ルナは、恋をした。

翌朝。

月はいつもより少し早く教室へ来ていた。

まだ空席の目立つ教室で、鞄から透明なファイルを取り出す。
中には、昨夜作った歴史の発表資料が入っていた。

原稿の右上には、誰がどこを読むのか分かるように、それぞれの名前も書いてある。

みんな、喜んでくれるだろうか。
月はファイルの端をきれいにそろえた。

教室の扉が開き、西城茜が二人の女子生徒と一緒に入ってきた。

「おはようございます、西城さん!」

茜は月を見た。

「……おはよ」

月の机に置かれたファイルに気づくと、足を止めた。

「それ、歴史の?」

「はい!」

月はファイルを両手で差し出した。

「全部できました!」

「全部?」

「スライドと、原稿と、レジュメです。参考にした本も、最後に書いてあります」

茜は受け取ったファイルを開き、中身をめくっていく。

隣にいた女子生徒が、肩越しに覗き込んだ。

「え、昨日だけで作ったの?」

「はい」

「これ全部、一人で?」

「はい! ルナが一人で作りました。みなさん忙しいので」

「発表しやすいように、読むところも分けました。全部読んだら、六分五十八秒でした」

茜たちが顔を見合わせる。

一人が思わず呟いた。

「……すご」

月は褒められたのだと思って笑った。

「分かりにくいところがあったら教えてください。ルナ、直します」

「うん。ありがと」

茜はファイルを閉じた。

「じゃあ、これ私たちで見ておくね」

「一緒に確認しなくても大丈夫ですか?」

「また今度でいいよ」

「分かりました!」

月は素直に頷いた。

茜たちはファイルを持って、自分たちの席へ戻っていく。

席へ戻ると、声を潜めた。

「ほんとに全部やってきたんだけど」

「頼んだの昨日だよね?」

「暇なんじゃない?」

茜が資料をもう一度開く。

「でも、これなら私たち何もしなくてよさそう」

小さな笑い声が重なる。

月は自分の席で、次の授業の教科書を取り出していた。

その声までは、届いていなかった。

*

放課後。

月は一人、昇降口へ向かっていた。

廊下には、部活動へ向かう生徒や、迎えを待つ生徒たちの声が響いている。

白鳳学院では、放課後になると車寄せへ迎えの車が次々と入ってくる。
月はいつも、一人でバスに乗って帰っていた。

下駄箱から靴を取り出し、上履きと履き替える。

そのとき。
少し離れたところから、男子生徒たちの話し声が聞こえた。

「今日、運転手遅れてんの?」

「ああ。十分くらいかかるらしい」

低く、落ち着いた声。

その声が耳へ届いた瞬間、月の手が止まった。

視界の端に、柔らかな白が広がる。
綿毛のように軽く、輪郭の曖昧な白。

月は顔を上げた。

昇降口の柱の近くに、一条凪が立っていた。
数人の男子生徒と一緒にいる。

凪は片手に鞄を持ち、もう一方の手でスマートフォンを見ていた。

昨日、凪は言った。
知らない相手とは付き合わない。

ならば、まずはお互いのことを知ればいい。

月はそう考えた。

昨夜、月はメモ帳に質問をいくつも書き出していた。

好きな食べ物。
好きな色。
好きな本。
好きな季節。
好きな動物。

その下にも、質問がいくつも並んでいる。
月は鞄からメモ帳を取り出した。

「一条先輩!」

凪と男子生徒たちが、月の方へ振り返る。

「あ」

一人が月に気づいた。

「昨日の一年じゃん」

凪もスマートフォンから顔を上げ、月を見た。

「……」

凪の前まで駆け寄り、メモ帳を開く。

「またあんたか」

低い声とともに、柔らかな白が月の視界へ広がった。

やっぱり、この色だ。

月は嬉しそうに笑った。

そして、メモ帳の一番上を見る。

「好きな食べ物は何ですか?」

「……は?」

「好きな色は何ですか? 好きな本と、好きな季節と、好きな動物も知りたいです」

凪の隣にいた男子生徒が吹き出した。

「昨日は告白して、今日はインタビューかよ」

月は男子生徒を見たあと、すぐに凪へ向き直った。
凪は月を見下ろしていた。

「それを聞いてどうする」

「一条先輩のことを知れます!」

凪が眉間に皺を寄せる。

「知らない相手に、わざわざ自分のこと話す気ない」

月は少し考えた。

知らない相手には、話したくない。

それなら――。

「ルナの好きな食べ物は、オムライスです」

「……何の話だ」

「卵は半熟じゃなくて、しっかり焼いた方が好きです。好きな色は黄色です。猫も好きです」

「だから」

「誕生日は六月十五日です」

