君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜

南の空は、いつも灰色だった。

リリーは朝早くに目を覚ますと窓の外を見るのが習慣だった。
木枠の隙間から差し込む光は、決まって煤を含んだ鈍い色をしている。
アッシュワの空は、北の白い宮殿の空とは違う。
工場の煙突から立ち上る黒い煙が雲と混ざり、昼でも薄暗い靄がかかったように感じられる。

「リリー、パンを焼いてくれ」

父の声が階下から聞こえる。
リリーは寝台から起き上がり、粗末な木の階段を下りた。
壁は煤で汚れ、床板はところどころ軋む。
それでも父と弟の三人で暮らすには十分だった。

台所は狭く、窓から見えるのは隣の建物の壁ばかりだ。
リリーは手早く火を起こし、昨日の残りの粥を温め直す。
パンは昨日のうちに焼いておいた硬い黒パンしか残っていない。
それでも、弟のトムは文句も言わずに食べてくれる。
十四歳のリリーにとって、それが唯一の慰めだった。

「今日も市場に行くのか?」

トムが眠そうな目を擦りながら聞く。

「うん。昨日仕入れた野菜がまだ残ってるから」

リリーは微笑んだ。
春に咲く小さな花のような笑顔だと、母が昔そう言っていたことを覚えている。
母はもういない。
五年前、リリーが九歳の時に家を出ていった。
理由は今でもはっきりとは分からない。
ただ、去り際に言った言葉だけがリリーの胸に深く突き刺さったまま残っている。

――『身分違いの恋をしてはいけない。どちらかが必ず壊れてしまうのよ』

あの時の母の表情をリリーは時々夢に見る。
悲しみと諦めが入り混じった、それでいてどこか慈しむような眼差し。
あれが母自身の経験から来る言葉なのか、それともリリーへの戒めなのか今となっては知る由もない。

朝の支度を整えると、リリーは野菜の籠を背負って家を出た。
外はすでに喧騒に満ちている。
運河沿いの道は、工場へ向かう労働者たちで溢れていた。
彼らは皆、煤で汚れた作業着をまとい疲れた表情で足を進めている。
空気には鉄の匂いと、どこか焦げたような匂いが混ざっていた。




リリーは市場に着くと、自分の場所を見つけて籠を下ろした。
市場は活気に満ちているが、そこには常に張り詰めた空気がある。
値切る声、怒鳴る声、時には殴り合いの喧嘩も起きる。
実力主義のこの街では、弱ければ食われる。
十四歳の少女が一人で市場に立つことは、決して安全とは言えなかった。

それでもリリーは、誰かに助けを求めることはしなかった。
自分が苦労すれば済むことなら、それでいいと思っていた。
父もトムもそれぞれに大変な思いをしている。
自分が負担をかけるわけにはいかない。

リリーは野菜の整理を始めた。
手を動かしていると、余計なことを考えずに済む。
土の匂い、葉の感触、それがリリーの現実だった。