私が小さい頃
お父さんには弟がいた
大好きだった叔父さん
お父さんと叔父さんは仲が良くていつも一緒だった
お祖父ちゃんから受け継いだ道場で
毎日のように一緒に稽古をしていた
「玲奈!」
「こっち来い!」
「今日は俺が教えてやる!」
お父さんが私を呼ぶ
すると叔父さんが笑った
「兄さんは昨日も玲奈に教えただろ」
「今日は俺の番だ」
「いいじゃねえか」
「玲奈」
「今日は叔父さんとやるか?」
「うん!」
毎日が楽しかった
お父さんも叔父さんも
強くて、優しくて
私は二人が大好きだった
いつか私も
二人みたいになりたかった
私たちはみんな水野で
家族だった……
でも少しずつ
二人の目指すものが変わっていった
「実戦なら相手に二度目を許す必要はない」
「攻撃されたなら」
「その一度で確実に終わらせるべきだ」
お父さんがそう言った
でも、叔父さんは違った
「殺す必要なんてない」
「戦えなくすればいい」
「相手の力を利用して心を折れば」
「それで終わる」
最初はただの意見の違いだった
だけどそんな口論が何年も続くうちに
二人は同じ道場に立つことさえ少なくなっていった
そしてある日
二人は決めた
どちらの理想をこの道場に残すのか
戦って決めると
私は道場の隅で二人の戦いを見ていた
怖かった
どちらにも負けてほしくなかった
お父さんも叔父さんも
私は大好きだったから
でも決着はついた
床に倒れていたのはお父さんだった
叔父さんは立っていた
それで全部が変わった
道場は叔父さんが正式に継いだ
お父さんは道場を出た
そして水野という名前まで捨てた
「もう俺は水野じゃない」
お父さんはそう言った
お母さんの実家だった桐生家へ入った
水野だった父と私は桐生になった
そして自分が信じた武道に
天心流という名前をつけた
父はもう一度
ゼロから始めようとした
でもうまくいかなかった
水野の出来損ない
時代に合わない殺人術
そう揶揄され弟子は増えなかった
父が生活のために始めた仕事も
長くは続かなかった
それでもお父さんは笑っていた
「まだこれからだ」
「俺のやってきたことは間違ってない」
何度も自分に言い聞かせるようにそう言っていた
でもいつの頃からか
その言葉を聞かなくなり
代わりにお酒を飲むようになった
最初は夜だけだった
それが夕方になり
昼になり
今では朝から飲む日もある
それでもお父さんは私には優しい
お母さんにも昔と変わらず優しい
とても疲れた顔で
泣きそうな顔で
「玲奈」
「仕事……」
「無理するなよ」
そう言って笑ってくれる
でもその手にはいつも
お酒の入ったコップがあった
そんな日々が何年も続いた
最近はテレビを見るでもなく
肩を落として
ただコップを見つめている
日雇いの仕事があれば働く
そして帰るとまたコップを見る
いつの間にかお酒を注ぐことすらしなくなって
ただ……コップを見ている
そんな日が増えた
その背中は昔よりずっと小さく見える
お父さんの時間は動いているのに
あの日から一歩も動けなくなっている
お母さんはそんなお父さんをずっと支えている
だから私は収入が安定する教師になった
働いて家を支えた
それでもお父さんは
まだあの日から動けないままだ
道場を失った
弟に負けた
水野という名前を捨てた
それでも自分の信じた武道だけは捨てられなかった
天心流
それだけは
お父さんに最後に残ったもの
今もそれだけを抱きしめて
自分の不甲斐なさを責め続けてる
負けられない
私まで水鏡流に負けたら
お父さんが信じ続けたものが
本当に間違いだったことになる
そんなの認められない!
私は天心流を負けさせない!
* * *
ガリッ!
