「ルナは、一条先輩が好きです!」
朝の昇降口に、朝比奈月の声が響いた。
靴を履き替えていた生徒たちが、一斉に振り返る。
絶え間なく続いていた話し声が、一瞬途切れた。
月は両手を胸の前で握りしめ、一条凪を真っ直ぐ見上げていた。
凪の周りには、いつものように何人もの生徒がいる。
けれど月は、凪だけを見ていた。
「付き合ってください!」
今度は、先ほどよりも大きな声だった。
どこかで誰かが息をのむ。
すぐ近くでは、女子生徒たちが顔を見合わせていた。
凪は月を見たまま、何も言わなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
月が、もう一度口を開こうとしたときだった。
「……誰?」
月は目を瞬いた。
「朝比奈月です!」
凪はわずかに眉を寄せる。
「いや」
一拍置いて、
「あんた、誰?」
周囲がざわついた。
月は黙った。
傷ついたからではない。
凪の質問の意味が、よく分からなかった。
自分は、ちゃんと名前を答えた。
それなのに、凪はまだ「誰」と聞いている。
「ルナは、朝比奈月です」
「それは聞いた」
凪は小さく息を吐いた。
「悪いけど知らない相手とは付き合わない」
「じゃあ、知ってもらえばいいですか?」
月は真剣だった。
「ルナ、一条先輩にルナのことを知ってもらいます」
「……いや」
「それで、もう一回告白します!」
昇降口にいる全員の視線が、月へと集まっていた。
凪は数秒、月を見つめた。
「好きにすれば」
その声とともに、柔らかな白が月の目の前へ広がった。
凪はそのまま月の横を通り過ぎていく。
月は振り返った。
凪の背中は、もう生徒たちの向こうへ消えかけていた。
それでも月は、嬉しそうに笑った。
ただ、あの声を聞けた。
それだけで、今は十分だった。
月が一条凪を初めて見たのは、そのほんの数日前だった。
恋が始まるような日ではなかった。
空は曇っていたし、特別な行事もなかった。
月はただ、クラスメイトたちのノートやプリントを職員室へ運んでいた。
「朝比奈、これもお願い」
「私、次の授業の準備があるから」
「私のもよろしく」
すでに何冊も重なっていた月の机の上へ、さらにノートとプリントが置かれていく。
「はい!」
月はそれらを両腕に抱えた。
何人かが顔を見合わせ、小さく笑う。
けれど、月は気づかなかった。
みんな忙しいのだろうと思った。
自分が代わりに運べば、その分、みんなは助かる。
それなら問題はない。
抱えたノートとプリントで、前がほとんど見えない。
落とさないよう気をつけながら、月は廊下を進んだ。
角を曲がった瞬間、どん、と肩に衝撃が走った。
「あっ」
抱えていたものが腕から滑り落ちる。
ノートが床を叩き、間に挟まれていたプリントが廊下いっぱいに散らばった。
月は慌ててしゃがみ込んだ。
「す、すみません!」
向かいにいた男子生徒もすぐにしゃがみ込み、月の顔を見るより先に言った。
「悪い。怪我ないか?」
低く、静かな声だった。
その瞬間、
月の目の前に白いものが広がった。
真っ白なのに、眩しくない。
雲のようで。
雪のようで。
けれど、そのどちらとも違う。
柔らかく膨らみながら空気の中を漂い、触れたら指先から溶けてしまいそうな白。
月は床に手をついたまま、動けなくなった。
こんなに綺麗な音を、今まで一度も見たことがなかった。
「……大丈夫か?」
もう一度、白が広がる。
今度は少しだけ形を変え、月を包むようにゆっくりと揺れる。
月はようやく顔を上げた。
長い指で、散らばったプリントを拾う男子生徒。
少し長めの栗色の髪。
整いすぎていて、どこか冷たく見える横顔。
制服の胸元には、二年生の学年章がついていた。
月は慌ててうなずく。
「ルナは、大丈夫です!」
男子生徒は小さくうなずいただけだった。
床に散らばったプリントを一枚ずつ拾い、向きをそろえていく。
月も拾わなければと思うのに、なかなか手が動かなかった。
