ルナは、恋をした。

その頃。

昇降口で月を見ていた女子生徒の一人が、スマートフォンを操作していた。

画面には、凪へ次々と質問をする月の姿。

そして、去っていく凪の背中へ、

『大好きです!』

と叫ぶ姿まで映っている。

動画には、短い文章が添えられた。

『昨日、一条先輩に振られた一年生。懲りずにアピール中』

投稿されてから、数分。

再生数。
共有数。
コメント。
数字が、次々と増えていく。

『メンタル強すぎ』
『また告白してる』
『これ誰?』
『推薦組の子らしいよ』
『一条先輩、迷惑そう』

動画はクラスを越え、学年を越えて広がっていった。
昨日の噂が消えるより先に、月はまた、学校中の視線を集め始めていた。

*

翌朝。

「ねぇ」

「あの子じゃない?」

「動画の子」

「また一条先輩でも待ってるんじゃない?」
近くで、クスクスと笑う声がした。

昇降口には、まだ数えるほどしか生徒がいない。
月はいつもより三十分早く登校し、小さなメモ帳を手に玄関を見つめていた。

昨日、凪へ質問しても、一つも答えてもらえなかった。

なら。
質問しなくても、知る方法を探す。

月が考えた最初の方法は、
見ることだった。

誰かが扉を開けるたび、朝の冷たい空気が校舎の中へ流れ込んでくる。

一人。
また一人。

登校してくる生徒が増えていく。

静かだった昇降口には、靴箱を開け閉めする音や、挨拶の声が重なり始めた。

月は、その間も同じ場所に立っていた。

「きゃあ! 一条先輩!」
一人の女子生徒が声を上げる。

「今日もかっこいい!」

「一条先輩、おはようございます!」

一条凪が、昇降口へ入ってきた。

声をかける女子生徒たちに囲まれても、凪は足を止めない。
一度視線を向けただけで、そのまま靴箱へ向かった。

月はすぐにメモ帳を開いた。

『七時四十分ごろ登校』

書き終えて顔を上げたときには、凪の姿はすでに校舎の奥へ消えていた。

「また一条くん待ってんの?」

近くにいた二年生の女子生徒が、面白そうに月へ話しかける。

「まだ諦めてないわけ?」

月はメモ帳を閉じた。

「はい」

女子生徒たちの笑顔が、一瞬止まる。

「ストーカーじゃん」

「今日は質問しません」

「……は?」

「見るだけです」

女子生徒たちは顔を見合わせ、また小さく笑った。
月はそのままメモ帳を開いた。

三限目。

体育では、来月の球技大会に向けた練習が始まった。

「今日から球技大会の練習に入るぞ。チームに分かれて、まずは試合形式でやってみろ!」

教師の声に、体育館のあちこちから歓声が上がる。

月も指定されたコートへ向かった。

「朝比奈さん、そこね」

「はい」

先生の笛が鳴った。

サーブ。
レシーブ。
トス。

何度かボールが行き来したあと、相手コートから強い返球が飛んでくる。

「朝比奈さん!」

名前を呼ばれ、月が顔を上げた。

身をかわすより先に、ボールが肩へぶつかった。

バシッ、と乾いた音がする。

「……っ」

肩の奥に、じんとした痛みが広がった。

ボールは床を転がっていく。

月は痛む場所を押さえたあと、すぐにボールを拾った。

「ごめーん!」

相手コートから声が飛ぶ。

その後ろで、数人の女子生徒が笑っていた。

笑い声に重なる色の中へ、黒いものがわずかに滲んだ。
月は、その黒を目で追った。

何を意味する色なのかは、分からなかった。

「大丈夫?」

同じチームの生徒が尋ねた。

「はい」

痛かった。
けれど、動かせないほどではない。

試合が再開する。

今度は、さっきよりも注意してボールを見る。

試合が続く中、別の方向へ飛ぶと思っていたボールが、急に月の方へ向きを変えた。

腕へ強く当たる。

「痛っ……」

「ごめーん、コントロールできなかった!」

相手コートから笑い声が上がる。

また、その色に黒が混じった。
今度は、さっきよりも少し濃い。

月は痛む腕を押さえた。

「おーい、ちゃんとコントロールしろよー!」

離れたところから教師が声をかける。

「すみませーん!」

明るい返事が返った。

試合は、そのまま続いていった。

*

昼休み。

チャイムが鳴ると、月はすぐに立ち上がった。
弁当箱とメモ帳を持って、教室を出る。

「何あれ」

「さあ?」

