物置小屋の中は狭く、埃っぽい匂いがした。
しかし、外の冷たい雨風からは守られている。
少女はノアを古びた藁の上に座らせると、手早く古布を集め始めた。

「傷、見せて」
少女の言葉に、ノアは無言で脇腹を晒した。
血で濡れた衣服を切り裂き、露わになった傷口を見て、少女は息を呑む。
刃物で切り裂かれた傷は、まだじわりと血を滲ませていた。
「……ひどい」
少女は眉を寄せ、水瓶の水で布を湿らせ、傷口を拭い始めた。
沁みるような痛みが走るが、彼女の手は慎重で、優しかった。
清めるように、慈しむように、何度も繰り返す。
次に、彼女は小瓶を取り出した。
中に入っていたのは、薬草をすり潰した軟膏だろう。
淡い香りが小屋に漂う。
彼女は指に軟膏を取り、傷口にそっと塗っていった。
ひんやりとした感触のあと、じわりと沁みる痛みが走ったが、それは不思議と嫌な痛みではなかった。
包帯を巻く手も、やはり慎重で優しかった。
何度も何度も、きつすぎず緩すぎず、ちょうどいい加減を確かめながら巻いていく。
ノアは、自分の命を繋ぎ止めているその細い指先を見つめていた。
手を差し伸べる彼女の無垢な行動が、ノアには不思議でならなかった。
「怖くないのか」
ノアは掠れた声で問うた。
少女は手を止め、ノアの顔を真っ直ぐに見つめた。
緑色の瞳が、揺れることなくノアを映している。
「……少し。でも、放って帰るほうが嫌だから」」
その答えはあまりにも単純で、だからこそノアの胸に深く突き刺さった。
理由も、見返りもない。
ただ傷ついているから、手を差し伸べた。
そんな人間がいることを、ノアは知らなかった。
ノアは目を伏せた。
「……ありがとう」
その言葉は、喉の奥でひどく小さく響いた。
ノア自身、最後に誰かに感謝したのがいつだったのかさえ覚えていない。
だが、今この瞬間、彼女の優しさに対する感謝だけが、真実だった。

少女はふわりと微笑んだ。
「お薬、効いてるといいな」
その微笑みが、小屋の中の薄暗さを一瞬だけ明るく照らしたように思えた。
ノアは、目の前の少女から目が離せなかった。
雨音はまだ激しく降り続いている。
だが、小屋の中には不思議な静寂が漂っていた。
ノアの心はまだ激しく波打っていたが、少女の存在だけが、確かな足場のように感じられた。
雨音が静かに屋根を叩く中、ノアは藁の上に身を横たえていた。
脇腹の痛みは鈍く脈打つが、不思議と先ほどまでの冷え切った絶望感だけは消えていた。
目を閉じても、まぶたの裏に焼き付いているのは、雨に濡れた栗色の髪と、迷いのない緑色の瞳だった。
(……放っておけない、だと)
敵国の地で、誰の助けも期待せず、ただ死を待つだけだった自分。
その自分に手を差し伸べた少女は、怪我をした野良猫でも拾うかのような無防備さで、目の前の命を救ったのだ。
そこに打算も、恐怖もない。
ただ、純粋な善意だけがあった。
軟膏の淡い香りが鼻腔をくすぐる。
意識の端が溶け出し、泥のように重いまどろみがノアを深淵へと引きずり込もうとしていた。
脇腹の痛みは遠のき、代わりに熱を持ったような鈍い感覚だけが残る。
薄く開いた視界の端で、少女が動いている。
湿った布を絞り、額の汗を拭ってくれる。
その仕草は驚くほど献身的で、かつて宮殿の侍女たちに受けたことのないほど丁寧だった。
彼女の横顔を見つめる。
雨に濡れて額にはりついた栗色の髪。
長い睫毛の陰に落ちる淡い影。
心配そうに眉尻を下げたその表情には一片の偽りもなく、ただ目の前の傷ついた生命を慈しむ色だけが浮かんでいた。
(……なんて、無防備な)
王族である自分を知らぬとはいえ、正体不明の危険な男にこれほど肉薄し、その細い指で触れるなど。
だがその無警戒さこそが、ノアの乾ききった魂に染み入るように心地よかった。
彼女の指先が頬を掠めた。
柔らかく、温かい。
その微かな触れ合いだけで、ノアの胸の奥底で封印していた何かが音を立てて軋んだ。
二年間、凍てついた檻の中で忘れかけていた「人」としての温もり。
彼女の存在が、焼き付けられるように網膜に残る。
(……君は、誰だ)
問いかけようとした声は音にならず、ただ唇が微かに震えただけだった。
意識が闇に沈む直前まで、ノアは彼女を見つめ続けていた。
雨に濡れた栗色の髪と、揺らぐことのない緑の瞳を、忘れまいとするように。
しかし、外の冷たい雨風からは守られている。
少女はノアを古びた藁の上に座らせると、手早く古布を集め始めた。