桐生先生の指が体育館の床を削った
先生はゆっくりと片足を立てる
「先生……?」
日向の笑顔が少しだけ消えた
そのまま震える膝を伸ばして立ち上がる
私は思わず呟いた
「まだ……」
「やるの……?」
桐生先生は大きく息を吐いた
そして右手を前へ出した
五本の指を開く
構えたその瞬間
日向の笑顔が完全に消えた
「……凄いね」
日向も右手を前へ出した
よく似た構え
いや
「同じ……?」
二人がゆっくりと近づいていく
右手と右手
やがて二人の手の甲が触れた
その瞬間
二人の体が同時に崩れた
「え!?」
桐生先生の肩が落ちる
日向の腰も沈む
どっちがやったの!?
違う
二人とも同時に相手を崩したんだ
それなのに二人とも倒れない
桐生先生の右手
五本の指がすっと立った
そのまま崩れた姿勢から日向の首へ滑り込む
やばい!
「日向!」
日向がほんの少し首を引いた
シュッ!!
何かが宙を舞った
「え……」
日向の髪……
切れた髪がはらはらと床へ落ちる
あとほんの少し遅かったら
髪じゃなくて首だった
でも日向は止まらない
かわしたことでさらに体勢が崩れる
普通ならここで終わる
なのに日向は崩れた体に逆らわなかった
桐生先生に崩された力
首をかわした勢い
沈んだ腰
踏み込んだ足
全部そのまま自分の力に変えていく
日向の体が大きく回った
「っ!」
桐生先生の目が見開かれる
一回転
日向の左足が床から離れた
全身を大きく回転させながら
力の抜けた左脚が大きくしなる
まるで巨大なムチ
そして桐生先生の腹へ叩き込まれた
バチィィィン!!!
「――――っ!!」
今までとは比較にならない
体育館中の空気まで震えたような鋭い音
桐生先生の体がくの字に折れた
声すら出ない
一歩
二歩
後ろへよろめく
でも三歩目は出なかった
ガクッ
両膝が床につく
そのまま腹を押さえて前へうずくまった
「先生!」
返事がない
意識を失ったわけじゃない
でも動けないんだ
桐生先生の背中が苦しそうに上下している
日向は蹴り抜いた左足をゆっくりと床へ戻した
「ふぅ~……」
そして構えを解いた
「終わりだね~」
いつもの日向の笑顔に戻っていた
私も終わりだと思った
あれだけの一撃だ
立てるわけがない
勝負はついた
でも桐生先生は床へ額がつきそうなほど
体を丸めたまま震えていた
「……っ」
激痛に耐えている
腹を押さえた指が震えている
息を吸うたび体がびくっと跳ねる
それでも先生は床へ手をついた
「桐生先生~?」
日向が笑ったまま首を傾げる
桐生先生の指が床を掻く
立とうとしている
でも足に力が入らない
ガクッ
また膝が落ちる
「無理ですよ~」
日向が言った
「今のはしばらく~」
「動けないよ~」
先生は答えない
ただ荒い息だけが聞こえる
「……てん……」
「え~?」
小さな声だった
「天心流は……」
桐生先生の肩が震える
「先生~?」
「お父さんは……」
声が掠れている
その時
桐生先生が歯を食いしばった
目から大粒の涙がこぼれる
ぽたっ
「お父さんは……!」
また一粒
床へ落ちた
「嘘つきなんかじゃない!!」
桐生先生が床を強く押した
「っ……!」
激痛に顔が歪む
それでも片足を立てる
「先生……」
日向の笑顔が消えた
それでも桐生先生は立とうとする
震える足で少しずつ体を起こす
「お父さんが信じたものは……」
「間違ってなんかない!」
膝が震える
腰が落ちそうになる
それでも踏ん張った
「私が……」
「証明する!」
立った
「嘘……」
私は思わず声を漏らした
あの一撃を食らって立った
日向も目を見開いていた
「先生~……」
その一瞬だった
桐生先生が踏み込んだ
「っ!?」
日向の反応がわずかに遅れた
でもこの二人にはそれが致命傷だった
桐生先生の右手が日向の手首へ触れる
日向が反射的に腕を引く
先生はその引いた力に逆らわない
一緒に前へ出る
日向の肘が伸びて肩が開く
そのまま先生の体が日向の懐へ潜り込んだ
「しまっ――」
桐生先生が日向の腕を背負う
腰を落として体を回す
日向の足が床から離れた
「え!?」
くるっ
日向の体が宙を舞う
ドンッ!!