クラスメイトたちは、廊下の向こうへ消えていく月の背中を見送った。

二年生の教室が並ぶ階へ上がる。

月は、廊下にいた男子生徒へ声をかけた。

「すみません。一条先輩のクラスはどこですか?」

「え?」

突然話しかけられた男子生徒が、少し驚いた顔をする。

「一条なら、二年A組だけど……君って、あの動画の——」

「ありがとうございます!」

知りたいことを聞けた月は、すぐに頭を下げた。

「あ、ちょっと……」

呼び止める声には振り返らず、二年A組へ向かった。

教室の前へ着く。
開いた扉から中を覗き込んだ。

「一条先輩……一条先輩……」

見える範囲を、端から順番に探す。
すると近くにいた男子生徒が声をかけた。

「一条なら食堂だよ」

月は振り返った。

見たことのない男子生徒だった。
けれど相手は、月のことを知っているような顔で笑っている。

「さっき出ていった」

「ありがとうございます!」

月は頭を下げると、すぐに踵を返した。

「噂どおりだな……」

背後で聞こえた声にも振り返らず、階段を駆け下りる。

昼休みで混雑する廊下を抜け、食堂へ続く扉を開けた。
その瞬間、月の足が止まった。

高い天井。
壁一面の窓から差し込む陽の光。
ゆったりと並んだテーブルと椅子。

学校の食堂というより、ホテルのラウンジに近かった。

月は入学してから、ほとんどここへ来たことがない。

毎朝、施設の園長が作ってくれた弁当を持ってきている。

食堂で昼食を買う必要はなかった。

それに、並んでいる料理の値段は、施設からもらっているお小遣いよりずっと高かった。

月は入口に立ったまま、広い食堂を見回す。

窓側。
中央。
奥。

たくさんの生徒の中から、ようやく凪の姿を見つけた。
数人の男子生徒と一緒に、昼食を食べていた。

月は、凪から少し離れた空席へ腰を下ろした。
そこなら、凪の姿がよく見えた。

弁当箱を開き、その隣にメモ帳を置く。

『昼休みは食堂』

書いてから、もう一度凪を見る。

友人の一人が、何かを話していた。
凪が短く答える。

遠くて言葉までは聞き取れない。
けれど、様々な色の間に、柔らかな白が浮かんだ。

別の男子生徒が笑う。
凪も、ほんの少し口元を緩めた。

白の中に、細かな光が瞬いた。

月はペンを構えたまま、その様子を見つめた。

『友達と食べる。話す回数は少ない。ときどき笑う』

そこまで書いて、月の手が止まった。
これを書けば、一条凪という人が分かるのだろうか。

凪が何時に登校するかは分かった。
昼休みに食堂へ来ることも分かった。

けれど、何が好きなのか。
どうして笑ったのか。
その友達のどんなところが好きなのか。

そういうことは、何も分からない。

見えているのは、行動だけだった。
一条凪という人そのものは、まだ見えなかった。

それでも、質問をすれば嫌がられる。
今できることは、見ることだけだった。

昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。

月は、余白の多いページを見つめた。
それから、メモ帳を閉じた。

翌日も、その次の日も。
月は朝も昼休みも放課後も、凪を見かけるたび少し離れた場所からメモを取った。

数日後には、白かったページにも細かな文字が増えていた。

*

放課後。

月は中庭に面した柱の陰に立ち、メモ帳を開いていた。

柱から半分ほど顔を出し、向こうを歩く凪を見る。

「あれ、ルナちゃんじゃない?」

凪と一緒に歩いていた男子生徒が、足を緩めた。

「あ、本当だ」

別の男子生徒も月を見つける。

「何してんだろ、あんなところで」

「凪のこと見てるんじゃないか?」

その視線につられ、凪も柱の方を見る。

月は、自分が見つかっていることにも気づかず、真剣にペンを動かしている。

凪はしばらく黙っていた。

「……」

額へ指を当てる。

「……はあ」

「完全に凪のこと見てるだろ」

凪は月から視線を外した。

「さあな」

それだけ言って、歩き出す。

男子生徒たちも、そのあとを追った。

柱の陰では、
月が、新しい一行を書き足していた。

『友達と歩いているとき、話す回数は少ない』

月は書いた文字を見つめた。
今日もまた、一条先輩のことを一つ知った。
けれど。
一条先輩がどんな人なのかは、まだ分からなかった。