白い音が、まだ目の前に残っている。
最後の一枚を拾い終えると、男子生徒はプリントをノートの上に重ね、月へ差し出した。
「ありがとうございます」
月が受け取る。
彼はまた、小さくうなずいた。
それだけだった。
名前も告げず、そのまま廊下の先へ歩いていく。
月は抱え直したノート越しに、その背中を見つめていた。
もう一度、声を聞きたかった。
けれど、呼び止めるための名前を知らなかった。
その日の放課後。
月が教室を出ると、廊下の向こうが騒がしかった。
何人もの生徒が足を止め、同じ方向を見ている。
「一条先輩だ」
「今日もかっこいい」
「一条先輩、こっち見た?」
人の輪の中心を、一人の男子生徒が歩いていた。
誰かに声をかけられても、ほとんど立ち止まらない。
周囲の騒ぎなど耳に入っていないような顔で、階段へ向かっている。
月はすぐに気づいた。
廊下でぶつかった、あの人だった。
探す必要などなかった。
彼が歩くだけで、周りが勝手に名前を教えてくれた。
「一条……先輩」
月は小さくつぶやいた。
一条凪。
その名前を忘れないように、心の中でもう一度繰り返した。
それから月は、学校で凪を見かけるたびに目で追うようになった。
朝、昇降口を通る時間。
よく使う階段。
昼休みに歩く廊下。
凪はいつも大勢の人間に囲まれていた。
けれど、本人はあまり喋らない。
誰かに声をかけられても、短く返すだけ。
そのたびに、白が見えた。
月は、その白が消えるまで見ていた。
もっと聞きたい。
もう一度。
できれば、もっと近くで。
気づけば、凪の姿を探すことが増えていた。
そして数日後。
月はいつもより早く学校へ来た。
昇降口の前に立ち、凪が来るのを待つ。
やがて、昇降口の向こうがざわめき始めた。
振り返らなくても分かった。
月は大きく息を吸った。
近づいてくる凪の前へ、一歩出る。
そして。
「ルナは、一条先輩が好きです!」
そうして月は、一条凪に恋をした。
朝の昇降口に、朝比奈月の声が響いた。
靴を履き替えていた生徒たちが、一斉に振り返る。
絶え間なく続いていた話し声が、一瞬途切れた。
月は両手を胸の前で握りしめ、一条凪を真っ直ぐ見上げていた。
凪の周りには、いつものように何人もの生徒がいる。
けれど月は、凪だけを見ていた。
「付き合ってください!」
今度は、先ほどよりも大きな声だった。
どこかで誰かが息をのむ。
すぐ近くでは、女子生徒たちが顔を見合わせていた。
凪は月を見たまま、何も言わなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
月が、もう一度口を開こうとしたときだった。
「……誰?」
月は目を瞬いた。
「朝比奈月です!」
凪はわずかに眉を寄せる。
「いや」
一拍置いて、
「あんた、誰?」
周囲がざわついた。
月は黙った。
傷ついたからではない。
凪の質問の意味が、よく分からなかった。
自分は、ちゃんと名前を答えた。
それなのに、凪はまだ「誰」と聞いている。
「ルナは、朝比奈月です」
「それは聞いた」
凪は小さく息を吐いた。
「悪いけど知らない相手とは付き合わない」
「じゃあ、知ってもらえばいいですか?」
月は真剣だった。
「ルナ、一条先輩にルナのことを知ってもらいます」
「……いや」
「それで、もう一回告白します!」
昇降口にいる全員の視線が、月へと集まっていた。
凪は数秒、月を見つめた。
「好きにすれば」
その声とともに、柔らかな白が月の目の前へ広がった。
凪はそのまま月の横を通り過ぎていく。
月は振り返った。
凪の背中は、もう生徒たちの向こうへ消えかけていた。
それでも月は、嬉しそうに笑った。
ただ、あの声を聞けた。
それだけで、今は十分だった。
月が一条凪を初めて見たのは、そのほんの数日前だった。
恋が始まるような日ではなかった。
空は曇っていたし、特別な行事もなかった。