「っ!!」
背中から体育館の床へ叩きつけられた
「日向!」
日向の息が一瞬止まる
桐生先生がそのまま日向の上へ入った
両膝で日向の両腕を押さえる
そして右手の五本の指が
日向の首へすっと伸びた
「日向!!」
先生の指先が
日向の首の数ミリ手前で止まっている
静かだった
日向も動けなかった
桐生先生の指があと少し前へ進めば終わる
それが分かっている
日向がゆっくりと桐生先生を見る
桐生先生の顔は涙でぐしゃぐしゃだった
痛くて体を支えているだけでも辛いはずなのに
それでも指先だけはまったく震えていない
日向の首を正確に捉えていた
しばらくして日向が小さく息を吐いた
「負けました~」
「完敗です~」
いつもののんびりした声
でも笑ってはいなかった
桐生先生の目からまた涙が落ちた
首へ突き付けていた指をゆっくり下ろす
その手を日向の頭に置いた
そして優しく撫でる
「日向さん」
「付き合ってくれて」
「ありがとう」
日向が少しだけ目を見開いた
それから小さく笑った
「はい~」
日向の返事を聞いた瞬間
頭を撫でていた手から力が抜ける
桐生先生の体がぐらりと揺れた
「先生!」
私は思わず駆け出した
倒れかけた桐生先生の体を慌てて支える
「大丈夫!?」
「大丈夫に……」
「見えますか?」
「見えない!」
むしろひどい!
道着はあちこち裂け
その下の肌には裂けた傷が走り
傷口の周りまで赤く盛り上がっている
なにより蹴りを受けたお腹の傷が酷い
「うわぁぁ……」
「痛そう……」
見ているだけでこっちまで痛くなってくる
「とにかく」
「冷やした方がいいよね?」
「たぶん……」
桐生先生が苦しそうに答える
「あ」
日向がゆっくり起き上がった
「そうだ~」
「なに?」
日向が自分の鞄のところへ歩いていく
その制服はもう酷いものだった
あちこち裂けてもうボロボロ
「日向!」
私は思わずそっちへ駆け寄る
「ちょっと待って!」
「ん~?」
「日向も大丈夫なの!?」
私は慌てて制服が裂けたところを見る
「ちゃんと傷を見せて!」
「平気だよ~」
「平気かどうかは私が決める!」
「なんで美緒が決めるの~?」
「いいから!」
日向の腕を見る
「あれ?」
思っていたより全然ひどくない
肌には赤い線が何本か残っている
少しみみず腫れになっているところもある
でも深くは切れていない
表面が少し擦れた程度だった
「制服」
「こんなボロボロなのに……」
日向がにこっと笑う
「だから~」
「平気だよ~」
「桐生先生に手加減された~」
「え?」
私は桐生先生を見る
先生がわずかに顔を逸らした
「私は」
少し間を置いて
「腐っても教師です」
そして完全にそっぽを向いた
そういうこと?
あれだけ首とか狙ってたくせに
大怪我させないようにしてたってこと?
