リリーは盆を取り、ノアの前に置いた。
粗末な黒パンが一切れと、薄いスープが茶椀に注がれていた。
質素な食事だが、湯気が立ち上り、微かな香りが漂っている。
「食べて。少しでも食べないと、治らないから」
リリーは小さな声で言った。
ノアは盆を見つめ、それからリリーを見た。

(……これは、彼女の食事ではないのか)
この街は貧しい。
工場地区の労働者たちが毎日食べるものなど、知れている。
それを分けてくれたのだ。
自分のような見知らぬ者のために。
ノアはゆっくりと上半身を起こそうとした。
脇腹に鈍い痛みが走るが、昨夜よりは幾分ましだった。
リリーが慌てて肩を支えてくれた。
近づいた彼女から、微かなハーブの香りがした。
昨夜塗ってくれた軟膏と同じ香り。
ノアはそれを無意識に吸い込んだ。
肺の奥まで、彼女の気配を刻み込むように。
スープを一口啜る。
温かかった。
胃に染み渡る熱が、冷え切った身体の内側から溶かしていくようだった。
「……名前は」
ノアは掠れた声で問いかけた。
すぐに後悔した。
聞くべきではない。
相手を知れば知るほど、離れるのが難しくなる。
名前など知らなくていい。
ただの通りすがり、夜明けと共に消える関係。
そうあるべきだ。
だが――聞かずにはいられなかった。
この少女を、名もなき存在のままにしておくことが、どうしてもできなかった。
リリーは一瞬手を止め、それから静かに答えた。
「リリー。あなたは?」
その問い返しに、ノアは言葉に詰まった。
ノア・レイ・グレンフォード。
北の白い宮殿を治めるグレンフォード王家の世継ぎ。
その名を口にすれば、全てが壊れる。
この少女が自分を知れば、敵地の人質という立場が彼女を巻き込む。
ただでさえ、このアッシュワの地でグレンフォードの名を持つことは、死刑宣告に等しい。
「……」
沈黙が長くなる。
リリーは急かさなかった。
ただ静かに、ノアの目を見つめて待っていた。
その待ち方が、ノアの胸を裂いた。
責めるでもなく、疑うでもなく、ただそこにいて、彼が言葉を選ぶ時間を与えてくれている。
そんな優しさを、ノアは知らなかった。
「……言えないの?」
「……」
リリーは不思議と追及しなかった。
ただ、困ったように小首を傾げると、小さく言った。
「じゃあ、旅人さんって呼ぶね」
旅人。
その呼び名が、今の自分にどれほど相応しいか。
王族でも人質でもない、ただの――誰か。
ノアは深く俯いた。
何も言えなかった。
彼女は何も知らない。
自分が敵国の人質であることも、グレンフォードの血を引く者であることも。
ただ「旅人」と呼び、傷ついた見知らぬ人を気遣っている。
その無知が、彼女を守っている。
そして同時に、ノアと彼女の間に越えられない壁を作っている。
(……それでいい)
ノアは思った。
名を明かさないことが、彼女を守る唯一の方法だ。
この温かな小屋での時間は、永遠には続かない。
傷が治れば、自分は去らなければならない。
彼女の人生に、自分のような人間が深入りしてはいけない。
だが――それでも。
この瞬間、彼女が「旅人さん」と呼んでくれたその響きが、ノアの乾いた心に沁みた。
名前ではない。
名乗りでもない。
ただの呼び名。
リリーはそれきり何も言わず、ただ静かに傍らに座っていた。
ノアがスープを飲む音と、雨音だけが小屋を満たしている。
ノアはふと、視線を上げた。
リリーと目が合った。
彼女は微笑まず、問いかけもせず、ただそこにいた。
穏やかな緑色の瞳が、ノアを映している。
その瞳の深さに、ノアは息を呑んだ。
何も言わず、ただ見つめ合う。
ノアは視線を逸らせなかった。
穏やかな緑色の瞳。
そこに映る自分ではなく、その瞳そのものから目を離せなくなっていることに気づいてしまった。
(……リリー)
その名を、胸の奥に刻む。
決して口には出さない、内側だけの呼び名。
そうしておかなければ、この名前が唇からこぼれ落ちそうだった。
