いまさら家に男が一人増えたところで構いません!

外へ出ると

夕方の風が火照った頬に当たった

「はぁ……」

なんなのよ

本当になんなのよ

私は両手で頬を押さえた

まだ熱い

「私……」
「おかしい……」

そのまま家へ向かって歩き出す

数十メートルほど歩いたところで

膝に力が入らず

片膝をつく

ゆっくりと立ち上がって

また歩き始めた

すると後ろからぱたぱたと足音が聞こえてきた

「美緒!」

「え?」

振り返る

「千鶴?」

道着姿の千鶴がこっちへ走ってくる

「なんで?」

千鶴は私の前まで来ると一度息を整えた

「なんでじゃないですよ」
「そんな状態で一人で帰るつもりですか?」

「平気だよ」

「平気な人は膝から崩れたりなんかしません」
「あの技のダメージは私もよく知っています」

見られてた

「伊織ちゃんも追いかけようとしていたのですけど」

千鶴が少しだけ後ろを見る

「私が行くって言ってきました」

「なんで千鶴が?」

千鶴は少し考えてから

私を見た

「今は私の方がいいと思ったんです」

「なによ……それ」

「一緒に帰りましょう」

千鶴が私の隣に並ぶ

背中に手を置いてくれた

「稽古は?」

「今日はいいんです」

「でも――」

「美緒」

千鶴が私を見る

「私たちは友達ですよね?」

私は千鶴を見た

「うん」

二人で家へ向かって歩き出す

しばらく何も話さなかった

私の速さに合わせて

千鶴がゆっくり歩いてくれている

「美緒」
「聞いてもいいでしょうか?」

千鶴が口を開く

「なに?」

「なんで急に」
「師匠と本気でやろうと思ったんですか?」

「……なんとなく」

「嘘」

即答された

「今日の美緒」
「変だったから」

「変じゃない」

「朝とは別人みたいに変です」

千鶴は責めるような言い方はしなかった

ただ私の隣を歩きながら

静かに言った

「それに」
「なんで伊織ちゃんに」
「触らないでって言ったのですか?」

「っ!」

足が止まった

「それは……」

千鶴も立ち止まる

「伊織ちゃん」
「ちょっと傷ついてましたよ」

「え」

私は思わず後ろを見る

もう道場は見えない

「そうなのかな……」

「はい」

胸がちくっとした

「違うの」

気づいたら言葉が出ていた

「嫌だったわけじゃないの」

千鶴は静かに頷く

「むしろ……」

そこまで言って止まる

むしろ?

