吸った
そして腰を低く落とす
今までとは違う
両手を上げて構えた
湊の顔から
いつもの生意気な笑みが消える
黒岩を真っすぐ見据える
「高梨剛志が長男! 湊!」
「この立ち合い」
「受けた!!」