「傷、見せて」
少女の言葉に、ノアは無言で脇腹を晒した。
血で濡れた衣服を切り裂き、露わになった傷口を見て、少女は息を呑む。
刃物で切り裂かれた傷は、まだじわりと血を滲ませていた。
「……ひどい」
少女は眉を寄せ、水瓶の水で布を湿らせ、傷口を拭い始めた。
沁みるような痛みが走るが、彼女の手は慎重で、優しかった。
清めるように、慈しむように、何度も繰り返す。
次に、彼女は小瓶を取り出した。
中に入っていたのは、薬草をすり潰した軟膏だろう。
淡い香りが小屋に漂う。
彼女は指に軟膏を取り、傷口にそっと塗っていった。
ひんやりとした感触のあと、じわりと沁みる痛みが走ったが、それは不思議と嫌な痛みではなかった。
包帯を巻く手も、やはり慎重で優しかった。
何度も何度も、きつすぎず緩すぎず、ちょうどいい加減を確かめながら巻いていく。
ノアは、自分の命を繋ぎ止めているその細い指先を見つめていた。
手を差し伸べる彼女の無垢な行動が、ノアには不思議でならなかった。
「怖くないのか」
ノアは掠れた声で問うた。
少女は手を止め、ノアの顔を真っ直ぐに見つめた。
緑色の瞳が、揺れることなくノアを映している。
「……少し。でも、放って帰るほうが嫌だから」」
その答えはあまりにも単純で、だからこそノアの胸に深く突き刺さった。
理由も、見返りもない。
ただ傷ついているから、手を差し伸べた。
そんな人間がいることを、ノアは知らなかった。
ノアは目を伏せた。
「……ありがとう」
その言葉は、喉の奥でひどく小さく響いた。
ノア自身、最後に誰かに感謝したのがいつだったのかさえ覚えていない。
だが、今この瞬間、彼女の優しさに対する感謝だけが、真実だった。

少女はふわりと微笑んだ。
「お薬、効いてるといいな」
その微笑みが、小屋の中の薄暗さを一瞬だけ明るく照らしたように思えた。
ノアは、目の前の少女から目が離せなかった。
雨音はまだ激しく降り続いている。
だが、小屋の中には不思議な静寂が漂っていた。
ノアの心はまだ激しく波打っていたが、少女の存在だけが、確かな足場のように感じられた。
雨音が静かに屋根を叩く中、ノアは藁の上に身を横たえていた。
脇腹の痛みは鈍く脈打つが、不思議と先ほどまでの冷え切った絶望感だけは消えていた。
目を閉じても、まぶたの裏に焼き付いているのは、雨に濡れた栗色の髪と、迷いのない緑色の瞳だった。
(……放っておけない、だと)
敵国の地で、誰の助けも期待せず、ただ死を待つだけだった自分。
その自分に手を差し伸べた少女は、怪我をした野良猫でも拾うかのような無防備さで、目の前の命を救ったのだ。
そこに打算も、恐怖もない。
ただ、純粋な善意だけがあった。
軟膏の淡い香りが鼻腔をくすぐる。
意識の端が溶け出し、泥のように重いまどろみがノアを深淵へと引きずり込もうとしていた。
脇腹の痛みは遠のき、代わりに熱を持ったような鈍い感覚だけが残る。
薄く開いた視界の端で、少女が動いている。
湿った布を絞り、額の汗を拭ってくれる。
その仕草は驚くほど献身的で、かつて宮殿の侍女たちに受けたことのないほど丁寧だった。
彼女の横顔を見つめる。
雨に濡れて額にはりついた栗色の髪。
長い睫毛の陰に落ちる淡い影。
心配そうに眉尻を下げたその表情には一片の偽りもなく、ただ目の前の傷ついた生命を慈しむ色だけが浮かんでいた。
(……なんて、無防備な)
王族である自分を知らぬとはいえ、正体不明の危険な男にこれほど肉薄し、その細い指で触れるなど。
だがその無警戒さこそが、ノアの乾ききった魂に染み入るように心地よかった。
彼女の指先が頬を掠めた。
柔らかく、温かい。
その微かな触れ合いだけで、ノアの胸の奥底で封印していた何かが音を立てて軋んだ。
二年間、凍てついた檻の中で忘れかけていた「人」としての温もり。
彼女の存在が、焼き付けられるように網膜に残る。
(……君は、誰だ)
問いかけようとした声は音にならず、ただ唇が微かに震えただけだった。
意識が闇に沈む直前まで、ノアは彼女を見つめ続けていた。
雨に濡れた栗色の髪と、揺らぐことのない緑の瞳を、忘れまいとするように。