怖いんだか、優しいんだか
分かんない人だな……
「先生~」
日向がいつもの笑顔で呼ぶ
「なんですか」
「私が卒業したら~」
「次は本気で~」
「もうごめんよ」
即答だった
日向が目を丸くする
桐生先生はお腹を押さえたまま言う
「勝ち逃げさせてもらうわ」
「え~!」
日向がものすごく不満そうな顔をする
「そんなのずるいよ~」
「教師には逃げる権利があります」
「そんなのないよ~」
「あります」
「じゃあ卒業式の日に~」
「なんのお礼参りですか」
「生徒の巣立ちを見送る」
「教師冥利に尽きる卒業式の日に」
「元生徒から襲撃されるなんてごめんです」
「卒業した次の日~」
「もっとやりません」
「警察を呼びますからね」
「え~」
なんなの……
この二人さっきまで殺し合いみたいなことしてたのに
もう普通に喋ってる
日向が鞄の中を探る
「あった~」
小さな容器を取り出した
「なにそれ?」
「お薬~」
「薬?」
「私の打撃でできた怪我によく効くよ~」
日向が桐生先生のところへ戻る
「先生これ塗っといて~」
「何の薬ですか?」
「こういう傷にすごく効くやつ~」
「こういう傷って……」
私は先生の赤く腫れた背中を見る
「ムチで叩かれたみたいな傷?」
「そうそう~」
日向が頷く
「水鏡流ご用達のお医者さんから~」
「もらってるんだよ~」
「そんな医者いるの!?」
「いるよ~」
「これないと困るの~」
「水鏡流……」
「絶対やばい集団ね……」
関わらないようにしよう……
日向が桐生先生へ薬を差し出す
先生は少し嫌そうな顔をした
「あなたにやられた傷を」
「あなたにもらった薬で治すわけ?」
「効きますよ~」
「そういう問題じゃないんだけど」
「でも痛いですよね~?」
「痛みも落ちつくし綺麗に治りますよ~」
「私の打撃って~」
「跡が残ると評判なんです~」
「なにその評判!?」
「怖っ!」
「桐生先生、塗った方がいいよ」
「私が手伝うから」
日向は笑顔で桐生先生に薬を差し出した
「先生~?」
「貸しなさい」
桐生先生は薬を受け取った
日向がにこっと笑う
「素直でよろしいです~」
「引き裂きますよ」
「まだやるんですか~?」
「やりません!」
私は思わず笑ってしまった
お父さんには弟がいた
大好きだった叔父さん
お父さんと叔父さんは仲が良くていつも一緒だった
お祖父ちゃんから受け継いだ道場で
毎日のように一緒に稽古をしていた
「玲奈!」
「こっち来い!」
「今日は俺が教えてやる!」
お父さんが私を呼ぶ
すると叔父さんが笑った
「兄さんは昨日も玲奈に教えただろ」
「今日は俺の番だ」
「いいじゃねえか」
「玲奈」
「今日は叔父さんとやるか?」
「うん!」
毎日が楽しかった
お父さんも叔父さんも
強くて、優しくて
私は二人が大好きだった
いつか私も
二人みたいになりたかった
私たちはみんな水野で
家族だった……
でも少しずつ
二人の目指すものが変わっていった
「実戦なら相手に二度目を許す必要はない」
「攻撃されたなら」
「その一度で確実に終わらせるべきだ」
お父さんがそう言った
でも、叔父さんは違った
「殺す必要なんてない」
「戦えなくすればいい」
「相手の力を利用して心を折れば」
「それで終わる」
最初はただの意見の違いだった
だけどそんな口論が何年も続くうちに
二人は同じ道場に立つことさえ少なくなっていった
そしてある日
二人は決めた
どちらの理想をこの道場に残すのか
戦って決めると
私は道場の隅で二人の戦いを見ていた
怖かった
どちらにも負けてほしくなかった
お父さんも叔父さんも
私は大好きだったから
でも決着はついた
床に倒れていたのはお父さんだった
叔父さんは立っていた
それで全部が変わった