月はただ、クラスメイトたちのノートやプリントを職員室へ運んでいた。
「朝比奈、これもお願い」
「私、次の授業の準備があるから」
「私のもよろしく」
すでに何冊も重なっていた月の机の上へ、さらにノートとプリントが置かれていく。
「はい!」
月はそれらを両腕に抱えた。
何人かが顔を見合わせ、小さく笑う。
けれど、月は気づかなかった。
みんな忙しいのだろうと思った。
自分が代わりに運べば、その分、みんなは助かる。
それなら問題はない。
抱えたノートとプリントで、前がほとんど見えない。
落とさないよう気をつけながら、月は廊下を進んだ。
角を曲がった瞬間、どん、と肩に衝撃が走った。
「あっ」
抱えていたものが腕から滑り落ちる。
ノートが床を叩き、間に挟まれていたプリントが廊下いっぱいに散らばった。
月は慌ててしゃがみ込んだ。
「す、すみません!」
向かいにいた男子生徒もすぐにしゃがみ込み、月の顔を見るより先に言った。
「悪い。怪我ないか?」
低く、静かな声だった。
その瞬間、
月の目の前に白いものが広がった。
真っ白なのに、眩しくない。
雲のようで。
雪のようで。
けれど、そのどちらとも違う。
柔らかく膨らみながら空気の中を漂い、触れたら指先から溶けてしまいそうな白。
月は床に手をついたまま、動けなくなった。
こんなに綺麗な音を、今まで一度も見たことがなかった。
「……大丈夫か?」
もう一度、白が広がる。
今度は少しだけ形を変え、月を包むようにゆっくりと揺れる。
月はようやく顔を上げた。
長い指で、散らばったプリントを拾う男子生徒。
少し長めの栗色の髪。
整いすぎていて、どこか冷たく見える横顔。
制服の胸元には、二年生の学年章がついていた。
月は慌ててうなずく。
「ルナは、大丈夫です!」
男子生徒は小さくうなずいただけだった。
床に散らばったプリントを一枚ずつ拾い、向きをそろえていく。
月も拾わなければと思うのに、なかなか手が動かなかった。
白い音が、まだ目の前に残っている。
最後の一枚を拾い終えると、男子生徒はプリントをノートの上に重ね、月へ差し出した。
「ありがとうございます」
月が受け取る。
彼はまた、小さくうなずいた。
それだけだった。
名前も告げず、そのまま廊下の先へ歩いていく。
月は抱え直したノート越しに、その背中を見つめていた。
もう一度、声を聞きたかった。
けれど、呼び止めるための名前を知らなかった。
その日の放課後。
月が教室を出ると、廊下の向こうが騒がしかった。
何人もの生徒が足を止め、同じ方向を見ている。
「一条先輩だ」
「今日もかっこいい」
「一条先輩、こっち見た?」
人の輪の中心を、一人の男子生徒が歩いていた。
誰かに声をかけられても、ほとんど立ち止まらない。
周囲の騒ぎなど耳に入っていないような顔で、階段へ向かっている。
月はすぐに気づいた。
廊下でぶつかった、あの人だった。
探す必要などなかった。
彼が歩くだけで、周りが勝手に名前を教えてくれた。
「一条……先輩」
月は小さくつぶやいた。
一条凪。
その名前を忘れないように、心の中でもう一度繰り返した。
それから月は、学校で凪を見かけるたびに目で追うようになった。
朝、昇降口を通る時間。
よく使う階段。
昼休みに歩く廊下。
凪はいつも大勢の人間に囲まれていた。
けれど、本人はあまり喋らない。
誰かに声をかけられても、短く返すだけ。
そのたびに、白が見えた。
月は、その白が消えるまで見ていた。
もっと聞きたい。
もう一度。
できれば、もっと近くで。
気づけば、凪の姿を探すことが増えていた。
そして数日後。
月はいつもより早く学校へ来た。
昇降口の前に立ち、凪が来るのを待つ。
やがて、昇降口の向こうがざわめき始めた。
振り返らなくても分かった。
月は大きく息を吸った。
近づいてくる凪の前へ、一歩出る。
そして。
「ルナは、一条先輩が好きです!」
そうして月は、一条凪に恋をした。