むしろ……

なんなのよ

千鶴は私が話すのを待っている

「私……」
「なんか変なの」

「うん」

「伊織くんが近くにいると」
「変になるの」

千鶴は何も言わない

私はそのまま続けた

「お風呂から出てきた伊織くんが」
「近くに来たら匂いがすごく気になって」

言っていて恥ずかしくなってくる

「今日なんて触ったら」

私は自分の手を見る

「なんか……」
「電気みたいなのが走るの」

「電気?」

「うん」
「ぴりぴりってするの」
「それでね……」

言いづらい

でも千鶴になら言える気がした

「嫌じゃないの」

それが一番困る

「離れたいのに」
「触られると」
「なんか……」

言えない

そこから先がよく分からない

私は頭を抱えた

「だから」
「お父さんと本気で戦ったら」
「治ると思ったの」

千鶴が目を丸くする

「それで師匠と?」

「うん」

「吹き飛ばされて」
「一人でまともに歩けなくなるまで?」

「うん」

千鶴が私から顔をそむけた

なにやら肩が震えている

「ちょっと……」
「千鶴!?」
「まさか、笑ってる!?」

「ごめんなさい」

千鶴が顔をこちらへ向けた

やっぱり笑っていた

でも馬鹿にしているような笑い方じゃなかった

すごく優しい顔だった

「だって」
「美緒らしいなって思って」

「どこがよ!」

「分からないのに」
「とりあえず真正面から向き合おうとするところ」
「ほんとにすごいです」

「それ全然褒めてないでしょ!」

「褒めてますよ」

千鶴はまた笑った

それから少しだけ真面目な顔になる

「美緒」
「おかしくなんかないよ」

「え?」

「美緒は」
「何もおかしくない」

千鶴が私を見る

「大丈夫」
「それは変になったとか」
「そういうことじゃないから」

「じゃあ何なの?」

そう聞くと

千鶴はすぐには答えなかった

二人でまた歩き出す

しばらくして千鶴が口を開いた

「私ね」
「伊織ちゃんのこと」
「好きなんです」

「うん」

それは知ってる

あの日

あんなに泣いて

あんなに怒ってた

「小さい頃からずっと好きです」

千鶴が少しだけ笑う

「だから多分」
「美緒がどういう気持ちなのか」
「分かるんだと思います」

「え?」

私は千鶴を見る

でも

千鶴はそれ以上言わなかった

私は千鶴から目を反らして俯いた

「きっと……違うよ」
「私は千鶴と戦ったから……分かるよ」
「千鶴から伝わってきた気持ちは……」
「もっとすごかった……」

そんな私を見て

千鶴が少しだけ目を細めた

「それはそうですよ」
「年季が違います」
「私を何年選手だと思ってるんですか」
「淡いなんてレベルは10年前」
「この想いが届くなら」
「地獄にだって大喜びで行きますよ」

「そ、そうなんだ」

私は少し困惑しながら千鶴に視線を戻した

「それに」
「今の美緒の気持ち」
「私は少しだけ嬉しいんです」

「え?」

千鶴は少し照れたように笑った

「むしろ」
「大事にしてあげたいと思います」

私は首を傾げる

「なんで?」
「千鶴も好きなのに?」

そう聞いた瞬間

ぞくっとした

え?

今

私なんて言った?