道場は叔父さんが正式に継いだ
お父さんは道場を出た
そして水野という名前まで捨てた
「もう俺は水野じゃない」
お父さんはそう言った
お母さんの実家だった桐生家へ入った
水野だった父と私は桐生になった
そして自分が信じた武道に
天心流という名前をつけた
父はもう一度
ゼロから始めようとした
でもうまくいかなかった
水野の出来損ない
時代に合わない殺人術
そう揶揄され弟子は増えなかった
父が生活のために始めた仕事も
長くは続かなかった
それでもお父さんは笑っていた
「まだこれからだ」
「俺のやってきたことは間違ってない」
何度も自分に言い聞かせるようにそう言っていた
でもいつの頃からか
その言葉を聞かなくなり
代わりにお酒を飲むようになった
最初は夜だけだった
それが夕方になり
昼になり
今では朝から飲む日もある
それでもお父さんは私には優しい
お母さんにも昔と変わらず優しい
とても疲れた顔で
泣きそうな顔で
「玲奈」
「仕事……」
「無理するなよ」
そう言って笑ってくれる
でもその手にはいつも
お酒の入ったコップがあった
そんな日々が何年も続いた
最近はテレビを見るでもなく
肩を落として
ただコップを見つめている
日雇いの仕事があれば働く
そして帰るとまたコップを見る
いつの間にかお酒を注ぐことすらしなくなって
ただ……コップを見ている
そんな日が増えた
その背中は昔よりずっと小さく見える
お父さんの時間は動いているのに
あの日から一歩も動けなくなっている
お母さんはそんなお父さんをずっと支えている
だから私は収入が安定する教師になった
働いて家を支えた
それでもお父さんは
まだあの日から動けないままだ
道場を失った
弟に負けた
水野という名前を捨てた
それでも自分の信じた武道だけは捨てられなかった
天心流
それだけは
お父さんに最後に残ったもの
今もそれだけを抱きしめて
自分の不甲斐なさを責め続けてる
負けられない
私まで水鏡流に負けたら
お父さんが信じ続けたものが
本当に間違いだったことになる
そんなの認められない!
私は天心流を負けさせない!
* * *
ガリッ!
桐生先生の指が体育館の床を削った
先生はゆっくりと片足を立てる
「先生……?」
日向の笑顔が少しだけ消えた
そのまま震える膝を伸ばして立ち上がる
私は思わず呟いた
「まだ……」
「やるの……?」
桐生先生は大きく息を吐いた
そして右手を前へ出した
五本の指を開く
構えたその瞬間
日向の笑顔が完全に消えた
「……凄いね」
日向も右手を前へ出した
よく似た構え
いや
「同じ……?」
二人がゆっくりと近づいていく
右手と右手
やがて二人の手の甲が触れた
その瞬間
二人の体が同時に崩れた
「え!?」
桐生先生の肩が落ちる
日向の腰も沈む
どっちがやったの!?
違う
二人とも同時に相手を崩したんだ
それなのに二人とも倒れない
桐生先生の右手
五本の指がすっと立った
そのまま崩れた姿勢から日向の首へ滑り込む
やばい!
「日向!」
日向がほんの少し首を引いた
シュッ!!
何かが宙を舞った
「え……」
日向の髪……
切れた髪がはらはらと床へ落ちる
あとほんの少し遅かったら
髪じゃなくて首だった
でも日向は止まらない
かわしたことでさらに体勢が崩れる
普通ならここで終わる
なのに日向は崩れた体に逆らわなかった
桐生先生に崩された力
首をかわした勢い
沈んだ腰
踏み込んだ足
全部そのまま自分の力に変えていく
日向の体が大きく回った
「っ!」
桐生先生の目が見開かれる
一回転
日向の左足が床から離れた
全身を大きく回転させながら
力の抜けた左脚が大きくしなる
まるで巨大なムチ
そして桐生先生の腹へ叩き込まれた
バチィィィン!!!