月は指を折りながら続ける。

「音楽も好きです。雨の音と、まだ誰も起きていない早朝の空の音も好きです。それから――」

「もういい」

凪が深く息を吐いた。
その声から広がる白に、細い棘のような形が混じる。

「一条先輩の声、尖っています」

「……声?」

「はい。一条先輩の声です」

月は宙へ手を伸ばした。
指先が触れる前に、白はほどけて消えていく。

月には、声の色や形が見える。
けれど、その違いが何を意味するのかまで分かるわけではない。

「とにかく」

凪は怪訝そうに月を見た。

「俺はあんたのこと知りたいと思わない」

月は瞬きをした。

一条先輩は、ルナのことを知りたくない。

胸の奥に、何かが小さく落ちた。

月はメモ帳へ目を落とす。

まだ聞いていないことが、たくさん残っている。

「……好きな色は何ですか?」

「話聞いてたか?」

「はい」

「なら、なんでまだ聞く」

月は凪を見上げた。

「一条先輩がルナを知りたくなくても、ルナは一条先輩を知りたいです」

凪が黙った。

隣にいた男子生徒たちも、顔を見合わせる。

凪が自分を知りたくないことと、自分が凪を知りたいこと。
月の中では、それは別の話だった。

月は返事を待つ。
けれど、凪は答えない。

月は次の項目へ指を動かした。

「好きな本は――」

「答える気はない」

月は顔を上げた。

「本を読まないという意味ですか?」

「違う」

「では、好きな本はあるんですね?」

凪の眉間の皺が深くなった。

「……話通じないな」

「どの部分が通じていませんか?」

凪は黙った。

横で聞いていた男子生徒が、とうとう笑い出す。

「まあまあ、ルナちゃん。今日はこの辺にしときな」

月が振り向く。

「あんまりしつこいと、好きになってもらうどころか嫌われるぞ」

月は考えてから、男子生徒を見上げた。

「一条先輩は、もうルナが嫌いですか?」

「え、俺に聞く?」

男子生徒は笑いながら凪を指した。

「それは本人に聞けば」

確かに、本人に聞くのが一番正確だ。

「一条先輩」

月が口を開きかけたとき、凪の手の中でスマートフォンが短く震えた。

凪が画面へ目を落とす。

「……やっと来た」

スマートフォンを鞄へしまう。

「俺、先帰る」

「おう」

「また明日な」

凪が昇降口を出て、車寄せへ向かう。

「あっ」

月は凪の背中へ声をかけた。

「一条先輩!」

凪は振り返らない。

月は大きく息を吸った。

「大好きです!」

昇降口に、月の声が響いた。

周囲の生徒たちが一斉に振り返る。

凪の足が一瞬止まる。

けれど、振り返らない。

「はあ……」

大きなため息とともに、細く尖った白が凪の横へ伸びた。

凪はそのまま車寄せへ向かって歩いていく。

月も昇降口を飛び出し、凪の後を追って車寄せへ向かった。

そこには、黒い車が停まっていた。
運転手が後部座席の扉を開ける。

凪は月を振り返ることなく、そのまま車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、黒い車がゆっくりと動き出した。

「さようなら、一条先輩!」

月は大きく手を振った。

返事はない。

車は車寄せを抜け、敷地内の道路を進んでいく。

月は車が見える位置へ数歩移動した。
木々の隙間から、まだ黒い車が見える。

「また明日です!」

もう一度、大きく手を振った。

車はそのまま遠ざかり、校門の向こうへ消えていった。

月はようやく手を下ろした。

好きな食べ物は分からなかった。
好きな色も。
好きな本も。
好きな季節も。
好きな動物も。

一つも答えてもらえなかった。

けれど。
分かったこともある。

月はメモ帳を開いた。

白紙のページに、ペンを走らせる。

『一条先輩は、知らない人に自分のことを話したくない』

その下へ続けて書く。

『一条先輩は、ルナの質問に答えたくない』

月はそこでペンを止めた。

凪は、自分のことを知りたいとは思わないと言った。
胸の奥には、小さな重さが残っていた。
月はメモ帳に並んだ質問を見返した。

聞いても、答えてくれない。

それなら。
別の方法を探さなければならない。

月は二つのメモの下に、新しい一行を書き足した。

『質問しなくても、一条先輩を知る方法を探す』

書き終えると、月はメモ帳を閉じた。

「……どうしたら、一条先輩のことを知れるんでしょう」

月はメモ帳を鞄へしまい、考えながら校門へ向かった。