千鶴が不思議そうに私を見る

「美緒?」

「ちょっと待って」

「うん?」

「なんか変なこと考えそうになった」

千鶴はくすっと笑った

「笑わないでよ!」

「ごめん」

全然悪いと思ってなさそう

千鶴は少し前を向いてから言った

「そうですね」

千鶴が自分の胸に手を当てる

「美緒の傍にいたがる伊織ちゃんを見ていると」
「ここがちくっとする時もありますよ」

「やっぱり?」

「うん」

千鶴は素直に頷いた

「嫉妬だって少しくらいします」

私は千鶴を見る

「じゃあ……」
「嫌でしょ?」

千鶴は少しだけ考えた

「嫌じゃない」

そう言ってからすぐに苦笑する

「って言ったら」
「ちょっと嘘になりますね」

「どっちよ!」

「ちょっとは嫌です」

「ほら!」

「でも」

千鶴が私の方を見る

「それとは別ですから」

「別?」

「うん」

千鶴の声が少しだけ優しくなる

「伊織ちゃんを好きな気持ちは」
「私の気持ち」

「美緒の今の気持ちは」
「美緒の気持ち」

千鶴が笑う

「だから」
「美緒が困ってるなら」
「私は寄り添いたいです」

私は千鶴の顔を見る

「なんで?」

「だって」

千鶴は当たり前みたいに言った

「美緒のことも大好きだから」

私は目を瞬いた

「友達として?」

千鶴の目が細くなる

「それはそうですよね」
「違うって言って欲しいんですか?」

「今の私は」
「そういうの分かんなくなってるの!」

「なんですかそれは」

千鶴が声を上げて笑う

「笑い事じゃないんだから!」

千鶴は笑いながら

優しい目で私を見ていた

「きっとすぐですよ」
「すぐにハッキリと……」
「美緒も自分の気持ちが分かるようになります」

「そ、そうなのかな……?」

千鶴が満面の笑みを向けてくる

「美緒らしくて」
「なんだか愛おしいです」

「はあ!?」

私は思わず立ち止まった

「何それ!?」

「美緒ってか~わいい~」
「抱きしめてあげたいです」

「やめてよ!」
「余計に混乱したらどうするのよ!」

「じゃあやめときます」

千鶴がまた笑う

「もう!」

私も少しだけ笑った

また二人で家へ向かって歩き出す

さっきまで

あんなにぐちゃぐちゃだった胸の中が

ほんの少しだけ軽くなった気がした

「帰ったら」
「今日は何を作りますか?」

千鶴にそう言われて

一気に気持ちが切り替わる気がした

そうだった

今日も飢えた男達の腹を満たさなければ

「うーん」

私は空を見上げる

「お父さんの友達から届いたアジが」
「沢山あるのよね」
「でも」
「お肉出さないと文句言われるだろうな」

「アジフライとかは?」

「それいいかも」

「私も手伝います」
「魚を捌くのは得意なんです」

「ほんと?」

「はい」

千鶴が笑う

そのまま二人で歩いていると

千鶴が私の鞄を見た

「美緒」

「なに?」

「その鞄」
「重そうですね?」

「え?」

言われてみれば重い

今日は学校に置いてあった物は

全部持って帰ってきた

「重いけど大丈夫だよ」

「そんな体で何言ってるんですか」

千鶴が私の鞄へ手を伸ばす

「私が持ちます」

「いいって」

「いいから渡してください」

「でも――」

「美緒はさっき師匠と本気で戦ったばかりでしょ?」
「無理したら大事な弟達のお世話がおろそかになりますよ」

そう言われると何も言い返せない

「じゃあ……お願い」

「はい」

私は肩から鞄を下ろした

千鶴が両手で受け取る

「うわ」
「重っ」

「でしょ?」

「何が入っているんですか?」

「教科書とか全部」

「全部?」

「今日は色々あったから」
「学校に置いときたくなくて」

「あ~」
「そういうことですか」
「なんとなく想像がつきます」
「伊織ちゃんって他の人に全く興味を持たないですから」

千鶴が鞄を抱え直した

その瞬間

千鶴の表情が変わった

「っ!」

視線が鋭く横へ走る

私もつられてそちらを見ようとした

黒い影が一気に千鶴との距離を詰めた

千鶴が体を捻ろうとする

でも両手には私の重い鞄

次の瞬間

ドッ!

鈍い音がした

「え?」

黒い忍び装束の男の拳が

千鶴の腹へ深く入っていた

「千鶴!?」

千鶴の体がくの字に折れる

それでも一瞬だけ顔を上げた

男の顔を見る

「……兄……さん……」

そのまま千鶴の膝から力が抜ける

鞄が地面へ落ちた

「千鶴!」

男が倒れる千鶴を片腕で抱き止める

「何してるのよ!」

考えるより先に私は踏み込んでいた

最初からこれでいく!

足で地面を捉え腰を入れる

背中から肩へ力を通し

全身の力を両手へ――

「っ!」

駄目だ……つながらない

足に力が入らない

それでも両手を突き出す

「ちぇっ!」

ドンッ

当たった

でも

いつもの手ごたえがない

男は半歩ずれただけで

私の両手を片腕で受け止めた

「くっ!」

もう一度!

足を踏み込んで腰を回す

両手を――

動かない!

体が全然ついてこない!

無理やり両手掌を放つ

遅い

弱い

こんなの私の技じゃない!

男が私の腕へ触れた

「え?」

次の瞬間

私の体勢が崩れる

ぐるっ

景色が回った

ドンッ!

「っ!!」

私は背中から地面へ叩きつけられた

息が止まる

それでもすぐに起きようとした

「まだ……」

腕に力を入れる

でも肘が震えるだけだった

立てない

さっきまでお父さんと本気で戦っていた

何度も両手掌を撃った

最後にはお父さんの一撃を真正面から受けた

もう体に何も残ってない

男が私を見下ろす

「無理をしない方がいい」

「誰……」

私は息を整えながら男を見る

全身を包む黒い忍び装束

千鶴と同じ榊家の人間なのだと

その姿だけでもなんとなく分かった

「あなた」
「誰なのよ……!」

男は気を失った千鶴を抱き上げた

そして私へ軽く頭を下げる

「榊宗一郎」
「千鶴の兄です」

「兄……?」

榊宗一郎(さかき・そういちろう)

そう名乗った男は腕の中の千鶴を見る

「妹を」
「迎えに来ただけです」

「迎えって……」

私は地面へ手をつく

「千鶴は帰るなんて」
「言ってないでしょ……!」

「それでも連れて帰ります」

「待って……!」

立たなきゃ

止めなきゃ

足に力を入れる

でも震えるだけだった

「待って!」

宗一郎が千鶴を抱いたまま歩き出す

「千鶴!」

追えない

立てない

さっきまで私の隣で笑っていたのに

千鶴は一瞬早く襲撃に気付いていた

私の重い鞄がなければ

きっと対処できていた

私の代わりに持ってくれたから

「くそ……」

地面を殴る

でも拳にも力が入らない

私がちゃんと動けていれば

私があんな無茶をしていなければ

止められたかもしれない

「くそっ!」

何もできなかった

悔しい!

お父さんに負けた時より

ずっと

ずっと

悔しかった

伊織くんのことで勝手に心を乱して

勝手に無茶をして

私の鞄なんか持たせて

そのせいで

千鶴は自分を守れなかった

全部

私の心が弱いせいだ