五日目の朝。
ノアは目を覚ました。
頭が冴えていた。
脇腹の激痛は鈍い痺れへと変わり、体の中を駆け巡っていた熱はすでに退いていた。
意識がはっきりとしている分、昨夜の記憶が生々しく蘇る。
自分の手の中に残る、リリーの手の温もり。
夢の中で縋ってしまった、その感触。
それでいて自分を安心させた柔らかな温もり。
無意識に彼女を引き寄せ、縋りついていたことに気づき、ノアは深く息を吐いた。
(俺は……)
惨めだった。
王族としての誇りも尊厳もかなぐり捨てて、少女の温もりにすがりつくなど。
だが同時に、冷徹な理性が囁く。
この狭く埃っぽい小屋から出たくないと。
外に出れば、自分は再び「人質」に戻る。
だがここでは違う。
目の前で静かに薬草をすり潰すこの少女の瞳の中にだけ、自分はただの傷ついた少年として映っている。
グレンフォードの世継ぎでも、政治の道具でもない。
ただの「旅人」として見つめてくれる彼女の存在が、凍てついていたノアの世界に小さな灯を灯し始めていた。
木戸が開き、リリーが入ってきた。
いつものように盆を手にしている。
朝の微かな光が彼女の背後から差し込み、栗色の髪を柔らかく縁取っていた。
ノアは藁の上に身を起こし、自分の膝を見つめた。
このままズルズルと彼女の優しさに甘えるわけにはいかない。
これ以上関われば関わるほど、別れが苦しくなる。
そして何より、彼女を危険に晒すことになる。
「……明日には出ていく」
静かに告げた声は、思った以上に乾いていた。
リリーの手が止まった。
盆の上の茶碗が微かに揺れ、カチリと音を立てる。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、ノアは見てしまった。
緑色の瞳の中に浮かんだ感情。
ほんの一瞬だけ過った微かな落胆の影。
そしてすぐに覆い隠された安堵の色。
複雑に揺れるその瞳が、「行かないで」と「そうね」という二つの矛盾した言葉を物語っているようで。
ノアの胸が軋んだ。
拳を無意識に握りしめる。
爪が掌に食い込み、痛みが走った。
この時間が、終わらなければいい。
彼女がそばにいる、この短い時間を手放したくない。
自分の凍てついた人生に舞い込んだ唯一の春を、手放せるわけがない。
だが同時に分かっていた。
それが彼女を壊すことになるのだと。
泥沼のような自分の行く末に巻き込めば、この純粋な少女は瞬く間に汚されてしまう。
北と南の対立という大きな行く末の奔流が、彼女という小さな存在を跡形もなく飲み込んでしまうだろう。
だからこそ行かなければならない。
なのに――彼女のあの表情を見てしまったばかりに、ノアの足は地面に根付いたように動かなかった。
「……リリー」
名前を呼んでいた。
理性ではなく、心の奥底から溢れ出た切実な音が唇を突いて出た。
初めて呼ぶその名前は、喉が渇いてひどく掠れていた。
リリーがびくりと肩を震わせた。
盆を置き、ノアの方へ向き直る。
何か言おうとして唇が開きかけたが、言葉は出てこなかった。
ただ見つめ合うだけの時間。
雨上がりの湿った空気が二人の間を満たしている。
言葉はいらなかった。
彼女の柔らかな存在そのものがノアの目に入り、胸に染み入っていく。
逃げられない。
リリーという名の光から目を逸らすことができない。
ノアはただ黙したまま、深い青の瞳でリリーを射抜いていた。
その眼差しには、王族としての冷徹さはなく、ただ一人の少女へ向けた切実な想いだけが宿っていた。

「ここにいてもいいよ」
その言葉は、あまりにもあっけなくノアの前に差し出された。
まるで道に迷った子供に方向を教えるように、ためらいも重みもなく。
ノアは瞬きを忘れ、ただリリーを見つめた。
彼女は盆の上の茶碗を直しながら、穏やかに続けた。
「まだ傷も治ってないし……外は危ないでしょう? 誰も来ないから、安心して」
論理的な理由づけだった。
だがその緑色の瞳の奥には、言葉にできない何かが揺れているのをノアは見逃さなかった。
彼女もまた、別れを恐れている。
その確信めいた感覚が、ノアの胸を熱く締め付けた。
「……迷惑ではないのか」
「ううん。迷惑じゃないよ」
リリーはそう言って笑った。
春に咲く小さな花のような、儚くも安らぐ笑顔。
その瞬間、ノアの中で何かが決定的に崩れ去った。
去らなければならないという理性の堤防が、彼女の微笑みという名の清流に押し流された。
正体を隠すことへの罪悪感が喉の奥で鋭く刺さる。
それでも、彼女のそばにいたいという渇望がそれを凌駕した。
「……そうか……すまない」
ノアは低く呟き、再び藁の上に身を沈めた。
その言葉は感謝以上の重みを帯びており、それは二人の間に名もなき絆が結ばれたことを意味していた。