「――――っ!!」
今までとは比較にならない
体育館中の空気まで震えたような鋭い音
桐生先生の体がくの字に折れた
声すら出ない
一歩
二歩
後ろへよろめく
でも三歩目は出なかった
ガクッ
両膝が床につく
そのまま腹を押さえて前へうずくまった
「先生!」
返事がない
意識を失ったわけじゃない
でも動けないんだ
桐生先生の背中が苦しそうに上下している
日向は蹴り抜いた左足をゆっくりと床へ戻した
「ふぅ~……」
そして構えを解いた
「終わりだね~」
いつもの日向の笑顔に戻っていた
私も終わりだと思った
あれだけの一撃だ
立てるわけがない
勝負はついた
でも桐生先生は床へ額がつきそうなほど
体を丸めたまま震えていた
「……っ」
激痛に耐えている
腹を押さえた指が震えている
息を吸うたび体がびくっと跳ねる
それでも先生は床へ手をついた
「桐生先生~?」
日向が笑ったまま首を傾げる
桐生先生の指が床を掻く
立とうとしている
でも足に力が入らない
ガクッ
また膝が落ちる
「無理ですよ~」
日向が言った
「今のはしばらく~」
「動けないよ~」
先生は答えない
ただ荒い息だけが聞こえる
「……てん……」
「え~?」
小さな声だった
「天心流は……」
桐生先生の肩が震える
「先生~?」
「お父さんは……」
声が掠れている
その時
桐生先生が歯を食いしばった
目から大粒の涙がこぼれる
ぽたっ
「お父さんは……!」
また一粒
床へ落ちた
「嘘つきなんかじゃない!!」
桐生先生が床を強く押した
「っ……!」
激痛に顔が歪む
それでも片足を立てる
「先生……」
日向の笑顔が消えた
それでも桐生先生は立とうとする
震える足で少しずつ体を起こす
「お父さんが信じたものは……」
「間違ってなんかない!」
膝が震える
腰が落ちそうになる
それでも踏ん張った
「私が……」
「証明する!」
立った
「嘘……」
私は思わず声を漏らした
あの一撃を食らって立った
日向も目を見開いていた
「先生~……」
その一瞬だった
桐生先生が踏み込んだ
「っ!?」
日向の反応がわずかに遅れた
でもこの二人にはそれが致命傷だった
桐生先生の右手が日向の手首へ触れる
日向が反射的に腕を引く
先生はその引いた力に逆らわない
一緒に前へ出る
日向の肘が伸びて肩が開く
そのまま先生の体が日向の懐へ潜り込んだ
「しまっ――」
桐生先生が日向の腕を背負う
腰を落として体を回す
日向の足が床から離れた
「え!?」
くるっ
日向の体が宙を舞う
ドンッ!!
「っ!!」
背中から体育館の床へ叩きつけられた
「日向!」
日向の息が一瞬止まる
桐生先生がそのまま日向の上へ入った
両膝で日向の両腕を押さえる
そして右手の五本の指が
日向の首へすっと伸びた
「日向!!」
先生の指先が
日向の首の数ミリ手前で止まっている
静かだった
日向も動けなかった
桐生先生の指があと少し前へ進めば終わる
それが分かっている
日向がゆっくりと桐生先生を見る
桐生先生の顔は涙でぐしゃぐしゃだった
痛くて体を支えているだけでも辛いはずなのに
それでも指先だけはまったく震えていない
日向の首を正確に捉えていた
しばらくして日向が小さく息を吐いた
「負けました~」
「完敗です~」
いつもののんびりした声
でも笑ってはいなかった
桐生先生の目からまた涙が落ちた
首へ突き付けていた指をゆっくり下ろす
その手を日向の頭に置いた
そして優しく撫でる
「日向さん」
「付き合ってくれて」
「ありがとう」
日向が少しだけ目を見開いた
それから小さく笑った
「はい~」
日向の返事を聞いた瞬間
頭を撫でていた手から力が抜ける
桐生先生の体がぐらりと揺れた
「先生!」
私は思わず駆け出した
倒れかけた桐生先生の体を慌てて支える
「大丈夫!?」
「大丈夫に……」
「見えますか?」
「見えない!」
むしろひどい!