粗末な黒パンが一切れと、薄いスープが茶椀に注がれていた。
質素な食事だが、湯気が立ち上り、微かな香りが漂っている。
「食べて。少しでも食べないと、治らないから」
リリーは小さな声で言った。
ノアは盆を見つめ、それからリリーを見た。

(……これは、彼女の食事ではないのか)
この街は貧しい。
工場地区の労働者たちが毎日食べるものなど、知れている。
それを分けてくれたのだ。
自分のような見知らぬ者のために。
ノアはゆっくりと上半身を起こそうとした。
脇腹に鈍い痛みが走るが、昨夜よりは幾分ましだった。
リリーが慌てて肩を支えてくれた。
近づいた彼女から、微かなハーブの香りがした。
昨夜塗ってくれた軟膏と同じ香り。
ノアはそれを無意識に吸い込んだ。
肺の奥まで、彼女の気配を刻み込むように。
スープを一口啜る。
温かかった。
胃に染み渡る熱が、冷え切った身体の内側から溶かしていくようだった。
「……名前は」
ノアは掠れた声で問いかけた。
すぐに後悔した。
聞くべきではない。
相手を知れば知るほど、離れるのが難しくなる。
名前など知らなくていい。
ただの通りすがり、夜明けと共に消える関係。
そうあるべきだ。
だが――聞かずにはいられなかった。
この少女を、名もなき存在のままにしておくことが、どうしてもできなかった。
リリーは一瞬手を止め、それから静かに答えた。
「リリー。あなたは?」
その問い返しに、ノアは言葉に詰まった。
ノア・レイ・グレンフォード。
北の白い宮殿を治めるグレンフォード王家の世継ぎ。
その名を口にすれば、全てが壊れる。
この少女が自分を知れば、敵地の人質という立場が彼女を巻き込む。
ただでさえ、このアッシュワの地でグレンフォードの名を持つことは、死刑宣告に等しい。
「……」
沈黙が長くなる。
リリーは急かさなかった。
ただ静かに、ノアの目を見つめて待っていた。
その待ち方が、ノアの胸を裂いた。
責めるでもなく、疑うでもなく、ただそこにいて、彼が言葉を選ぶ時間を与えてくれている。
そんな優しさを、ノアは知らなかった。
「……言えないの?」
「……」
リリーは不思議と追及しなかった。
ただ、困ったように小首を傾げると、小さく言った。
「じゃあ、旅人さんって呼ぶね」
旅人。
その呼び名が、今の自分にどれほど相応しいか。
王族でも人質でもない、ただの――誰か。
ノアは深く俯いた。
何も言えなかった。
彼女は何も知らない。
自分が敵国の人質であることも、グレンフォードの血を引く者であることも。
ただ「旅人」と呼び、傷ついた見知らぬ人を気遣っている。
その無知が、彼女を守っている。
そして同時に、ノアと彼女の間に越えられない壁を作っている。
(……それでいい)
ノアは思った。
名を明かさないことが、彼女を守る唯一の方法だ。
この温かな小屋での時間は、永遠には続かない。
傷が治れば、自分は去らなければならない。
彼女の人生に、自分のような人間が深入りしてはいけない。
だが――それでも。
この瞬間、彼女が「旅人さん」と呼んでくれたその響きが、ノアの乾いた心に沁みた。
名前ではない。
名乗りでもない。
ただの呼び名。
リリーはそれきり何も言わず、ただ静かに傍らに座っていた。
ノアがスープを飲む音と、雨音だけが小屋を満たしている。
ノアはふと、視線を上げた。
リリーと目が合った。
彼女は微笑まず、問いかけもせず、ただそこにいた。
穏やかな緑色の瞳が、ノアを映している。
その瞳の深さに、ノアは息を呑んだ。
何も言わず、ただ見つめ合う。
ノアは視線を逸らせなかった。
穏やかな緑色の瞳。
そこに映る自分ではなく、その瞳そのものから目を離せなくなっていることに気づいてしまった。
(……リリー)
その名を、胸の奥に刻む。
決して口には出さない、内側だけの呼び名。
そうしておかなければ、この名前が唇からこぼれ落ちそうだった。