ノアは目を覚ました。
頭が冴えていた。
脇腹の激痛は鈍い痺れへと変わり、体の中を駆け巡っていた熱はすでに退いていた。
意識がはっきりとしている分、昨夜の記憶が生々しく蘇る。
自分の手の中に残る、リリーの手の温もり。
夢の中で縋ってしまった、その感触。
それでいて自分を安心させた柔らかな温もり。
無意識に彼女を引き寄せ、縋りついていたことに気づき、ノアは深く息を吐いた。
(俺は……)
惨めだった。
王族としての誇りも尊厳もかなぐり捨てて、少女の温もりにすがりつくなど。
だが同時に、冷徹な理性が囁く。
この狭く埃っぽい小屋から出たくないと。
外に出れば、自分は再び「人質」に戻る。
だがここでは違う。
目の前で静かに薬草をすり潰すこの少女の瞳の中にだけ、自分はただの傷ついた少年として映っている。
グレンフォードの世継ぎでも、政治の道具でもない。
ただの「旅人」として見つめてくれる彼女の存在が、凍てついていたノアの世界に小さな灯を灯し始めていた。
木戸が開き、リリーが入ってきた。
いつものように盆を手にしている。
朝の微かな光が彼女の背後から差し込み、栗色の髪を柔らかく縁取っていた。
ノアは藁の上に身を起こし、自分の膝を見つめた。
このままズルズルと彼女の優しさに甘えるわけにはいかない。
これ以上関われば関わるほど、別れが苦しくなる。
そして何より、彼女を危険に晒すことになる。
「……明日には出ていく」
静かに告げた声は、思った以上に乾いていた。
リリーの手が止まった。
盆の上の茶碗が微かに揺れ、カチリと音を立てる。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、ノアは見てしまった。
緑色の瞳の中に浮かんだ感情。
ほんの一瞬だけ過った微かな落胆の影。
そしてすぐに覆い隠された安堵の色。
複雑に揺れるその瞳が、「行かないで」と「そうね」という二つの矛盾した言葉を物語っているようで。
ノアの胸が軋んだ。
拳を無意識に握りしめる。
爪が掌に食い込み、痛みが走った。
この時間が、終わらなければいい。
彼女がそばにいる、この短い時間を手放したくない。
自分の凍てついた人生に舞い込んだ唯一の春を、手放せるわけがない。
だが同時に分かっていた。
それが彼女を壊すことになるのだと。
泥沼のような自分の行く末に巻き込めば、この純粋な少女は瞬く間に汚されてしまう。
北と南の対立という大きな行く末の奔流が、彼女という小さな存在を跡形もなく飲み込んでしまうだろう。
だからこそ行かなければならない。
なのに――彼女のあの表情を見てしまったばかりに、ノアの足は地面に根付いたように動かなかった。
「……リリー」
名前を呼んでいた。
理性ではなく、心の奥底から溢れ出た切実な音が唇を突いて出た。
初めて呼ぶその名前は、喉が渇いてひどく掠れていた。
リリーがびくりと肩を震わせた。
盆を置き、ノアの方へ向き直る。
何か言おうとして唇が開きかけたが、言葉は出てこなかった。
ただ見つめ合うだけの時間。
雨上がりの湿った空気が二人の間を満たしている。
言葉はいらなかった。
彼女の柔らかな存在そのものがノアの目に入り、胸に染み入っていく。
逃げられない。
リリーという名の光から目を逸らすことができない。
ノアはただ黙したまま、深い青の瞳でリリーを射抜いていた。
その眼差しには、王族としての冷徹さはなく、ただ一人の少女へ向けた切実な想いだけが宿っていた。

「ここにいてもいいよ」
その言葉は、あまりにもあっけなくノアの前に差し出された。
まるで道に迷った子供に方向を教えるように、ためらいも重みもなく。
ノアは瞬きを忘れ、ただリリーを見つめた。
彼女は盆の上の茶碗を直しながら、穏やかに続けた。
「まだ傷も治ってないし……外は危ないでしょう? 誰も来ないから、安心して」
論理的な理由づけだった。
だがその緑色の瞳の奥には、言葉にできない何かが揺れているのをノアは見逃さなかった。
彼女もまた、別れを恐れている。
その確信めいた感覚が、ノアの胸を熱く締め付けた。
「……迷惑ではないのか」
「ううん。迷惑じゃないよ」
リリーはそう言って笑った。
春に咲く小さな花のような、儚くも安らぐ笑顔。
その瞬間、ノアの中で何かが決定的に崩れ去った。
去らなければならないという理性の堤防が、彼女の微笑みという名の清流に押し流された。
正体を隠すことへの罪悪感が喉の奥で鋭く刺さる。
それでも、彼女のそばにいたいという渇望がそれを凌駕した。
「……そうか……すまない」
ノアは低く呟き、再び藁の上に身を沈めた。
その言葉は感謝以上の重みを帯びており、それは二人の間に名もなき絆が結ばれたことを意味していた。