道着はあちこち裂け
その下の肌には裂けた傷が走り
傷口の周りまで赤く盛り上がっている
なにより蹴りを受けたお腹の傷が酷い
「うわぁぁ……」
「痛そう……」
見ているだけでこっちまで痛くなってくる
「とにかく」
「冷やした方がいいよね?」
「たぶん……」
桐生先生が苦しそうに答える
「あ」
日向がゆっくり起き上がった
「そうだ~」
「なに?」
日向が自分の鞄のところへ歩いていく
その制服はもう酷いものだった
あちこち裂けてもうボロボロ
「日向!」
私は思わずそっちへ駆け寄る
「ちょっと待って!」
「ん~?」
「日向も大丈夫なの!?」
私は慌てて制服が裂けたところを見る
「ちゃんと傷を見せて!」
「平気だよ~」
「平気かどうかは私が決める!」
「なんで美緒が決めるの~?」
「いいから!」
日向の腕を見る
「あれ?」
思っていたより全然ひどくない
肌には赤い線が何本か残っている
少しみみず腫れになっているところもある
でも深くは切れていない
表面が少し擦れた程度だった
「制服」
「こんなボロボロなのに……」
日向がにこっと笑う
「だから~」
「平気だよ~」
「桐生先生に手加減された~」
「え?」
私は桐生先生を見る
先生がわずかに顔を逸らした
「私は」
少し間を置いて
「腐っても教師です」
そして完全にそっぽを向いた
そういうこと?
あれだけ首とか狙ってたくせに
大怪我させないようにしてたってこと?
怖いんだか、優しいんだか
分かんない人だな……
「先生~」
日向がいつもの笑顔で呼ぶ
「なんですか」
「私が卒業したら~」
「次は本気で~」
「もうごめんよ」
即答だった
日向が目を丸くする
桐生先生はお腹を押さえたまま言う
「勝ち逃げさせてもらうわ」
「え~!」
日向がものすごく不満そうな顔をする
「そんなのずるいよ~」
「教師には逃げる権利があります」
「そんなのないよ~」
「あります」
「じゃあ卒業式の日に~」
「なんのお礼参りですか」
「生徒の巣立ちを見送る」
「教師冥利に尽きる卒業式の日に」
「元生徒から襲撃されるなんてごめんです」
「卒業した次の日~」
「もっとやりません」
「警察を呼びますからね」
「え~」
なんなの……
この二人さっきまで殺し合いみたいなことしてたのに
もう普通に喋ってる
日向が鞄の中を探る
「あった~」
小さな容器を取り出した
「なにそれ?」
「お薬~」
「薬?」
「私の打撃でできた怪我によく効くよ~」
日向が桐生先生のところへ戻る
「先生これ塗っといて~」
「何の薬ですか?」
「こういう傷にすごく効くやつ~」
「こういう傷って……」
私は先生の赤く腫れた背中を見る
「ムチで叩かれたみたいな傷?」
「そうそう~」
日向が頷く
「水鏡流ご用達のお医者さんから~」
「もらってるんだよ~」
「そんな医者いるの!?」
「いるよ~」
「これないと困るの~」
「水鏡流……」
「絶対やばい集団ね……」
関わらないようにしよう……
日向が桐生先生へ薬を差し出す
先生は少し嫌そうな顔をした
「あなたにやられた傷を」
「あなたにもらった薬で治すわけ?」
「効きますよ~」
「そういう問題じゃないんだけど」
「でも痛いですよね~?」
「痛みも落ちつくし綺麗に治りますよ~」
「私の打撃って~」
「跡が残ると評判なんです~」
「なにその評判!?」
「怖っ!」
「桐生先生、塗った方がいいよ」
「私が手伝うから」
日向は笑顔で桐生先生に薬を差し出した
「先生~?」
「貸しなさい」
桐生先生は薬を受け取った
日向がにこっと笑う
「素直でよろしいです~」
「引き裂きますよ」
「まだやるんですか~?」
「やりません!」
私は思わず笑ってしまった


